第十五回 20
その晩は何事もなく過ぎた。
灰のように降りた霜が解け始める朝ぼらけ、賈母と王夫人が宝玉の様子を見るために遣いがやってきた。
「今日はいっそう寒いので二枚余計に羽織るように、との仰せでした。それから用がないのなら早く帰ってくるように、と」
宝玉は唇を噛んだ。
秦鐘がこっそり宝玉の背中をつんつんと指で突き、ささやく。
「もう一日ここにとどまれるよう、二の奶奶にお願いしてくれませんか?」
熙鳳は宝玉からの願いを聞いてしばし考えこんだ。
葬儀のほとんどが片付いたとはいえ、手配が済んでいないものがある。また、さらに一日滞在すれば賈珍に対する義理も果たせる、これが第一。
第二に浄虚の件も済ませることができる。
第三に宝玉の望みをかなえることができる。賈母はきっと喜ぶだろう。
ここまで考えて、宝玉に言った。
「私の用事はもう済んでいるのよ。でも、あなたはここで遊びたいんでしょう?」
熙鳳はため息をついた。
「いいわ。もう一日だけ骨を折ってあげましょう。でもきっと明日は帰るのよ」
宝玉はそれを聞くと、姐姐、姐姐と嬉しそうに連呼し、
「うん、一日でいいんだ。明日はきっと帰るよ」
こうして饅頭庵へもう一日逗留することになったのだった。
熙鳳は密かに来旺を呼び、昨夜の浄虚の一件を伝え、耳打ちした。
「岳安は知っているわね。あの人ほど流麗に文を仕上げる人はいないわ」
来旺は城内に戻ると、岳安のもとを訪れ、賈璉からの言いつけと偽って文を書かせた。来旺はそのまま夜を徹して長安へと向かった。
節度使の雲光は賈家から厚い恩義を受けていたから、この程度の頼みを断るはずがない。長安までは百里ほどの道のりであったから、二日のうちにはすべて話がついてしまった。
「ここなら大丈夫よ」
智能は声を低くして言った。そこは饅頭庵の脇にある物置だった。梁には蜘蛛の巣がかかり、箒や農具は土埃で覆われていた。朽ちかけた壁からは隙間風が吹きこんでくる。
「炕もないのか……」
秦鐘はぼやいたが、智能に睨まれて口をつぐんだ。
「雪だわ」
智能は言った。破れた天井からはらはらと雪が舞い降りてきた。
「三日後に栄府に来るようにね」
饅頭庵を去ろうと門前にたどり着いたころ、熙鳳が言った。
「姐姐、何のこと?」
宝玉が尋ねる。
「あんたは知らなくていいの」
熙鳳がぴしゃりと言った。
「さあ、急いで。鉄檻寺へ戻るわよ」
三人を乗せた車はゆっくりと動き出す。浄虚はそれが消えてしまうまで見送っていたが、やがて智善とともに寺へと戻っていった。
智能は一人、はるかまで延びゆく車の轍をそっとなぞっていた。
浄虚が智能を呼ぶ声が聞こえた。
「あら?」
鉄檻寺に戻った熙鳳は二人の丫頭を見留めて言った。
「あんたたちは寧府に帰らないの?」
丫頭たちは苦笑する。
「できればそうしたいのですが、宝珠が……、いえ、姑娘がどうしても戻らないとおっしゃるものですから。老爺さまに言いつけられて私たちも残っているのです」
「ふうん」
王熙鳳は言った。
「殊勝な心がけだこと」
鉄檻寺の冷たい房に宝珠は棺と向かい合っていた。たどたどしい念仏が白い息とともに漏れる。新しい夜が近づいていた。




