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紅楼夢  作者: 翡翠
第十六回 賈元春 才(さい)もて鳳藻宮(ほうそうきゅう)に選(せん)じ 秦鯨卿 夭(わか)くして黄泉路(よみじ)に逝(ゆ)く
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第十六回 4

「何(なに)があったのだろうね」

 賈母(おばあさま)はかすれた声で言った。

 鴛鴦(えんおう)は慰(なぐさ)めの言葉一(ことばひと)つ言うことができなかった。

「まさか獄(ごく)につながれるようなことは……」

 ぽつりと漏(も)れた一言(ひとこと)に鴛鴦はいてもたってもいられず、

「きっとただの杞憂(きゆう)にございます。なぜならば、なぜならば……」

 鴛鴦が目をつむったまま言いおおせずにいた間に、主(あるじ)の姿(すがた)が消(き)えていた。

 ――内院(なかにわ)に行かれたのかしら。

「老祖宗(ろうそそう)!」

 鴛鴦は賈母(おばあさま)を呼(よ)んだ。

「老祖宗(ろうそそう)!」

 人馬(じんば)が鴛鴦の目(め)の前(まえ)を駆(か)け抜(ぬ)けてゆく。

「本当に何があったのかしら」

 淡(あわ)い霧雨(きりさめ)が鴛鴦の肩(かた)にもその艶(つや)やかな鬢(びん)にも柔(やわ)らかく降(ふ)りそそぐ。

初(はじ)めの早馬(はやうま)は卯(う)の刻(こく)には出ていった。

「今は何時(なんどき)かしら?」

 いくら空(そら)を仰(あお)いでも、分厚(ぶあつ)い雲(くも)に隠(かく)れて日は見えない。

「……老祖宗(ろうそそう)」

 鴛鴦は再(ふたた)び主(あるじ)の名(な)をつぶやく。

「老祖宗(ろうそそう)ならあちらよ」

 熙鳳が大広間(おおひろま)の回廊(かいろう)を指(ゆび)さす。

「よかった」

 鴛鴦は胸(むね)をなでおろす。

「こちらに戻(もど)っておられましたか」

「見てごらんなさい」

 熙鳳が言った。

「ずっとああやって地(ち)を見(み)つめておられるの。まるで二の老爺(だんな)さまの影(かげ)がまだ残(のこ)っているかのようだわ」

 鴛鴦は目をうるませながら詠(うた)った。

「……日暮(ひく)れて廬(いおり)に倚(よ)り、仍(な)お悵望(ちょうぼう)す」

 熙鳳は眉(まゆ)を顰(ひそ)める。

「何なの? それは?」

 鴛鴦は頬(ほほ)をゆるめた。

「……いえ。いつまでたっても親(おや)は子(こ)のことを想(おも)われるものだと」

「あたりまえじゃない」

 熙鳳は笑った。

「あなたも人の親(おや)になったら分(わ)かるわ」


 巳(み)の刻(こく)にいたり、頼大ら数人の管家(かんけ)の者たちが息(いき)を切(き)らせながら儀門(ぎもん)に駆(か)け込(こ)んできた。

 このとき、邢夫人、王夫人、尤氏、李紈、熙鳳、迎春らはひとところに集(あつ)まっていたが、みな固唾(かたず)を呑(の)んでそのときを待った。

 頼大は絶(た)え絶(だ)えになりながら言った。

「みなさま、ご安心(あんしん)なさいませ。吉報(きっぽう)にございます」


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