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紅楼夢  作者: 翡翠
翻案意図(第一回~第十三回)
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第七回

 第七回の冒頭(ぼうとう)には第六回の末尾(まつび)からつなげるために焦大をおいた。焦大のやるせなさ、やりきれなさの理由(りゆう)が希薄(きはく)に思えたので、それを補強(ほきょう)したかったためである。

 原文(げんぶん)に戻(もど)ろう。作者はここで俗(ぞく)の象徴(しょうちょう)である周のおかみを持ってくるのだが、そこで彼女と邂逅(かいこう)するのが、香菱(こうりょう)である。香菱は俗(ぞく)とは切(き)り離(はな)された存在(そんざい)であり周のおかみと静かな物語上(ものがたりじょう)の対立構造(たいりつこうぞう)を形成(けいせい)している。

ここで俗(ぞく)からいったん物語(ものがたり)を切(き)り離(はな)し、満(まん)を持(じ)して登場(とうじょう)してくるのが薛宝釵だ。

 作者は初(はじ)めに宝釵の理(り)の面を強調(きょうちょう)する。宝釵は周のおかみにもうやうやしく接(せっ)し、「服薬(ふくやく)が必要(ひつよう)」という黛玉との共通項(きょうつうこう)を出しておきながら、返(かえ)す刀(かたな)で釵(かんざし)や服装(ふくそう)などに無頓着(むとんちゃく)なさばさばした側面(そくめん)を見せる。

 その流れから周のおかみは薛のおばさまに花かんざしを配(くば)るように頼(たの)むのだが、この薛のおばさまも相当変(そうとうか)わり者である。彼女が用意した花かんざしはセットになっているものとなっていないものがあり、そのために寧栄(ねいえい)に混乱をおこすもととなる。

 周のおかみは初めに三春(さんしゅん)のところに向かう。

 周のおかみが訪(たず)ねた際(さい)、迎春と探春は囲碁(いご)をしている。この二人と智能(尼(あま))と談笑(だんしょう)する惜春との対比(たいひ)が重要(じゅうよう)で現世(げんせ)に執着(しゅうちゃく)する二人、遁世(とんせい)を望(のぞ)む惜春を強調(きょうちょう)している。ただし、この智能は多分に俗(ぞく)っぽい人間であり、そのずれの加減(かげん)もうまい。これによって惜春の孤独(こどく)がなお引き立てられることとなる。

 そこから熙鳳のもとへ向かう途中(とちゅう)の屋根裏(やねうら)のような場所(ばしょ)に李紈(りがん)が住まい、三春と李紈が隔離(かくり)されていることが思われる。

熙鳳に花かんざしを渡(わた)そうとするときに賈璉の笑(わら)い声が聞こえるが、王熙鳳の声は聞こえない。この場面(ばめん)は性交渉(せいこうしょう)の暗示(あんじ)であることが後の描写(びょうしゃ)で分かるのだが、王熙鳳の声がないというのは、情(じょう)が足りないことを象徴(しょうちょう)しており、それは当該箇所(とうがいかしょ)の脂評(しひょう)でも指摘(してき)されている。

 ここで周のおかみは豊児に止められるのだが、「鳳ちゃんはお昼寝中(おひるねちゅう)なのね」というような皮肉(ひにく)を言う。だが、それは耳ざとく熙鳳の侍女である平児に聞かれていて、平児の有能(ゆうのう)さが分かる。が、ばらばらのかんざしが残(のこ)る不足に気づかない、およびそれを渡(わた)される人に思いを馳(は)せない平児の不足(ふそく)も同時(どうじ)に呈示(ていじ)するのが作者の人物造詣(じんぶつぞうけい)の深さである。

ここを去り、周のおかみは娘の下世話(げせわ)な願(ねが)いを聞くことになる。一見(いっけん)どうでもよい挿話(そうわ)のように思われるが、黛玉へのワンクッションとして機能(きのう)している。直接つなげれば性描写(せいびょうしゃ)の場面と直結(ちょっけつ)することになり、また周のおかみの娘(むすめ)の俗(ぞく)と黛玉の気高(けだか)さを対比(たいひ)させることができる。

 さて、今までの十三回でもっとも訳出が難しかったのは次の場面だった。黛玉の台詞(せりふ)、原文(げんぶん)は「我就知道,別人不挑剩下的,也不給我」であり、岩波訳では「分かってるわ。他の方が選び残したお余りでないと、わたしには回って来ないのよね」、私の訳は「もう分かったわ。不ぞろいのものを他の人たちは選(えら)ばない、それって私には何もやらないってことよね」直訳すれば「もちろん分かってる。他の人は余りなんて受け取らない、私になんてあげないわ」ただここで留意しなければならないのは黛玉が箱の中をのぞいて気づいた、ということ。

