第18話 書類がなければなにもできないのかこの男は
駐車場に戻り、ヘルメットを被ります。あご紐を締めているアステリアに言いました。
「ねえご主人。判子を押す用意はいつでもできていますよ?」
アステリアは訝しげに顔をしかめました。ジト目ってやつです。
「変態。セクハラに飽き足らずマリハラか」
マリハラ、マリッジハラスメント、つまり結婚のことです。とんでもない勘違いですね。
弁明も聞かずに、アステリアはそそくさとスクーターに跨ってしまいました。
「求婚する相手はよく吟味することだな」
いくら「違うんです」「誤解です」「契約延長の話です」と叫んでも聞き入れようとはしてくれませんでした。
「まあいい、ほおら帰るからとっとと乗りなさい」
思いのほか不機嫌でもなさそうだったので、潔白の証明は諦めることにしました。
アステリアは、あれで楽しそうでしたので。
セルが回って、エンジンが唸りを上げました。
それから十五分後、ぼくらは赤色灯を回した白黒の車と追いかけっこをしていました。俗に言うところの、パトカーというやつです。
『そこのバイク、停まってください!』
ウーウーとサイレンが鳴り響きます。閑静なシーサイドは、たちまちB級アクション映画の舞台と化しました。
アステリアが叫びます。
「信号をいくつか無視するけどちびるなよ」
ぼくも叫びます。
「安全運転するって言ってたじゃないですかぁぁ!!」
爆走、もとい暴走のカーチェイスは続きます。
ことの発端は飲酒運転の検問でした。アステリアの立場は実に危ういものがあり、身分証の提示を厭うのはわかります。ですが行方不明者でありながらも指名手配犯ではなく、一介の警察官がアステリアの身元に感づく可能性はそう高くないと思われました。
なのに、減速しつつアステリアはこんなことを言いやがったのです。
「突破するから」
「やめてくだs――」
車の間をかっ飛んで今に至ります。
『運転手さん、危ないですよ、停まってください!!』
繰り返し、繰り返し警告を受けますが、当然のごとく無視します。
右へ左へ、縦横無尽、スクーターの機動力を活かして入り組んだ市街地を逃げ回ります。振り落とされまいと必死にしがみついている後部座席の人間のことは、考慮してくれていません。
「どうして逃げるんですか! ご主人だってわかりませんよ!」
今となっては遅すぎる絶叫でした。捕まればアステリア・フリンだとバレます。もはや逃げ切るしか道はありません。
「理由があるっ!」
「なんですか理由って!!」
アステリアは喜びに満ち溢れているように叫びました。
「免許がない!」
「はぁあああぁぁあ!??」
やはりぼくは間違っていなかった。勘違いではなかった。あのとき有耶無耶にするべきではなかった。免許など持っているはずがない。そうです、アステリアはまだ十五歳なのです。
絶叫しながら、自分の迂闊さと愚かさに後悔するばかりでした。
危険な夜は、まだまだ続きました。
壮絶なカーチェイスと暴走の果てに、ぼくらは逃げおおせました。
田舎道のコンビニで、逃げるようにスクーターから降りました。
「はぁ…はぁ……死ぬかと思った……」
アステリアはほくそえんでいました。
「よし。なかなか愉快だったな」
「よし、じゃない! あなたはなんてことをするんですか! 正気ですか!??」
「いや?」
アステリアは首をひねりました。
「心配するな、偽装ナンバーだから身元は割り出せない」
おどけてるのか素なのかわからないこの能天気な少女に、頭がはち切れそうになります。
「無謀運転にもほどがあります!」
「普通のことを言うなフタエは。わたしの運転はうまいって褒めてくれたじゃないか」
「いくらうまくても事故は起きます! 横から車に突っ込まれでもしたら、あなたを助けられない!」
いくら主であろうとも、許せる戯れと、許せない戯れがあります。
「危険なことはもうしないって約束しましたよね」
「ん……それは……んん……というか……そこなのか? 無免許運転のことを詰められるとばかり……」
「ぼくはあなたに仕える身です。御身をお守りする使命を帯びています。法の遵守は目的ではありません」
痛いところを突かれたと見えるアステリアは、申し訳無さそうにしていました。
「確かに約束を破ってしまったかも……ごめんなさい」
アステリアは膝に手を置いて頭を下げました。
「もう運転しないと誓ってください。今回のような事件を起こされては困ります。足が必要なら、ぼくが承りますから」
「う、うん、誓うよ。口惜しいが、もうハンドルは握らない」
「いつか身分を偽らずに済む日に来たときに、また連れて行ってください」
その日は必ずやってくると信じています。明けない夜も、出口のないトンネルも、ありはしないのですから。
けれどアステリアは、暗い顔をしていました。
「……そうだな」
夜は更けていきます。夏の日の余韻を残して。




