第2話 きみ以外にいない、わたしの世話をするものは
長すぎる髪を引きずって、少女はぼくをリビングルームに案内しました。天井が高く、螺旋階段の設置されているメゾネットタイプの部屋です。
しかしその三十畳はあろうかという部屋は、散らかり放題でした。散乱するスナック菓子の袋、片付ける気のないゲーム機のコントローラー、エトセトラエトセトラ……それとなぜか白紙のキャンバス。
そんな部屋で、どうしてかぼくはハサミを持たされ、椅子に座る少女はケープを身につけています。床には新聞紙が広げられ、その上にゴミ袋まで用意されていました。
「あの?」
「きみのことはフタエと呼ぶ。羽二重は言いづらい」
「そうですか……ではなくて」
「きみが来るのを待ってたんだ。伸びすぎて不便だったぞ」
「美容院にでも行かれたらよろしいのでは」
「なるたけ外には出ないようにしてる。さぁ、手短にやってくれ。でも、切りすぎるのはダメ、わたしはそれなりに長いほうが好きだからな」
少女は鼻歌などを歌い出しました。いい気なものです。
「なにをそんな能天気にしているんです。その気になれば、あなたの頸動脈を掻っ切るぐらいたやすいんですよ」
「んー、そうだね。でもフタエはそんなことしないし」
「まだ勘違いしていますか。ぼくは美容師などではなく、保身を考えない多重債務者だ。あなたには恨みはなくとも、家主に恨みがある。逃げられるチャンスがあるなら、いつだって実行しますよ」
「じゃあ、やってみたら。わたしを殺せるなら、むしろそうしてほしいぐらいだ」
ハサミを首筋に向けても、声色に変化はありませんでした。
「……本当にやりますよ」
「やりなよ。フタエがそうしたいなら、そうすればいい」
ハサミを持つ手が震えます。ぼくは、この場にいるはずのない人間です。たとえ殺人を犯したとしても、容疑者にはなりえない。
そうまでしなくても、人質にとってそれで──
「はーやーくーしーなーさーい、わたしは待つのが嫌いなの」
少女は捲し立てるように言います。両足をばたつかせて、駄々をこねているようでもありました。
「あなたは……」
「んー?」
身体から、力が抜けました。
ひとつ息を吐いて、髪を素手で掴みました。くすぐったくなる、絹のような手触りでした。
「どうしてこんなになるまで放置してるんですか。長過ぎる髪の毛は不衛生ですよ」
「だからぁ、フタエに切ってもらおうと思ってたの」
「フタエフタエって一体誰のことを言っているんですか……まったく、人の髪なんて切ったことありませんけど、本当にいいんですか」
「だいじょうぶ、フタエはできた子だから。人殺しは無理だけどな」
少女は肩を揺らして笑いました。
見栄えに気を使って、髪を切ります。長すぎず、短すぎず、工芸品を作るような気分で、手を動かし続けました。
やがて散髪を終えてケープを取ると、少女は飛び跳ねるように椅子から降りました。両手を広げてくるっと回ると、腰までのブロンド髪が空気を包むように翻りました。
スッキリした前髪が微かにかかる両目が、大きく見開かれます。着崩したオーバーサイズの白いTシャツを揺らして、少女は駆け寄ってきました。
「ありがとう、フタエ!」
無垢な瞳がぼくを見上げます。改めて全体像を見ると、やはり歳は中学生ぐらいだと推測できます。身体はまだまだ未成熟で、十分に発達しているとは言い難いところ。身長は、平均よりも下でも下過ぎないくらいでしょうか。
少女はぼくの右手を掴み取りました。
「アステリアだ。アステリア・フリン。好きに呼んでくれ」
ぎゅっと握りしめられ、少女の微熱を手のひらで感じ取ります。
彼女──アステリアなりの握手のようでした。
切った髪の毛をゴミ袋に詰め、散髪の後片付けをします。透明な袋に詰まった金髪を見て、もったいない、と密かに思いました。
「変態的なことを考えていたな」
ソファーの背から、アステリアが顔を覗かせていました。
「売ればお金になるのに、って考えていました。貰ってもいいですか?」
「えぇ……うぅ……ダメだ、ダメ、なんか気持ち悪い」
ジトっとした目がソファーの背に沈んでいきました。アステリアの正面に回って、言いました。
「残念。ところで、お家の方はいつお帰りになられますか?」
「あぁ、主人はわたしだから」
「は?」
「わたし以外はいない。母さんも兄弟も、父も。だから、主人はこのわたしだ」
「……お悔やみ申し上げます」
莫大な遺産を相続した一人娘。悲しいシナリオが、頭に浮かびます。部屋が汚れ放題なのも、人身売買に手を出すのも、髪の毛を切ろうとしなかったのも、全て境遇に起因しているのです。家族を失い、心を閉ざし、そして外界とのつながりを──
「こら、早合点するな。母さんは遠くに行ってるだけだし、兄弟は元からいない。父も、たぶん生きてる」
「ではあなたはさして悲しい事情もなく、人身売買に手を染めたと?」
「悪いか?」
「いえ、すばらしいさい配ですね」
アステリアは訝しげにぼくを見ます。
「舐めてるな?」
「いいえ」
「こんなガキに仕えるなんて世も末だと思ってるだろ!」
「そこまでは思ってませんよ。ただ想像と違いすぎて困惑はしていますけど」
「ばか言うな」
アステリアは毛先を摘んでいじくりだしました。
「想定外だったのなら、喜べばいいじゃないか」
やや目を伏せながら、髪の毛を指に巻き付けていました。




