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紅楼夢  作者: 翡翠
翻案意図(第十四回~十五回)
313/333

第十五回(前)

 第十五回は水溶と宝玉の外見(がいけん)の描写(びょうしゃ)から始まる。

 一般的(いっぱんてき)な小説(しょうせつ)の章(しょう)の冒頭(ぼうとう)としては、あまり良(よ)い入(はい)りとはいえない。宝玉の外見(がいけん)については第三回との重複(ちょうふく)もみられる。

 だが、このじれったい描写(びょうしゃ)には深(ふか)い意味(いみ)がある。

 注目(ちゅうもく)すべきは水溶の「まさに『宝』のごとく、『玉』のごとし」、「生まれたときに咥(くわ)えていたという宝玉はどこにありますか?」という台詞(せりふ)である。

 理想的(りそうてき)な王(おう)として描(えが)かれる水溶だが、宝玉を評価(ひょうか)する理由(りゆう)は主(しゅ)として外見(がいけん)や通霊宝玉(つうれいほうぎょく)の神秘性(しんぴせい)という外的要因(がいてきよういん)にある。

 ただし、水溶は宝玉に「鐘溺」してはならないと伝える。この点でやはり彼は凡庸(ぼんよう)ではないのだが、ここで以前の秦鐘の宝玉評「溺愛」が単なる「溺愛(できあい)される素晴(すば)らしい公子(こうし)」でなく「ちやほやされていて羨(うらや)ましい」という含意(がんい)をもつ可能性(かのうせい)が強(つよ)まる。またここを「溺愛(できあい)」と訳してしまうと意味(いみ)がとおらない。私はもっと意味(いみ)を広く取り、「おぼれる」とここでは訳(やく)した。

 また、水溶が王という立場(たちば)にありながら手ずから宝玉に念珠(ねんじゅ)をかけてやったのは、賈政が「まだその験(ため)しはありません」と正直(しょうじき)に答えたことによって、逆説的(ぎゃくせつてき)に宝玉が通霊宝玉を咥(くわ)えて生(う)まれてきたという「伝説(でんせつ)」の真実味(しんじつみ)が増(ま)したからだろう。

 逆(ぎゃく)に言(い)えば水溶はそのような見た目や押し出しに惹(ひ)かれやすい性質(せいしつ)があるともいえるだろう。これは黛玉との縁(えにし)の根拠(こんきょ)として「宝玉」を必要(ひつよう)とした宝玉とも重(かさ)なる。

 のちのち水溶は間接的(かんせつてき)に黛玉と対立(たいりつ)するが、それも無理(むり)からぬことだろう。

 亡くなった秦氏に対する水溶の態度(たいど)は立派(りっぱ)だけれども、どこか儀礼的(ぎれいてき)な印象(いんしょう)が否(いな)めない。

 身分(みぶん)に拘泥(こうでい)しないということも含(ふく)めて、水溶は「今の宝玉の延長線上(えんちょうせんじょう)にある理想(りそう)」として描(えが)かれていると思われる。

 また宝玉を「鐘溺」しているであろう人間として、老太夫人(おばあさま)と並列(へいれつ)して王夫人を挙(あ)げているが、王夫人は宝玉よりもむしろ亡(な)くなった賈珠の方に心を向けており、宝玉が受(う)け取(と)っている愛情(あいじょう)の実感(じっかん)とはずれている。水溶を完璧(かんぺき)な人間(にんげん)のように描(えが)きながら、微妙(びみょうに)にずらす手法(しゅほう)が実(じつ)に巧(たく)みである。


 ここで玉字輩(ぎょくじはい)および攵字輩(ぼくじはい)の枠組(わくぐ)みを出したので説明(せつめい)していこうと思う。これは初代栄国公(しょだいえいこくこう)および初代寧国公(しょだいねいこくこう)を一代目(いちだいめ)としたとき、同世代(どうせだい)では同じ文字(もじ)(あるいは偏(へん)、つくり)を必(かなら)ず諱(いみな)に用いるという規則(きそく)である。これを同字輩(どうじはい)と言う。

 たとえば、初代(しょだい)より数えて四代目(よんだいめ)にあたるのは賈珍、賈璉、賈珠、賈宝玉などだが、彼(かれ)らには玉(ぎょく)の一字(いちじ)、あるいは王偏(おうへん)が含(ふく)まれている。その一つ上(うえ)の世代(せだい)には賈赦、賈政がおり、どちらも攵(のぶん)が含(ふく)まれている。

 本文中に訳(ほんぶんちゅうやく)しづらい箇所(かしょ)があったため、比較的説明(ひかくてきせつめい)しやすい同字輩(どうじはい)を用(もち)いて理解(りかい)の一助(いちじょ)とした。


