第十二回
第十二回冒頭の王熙鳳と賈瑞の会話は、真は仮、仮は真を体現する、演技と真情の揺れるぬらりとした場が繰り広げられる。
賈瑞を肉欲へといざなったのは王熙鳳の行動がそうさせた部分もあることは否めない。だが、「紅楼夢」には珍しいことに賈瑞にはほとんど擁護の筆が見られない。賈瑞側の心境が見えにくかったため、翻案では賈瑞の側に推何なる侍女を置き、一隅を照らすこととした。
だが、わずかに作者の、賈瑞を惜しむ思いが顕れているところがあって、それが賈瑞の先述の王熙鳳との邂逅の言葉であり、ずっと後に賈蓉が賈瑞に言及する場面でも賈瑞に寄り添おうとする姿勢は見られる。
また、一度目に賈瑞が王熙鳳に夜這いしようして、帰りが遅いと賈代儒に罰せられる箇所では「老学儒などに分かるはずがない」と賈代儒を貶めるかたちで賈瑞を擁護している。
紅楼夢のタイトルの一つ、風月宝鑑もここで登場しているが、「見てはならない」という物語の約束を提示しながら、鏡に映った熙鳳を“にせもの”と断ずるのはたやすい。だが、「真は仮、仮は真」の紅楼夢世界を思えば実は鏡の中の熙鳳こそ、熙鳳の本質を示しているのではないか。
私が本回において、原文中、気になったことは二つだ。まず一つ目は、賈蓉はなぜ王熙鳳に協力して賈瑞を誅したのかということだ。
考えるに賈蓉は秦氏の不義について悶々としていたのだろう。それは賈蓉が賈瑞のなされるままとなり、「秦氏と同じく」汚されることからも察せられる。だが、その相手が父であるだけに罰することもできず、大っぴらに怒ることもできず、その罰の代理として賈瑞を選んだ。王熙鳳はそんな賈蓉の心情につけこんだのだろう。いや、むしろ王熙鳳も賈璉のふるまいに賈蓉と気持ちを同じくしていたのかもしれない。だが、賈蓉は後日、賈瑞の真情を知り、賈珍と賈瑞とはその罪が重ならないことに気づいたのか、彼の賈瑞や王熙鳳に対する心情も反転していくことになる。
もう一つ気になったところは、王熙鳳は賈璉と、宝玉は黛玉と物語から離されることだ。“情”からの離別は熙鳳に理の抑制を失わせ、宝玉の情は奔流のようにむやみにほとばしってしまう。ここは原文では末尾におかれ、賈瑞の淫蕩、そしてその死から切り離し、その純粋性を確保している。
第十二回は「情」の暴走がどういう結果を招くか、そしてそれは破滅に向かうことが示された。読者は賈瑞を冷ややかな目で見ていくが、最後に黛玉、そして賈璉との離別が描かれ、他人事と思っていた情の喪失が誰にでも起こりうることだと突きつけられる。第十三回はこれらの流れを踏まえ“情”の崩壊のありさまが叙述されることになる。




