第14話 もっと、もっともっと
その小さな沼は、屋敷から向かって北側にあります。到着までは十分足らずといったところですが、舗装のされていない獣道を通ります。
雨粒は激しく地面を叩き、土は汚泥へと変わります。視界は悪く、十メートルの先ですらも、まともに視認できません。吹きすさぶ風が、唸りを上げて木々の合間を駆け抜けていきます。低いところへ流れる水流が、濁った音を奏でています。
一歩踏み出した瞬間に、靴は泥だらけになります。服は水浸しになり、まるで行水をしているような有様です。陸地で溺れることがあるとするならば、こんな天候の日です。
首を振って、名前を叫びます。しかし返事はありません。
呼びかけを続けながら、ぬかるみを走ります。転倒しそうになりながら、前のめりに進み続けました。まともな思考なんてなくがむしゃらで、ただ祈るような思いだけがありました。
やがて沼の畔に辿り着きます。驚くほどに、静かでした。灰色の空が、森に穴を開けて広がっています。落ちる雨は、音もなく水面を叩いていました。
濡れた前髪の奥に、その姿を見ます。
アステリアは、大きく両腕を広げて、嬉しそうに全身で雨を受けていました。木の葉のようにたゆたう身体と、なめらかな足取りは、まるで踊っているかのよう。
優雅で、軽やかで、無邪気な喜びに満ちていて、気品すらも感じられます。大自然の猛威に不快感の一切を見せず、むしろ遊び仲間として受け入れ、愛おしさを表現しています。
人の気など知らない、きまぐれな妖精のように。
やがて、曲目が終わったとばかりに足を止め、アステリアはこちらに顔を向けます。雨に濡れた前髪が、垂れ下がっていました。
「そんなところで突っ立ってないで、そばにおいで」
呼びかけられることで、乖離していた意識が身体へと戻ってきます。目の前の現実を正しく認識すると、安堵と憤りが込み上げてきました。
「こんなところでっ、こんなところでなにをしているんです!」
詰め寄るようにアステリアへと近づきます。泥にまみれているものの、怪我はしていないようでした。
自分でも気づかないうちにアステリアの手を取っていました。
「わたしは、退屈な人生に刺激を求めたのだろう」
「他人事みたいにっ! 刺激がほしいならもっと別のことがあるでしょう!」
「いやない。わたしにあるのはこんなことぐらいだ」
「遭難していたかもしれない、足を滑らせて骨を折るかもしれないっ! 氾濫した沼に飲み込まれたり、土砂崩れに巻き込まれることだって考えられるんですよ!!」
アステリアは、ぼくの背後を見るような目をしました。
「奇異なことなど、なにも起こりはしないさ」
「あなたはっ……その自信は一体どこから来るんです」
「さあ、わたしにもわからないな」
空虚な瞳が雨に濡れます。どこかわからない場所を見つめて、自嘲気味に微笑んでいます。
小さな、小さなその手のぬくもりが、たまらなく愛おしく感じられました。
「ご主人……抱きしめても、いいですか」
アステリアは一瞬目を見開いて、それから柔和に微笑みました。
「ああ」
優しく、強く、離さないためにも、その身を両腕に抱きしめました。
「満ち足りない思いは……ぼくが埋めてみせます……ですから……ですから」
「ん」
「もう、このようなことはなさらないでください……おねがいします……」
「仕様がない子だな、召使いが主に指図するなんて」
ぼくの後頭部に、アステリアの手のひらがちょこんと乗せられます。母親が我が子にそうするように、やさしく撫でてくれます。
「まっ、そういうのも、悪くはない」
アステリアは少しだけ苦しそうにして、それでもぼくの背中に両腕を回します。
落ち着くと、ぼくの胸に頬を寄せて、目を閉じました。
「ああ……わたしがいちばんほしかったのは、これかもしれないなぁ」
つぶやきが、雨音に染み込んでいきました。




