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紅楼夢  作者: 翡翠
第十六回 賈元春 才(さい)もて鳳藻宮(ほうそうきゅう)に選(せん)じ 秦鯨卿 夭(わか)くして黄泉路(よみじ)に逝(ゆ)く
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第十六回 7

「尼僧(にそう)?」

 秦業は目をぎらつかせた。

「尼僧(にそう)がなぜこんなところにいる?」

「……それは、さきほども申(もう)しました通(とお)り、鯨卿さまのお見舞(みま)いに……」

 秦業は叫(さけ)んだ。

「なぜ貴様(きさま)が見舞(みま)いに来(く)るいわれがある?」

 秦業は杖(つえ)をつきながら詰(つ)め寄(よ)る。

「なぜ我(わ)が息子(むすこ)の字(あざな)を呼(よ)ぶ」

 薄黒(うすぐろ)い歯(は)を見(み)せながら秦業は言った。

「言え!」

 智能はたじろいだ。

「言え!」

 智能が背(せ)を向(む)ける。

「言え!」

 次(つぎ)の瞬間(しゅんかん)には智能の姿(すがた)はなかった。


「今度(こんど)はおまえだ。愚(おろ)か者(もの)」

 老人(ろうじん)のしわぶきが秦鐘に迫(せま)ってくる。秦鐘は物入(ものいれ)に身(み)をひそめながら避(さ)けえぬ時(とき)を待(ま)った。

「……隠(かく)れても無駄(むだ)だ」

 秦業は有無(うむ)を言わさず秦鐘を杖(つえ)で打(う)った。

「『天知(てんし)る、地知(ちし)る、我知(われし)る、汝知(なれし)る』という。こんな浅(あさ)はかな振(ふ)る舞(ま)いが見(み)つからぬとでも思ったのか」

 秦業はもう一度打(いちどう)った。

「姉(あね)の喪(も)も明(あ)けておらぬというのに!」

 三度目(さんどめ)の杖(つえ)が振(ふ)り下(お)ろされる。

「死(し)んだ姉(あね)をなんと思っておる! わしを何(なん)と思(おも)っておる!」

 秦鐘は繰(く)り返(かえ)し打(う)ちつけられる杖(つえ)の痛(いた)みに耐(た)えていた。父は肩(かた)で息(いき)をしている。だが、それでも年老(としお)いた父(ちち)は秦鐘を打擲(ちょうちゃく)することをやめなかった。だんだんと杖(つえ)の動(うご)きが遅(おそ)くなってゆく。嗚咽(おえつ)とともに振(ふ)り上(あ)げた杖(つえ)は秦鐘に当(あ)たることなく空(くう)を切(き)った。


「若君(わかぎみ)、まだ起(お)きられませんか?」

 襲人が尋(たず)ねた。

「うーん」

 宝玉はうなるように言うと、背(せ)を向(む)けて寝(ね)ころんだ。

「元春姐姐(げんしゅんおねえさま)が賢徳妃(けんとくひ)の位(くらい)にのぼられたそうです」

「……そう」

「賈母(おばあさま)たちも謝恩(しゃおん)のため宮中(きゅうちゅう)に向かわれたそうです」

「……へえ」

「ご親戚(しんせき)も大勢賈府(おおぜいかふ)に来られているそうですよ」

「うん」

「そうそう」

 襲人は思(おも)い出(だ)したように言った。

「秦の若君(わかぎみ)のお父上(ちちうえ)が亡(な)くなられたそうです」

「なんだって!」

 宝玉はがばりと起(お)き上(あ)がった。

「持病(じびょう)がひどくなられて、煙(けむり)のように命(いのち)を落(お)とされたとのことです」

 宝玉は頭(あたま)を抱(かか)えた。

「それにひどく落(お)ちこまれたご様子(ようす)で秦の若君(わかぎみ)の病(やまい)もひどくなられたとか……」

「なんてことだ!」

 宝玉は叫(さけ)んだ。

「ついに……君(きみ)は……」

 狼狽(ろうばい)する襲人を尻目(しりめ)に、晴雯はそっと卓子(つくえ)に茶(ちゃ)を置(お)いた。


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