 さて、水溶との面会(めんかい)を終(お)え、鉄檻寺(てっかんじ)に向(む)かう際(さい)、熙鳳の配慮(はいりょ)から、宝玉は秦鐘をともなって荘(しょう)で休むことになる。

 細(こま)かいところだが翻案中(ほんあんちゅう)熙鳳がいったん宝玉たちと別(わか)れる際(さい)、宝玉が「察(さっ)した」のは文中でもほのめかしたとおり、熙鳳が厠(かわや)に向かったことである。分かりやすくするため、翻案(ほんあん)では子どもたちの反応(はんのう)を追加(ついか)した。

 宝玉は荘(しょう)で農具(のうぐ)を発見(はっけん)する。

 そこで宝玉が思い出したのが李紳(りしん)の「憫農(びんのう)」の一節(いっせつ)で、全文は以下の通りである。


 春(はる)に一粒(ひとつぶ)の粟(あわ)を種(ま)き

 秋(あき)に万顆(ばんか)の子(み)を収(おさ)む

 四海(しかい)閑田(かんでん)無(な)きも

 農夫猶(のうふなお)も飢(う)えに死(し)する


 禾(か)を鋤(す)きて日(ひ)の午(ひる)に当(あ)たり

 汗(あせ)は禾下(かか)の土(つち)に滴(したた)る

 誰(たれ)か知る盤中(ばんちゅう)の餐(さん)

粒粒(りゅうりゅう)皆(みな)辛苦(しんく)なるを


春に一粒(ひとつぶ)の粟(あわ)を蒔(ま)き

秋に万(まん)にもおよぶ粟(あわ)を収穫(しゅうかく)する

この世(よ)を見回(みまわ)しても鋤(す)かれていない田(た)は無(な)い

それでも農夫(のうふ)は飢(う)えのために死(し)ぬのだ


田(た)を耕(たがや)せば、日(ひ)は真上(まうえ)に昇(のぼ)り

汗(あせ)は田(た)の土(つち)に滴(したた)る

皿(さら)のなかの食(た)べ物(もの)が一粒残(ひとつぶのこ)らず辛苦(しんく)によって成(な)り立(た)っていることを誰(だれ)が知(し)っているだろう。


書物(しょもつ)によって得(え)た知識(ちしき)が実際(じっさい)に農具(のうぐ)を眺(なが)めることによって、宝玉は実感(じっかん)に近(ちか)づいていく。ここではあまり詩(し)の一節(いっせつ)を訳(やく)したくなかったので、農夫(のうふ)であった小者(こもの)が手の肉刺(まめ)を見せることによって分かりやすくしているが、原文(げんぶん)では詩(し)の一節(いっせつ)を思い出しただけなので、もう少し飛躍(ひやく)がある。実感(じっかん)もまだ薄(うす)い。そもそもこの詩自体(じたい)が上流階級(じょうりゅうかいきゅう)の視線(しせん)をもっている。すなわち農夫自身が詠(うた)った詩(し)ではなく、農夫(のうふ)の辛苦(しんく)を外部(がいぶ)から憐(あわ)れんだ詩(し)なのである。そのような外部(がいぶ)からの理解にとどまっているからこそ宝玉は二番目の糸車(いとぐるま)を依然(いぜん)ぞんざいに扱(あつか)うのだ。


 次の「二番目(にばんめ)」の場面(ばめん)は、瞬間(しゅんかん)の邂逅(かいこう)によって主人公の認識(にんしき)が変化(へんか)する点において、私には新訳聖書(しんやくせいしょ)に出てくるような啓示(けいじ)の箇所(かしょ)のように思われた。

「動(うご)かさないで。壊(こわ)れちゃう!」

 と二番目(にばんめ)から言(い)われたとき、宝玉は初めてそれに所有者(しょゆうしゃ)がおりその人にとって大切(たいせつ)なものであると自覚(じかく)する。

二番目の「我紡與你瞧(拙訳(せつやく):私が“あんたに”紡(つむ)いで見せてあげる)」という台詞(せりふ)がほぼ神託(しんたく)に近いもののようにも思える。「二丫頭(拙訳(せつやく):二番目)」という無名性(むめいせい)もどこか神性(しんせい)を帯(お)びている。

與你は「あなたのために」という意味(いみ)を含(ふく)んでおり、ここで「你(あなた)」がことさらに明示(めいじ)されていることには、何かしらの意味(いみ)を読み取る余地(よち)があると考えた。そこで私は仮に「你(あなた)」を「宝玉」と置(お)き換(か)え、物語(ものがたり)の上(うえ)での意味(いみ)を検討(けんとう)してみることにした。

