第27話 広すぎるお屋敷
年が明けて新年を迎えた頃、ぼくは一人で過ごすことが多くなっていました。
“ご主人”が見つからないのです。仕えるべきお方が、どこにもいません。
昨日も、一昨日も、最後に顔を合わせたのはいつでしょう?
まずもって、どのような方だったでしょうか?
わかりません。髭面の老主人だった気もするし、紫髪の派手好きなマダムだったような気もします。家族構成に職業に、年齢、把握していて当然の情報をぼくは把握していません。
ドーナツの真ん中を探しているような気分です。なくて当たり前だと、思い始めています。
「ご主人、どこですか、いらっしゃいませんか」
一応は探してみますが、返事はありません。そよ風が吹いたような気がして振り向いてみても、誰もそこにはいません。気配を感じて追いかけてみても、決まってそこはもぬけの殻です。
日誌を確認しても、存在するはずのご主人について、一切の記述がみつかりません。趣味のノートを開いてみても、出てくるのは無関係の人々の情報ばかりです。
「ご主人、朝ですよー」
返事はありません。
「いい天気ですよ、ご主人」
姿は見当たりません。
「消える魔球特集二の巻が放送されるそうですよ……ご主人」
いくら呼んでも、いくら探しても、いくら手を伸ばしても、ご主人はどこにも見つかりません。ドーナツの真ん中は、欠けてしまっているのです。
積雪があって、雪かきをしていると肩に雪玉がぶつかりました。崩れた雪の塊が新雪に落ちていました。その半分ほどを拾い上げ、首をひねりました。
「はて? 妖精さんですか? なんて、馬鹿馬鹿しいですね」
気にせず雪かきを続けました。それからはもう、なにも感じることはありませんでした。
寒い夜にリビングのガラス戸が開けっ放しになっていることがありました。不審に思いながらも戸を閉めると、どこからかガラスを叩くような音が聞こえます。
「誰かいるんですか?」
誰もいません。一度閉めた戸を開けて、外を見回します。不審者がいないことを確かめて、今度はちゃんと施錠を確認しました。
そのときなぜか身体にずしりとした、よりかかられているような重みを感じました。違和感のあった部分を見れば、シャツの下部に小さなシミが広がっていました。湿っていて、戸を開けた拍子に水滴に濡らされたようでした。
主不在の日常は、そんなことがある、何の変哲もない日常でした。屋敷の管理に、家事掃除、それだけをこなしてまた一ヶ月が過ぎました。
もうまもなく契約満了です。
冬が過ぎて春が訪れれば、なんの後腐れもなく、この屋敷を出ていくことになります。
あと、あと少しで、お別れです。
今日もまた冬の朝がやってきました。
カーテンをめくり、窓をほんの少しだけ開きます。朝焼けの趣を残した橙の日差しと、冬の冷気が室内に流れ込んできました。「おはようございます」とひとりで挨拶をして、用意しておいた朝食をキッチンから運んできます。
バターをたっぷり塗ったトーストと、ソーセージにビーンズと目玉焼き。それから口当たりの良いミルクティー。対面する相手のいない二人がけのテーブルの片側の椅子に腰掛け、自分で並べた朝食に向かって「いただきます」と頭を下げます。
空っぽの部屋を眺めていると、なにかが欠けているような気がしました。
おそらく、気のせいなのだと思います。
朝の仕事を終えたぼくは、外出の準備のため私室に戻りました。
制服に着替えて、ブレザーとコートの掛かる部屋の隅に目を向けます。
「おっと」
不注意から、コートを取り落としてしまいます。コートは床に落ちることなく、なにかにひっかかっていました。
「あなたですか」
なにか、とは、絵です。イーゼルに置かれた両腕で抱えられるほどのサイズのキャンバスに、お世辞にも出来が良いとはいえない人物画が描かれています。はっきりいって素人のお遊びレベルです。
白い背景。金髪の少女。一部が滲んでいるようなぼやけているような有様で、少女の顔がはっきりと視認できません。これを描いた人物は、途中で投げ出してしまったのでしょうか。
この絵を意識するたびに、そこにあることを思い出します。普段は空気のようなものです。
コートを拾って目を離せばまたすぐに忘れてしまうでしょう。頭の片隅にも残らないはずです。いつもそうなのですから。
しかし、どうしてか今日に限っては、絵の表面に指を伸ばしていました。
ちょうど頬がある――滲んでいてはっきりとはしませんが――あたりを指でなぞります。白の多く混ざる絵の具は、少女の肌の白さを表しているのでしょうか。両目のあたりには空色と、一滴の赤が混ざり合っています。
「アス……テ……リア……」
それを目にしていると、今と違う時間が混濁していきます。視界が塗りつぶされ、知らないはずの記憶が、頭の中に浮かんできます。




