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紅楼夢  作者: 翡翠
翻案意図(第一回~第十三回)
262/349

第八回

 第八回は第十三回までのうち、私が一番好(いちばんす)きな回である。私は「紅楼夢」自体(じたい)を「“情(じょう)”の紅楼夢」だとはまったく思わないが、この回はまさに「“情(じょう)”の紅楼夢」の面目躍如(めんもくやくじょ)であり、宝玉も、黛玉も、宝釵も李ばあやも、そして花襲人も情(じょう)がだだ洩(も)れの、それぞれのみっともなさをさらけ出していて、そのみっともなさが言葉(ことば)に尽(つ)くせぬほど愛(あい)くるしい。

さて、翻案(ほんあん)の冒頭(ぼうとう)は李ばあやの場面から始(はじ)めた。宝玉(ほうぎょく)の乳母(めのと)であるためには、李貴を産んだあと、乳母(うば)となったか、その次の子を産んで乳母(うば)となったか、どちらかであろうと考えた。

 同じ乳母(うば)となるにも二つの悲しみがあって、前者(ぜんしゃ)を選(えら)べば実子(じっし)から離(はな)され、子を奪(うば)われる悲(かな)しみ、後者(こうしゃ)を選(えら)べば子を亡(な)くした悲しみが生まれることとなる。なぜなら李ばあやの次子(じし)には言及(げんきゅう)がないため、後者の場合、子は死亡(しぼう)している可能性(かのうせい)が高い。

李ばあやの宝玉に対する執着(しゅうちゃく)から、後者(こうしゃ)を採(と)る選択(せんたく)をしたが、これは今でも間違(まちが)っていなかったと思う。


 原文(げんぶん)の冒頭(ぼうとう)では宝玉が賈母(おばあさま)に秦鐘と自分の義塾(ぎじゅく)入りを談判(だんぱん)するところから始まる。ここまで熱意(ねつい)をもって語る宝玉は珍(めずら)しいが、王熙鳳の策略(さくりゃく)が介在(かいざい)し、前回の評(ひょう)で述(の)べたとおり、そもそも宝玉と秦鐘の関係性(かんけいせい)がいびつなため、それを真情(しんじょう)とは言い難(がた)い。

 そしてこの間の挿話(そうわ)が秀逸(しゅういつ)で、宝玉に阿諛追従(あゆついしょう)を述(の)べる輩(やから)が次々とあらわれ、後の真情(しんじょう)の場面(ばめん)と対照(たいしょう)になっている。

 次の薛のおばさまの場面(ばめん)は、彼女のおっちょこちょいさが合間(あいま)、合間(あいま)に見える。薛のおばさまの宝玉への“情(じょう)”はあくまで甥(おい)に対しての愛情(あいじょう)で、宝玉の幼いころのイメージを引きずっており、赤(あか)ん坊扱(ぼうあつか)いしている。また宝玉の質問(しつもん)にもきちんと答(こた)えられていない。

 ここで宝釵が「拙(つたな)きを守(まも)る」女性(じょせい)」であることが示(しめ)される。が、その後の宝釵はおよそその印象(いんしょう)からは遠(とお)い。“宝玉”を見せてもらう名目(めいもく)で賈宝玉へと近づき、鶯児(おうじ)を「お茶を持ってくるように」命(めい)じて宝玉と二人っきりになろうとし、それが叶(かな)わないと鶯児にあたってみせる。

 原文(げんぶん)ではあまり明示(めいじ)されないが、この場面(ばめん)に代表(だいひょう)されるような宝釵の愛(あい)くるしさ、いじらしさというものはあまり評価(ひょうか)されてきていない。これが作者の深(ふか)い意図(いと)によるものだというのは分かるのだけれど、黛玉に引き比(くら)べて「地味(じみ)で真面目(まじめ)で堅物(かたぶつ)な子」と貶(おとし)めたり、黛玉を上げるために使われられがちだが、彼女にも代えがたい魅力(みりょく)があることを強調(きょうちょう)していきたい。

 ここまでを読みこんだうえで、黛玉の次の場面(ばめん)の嫉妬(しっと)は鑑賞(かんしょう)した方が面白い。黛玉が宝釵の宝玉に対する好意(こうい)を知ったうえで、いわれのない文句(もんく)をつけていると思った方が黛玉ファンであっても深く読めるだろう。

 このときは黛玉も対等(たいとう)に張(は)り合(あ)おうとする。宝釵なら十分追いつけると思っているからだ。だがここで思わぬ強敵(きょうてき)が登場(とうじょう)するのだった。