すなわち冒頭(ぼうとう)の水溶が「通霊宝玉(つうれいほうぎょく)の持(も)ち主(ぬし)」、「美(うつく)しい公子(こうし)」としての宝玉という見方を強(つよ)くしていたのに対して、「二番目」は一貫(いっかん)して宝玉を「你(あなた)」と呼び、その向(む)き合い方は黛玉と通(つう)じるものがある。「二番目」は身分差(みぶんさ)や通霊宝玉(つうれいほうぎょく)といった外的属性(がいてきぞくせい)に依(よ)らず、ただ一人の賈宝玉と向き合っている。

 二番目は糸を紡(つむ)ぐ営みを見せることで宝玉の「色(しき)」と「空(くう)」をまでも紡(つむ)いだとすれば、ここにあったのが「糸車(いとぐるま)」であった象徴的(しょうちょうてき)な必然性(ひつぜんせい)も分かる。

農具(のうぐ)を見(み)たときには、まだ「色(しき)(=もの)」と「空(くう)(=感情(かんじょう))」が独立(どくりつ)しているが、宝玉が「二番目が糸を紡(つむ)ぐ営(いとな)み」を見ることによって、この一瞬(いっしゅん)だけでも「色即是空(しきそくぜくう)」が成立(せいりつ)する。

だから秦鐘が「此卿大有意趣(拙訳:この娘(こ)、いい感(かん)じだね)」と言ったとき、「再胡說,我就打了(拙訳(せつやく):ばか! 打(ぶ)たないと分からないのかい?)」と半(なか)ば冗談(じょうだん)めかして言うのである。

ここは宝玉と秦鐘を分(わ)かつ箇所(かしょ)であり、二人の「見ているもの」の違(ちが)いが明瞭(めいりょう)になる。

老婆(ろうば)に呼(よ)ばれて宝玉は「二番目(にばんめ)」と別(わか)れる。

 ここでいったん二番目の神聖性(しんせいせい)は消(き)えさり、宝玉は見(み)えない二番目との別(わか)れを惜(お)しむ。

 次に宝玉が二番目と見(まみ)えるとき、二番目は弟(おとうと)を抱(かか)えており、“俗(ぞく)”の姿(すがた)をしている。だが、それが宝玉には手が届(とど)かない彼岸(ひがん)にあるがゆえにかえって二番目の「神聖性(しんせいせい)」を強調(きょうちょう)している。


 次に鉄檻寺(てっかんじ)の場面(ばめん)に移(うつ)るが、この固有名詞(こゆうめいし)には牢獄(ろうごく)の匂(にお)いが感(かん)じられる。これはむやみな欲望(よくぼう)から守(まも)るため、子(し)々孫(そん)々を縛(しば)りつけるという栄国公および寧国公の慧眼(けいがん)があったことが明(あ)かされる。

 本文中(ほんぶんちゅう)、「源(みなもと)の遠(とお)ければ水(みず)すなわち濁(にご)り、枝(えだ)の繁(しげ)れば果(み)はすなわち稀(まれ)なり」はもともと脂評(しひょう)の言(げん)であり、子孫(しそん)が腐敗(ふはい)しつつあることをよく表(あらわ)していたため、そのまま引用(いんよう)した。

 熙鳳は陽宅(ようたく)に泊(と)まらないことを明言(めいげん)したが、これが必(かなら)ずしも悪(わる)かったかというと私は断言(だんげん)できない。回の末尾(まつび)の賈珍の秦氏を悼(いた)む態度(たいど)の軽薄(けいはく)さをみるに、あえて無秩序(むちつじょ)の世界(せかい)におりてゆくことも、(少なくとも宝玉にとっては)必要(ひつよう)だったのではないかと思った。これは「真(しん)は仮(か)、仮(か)は真(しん)」という「紅楼夢」の根幹(こんかん)とも一致(いっち)する。そもそも紅楼夢の冒頭(ぼうとう)、紅塵(うきよ)におりていきたいと願(ねが)ったのは他(ほか)ならぬ石であり、その化身である宝玉だからだ。


 王熙鳳は智能の背(せ)が伸(の)び、器量(きりょう)がよくなったと指摘(してき)する。王熙鳳の観察眼(かんさつがん)とともに、秦鐘との関係(かんけい)の伏線(ふくせん)となっている。

 秦鐘と智能のエピソードの前に、智能と智善の会話(かいわ)を翻案(ほんあん)として挿入(そうにゅう)した。

 智能には二つの願望(がんぼう)があったと思われる。

 一つには誰(だれ)かに水月庵(すいげつあん)から抜(ぬ)け出(だ)させてほしいという願望(がんぼう)である。これは英蓮の「人さらいから馮淵に救(すく)い出してほしい」という願望(がんぼう)とかさなる。ただし英蓮は人さらいという悪事(あくじ)から救(すく)い出してほしい、というまっとうな願望(がんぼう)なのに対して、智能は尼寺(あまでら)を抜(ぬ)け出して還俗(かんぞく)したいという、英蓮ほど「救(すく)われる理由」が明白(めいはく)でない点が英蓮とは異なる。

