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紅楼夢  作者: 翡翠
第十六回 賈元春 才(さい)もて鳳藻宮(ほうそうきゅう)に選(せん)じ 秦鯨卿 夭(わか)くして黄泉路(よみじ)に逝(ゆ)く
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第十六回 6

 その日は風一(かぜひと)つ吹(ふ)かない日(ひ)だった。外はめっきり冷えこんで、歯(は)を食(く)いしばらなければ耐(た)えられぬほどに寒(さむ)く、溜池(ためいけ)の水(みず)も薄氷(うすらい)となりそうなほどだった。

 秦業は秦氏の身(み)に着(つ)けていた腕輪(うでわ)を前にして、半日(はんにち)にわたって拝(おが)み続(つづ)けた。

「……南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏(なむあみだぶつなむあみだぶつ)」

 幾刻(いくこく)を経(へ)たころだったろうか、秦業は激(はげ)しく咳(せ)きこんだ。痰(たん)にほのかな血(ち)が混(ま)じっていた。

 だが、そのとき秦業の顔(かお)に安堵(あんど)のような微笑(ほほえ)みが浮(う)かんだ。

 血(ち)の味(あじ)を感(かん)じたまま、もう一度名号(いちどみょうごう)を唱(とな)える。

「……南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏(なむあみだぶつなむあみだぶつ)」

 未(み)の刻(こく)を過(す)ぎたころだったろうか。

堂(どう)の外(そと)でかすかな音(おと)がした。秦業はこんなことに気(き)をそらされてはいけない、と目をつむりながら経(きょう)を誦(ず)す。

 が、そんな声と声のあわいに、ほのかに甘(あま)い香(かお)りが漂(ただよ)ってきた。秦業はそっと目を開(ひら)く。

「そっちは……いけない」

 我(わ)が息子(むすこ)の声(こえ)がする。

「な……ぜ……」

 もう一つの声は誰(だれ)か分(わ)からない。知(し)らぬ女の声(こえ)である。

「鼠(ねずみ)にしては大(おお)きすぎるな」

 秦業はそう独(ひと)り言(ご)ちると、少(すこ)しよろけながら立ち上がり、のっそりと堂(どう)を出(で)た。

 そこには頭(あたま)に白い被(かづ)きをかぶった若い女(おんな)がわずかに口を開(あ)けたまま立っていた。

 秦業が乱暴(らんぼう)に女(おんな)の被(かづ)きを引きはがすと、きれいに剃髪(ていはつ)された頭(かぶり)があらわれた。

「……鯨卿(げいけい)さまのお見舞(みま)いに参(まい)ったのです」

 女は青白(あおじろ)い唇(くちびる)を震(ふる)わせながら言った。

「何者(なにもの)だ」

 秦業は短(みじか)く尋(たず)ねた。

「水月庵(すいげつあん)の……智能」

 智能は息(いき)を吐(は)いた。

「一介(いっかい)の尼僧(にそう)にございます」


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