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紅楼夢  作者: 翡翠
第十五回 王鳳姐(おうほうしゃ) 権(けん)を鉄檻寺(てっかんじ)に弄(ろう)し、秦鯨卿(しんげいけい)、趣(おもむき)を饅頭庵(まんとうあん)に得(う)。
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第十五回 20

 その晩(ばん)は何事(なにごと)もなく過(す)ぎた。

 灰(はい)のように降(お)りた霜(しも)が解(と)け始(はじ)める朝(あさ)ぼらけ、賈母(おばあさま)と王夫人が宝玉の様子(ようす)を見(み)るために遣(つか)いがやってきた。

「今日はいっそう寒(さむ)いので二枚余計(にまいよけい)に羽織(はお)るように、との仰(おお)せでした。それから用(よう)がないのなら早(はや)く帰(かえ)ってくるように、と」

 宝玉は唇(くちびる)を噛(か)んだ。

 秦鐘がこっそり宝玉の背中をつんつんと指(ゆび)で突(つ)き、ささやく。

「もう一日(いちにち)ここにとどまれるよう、二の奶奶(わかおくさま)にお願いしてくれませんか?」


 熙鳳は宝玉からの願(ねが)いを聞いてしばし考えこんだ。

 葬儀(そうぎ)のほとんどが片付(かたづ)いたとはいえ、手配(てはい)が済(す)んでいないものがある。また、さらに一日滞在(いちにちたいざい)すれば賈珍に対(たい)する義理(ぎり)も果(は)たせる、これが第一(だいいち)。

 第二に浄虚(じょうきょ)の件(けん)も済(す)ませることができる。

 第三に宝玉の望(のぞ)みをかなえることができる。賈母(おばあさま)はきっと喜(よろこ)ぶだろう。

 ここまで考えて、宝玉に言った。

「私の用事(ようじ)はもう済(す)んでいるのよ。でも、あなたはここで遊(あそ)びたいんでしょう?」

 熙鳳はため息(いき)をついた。

「いいわ。もう一日だけ骨(ほね)を折(お)ってあげましょう。でもきっと明日は帰(かえ)るのよ」

 宝玉はそれを聞くと、姐姐(おねえさま)、姐姐(おねえさま)と嬉(うれ)しそうに連呼(れんこ)し、

「うん、一日でいいんだ。明日はきっと帰るよ」

 こうして饅頭庵(まんとうあん)へもう一日逗留(いちにちとうりゅう)することになったのだった。


 熙鳳は密かに来旺を呼(よ)び、昨夜(さくや)の浄虚の一件(いっけん)を伝え、耳打(みみう)ちした。

「岳安(がくあん)は知っているわね。あの人ほど流麗(りゅうれい)に文(ふみ)を仕上(しあ)げる人はいないわ」

 来旺は城内(じょうない)に戻(もど)ると、岳安のもとを訪(おとず)れ、賈璉からの言いつけと偽(いつわ)って文(ふみ)を書かせた。来旺はそのまま夜(よ)を徹(てっ)して長安(ちょうあん)へと向(む)かった。

節度使(せつどし)の雲光は賈家から厚(あつ)い恩義(おんぎ)を受けていたから、この程度(ていど)の頼(たの)みを断(ことわ)るはずがない。長安(ちょうあん)までは百里ほどの道のりであったから、二日のうちにはすべて話がついてしまった。


「ここなら大丈夫(だいじょうぶ)よ」

 智能は声を低(ひく)くして言った。そこは饅頭庵の脇(わき)にある物置(ものおき)だった。梁(はり)には蜘蛛(くも)の巣(す)がかかり、箒(ほうき)や農具(のうぐ)は土埃(つちぼこり)で覆(おお)われていた。朽ちかけた壁からは隙間風(すきまかぜ)が吹(ふ)きこんでくる。

「炕(こう)もないのか……」

 秦鐘はぼやいたが、智能に睨(にら)まれて口(くち)をつぐんだ。

「雪(ゆき)だわ」

 智能は言った。破(や)れた天井(てんじょう)からはらはらと雪(ゆき)が舞(ま)い降(お)りてきた。


「三日後に栄府に来(く)るようにね」

 饅頭庵(まんとうあん)を去(さ)ろうと門前(もんぜん)にたどり着(つ)いたころ、熙鳳が言った。

「姐姐(おねえさま)、何のこと?」

 宝玉が尋(たず)ねる。

「あんたは知らなくていいの」

 熙鳳がぴしゃりと言った。

「さあ、急(いそ)いで。鉄檻寺(てっかんじ)へ戻(もど)るわよ」

 三人を乗せた車はゆっくりと動(うご)き出す。浄虚はそれが消(き)えてしまうまで見送(みお)っていたが、やがて智善とともに寺へと戻(もど)っていった。

 智能は一人、はるかまで延(の)びゆく車の轍(わだち)をそっとなぞっていた。

 浄虚が智能を呼(よ)ぶ声(こえ)が聞こえた。


「あら?」

 鉄檻寺(てっかんじ)に戻(もど)った熙鳳は二人の丫頭(むすめ)を見留(みと)めて言った。

「あんたたちは寧府に帰(かえ)らないの?」

 丫頭(むすめ)たちは苦笑(くしょう)する。

「できればそうしたいのですが、宝珠が……、いえ、姑娘(おじょうさま)がどうしても戻(もど)らないとおっしゃるものですから。老爺(だんな)さまに言いつけられて私たちも残(のこ)っているのです」

「ふうん」

 王熙鳳は言った。

「殊勝(しゅしょう)な心(こころ)がけだこと」

 鉄檻寺(てっかんじ)の冷(つめ)たい房(へや)に宝珠は棺(ひつぎ)と向(む)かい合っていた。たどたどしい念仏(ねんぶつ)が白(しろ)い息(いき)とともに漏(も)れる。新(あたら)しい夜(よる)が近(ちか)づいていた。


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