第十五回 9
鉄檻寺は寧国公、栄国公の始祖二名が建立した寺であった。鉄檻寺という名もかの高僧に命名してもらったものであり、門にその名を記した扁額が掲げられていた。
また二里ほど南にいったところには、広大な田地があり、それは鉄檻寺の香火を絶やさぬようにするための寄進田であった。寄進田は鉄檻寺を維持するに足る利を産んでいた。それがために今なお賈家の祭祀を絶やすことがなかったのである。
不幸にも都の一族が亡くなった折には、今回の秦氏のように鉄檻寺に霊柩を安置できるようになっていた。
さらになだらかな丘をのぼれば陰宅があり、始祖の墓をはじめ、累代の墓所が広がっていた。少し麓へ下れば親類一同が宿泊しても困らぬほどの陽宅が設けられていた。
ところが今では親族も数多となり、貧富の差も大きい。人柄もさまざまである。
寧栄の始祖が建立したばかりのころには陽宅もまだ新しく、賈家の人々も功成り名遂げて富貴となったこともあって、たとい方丈の仮住まいであっても、何の不平も漏らす者もいなかった。
家運が苦しく、それでも身の程をしって慎ましく暮らす者は今なおこの寺の陽宅に宿をとっている。
だが、風雪にさらされ真新しかった陽宅も古びてしまっている。富貴に慣れ、体面を重んじ、財や権勢のある者たちは、近くの村里や尼寺などに別の宿をさがし、葬儀が終わったあとの宴席や休息の場とした。
このありさまを見て、栄国公や寧国公の在りし日を知る賈家の長老はこう嘆息したという。
「『源の遠ければ水すなわち濁り、枝の繁れば果はすなわち稀なり』というが、まさにこのこと」




