補・紅楼夢の文体論
紅楼夢の文体は乾いている、と私は感じている。だが、それはハードボイルドの文体における乾きとは違う。
自然主義文学における学術論文のような乾き、あるいは私小説の書き手が、自らの内部にあるものをあらかた書き尽くし、一滴の水も出なくなったときの文体に似ている。ここで言う乾きとは、地の文から詩情が消えてゆき(これは物語そのものの詩情が失われることを意味しない)、単に意味を伝えるだけの機能に収束することである。
総じて主観重視よりも客観に寄ったときにこのような文体はあらわれやすい。紅楼夢の読みづらさの一端もそこにあると思われる。
だが、私が真に言いたいのは紅楼夢の文体の乾きそのものではなくて、地の文の乾きと会話文の豊かさが両立し、一貫して一定の平仄を保ち、揺るいでいないことである。
これは一人の人間が書き継いでいることを示唆しているが、一方でこれほどの人間の心理と、筋書きを矛盾なく書き上げていることは驚嘆に値する。そのため、紅楼夢には共著者がいる気もするけれども、共著者が主著者の意図をすべて汲めるとも思いづらい。ここはまだ留保が必要な部分である。
いずれにしても、紅楼夢の文体の乾きは逆説的に登場人物たちの会話を豊かにすることに成功している。また前述したように改稿の過程で紅楼夢が多義的になっていったために、情報を圧縮する必要に迫られ、おのずと文体における主観・情も排除しなければならなかった。
そのため読む側としては自らによってその硬質な文体を融解していかなければならない。どのように、ということはまだ霧のなかである。この文章にも結論はない。