さらに智能にとっては救(すく)い出(だ)してくれる対象(たいしょう)は秦鐘になるだろう。だが、智能にはそれに加(くわ)えて愛情(あいじょう)を所望(しょもう)した。英蓮はそこに愛情(あいじょう)があるかどうかは分からない。

第十三回では賈蓉と秦氏の、何(なん)の条件(じょうけん)もなく愛(あい)してほしい賈蓉と、与(あた)える者である秦氏のずれを描(えが)いた。秦氏は賈蓉に与(あた)えることがかなわず亡(な)くなったわけだが、秦鐘と智能の場合(ばあい)ではそれが反転(はんてん)し、相手(あいて)の心(こころ)や肉体(にくたい)を奪(うば)おうとする秦鐘と、それに愛(あい)されたいと願(ねが)う智能という構図(こうず)である。

そこで智能と智善の会話(かいわ)のなかで、「誰(だれ)かに水月庵(すいげつあん)からさらってほしい」という彼女の暮らす「監獄(かんごく)」から第三者(だいさんしゃ)によってさらわれたいという願望(がんぼう)と、「それが愛(あい)を帯(お)びたものであってほしい」という彼女(かのじょ)の複雑(ふくざつ)な感情(かんじょう)を吐露(とろ)する独白(どくはく)を追加(ついか)した。

事実(じじつ)、秦鐘と智能のお茶の場面(ばめん)における智能の感情(かんじょう)は分かりづらい。他(ほか)の解釈(かいしゃく)もありえたと思うが、私には思いつかなかった。

率直(そっちょく)にいって本回は他の回以上(かいいじょう)に難解(なんかい)である。できるだけ演出(えんしゅつ)を加(くわ)えないようにつとめようとしたが、自分(じぶん)の理解(りかい)のためにも、分かりやすさのためにも本回ではかなりの脚色(きゃくしょく)を加(くわ)えてある。原作(げんさく)に準拠(じゅんきょ)して脚色(きゃくしょく)したつもりだが、過剰(かじょう)な部分(ぶぶん)もあったかもしれない。ご了承(りょうしょう)いただければ幸(さいわ)いである。

宝玉が智能のお茶を奪(うば)うところは、いっそう頭(あたま)を悩(なや)ませた。ふだんなら宝玉が智能にちょっかいを出そうとしていると読んだと思うが、宝玉はその前に、「ぼくが頼(たの)んだところでなんてことないよ。君(きみ)が頼(たの)むからこそ気持(きも)ちがこもるんじゃないか」と言っている。そのうえで智能のお茶を奪(うば)うのは不可解(ふかかい)な気がしたが、私は秦鐘の「給我(拙訳(せつやく):早くくれよ)」という台詞(せりふ)が原因(げんいん)であったことに気づいた。

 すなわち、宝玉は自身(じしん)も「給我(拙訳(せつやく):ぼくにくれ)」と言い、お茶(ちゃ)を奪(うば)い取(と)ることによって、秦鐘のふるまいがいかに智能の気持ちを顧(かえり)みないものであったかを彼(かれ)に伝(つた)えようとしたのだと推測(すいそく)した。

 そしてそれは成就(じょうじゅ)しない。秦鐘には響(ひび)かず、智能には誤解されて終わる。

 翻案(ほんあん)において苦心(くしん)したのは、この解釈(かいしゃく)であったとしても宝玉、秦鐘、智能、三者のいずれに語らせても野暮(やぼ)になる気がした。

 そこで翻案(ほんあん)では晴雯を登場(とうじょう)させ、宝玉の意図(いと)を説明(せつめい)させることとした。

 この一連(いちれん)の思考(しこう)の過程(かてい)でChatGPTから示唆的(しさてき)な解釈(かいしゃく)を受け取ったのだが、それは宝玉自身(ほうぎょくじしん)が「気づき」を得(え)た原因(げんいん)である「二番目」の役割(やくわり)を演(えん)じようとしたのではないか、ということだ。すなわち糸車(いとぐるま)の場面(ばめん)における「二番目」の役割(やくわり)を宝玉が演(えん)じ、秦鐘に気づきを与(あた)えようとしたのではないかということだ。

 だが、それは失敗(しっぱい)する。その原因(げんいん)は自身(じしん)の経験(けいけん)をうまく消化(しょうか)できていないからかもしれないし、受(う)け手の秦鐘(および智能)の問題(もんだい)かもしれない。

 いずれにしてもこの場面(ばめん)には経験(けいけん)を消化(しょうか)することの困難(こんなん)さと、それを人に伝えることの困難(こんなん)さが示唆(しさ)されているように思われた。


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