第20話 フタエはまだ帰らない
「ハンカチですか? 構いませんが……理由をお聞きしても?」
永島田光莉は、その白いハンカチをぎゅっと握りしめました。
「や、約束の証……みたいな、のが、あると、たぶん、忘れない、から」
揺れる瞳でぼくを見つめてきます。
「ま、また、発作が……変になっても……忘れないと、思う、から……おねがい……します……」
「なるほど、そういうことでしたら差し上げましょう。玄関にでも飾っておいてください」
「あ、ありがとう、ありがとう……!!」
不安げだった表情が、ぱっと明るくなります。
「ほんとうに……ありがとう……」
「い、いえ、大したことじゃありませんよ」
過剰なくらいに感謝を伝えてきます。悪い気はしません。泣かれるよりは、ずっとマシです。
それにしても。
こういうのマッチポンプっていいませんでした?
永島田光莉とぼくは、縦にずれる形になって構内を歩きます。
ぼくはなぜか左手の小指を永島田光莉に摘まれていました。
「……これから授業に出られると伺っていたと思いますが」
「今日は、やっぱりいい、きみと、えへ、もっとお話したい」
「……酷いことをしている自覚はあるのですが」
「な、わ、わからないんだけど……いじわるされるのも……ちょっといいかも……逆に……」
「……似たようなことを言いますね」
叱られて喜ぶ女性が身近にいます。名前は出せません。
「え、どういう、こと」
「サディスティックなのがそそる、と言われた経験が……いえ、なんでもありません、お気になさらず……」
「その人……わかってる……えへへ……」
「………………」
引き合わせてみたら案外意気投合するかもしれません。変な子どうし変な会話でもして盛り上がっています。ぼくは孤独に家事でもしてれば平和です。
「あっ……もしか、して……彼女……?」
「違いますよ。そんなんじゃないです。あの方は、家族みたいなものです」
「そっか、へへ」
にへらと笑う永島田光莉を、正面から見つめました。
「永島田光莉さんはぼくのことが好きなんですか?」
「えっ。あ……う……うぅ……くぅん……」
猿の尻みたいに顔を真っ赤にして、寂しがり屋の子犬のように悩ましげに鳴いています。
「す……お……音、が……あ……うぅ……ちがっ……音、も、す、すき……」
「ぼくの音って、どんなです?」
永島田光莉の目がくわっと開いて、突然流暢に話し始めました。
「それは、ね、力強い意志の、音! まっすぐで透き通っていて、でも、切なくて、染み込んでくるの。涙が出そうになって、じーんと来るのは、あなただけ! 奏でる音色は、オルフェウスの竪琴かと、思う!」
「はぁ、そういえばそのようなことをおっしゃっていましたね」
オルフェウスとはギリシア神話に登場する詩人です。彼の演奏する竪琴は感動的で、冥界の住人すらも涙させたと言い伝えられています。
「しかし困りました。あなたはそう思われていても、自覚がありません。音と中身に相関性がないともなれば、恋慕の情を向けるのは的外れだとは思いませんか?」
「それは違う、の、音は生き方だから、あなたそのもの……あ……うっ……うぅ……」
永島田光莉は、のぼせたように目を回しました。くらくら、ふらふら、頭の中は茹だっているようです。
「は……は、わわ……あば……むふぅ……」
「おっと」
ついに加熱限界が訪れます。足はもつれ、脱力し、バランスを崩してこちらに倒れ込んできました。察したぼくは、両腕で永島田光莉を受け止めました。
介抱には慣れていました。倒れた永島田光莉を運んで、芝生の上へと寝かせました。頭上の樹冠が、夕暮れの日差しを遮ります。
顔色、体温、呼吸、脈拍に異常がないのを確認して、傍らで見守っていると、すぐに永島田光莉は目を覚ましました。横になったまま、上目遣いでぼくを見ました。
「少しは落ちつきましたか」
「あ……ご、ごめんなさい、あと……ありがとう」
「どういたしまして。ちゃんとお礼を言えるんですね。今日までは、もっと非常識な方かと思っていましたよ」
「今日の私、も……おかしかった」
「平和なおかしさなら、構いませんよ。物騒なのとか危険なのはだめです、そういうのは本気で怒ります。ですからやはり約束は忘れないでください。介抱くらいならいつでもしますから」
永島田光莉はぽかんと口を開けてぼくを見つめていました。とろんとした顔で言いました。
「約束、守ったら、また、遊んでくれ、る?」
「こう見えて忙しい身ですから、いつでもとはお約束できません。ですが、たまになら、まあ、いいでしょう」
「なら、頑張って、みる」
永島田光莉は、胸元で両手の拳を握りしめました。
さらに移動して、大学に併設されているカフェにやってきました。モダンな内装は小洒落ていて、市中の人気店にも劣らない趣があります。
「こ、これ、お詫び」
そういって永島田光莉……光莉さんはぼくの分もコーヒーを注文してくれました。
「わ、私も、大人、として、節度ある、行動をするから……今までのは、忘れて?」
「是非そうなさってください。節度のある女性は好きですよ」
「ぁ……が、が、がが、がんば、る」
いただいたコーヒーを一口すすります。大人の味がしました。
「あ、あの、ずっと聞きたかった、ことがあって」
「なんですか?」
「お名前を、まだ、知らないから……教えてほしい、の」
「フタエです。大切な人はみんな、ぼくをフタエと呼びます」
そういって微笑むと、光莉さんも微笑みました。




