第1話 面倒くさがっていたわけでも、惜しんでいたわけでもない
かつての同級生が政治経済の授業などを聞いている頃、埠頭にいるぼくはこの国とおさらばしようとしていました。
黒塗りセダンの後部座席で、ボンレスハムみたいな縦縞スーツの肩が、両脇からやさしくぼくを包み込みます。フロントガラスに映った光る水面を、車内に充満する煙が修飾していました。
助手席に座る親分格の黛さんが、身を乗り出してきました。
「恨むなら、借金を押し付けた親御さんを恨むんだな」
「別に、誰も恨んでなんかいません」
黛さんは、くしゃくしゃの箱から飛び出したタバコをこちらに向けました。
「やるか」
「いいえ、結構です。未成年ですから」
「生真面目なやつだ」
やれやれと首を振って、黛さんはタバコを自らの口元に運びました。火を付けると、ぷかぷかと煙が漂います。
黛さんは手元のバインダーに目をやって、その内容を読み上げました。
「羽二重一美、男、十六歳。国籍不明、出身地不明、両親は行方不明、天涯孤独な哀れな青年。莫大な借金を返済するために、出稼ぎを希望している。今時珍しい孝行息子じゃないか」
「ついこの間まで国籍も地元もあったんですけどね」
「失くしちまうのも、そう珍しいことじゃないさ」
「それで、ぼくはどこに輸出されるんです?」
黛さんはスマートフォンに視線を落としました。
「どこがいい」
「司法の機能している国ですかね」
「そりゃむりだ」
黛さんは、手にしていたスマートフォンをポケットにしまいました。それから、運転手になにやらと耳打ちします。
もう一度こちらを向いて、言いました。
「さあ、出発だ」
エンジンが掛かり、シートが小刻みに揺れます。黛さんが顎をしゃくると、脇にいた男がぼくに目隠しをしました。
「どこに行くんですか」
黛さんは、もったいぶって、ただ一言だけを口にしました。
「東京だ」
それは、つい先日まで暮らしていた、この国の首都でした。
目隠しを外されて見たのは、都心にそびえる四十階建てのタワーマンションでした。
ぼくの持ち主はその四十階にいるとかって話です。
「内需ってやつも、それなりにあるんだ。お前のような奴を保護したいって金持ちは少なくない。用途は色々あるが、まあ、気にするな」
「ええ、気にしませんよ、なにがあろうとも」
「利口じゃないか。かしこい奴は大事にしてもらえるぞ」
「どうも。生ゴミ以外も食べさせてくれると、期待しておきますよ」
ニワトリみたいに笑う黛さんを尻目にエントランスへと入りました。
黛さんが電話を掛けると、自動ドアがひとりでに開きました。
背中を押されます。たたらを踏んで、気づけばお城の内側に立っていました。
「そおら行ってこい。新しい人生の始まりだ」
「一人にするつもりですか? 逃げるかもしれませんよ」
「羽二重一美は俺が知る中で最も律儀で、最も愚直な大馬鹿野郎だよ。そんなお前がどうして逃げ出す。全うするさ、最初から最後までな」
「あなたみたいな人でも、人を信じることがあるんですね」
ドアがゆっくりと閉まっていきます。黛さんは質問に答えようとはしませんでした。
「なにかあったらいつでも呼んでくれ。スマイル金融はいつもいつでもニコニコ弱者の味方だぜ。金貸しも、それ以外でも、なんでも」
投げ込まれた名刺を拾って、なにも言わずに背を向けました。
四十階まで上がってエレベーターを降りると、目の前にドアがひとつありました。
ノブを引くと、なんの抵抗もなく開きました。
電球色の灯りに照らされた黒御影石の土間に、色白ですらりとした生脚が放り出されていました。超の付くほどのロングヘアー、金糸のようなブロンド髪が、上り框に垂れて広がっています。
それは人のようで、しかし長すぎる髪が、ぼくに判別させません。
「ようこそフタエ。わたしたちのお家に」
髪をかき分けて、顔が出てきます。ニヒルな笑みを浮かべた思春期の乙女、生気に乏しく不健康そうな、けれどある種の才ある芸術家を思わせなくもない、そんな少女です。
少女は、空色に一滴の赤を溶かしたような独特な虹彩を持った瞳を揺らし、微かに目を見開きます。こくこくと首を上下させ、それからぼくの鼻っ面あたりに目線を持ってきました。
「今日という日をずっとずっと待ってた。フタエ、きみに会える日を」
フタエとはなにものか──気になります。しかしそれ以上に気になることがひとつありました。
「髪、切らないんですか?」
「切るぞ、これからな」
髪を抜け出してきた右手に、ハサミが握られていました。
少女の目と切っ先は、ぼくを向いていました。




