第29話 さようなら
お借りしていた自室を元通りに回復し、私物を整理しました。しかし、行く当てのないぼくです。大荷物を運び出すわけにもいかず、持ち出すのはリュックひとつ分です。
唯一、ひとつだけ、部屋に残るものがあります。布を被せて目隠しされた、あの絵です。アレの作者が誰だったのか、今ではなんとなくわかります。反対に、それ以上のことはなにも思い出せません。
用もないのに部屋に戻ったぼくは、その絵を前にしていました。
布に手をかけます。ひと目だけと、そんなことを思ったのです。
「……」
しかし硬直する手は、それを許しません。そんな資格はないのだと、目にすることを拒んでいるかのようでした。
背反する二つの感情がせめぎあっていました。拒絶と執着、その二つが。
「素顔を見せてくれませんか。なぜあなたは隠れるのです」
布越しに表面を撫でます。凹凸が指に伝わります。
顔の部分にもしっかりと感触を覚えるのに、目にすると滲んでいます。
「自分で描いた絵なのに、覚えていないなんてそんな馬鹿な話がありますか。描き足すことも、描き直すこともできない、……でもぼくは知っています、あなたはそこにいる、未完成なんかじゃない」
滲んでいると感じたのが、ただの目の錯覚だとしたら。けれども、今でも変わらなかったら、顔なんて存在しなかったら。
「ぼくはあなたに恋をしていたのかもしれません。今抱いている強い感情は……なんてそれこそ馬鹿げていますね。自分でもなにを言っているのか、ああ、まったく、わからないことばかりだ」
そうやって笑いながらも、ついに対面する勇気は持てませんでした。
「いつまでもサボっているわけにはいきませんね」
自嘲気味に呟いて、振り返ります。足早に部屋を後にして、扉が閉まる寸前に呟きました。
「……さようなら」
0時になるのを待って家を出ました。
曇り空が月や星を隠していて、明かりらしき明かりはありません。真っ暗闇の森に、季節外れの冷たい風が吹きすさびました。
ふぅ、と息を吐いて門を出ます。振り返ろうとは思いませんでした。
「これでようやく自由の身、ですか。なんて清々しい気分でしょう」
暗くジメジメした抜け穴を通って、無事に森の外に出ました。
一年前とは異なり資金面に余裕はありますが、変わらず行く当てはありません。家や職場を探そうとは思いませんでした。学校に通いながら路上暮らしをしたらいけないという法はありません。
新生活なんて、それぐらいでちょうどいいのです。
真っ当な人生を取り戻そうなどという気力は、枯れてしまっているのですから。
なにを得て、なにを失ったのでしょうか、今のぼくには見当も付きません。
ただわかるのはひとつだけ、一年経っても変わらずひとりの夜を過ごしている、それだけでした。
駅舎を借りて、一晩過ごしました。無人駅なので、待合室に一匹のサルが紛れ込んだところで誰にも迷惑はかからないでしょう。
長椅子に丸まって目を閉じても、動悸がしてすぐに起きてしまいました。胸の内になにか黒いものが渦巻いていて、ぼくを執拗に責め立てます。そわそわして、心臓の鼓動がやたらと大きく内壁を叩きつけてきました。
結局一睡もできずに朝を迎えました。
始発を見送って、その次を待ちます。まだ動く気がしませんでした。
三十分の後に二本目がやってきて、さらにその数十分後に三本目がやってきました。太陽は昇り、空は青く染まっています。
いつの間にか近くに座っていたサラリーマンが立ち上がります。その拍子に椅子に置いていたぼくの荷物にぶつかり、リュックは石の床に転がりました。
「あっ……」
スーツ姿のその男性は、それを一瞥もせずに行ってしまいました。
投げ出された荷物を見れば、開いていたチャックから一枚の封筒が飛び出していました。ぼくはついに重い腰を上げて、よたよたと拾いに行きます。背中を曲げて手を伸ばすと、しかしその前に細い腕がそれを掴み取りました。
通りすがりの誰かが、拾ってくれたようでした。
「あ、ありがとうございます、とっても大事な──」
「だ、だいじょう、ぶ?」
「あなたは、なんでこんなところに」
「フタエ、くん、と、たぶん、その、ア、だ、大事な人が、泣いてた、から」
顔を上げて見たのは、よく知った顔でした。




