第十五回(前)
第十五回は水溶と宝玉の外見の描写から始まる。
一般的な小説の章の冒頭としては、あまり良い入りとはいえない。宝玉の外見については第三回との重複もみられる。
だが、このじれったい描写には深い意味がある。
注目すべきは水溶の「まさに『宝』のごとく、『玉』のごとし」、「生まれたときに咥えていたという宝玉はどこにありますか?」という台詞である。
理想的な王として描かれる水溶だが、宝玉を評価する理由は主として外見や通霊宝玉の神秘性という外的要因にある。
ただし、水溶は宝玉に「鐘溺」してはならないと伝える。この点でやはり彼は凡庸ではないのだが、ここで以前の秦鐘の宝玉評「溺愛」が単なる「溺愛される素晴らしい公子」でなく「ちやほやされていて羨ましい」という含意をもつ可能性が強まる。またここを「溺愛」と訳してしまうと意味がとおらない。私はもっと意味を広く取り、「おぼれる」とここでは訳した。
また、水溶が王という立場にありながら手ずから宝玉に念珠をかけてやったのは、賈政が「まだその験しはありません」と正直に答えたことによって、逆説的に宝玉が通霊宝玉を咥えて生まれてきたという「伝説」の真実味が増したからだろう。
逆に言えば水溶はそのような見た目や押し出しに惹かれやすい性質があるともいえるだろう。これは黛玉との縁の根拠として「宝玉」を必要とした宝玉とも重なる。
のちのち水溶は間接的に黛玉と対立するが、それも無理からぬことだろう。
亡くなった秦氏に対する水溶の態度は立派だけれども、どこか儀礼的な印象が否めない。
身分に拘泥しないということも含めて、水溶は「今の宝玉の延長線上にある理想」として描かれていると思われる。
また宝玉を「鐘溺」しているであろう人間として、老太夫人と並列して王夫人を挙げているが、王夫人は宝玉よりもむしろ亡くなった賈珠の方に心を向けており、宝玉が受け取っている愛情の実感とはずれている。水溶を完璧な人間のように描きながら、微妙にずらす手法が実に巧みである。
ここで玉字輩および攵字輩の枠組みを出したので説明していこうと思う。これは初代栄国公および初代寧国公を一代目としたとき、同世代では同じ文字(あるいは偏、つくり)を必ず諱に用いるという規則である。これを同字輩と言う。
たとえば、初代より数えて四代目にあたるのは賈珍、賈璉、賈珠、賈宝玉などだが、彼らには玉の一字、あるいは王偏が含まれている。その一つ上の世代には賈赦、賈政がおり、どちらも攵が含まれている。
本文中に訳しづらい箇所があったため、比較的説明しやすい同字輩を用いて理解の一助とした。
さて、水溶との面会を終え、鉄檻寺に向かう際、熙鳳の配慮から、宝玉は秦鐘をともなって荘で休むことになる。
細かいところだが翻案中熙鳳がいったん宝玉たちと別れる際、宝玉が「察した」のは文中でもほのめかしたとおり、熙鳳が厠に向かったことである。分かりやすくするため、翻案では子どもたちの反応を追加した。
宝玉は荘で農具を発見する。
そこで宝玉が思い出したのが李紳の「憫農」の一節で、全文は以下の通りである。
春に一粒の粟を種き
秋に万顆の子を収む
四海閑田無きも
農夫猶も飢えに死する
禾を鋤きて日の午に当たり
汗は禾下の土に滴る
誰か知る盤中の餐
粒粒皆辛苦なるを
春に一粒の粟を蒔き
秋に万にもおよぶ粟を収穫する
この世を見回しても鋤かれていない田は無い
それでも農夫は飢えのために死ぬのだ
田を耕せば、日は真上に昇り
汗は田の土に滴る
皿のなかの食べ物が一粒残らず辛苦によって成り立っていることを誰が知っているだろう。
書物によって得た知識が実際に農具を眺めることによって、宝玉は実感に近づいていく。ここではあまり詩の一節を訳したくなかったので、農夫であった小者が手の肉刺を見せることによって分かりやすくしているが、原文では詩の一節を思い出しただけなので、もう少し飛躍がある。実感もまだ薄い。そもそもこの詩自体が上流階級の視線をもっている。すなわち農夫自身が詠った詩ではなく、農夫の辛苦を外部から憐れんだ詩なのである。そのような外部からの理解にとどまっているからこそ宝玉は二番目の糸車を依然ぞんざいに扱うのだ。
次の「二番目」の場面は、瞬間の邂逅によって主人公の認識が変化する点において、私には新訳聖書に出てくるような啓示の箇所のように思われた。
「動かさないで。壊れちゃう!」
と二番目から言われたとき、宝玉は初めてそれに所有者がおりその人にとって大切なものであると自覚する。
二番目の「我紡與你瞧(拙訳:私が“あんたに”紡いで見せてあげる)」という台詞がほぼ神託に近いもののようにも思える。「二丫頭(拙訳:二番目)」という無名性もどこか神性を帯びている。
與你は「あなたのために」という意味を含んでおり、ここで「你」がことさらに明示されていることには、何かしらの意味を読み取る余地があると考えた。そこで私は仮に「你」を「宝玉」と置き換え、物語の上での意味を検討してみることにした。
すなわち冒頭の水溶が「通霊宝玉の持ち主」、「美しい公子」としての宝玉という見方を強くしていたのに対して、「二番目」は一貫して宝玉を「你」と呼び、その向き合い方は黛玉と通じるものがある。「二番目」は身分差や通霊宝玉といった外的属性に依らず、ただ一人の賈宝玉と向き合っている。
