第十三回
原作における第十三回の冒頭は王熙鳳と平児の主従の場面から始まる。熙鳳は賈璉から離れたことで、ぼうっとした状態になり、編み物に興じるばかりだ。
熙鳳は一人寝をすることができず、平児とともに同衾する。肉体的にも、精神的にも彼女は秦氏との“情”から離れている。
ある人を忘れたとき、その人に死がおとずれるという物語上の約束にもとづいた流れで、進行していく。描かれていないが、黛玉のことで頭がいっぱいになっている宝玉もやはり同様である。だが、秦氏の死への反応についてはそれぞれ異なっている。
王熙鳳は夢(か幻)を見る。秦氏は賈府のこれからを案じ、これから為すべき方策とこれからの暗示を詩にのせて伝える。ここは幻が現を乗り越え、約を果たそうとする“侠”の世界が描かれている。雨月物語における菊花の約、およびその翻案元である「范巨卿雞黍死生交」を思い出させるが、“侠”の精神を女性で体現したところは、今の時代においても新しい。宝玉は吐血するばかりだ。
ここは暗に秦氏と黛玉の対比が行われている。情に対して、何かを与えようとする秦氏。何も返そうとしない黛玉。どちらが正しいかではない。そこにはただ野ざらしの人間関係があるだけだ。
宝玉に秦氏が何も返さなかったのは彼の情が真情ではないからだと思われる。彼の情はあくまで天界の秦可卿にむけられているから。
だが宝玉の情が濁っているかといえばそうではなく、仮であろうが幻であろうが情を尽くそうとする宝玉の姿もまた美しい。
それに対して寧府は惨憺たるありさまで賈敬は秦氏の葬儀に出席しようとせず、賈珍は葬儀を盛大に執り行おうと固執する。そのために賈蓉の官位をあげようとするが、その過程で賈敬が進士を通過し官吏となっていたことが判明する。名門の出ながら、科挙を受け正当な官を得た賈敬に対して、賈珍、賈蓉は売官である。
さらに侍女である瑞珠は自殺し、小侍女、宝珠は秦氏の義女となろうとする。彼女たちが秦氏の業のためにそれぞれの行動をとったとし、秦氏の死の原因がそこにあったとすれば、その業は一つだとは思えない。なぜなら寧府の人々は賈珍と秦氏の不義を承知していた。それならもう一つ別の業があると考える方が自然である。
賈珍との不義に対応するのが瑞珠の死だとすれば、宝珠の娘になるというものに対応する業とは何か。それを私は秦業との近親相姦だと考え、そう翻案した。秦氏が美しいのは分かる。だが、その弟である秦鐘は血がつながっていないはずなのに美しい。その因果を私は秦鐘が秦氏の実子だからと考えた。脂評を参照すると、秦業はすなわち“情”の業であり、それを密通だとすれば秦鐘実子説ともつながる。また秦鐘を産んだはずの秦鐘の後妻の情報も本文中には出てこない。
だが、それでもその双方の業とも過去のものであり秦氏の死の原因としては納得しかねた。秦氏が死を選ぶほどの理由、それは賈蓉との関係にあるとしか思えなかった。それならば、なぜ彼女たちの関係は破綻したのか。先述したように秦氏は「与える人」である。それを最愛の人に与えることができなかったとき、彼女の存在理由も失われる。
だが、賈蓉もまた情に飢えていた。何よりも秦氏からの情に飢えていた。彼が秦氏に要求していたのは黛玉のような対価を与えない情だったのだろう。彼らはお互いがお互いを思いながら、その思いはあくまですれ違ったのだ、そう想定し、私は本文の通り翻案した。
またこの秦氏と賈蓉の関係は、情を広く与えようとする者と、その外で自分だけを見てほしいと願う者という点で、そのまま宝玉と黛玉の裏写しでもある。すなわち宝玉たちの悲劇を予兆し、かつそれをどう乗り越えていくかという新たなテーゼでもあるということだ。
原文のとおり秦氏の死を描かないこともできたし、源氏物語における「夢の浮橋」のように、描かないことが古典マナーのような気もするが、やはり多少無理が出てもこの場面は書きたかった。書かないことで逃げたくもなかった。多少婉曲ながらそれを書いたことに一抹の後悔もない。
最後にしばしば論争になる秦氏の死の季節の齟齬について語っておこう。第十二回において賈璉と黛玉が揚州に出発したのは「冬の末」とされており、秦氏の死はその数日後~ひと月くらいの範囲であるはずだが、実際に第十三回で亡くなったとされるのは九月である。
整理すると、脂評において秦氏のモデルと目される人物がなくなったのは春の末から初夏にかけてとされている。これは現実である。だが、その現実をそのまま記述してしまえば、やがて賈府に起こる「慶事」を秋から冬にかけて描かなければならなくなる。物語の平仄をあわせるためには、「慶事」を春にしなければ齟齬がでる。それを避けるための措置であろうし、この一連の出来事は当時でも相当の醜聞だったらしいから、あくまで虚構である、との弁明でもあろう。
この作者を甘くみてはいけない。「紅楼夢」と格闘しようとすれば、現代の優越性を語ってはいけない。これからもこの作者は古今随一の書き手だと心して翻案に取り組んでいく。
翻案の冒頭には五常における“信”のエピソードをおいた。他の四つに比べて関係性に重きがおかれたもので、第十三回が“情”偏重のため、最初にガツンと論理を置いたが、あまり深く考えず読み飛ばしていただければいい。賈蓉の孤独をそれとなく感じていただければそれで十分だ。
さて、十三回(実質十回)を通じて栄府の写しともいうべき寧府の惨状については示された。ここからは宝玉へ、黛玉へ、熙鳳へ、その他の人々へとバトンが渡されていくことになる。




