第28話 亜麻色の髪の乙女
暖かな日差しの差し込む部屋が見えます。白く染まったそこで、ぼくは誰かと話をしています。相手は……相手は、首から上がぼやけていてはっきりしません。
記憶の中のぼくは、描きかけの絵を前にして座っていました。まだ下書きの、かろうじて人の輪郭だとわかるような、そんな段階でした。
顔の思い出せない誰かが、スツールに座って足を組んでいました。
『思うままに筆を走らせたらいい。コツはうまく描こうとなんてしないことだ。誰かの模倣ではなく、きみが見たままを表現する。芸術の真価は、自分の感じる世界を他者に伝えることにあるんだよ』
ぼくがなにかを言って、その人は嬉しそうに答えます。
『作品名だって同じこと。芸術の一部だと捉えれば、そう難しいことでもないんじゃないか?』
じゃあ名前でいいか、とおそらくぼくはそんなことを言いました。するとその人は、照れくさそうにしてこう返しました。
『それは、それだといくらなんでも安直すぎるから、やめたほうが、いや、やめなさい。恥ずか……ではなくて、遊び心があったほうが楽しいから、な』
考えてみます、とぼくは答えました。ですが、この時にはもう、どんな作品名にするのか固まっていました。パッとひらめいた、これしかないという、心に浮かんだタイトルがありました。あったはずです、あったはずなのに、知らずのうちに失われていました。
メモ書きや、作品名を記した用紙は存在しません。胸のうちにだけ、その響きがありました。ずっといつまでも残り続けるものだと信じていました。
記憶など氷のように溶けてしまうものだとは知らずに。
今、に戻ったぼくは大事なことを思い出して部屋を出ます。
勢いよく扉を開け広げ、廊下に出ました。
何か、を叫ぼうとして、しかし、声は出ませんでした。
狭窄する喉と、割れそうな頭、痺れる四肢。嘔吐するかのように、言葉を吐き出しました。
「なんだ、なんだ、なんだっ……なんだ……! ぼくは、なに……を──」
そして、ものの数分もしないうちに、忘れてしまったことすらも、忘れてしまいました。
「あれ、ええと……ああ、そうだ、学校にいかないと」
腕時計に目をやって、時刻にギョッとして、遅刻を避けるために駆け出しました。
いつもどおりの、なんてことのない朝でした。
ぼくの仕事は自画自賛するほどに完璧でした。屋敷に乱れはなく、塵一つ落ちていません。よく整えられた生け垣に、季節の花が植えられた花壇、剥げていた芝生の養生も完璧です。
白いシャビーシックなアイアンテーブルが、春光を受けて優美に佇んでいます。パラソルと、椅子が二つ備えられており、午後のティータイムをくつろげるように準備は整っています。
惜しむらくは、そのお茶会は未だかつて開催されたことがない、といった致命的な一点でした。
庭を眺めてぼーっとしていると、いつのまにか空が暗くなっていました。湿気混じりの風が吹き抜け、木々がざわざわと身体を震わせます。まもなく雫が落ち始め、やがて本降りになりました。
細かい雨粒が、勢いよく芝生を叩きます。黒ずんだ空が、唸り声をあげて鳴いていました。
どうしても動く気がせず、その場で立ちすくんでいました。初春の雨はまだ冷たく、肌にまとわりつく水流に、身体は寒さを訴えました。その愚かな行いを咎める人は、誰もいません。広い世界の、小さな森の、ちっぽけなお屋敷で、ぼくはただ一人でした。
「雨ってこんなに冷たいんですね」
ずっと空を眺めていました。消えてしまったおひさまを、どこかに探して。
夜になって雨が止んでも、雨は降り続けていました。
名残雪も消えて、一斉に花々が咲き始める頃になると、いよいよ旅立ちの季節がやってきます。
この家に仕えるようになってから、ちょうど一年が経ちました。今日の仕事を終えれば契約は満了となり、いよいよ自由の身となります。
朝早いうちに荷造りを終えたぼくは、いつものように家事をこなしていました。
リビングの隅に置かれた古いレコードプレーヤーが回り、ドビュッシーの前奏曲第八曲『亜麻色の髪の乙女』が流れています。長い間セットされたままになっていたレコードに針を落としたのは、手入れの最中に思い立ったほんの気まぐれでした。
優しく繊細な旋律が部屋に響き渡ります。手を止めて、それに聞き入っていました。全体を構成するひとつひとつの音が骨の髄まで染み渡ります。三分弱という短い演奏時間に、情景はすずやかな風のように吹き抜けていきました。
目を閉じて耳を澄ますと、花咲く草原と、歌を口ずさむ少女の姿が浮かんできます。薄いピンクのくちびるが、日向にきらめいていました。そよ風が吹くと、白いワンピースの裾が可憐に揺れます。少女は亜麻色ではなく、金色の髪をしていて、遠い丘の上でひとり踊っていました。無邪気に、とても楽しそうに。
奥手なぼくはそれを見つめるばかりで、ついになにもできません。手を伸ばすことすらも憚られて、口づけどころか、触れることすらも叶いません。
やがて演奏の終わりが近づくと、少女はこちらを向いて小さく口を動かします。
──さようなら。
針が離れ、音は途切れました。
しんと静まり返った部屋に戻ってきます。
つかの間の夢景色は心の奥に潜み、いつもどおりに戻ります。
最後の、いつも、に。