二番目は糸を紡ぐ営みを見せることで宝玉の「色」と「空」をまでも紡いだとすれば、ここにあったのが「糸車」であった象徴的な必然性も分かる。
農具を見たときには、まだ「色(=もの)」と「空(=感情)」が独立しているが、宝玉が「二番目が糸を紡ぐ営み」を見ることによって、この一瞬だけでも「色即是空」が成立する。
だから秦鐘が「此卿大有意趣(拙訳:この娘、いい感じだね)」と言ったとき、「再胡說,我就打了(拙訳:ばか! 打たないと分からないのかい?)」と半ば冗談めかして言うのである。
ここは宝玉と秦鐘を分かつ箇所であり、二人の「見ているもの」の違いが明瞭になる。
老婆に呼ばれて宝玉は「二番目」と別れる。
ここでいったん二番目の神聖性は消えさり、宝玉は見えない二番目との別れを惜しむ。
次に宝玉が二番目と見えるとき、二番目は弟を抱えており、“俗”の姿をしている。だが、それが宝玉には手が届かない彼岸にあるがゆえにかえって二番目の「神聖性」を強調している。
次に鉄檻寺の場面に移るが、この固有名詞には牢獄の匂いが感じられる。これはむやみな欲望から守るため、子々孫々を縛りつけるという栄国公および寧国公の慧眼があったことが明かされる。
本文中、「源の遠ければ水すなわち濁り、枝の繁れば果はすなわち稀なり」はもともと脂評の言であり、子孫が腐敗しつつあることをよく表していたため、そのまま引用した。
熙鳳は陽宅に泊まらないことを明言したが、これが必ずしも悪かったかというと私は断言できない。回の末尾の賈珍の秦氏を悼む態度の軽薄さをみるに、あえて無秩序の世界におりてゆくことも、(少なくとも宝玉にとっては)必要だったのではないかと思った。これは「真は仮、仮は真」という「紅楼夢」の根幹とも一致する。そもそも紅楼夢の冒頭、紅塵におりていきたいと願ったのは他ならぬ石であり、その化身である宝玉だからだ。
王熙鳳は智能の背が伸び、器量がよくなったと指摘する。王熙鳳の観察眼とともに、秦鐘との関係の伏線となっている。
秦鐘と智能のエピソードの前に、智能と智善の会話を翻案として挿入した。
智能には二つの願望があったと思われる。
一つには誰かに水月庵から抜け出させてほしいという願望である。これは英蓮の「人さらいから馮淵に救い出してほしい」という願望とかさなる。ただし英蓮は人さらいという悪事から救い出してほしい、というまっとうな願望なのに対して、智能は尼寺を抜け出して還俗したいという、英蓮ほど「救われる理由」が明白でない点が英蓮とは異なる。
さらに智能にとっては救い出してくれる対象は秦鐘になるだろう。だが、智能にはそれに加えて愛情を所望した。英蓮はそこに愛情があるかどうかは分からない。
第十三回では賈蓉と秦氏の、何の条件もなく愛してほしい賈蓉と、与える者である秦氏のずれを描いた。秦氏は賈蓉に与えることがかなわず亡くなったわけだが、秦鐘と智能の場合ではそれが反転し、相手の心や肉体を奪おうとする秦鐘と、それに愛されたいと願う智能という構図である。
そこで智能と智善の会話のなかで、「誰かに水月庵からさらってほしい」という彼女の暮らす「監獄」から第三者によってさらわれたいという願望と、「それが愛を帯びたものであってほしい」という彼女の複雑な感情を吐露する独白を追加した。
事実、秦鐘と智能のお茶の場面における智能の感情は分かりづらい。他の解釈もありえたと思うが、私には思いつかなかった。
率直にいって本回は他の回以上に難解である。できるだけ演出を加えないようにつとめようとしたが、自分の理解のためにも、分かりやすさのためにも本回ではかなりの脚色を加えてある。原作に準拠して脚色したつもりだが、過剰な部分もあったかもしれない。ご了承いただければ幸いである。
宝玉が智能のお茶を奪うところは、いっそう頭を悩ませた。ふだんなら宝玉が智能にちょっかいを出そうとしていると読んだと思うが、宝玉はその前に、「ぼくが頼んだところでなんてことないよ。君が頼むからこそ気持ちがこもるんじゃないか」と言っている。そのうえで智能のお茶を奪うのは不可解な気がしたが、私は秦鐘の「給我(拙訳:早くくれよ)」という台詞が原因であったことに気づいた。
すなわち、宝玉は自身も「給我(拙訳:ぼくにくれ)」と言い、お茶を奪い取ることによって、秦鐘のふるまいがいかに智能の気持ちを顧みないものであったかを彼に伝えようとしたのだと推測した。
そしてそれは成就しない。秦鐘には響かず、智能には誤解されて終わる。
翻案において苦心したのは、この解釈であったとしても宝玉、秦鐘、智能、三者のいずれに語らせても野暮になる気がした。
そこで翻案では晴雯を登場させ、宝玉の意図を説明させることとした。
この一連の思考の過程でChatGPTから示唆的な解釈を受け取ったのだが、それは宝玉自身が「気づき」を得た原因である「二番目」の役割を演じようとしたのではないか、ということだ。すなわち糸車の場面における「二番目」の役割を宝玉が演じ、秦鐘に気づきを与えようとしたのではないかということだ。
だが、それは失敗する。その原因は自身の経験をうまく消化できていないからかもしれないし、受け手の秦鐘(および智能)の問題かもしれない。
いずれにしてもこの場面には経験を消化することの困難さと、それを人に伝えることの困難さが示唆されているように思われた。