 それは李ばあやで、李ばあやは宝玉が酒を飲(の)むことを咎(とが)める。これはやはり母親(ははおや)としての真情(しんじょう)であって、薛のおばさまが甘やかすのはあくまで甥(おい)っ子としての仮情(かじょう)であるが、薛のおばさまの方が明(あき)らかに立場(たちば)が上のため、李ばあやの真情(しんじょう)は退(しりぞ)けられることとなる。

 ここで宝釵が、「冷(つめ)たいお酒(さけ)はだめよ」と本質的(ほんしつてき)ではない忠告(ちゅうこく)をするのだが、宝玉は素直(すなお)に従(したが)う。それは俗(ぞく)な言い方をすればその言(げん)が芯(しん)を食っていないからである。

 だからこそ、黛玉が「宝釵の話なら言うことを聞く」などと、わがままを言う余地(よち)が残(のこ)されている。だが、李ばあやにはその隙(すき)すらないため、「老(お)いぼれ」などとおよそ理知(りち)からは遠(とお)い、悪口(あっこう)しか出てこないのだ。

 宝玉は李ばあやのことを本当の母親(ははおや)、王夫人よりも母親(ははおや)らしく思っているからこそ、本気で喧嘩(けんか)をできるのだろう。だからこそ「あいつさえいなければ」とまで言うのである。

 黛玉と襲人はお互いにお互(たが)いを意識(いしき)しつつ、両天秤(りょうてんびん)にかけようとする宝玉の気を惹(ひ)こうとし、黛玉にいたっては何も言わず帰ってしまう。

 だが、やはり宝玉が本当に甘(あま)えられるのは李ばあやであって、だからこそ楓露茶(ふうろちゃ)を勝手(かって)に飲(の)まれたとき、怒髪天(どはつてん)をつくように怒(いか)ったのである。これには直前(ちょくぜん)の伏線(ふくせん)があって、李ばあやが「孫に持って帰(かえ)る」と言い、「息子(むすこ)」であるはずの宝玉の感情(かんじょう)を触発(しょくはつ)したからだ。

 ここの李ばあやのいじらしさも素晴(すば)らしい。酒(さけ)を戒(いまし)めるために酒ではなく茶(ちゃ)を所望(しょもう)し、それで耐(た)えてみせる。

 そしてそれに対する茜雪(せんせつ)の対応(たいおう)も見事(みごと)であって、躊躇(ちゅうちょ)なく、李ばあやに茶を捧(ささ)げ持ち、宝玉に茶をかけられることも厭(いと)わない。

 なお、ここでの脂評(しひょう)は、乳母(うば)とは総(そう)じて愚(おろ)かなものだ。となっており、私が脂評(しひょう)を全面的(ぜんめんてき)には信(しん)じられない根拠(こんきょ)となっている。

 宝玉が「李ばあやを追(お)い出す」とわめいて、襲人がなだめるが、襲人の言葉は空疎(くうそ)なものであって、本質(ほんしつ)を突(つ)いていない。だから宝玉は眠(ねむ)り込んでもぶつくさと文句(もんく)を言い続けるのである。

 ここで通霊宝玉(つうれいほうぎょく)を懐(ふところ)に入れるのが襲人のいやらしいところで、最後(さいご)に宝玉を独占(どくせん)するのは私だ、という意志(いし)を感じる。ただ、このいやらしさも襲人の人間らしさであり、私はかえって好ましく感じた。

 なお、宝玉の李ばあやに対する呼称(こしょう)は妈妈(マーマ)であって現代中国語の「ママ」とか「お母さん」にあたる。もともと、「おばさん」だったこの呼称(こしょう)が「ママ」へと変質(へんしつ)しはじめたのがこのころらしい。作者がどこまでこの一致(いっち)を意識(いしき)したか分からないが、私が宝玉と李ばあやの関係性に気づいたのは、まずここだったことを付け加えておきたい。

 本回の末尾(まつび)に置かれるのは秦業(しんぎょう)で、彼は私の翻案(ほんあん)を抜きにしても、秦可卿とその兄を孤児院(こじいん)から拾(ひろ)ってきたり、五十を過ぎたときに生まれた秦鐘の母が誰か分からないなど怪(あや)しい人物である。脂評(しひょう)にも、秦業の名の由来(ゆらい)は、「情(じょう)」と「因業(いんごう)」との指摘(してき)があり、秦業・秦鐘の親子を末尾(まつび)においたことで、続く第九回が「仮情(かじょう)」の物語であることを予告(よこく)している。

 第七回が建前(たてまえ)に覆(おお)われた情(じょう)だったとすれば、第八回はむきだしの情であり、そこから義塾(ぎじゅく)における仮情(かじょう)へとゆるやかにつながっていく。


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