第26話 ひとりぼっちは嫌だ
湖上のその人に、すっと腕が伸びます。
「どこに、行かれてしまうのですか」
「どこにも行かないよ。ずっとここにいる。明日も明後日も、もっとずっと先も」
根拠のない焦燥感に襲われます。
冬が来る前に、あの月が隠れてしまう前に、手を取らなければ、本当に消えてしまいそうで。
「でしたら、早く帰りましょう。さあこちらに」
水際に立って、手を差し伸べます。けれどもアステリアは、船を動かそうとしませんでした。それどころかその場でしゃがみ、ついには横になってしまいます。すっぽりと収まったアステリアは、お腹の上で手を組んで、まっすぐに夜空を見つめています。
桟橋に係留されて放置されていたボートは、ひどく劣化していました。ところどころ腐食が進み、いつまで転覆しないでいられるか定かではありません。
「お戻りください。お体が冷えてしまいます。それに、船体に穴が空いていないとも限りません。もう危険なことはしないと、御約束してくださったのを忘れてしまいましたか」
「危険を楽しむために、こんなことをしているんじゃない。もう約束を破るつもりはないから」
「それならば、なぜこのようなことを」
「考え事をしていた。ここが一番ソラの広い場所だった」
風に溶けてしまいそうなほど、声が希薄に聞こえました。
「人は母の胎内に誕生し、懸命に生きて、命尽きればやがて宇宙へと還る。星々に見つめられて、ゆりかごに揺られているような心地がするのは、あのソラがいずれ辿り着く場所だからなのかもしれない」
「…………」
「そういうことを、よく考える。いつ消えても、いいように」
「寂しいことを言わないでください」
ぼくの言葉に返事はありません。
「わたしなんてちっぽけな存在で、たぶん誰の記憶にも残らない。突然いなくなったとしても、悲しんでくれる人は、いないだろう」
一瞬の間がありました。息を吐くような音が、微かに聞こえてきました。
「けどね、たとえ世界の誰もが忘れてしまったとしても、フタエにだけは覚えていてほしい。アステリア・フリンは、いつまでもそこにいると、きみにだけは」
「……どうしてあなたはいつもいつも意味深なことばかり口にして、ど真ん中を教えてくれないんですか。あなたが大病を患っていないことぐらい知っています。死人のような口ぶりでも、実際は健康だ、健康なのに、なにを言いたいんですか」
ボートがかすかに揺れて、水面に波紋が広がりました。
「……わたしには言えない。難しいかもしれないが、きみなりに解釈してほしい」
「ご主人を狙う悪い奴らに、捕まってしまうと考えていますか。そして今度こそ酷い目に遭わされて、殺されてしまうと、そんなふうに思っているのですか」
「ちがう、それは違うぞ、違うけれど……」
「違わなくたって構わないっ!」
叫んで、勢いそのままに、沼に向かって跳びました。足から着水して、盛大に飛沫が上がりました。水温は極めて低く、一瞬のうちに体温を吸い取られます。必死に腕を掻いて、震えを誤魔化します。泳いで、水を飲んで、突き進みます。
「フタエ……!」
身体を起こしたアステリアは目を丸くして、奇行を見つめています。
「……ぷはっ」
身体が凍りつかないうちに、なんとか船べりへと手をかけることに成功します。転覆しないように注意しながら身を乗り出して、ひったくるようにアステリアの手を掴みました。凍った手のひらが、血のぬくもりに温められます。
「あなたがどこに行こうとも、なにを恐れていようとも、たとえ死ぬことになろうともっ! ぼくはいつだってお側に!」
「だったら……!」
なにかを言いかけて、しかしアステリアは言葉を翻します。
「……いや、その気持ちは有り難いが、口で言うほどに簡単ではないんだ」
「だから契約を更新してくれないんですか。だから捨てようとしているんですか。地獄の底にだってついていく覚悟があるのに!」
「ど、どうしてわたしなんかにそこまで」
「あなたが寂しそうにしていらしたから、一人ぼっちで泣いていたから!」
アステリアは面食らったようにぼくを見つめて、それから目を伏せました。
「そうか……そんなふうに見えているんだ」
「お望みならいつまでも、あなたのお側に。苦難の道を、共に歩んでみせましょう」
「……ありがとう、ほんとうに嬉しい。フタエを選んでよかった」
強く手を握ると、アステリアは微笑みを見せてくれました。
「――だけど、やっぱりだめだよ」
しかし、一瞬のうちに、月を雲が隠すように、暗い表情へと変わります。握りしめられた手を跳ね除けて、アステリアは言いました。
「守ってくれとは言えない。忘れないで、ってお願いするのが精一杯だ。契約もきっかり一年きり、それ以上はなにも求められない」
「ご主人……」
「フタエが思ってくれるのはとっても嬉しい。できることなら、その手を取ってみたかった。でも、だめなんだ、もう、だめだから。……さあ、家に帰ろう、いつもどおりの我が家へ」
滾る気持ちは体温と同調するように冷えていきました。
壁は壊しても壊しても、蘇ってきます。思いだけでは、アステリアの心に触れることは叶いません。
救ってやりたいと思っても、どうすることもできません。
一歩踏み込めば、一歩後退する。二人の距離は永遠に縮まりません。
それでいいはずがない。そうは思っても、本人に拒まれることで、足を止めてしまいます。
この先になにが待つのでしょう。アステリアの憂いの正体は露呈するのでしょうか。
どうすればいいのでしょうか。
なにをすればいいのでしょうか。
契約に縛られたぼくは。
アステリア、に。
その日、ご主人は旅立って行きました。
ぼくが暮らす世界の外側へ。
ねえご主人。
あなたは誰ですか?




