第十五回(後編)
続くのは熙鳳と浄虚の悪だくみの場面である。
ただし、分かりにくいため(脂評によればあえてそうしたようだが)、平児の視点を用いて補足した。
要約すると以下のようになる。
張家の娘、金哥には守備の子息の婚約者がいた。
だが、長安府の府尹の縁戚である李の若君に金哥は見初められてしまう。
ここからは物語の空白を埋めなければならない。
張家は元の婚約を破棄し、金哥を李の若君に嫁がせれば、大きな権勢を得ることができる。
そのため元の婚約者である守備との婚約を無理やり破棄しようと申し出たところ、訴訟問題に発展してしまう。弱った張家は長安節度使の雲何某に仲立ちを頼むため、賈家の力を借りたかった。だが、直接賈家に頼む伝手がない。そのため張家は、長安の尼寺で修していたころから付き合いのある浄虚に仲立ちを依頼した。
脂評を総合するとこういう経緯だったように思われる。
また、浄虚が三千両を用立てられると言ったのは、金哥が李の若君と婚姻したのちに張家が得られる金をあてにしたものだろう。
ここから秦鐘と智能の逢引きへと移る。
智能への性的関係を強要した秦鐘は智能から、
「你想怎樣?除非我出了這牢坑,離了這些人,才依你(拙訳:いったい何をしたいわけ? この牢獄のようなところを出て、ここから離れない限り、あなたのことなんて聞けないわ)」
と言われてしまう。この牢獄(原文:牢坑)は鉄檻寺の名とも象徴的に重なり、智能が戒律から抜け出し、俗世へひたひたと歩みだす予兆のようにも思われる。
次の秦鐘の「遠水救不得近渴(拙訳:遠くの水では今の渇きは癒せない)」という台詞は一見格好のよいことを言っているようだが、その実、智能の願いを無視して、「自分の今の渇きは癒せない」というあくまで自身の欲求に立脚している台詞である。
その後、情事を宝玉に見つかった秦鐘は、智能に対するときと同じく「好人」と呼びかける。これは英語のdearや日本語の「ねえ」に、甘えを加えたような呼びかけに近い。つまりは愛情と懇願がないまぜになり、一種の媚びのようになっている。
脂評にも、「好人の二字を初めには智能に用い、後には宝玉に用いている。ここをよくよく注意すべきだ」とある。
私は宝玉の台詞「算帳」を「清算」と訳した(ちなみに岩波訳では決着とされている)。
初読の際、私はこの「算帳」を宝玉の秦鐘に対する性的関係の(半ば脅迫的な)誘いだと思った。
だが、原文には滿地下皆是家下婆子(拙訳:婆子たちも床へ一面に夜具を敷いて宿直していた)とあり、秦鐘、宝玉との位置関係が分かりづらいけれどもかなり近くに侍していたとすれば、二人が情を交わすには人目がありすぎる。この婆子たちの描写は二人の性行為をやわらかく退ける働きをしているように思う。
では宝玉のいう「算帳」とは何を意味しているか? 宝玉はすでに秦鐘の智能に対する態度への違和を示している。表向きには昼間の智能に対する態度をたしなめ、もう少し情をもって接するようにと諭したのではないか。
だが、物語全体の流れをとらえれば、宝玉の秦鐘との分化であり、もっと適切にいえば宝玉の「自分は秦鐘とは違う」という確信である。
その根拠として述べるなら、宝玉が「通霊宝玉」から離されているからだ。このとき通霊宝玉は王熙鳳の手元にある。
私はあまりユング心理学を好まないけれども、分かりやすく言えば秦鐘は宝玉のシャドウに近く、自己を確立するためにはそこに映る自分と自分自身を分ける必要がある。
通霊宝玉が宝玉の手元から離れたのは、第十五回まででは李ばあやの件で感情を爆発させた第八回だけだ。
すなわちここでは宝玉は通霊宝玉というかりそめの自分から離れ、むきだしの賈宝玉となり、自己と向き合い、他者と向き合い、自己を確立する通過儀礼として秦鐘と向き合う。その象徴的場面としての「算帳」だったのではないかと思うのだ。
もちろん、これを同性愛の場面と考える人があってもいい。翻案でもその余地は残している。紅楼夢は極限まで自由であるべきだ。
さて本回の最後には宝珠が置かれる。
彼女は秦氏を悼もうとする行動と心が一致している。外に現れるものと内なる情が乖離していない。
この回は水溶から始まった。水溶は外見、通霊宝玉の伝説と外側を重視しているように思える。秦氏を悼むときにも、その意は行動にあらわれるけれども、その心の内は不明瞭である。
そして二番目との邂逅では、宝玉はほんの一瞬、色即是空の境地にいたる。だが、それは長続きしない。
そして秦鐘と智能の求めるもののすれ違い。そこから宝玉は自身のシャドウである秦鐘と対峙する。
なぜ、この通過儀礼が必要だったのか。今は黛玉がいない。もうすぐ黛玉が帰ってくる。それまでに宝玉は少しずつ変わってゆく。私には、第十五回は宝玉の成長過程が見える回であった。
第十六回では賈璉、黛玉が帰還し、賈家に慶事が訪れることになる。