三春の花飾りは一対になっていた。王熙鳳は六本のなかから四本を選び二本を秦氏に送った。贈答用(ぞうとうよう)のものを不足(ふそく)のものにするはずがないと考えると、その四本も二対であったと考えられる。

 黛玉の本意としては、「不ぞろいのものを他の人たちは選ばない、(ということは他の方のものは対になっていたってことでしょ。私のものは対じゃないじゃない)それって私には何もやらないってことよね」と言うことだと思われる。補(おぎな)ってもよかったが黛玉の面倒(めんどう)くささを表現(ひょうげん)したかったため、のちに絶対(ぜったい)に言い訳(わか)のつかない季節(きせつ)の違う花かんざしという部分を補(おぎな)って、もとの台詞(せりふ)はあえて飛躍(ひやく)のあるかたちを残(のこ)した。

そこに追(お)い打(う)ちをかけるように宝玉が宝釵を見舞(みま)うように命(めい)じる。そこに手を挙(あ)げるのが茜雪である。この宝玉の行為(こうい)、言葉(ことば)には不義(ふぎ)があり、一に直接見舞(ちょくせつみま)わぬこと、二に義塾(ぎじゅく)に行くからと嘘(うそ)をついたこと。

 これは黛玉に宝釵に対して直接見舞(ちょくせつみま)わず、明らかな嘘(うそ)をつくことで阿(おもね)っている。が、宝玉がずるいのは、後(あと)で見舞(みま)いに参(まい)りますと後付(あとづ)けすることで、宝釵にもすり寄っていることだ。この二者とも頭の良い女性だから、当然(とうぜん)宝玉の思惑(おもわく)には気づく。

その折衝(せっしょう)をかってでたのが茜雪で、彼女は紅楼夢における情(じょう)の切(き)り札(ふだ)のような存在(そんざい)で、彼女が何をしたかということを補足(ほそく)する形で翻案(ほんあん)した。また、黛玉が第十三回まででもっとも傷ついたのはこの場面(ばめん)だと思い、原作では空白になっていた紫鵑改名のエピソードを挿入(そうにゅう)した。

 また賈蓉と王熙鳳の会合の場面(ばめん)は二人の不義(ふぎ)を暗示(あんじ)しているともとれるけれども、熙鳳の賈璉に対する態度(たいど)から、それは考えづらいと思い、熙鳳が賈珍の夜這(よば)いを警告(けいこく)し、焦大が賈蓉と熙鳳の不義(ふぎ)と早合点(はやがてん)したという解釈(かいしゃく)を用いた。

 もし私の読みがあたっていれば、茜雪→主(あるじ)の下心(したごころ)を読(よ)み当(あ)て、何事もなかったように処理(しょり)する(原文(げんぶん)に記載(きさい)がないのもその証左(しょうさ))。熙鳳→賈珍の狙(ねら)いを察知(さっち)するが賈珍の不貞(ふてい)を阻止(そし)できない、という微妙(びみょう)にずらした対比構造(たいひこうぞう)が成立(せいりつ)する。

 そのうえで宝玉と秦鐘の内心(ないしん)の描写(びょうしゃ)である。物語(ものがたり)において二者関係の二者の心象(しんしょう)を同時に叙述(じょじゅつ)するのは失敗(しっぱい)に終わることが多い。私はここで立ち止まり、この優(すぐ)れた作者がなぜこんな手法を用いたのかを考えた。ここの脂評(しひょう)にまた作者は読者を騙(だま)そうとしている! とある。

宝玉は、秦鐘を素晴(すば)らしい人物(じんぶつ)だと思い、秦鐘との身分の差を嘆(なげ)く。これは宝玉の真情(しんじょう)で間違(まちが)いない。

 だが、私は当該場面(とうがいばめん)の秦鐘のせりふ、「溺愛」を「ちやほや」と訳した。他訳(たやく)ではいずれも「溺愛(できあい)」とそのまま訳(やく)されていたが、前者では秦鐘が宝玉の上皮(じょうひ)しか見ていない、宝玉を羨(うらや)んでいることになり、後者は宝玉の内面(ないめん)まで考察(こうさつ)していることになる。入れ替(か)えて、せりふを見比(みくら)べてみてほしい。

 宝玉の気持ちは真情(しんじょう)であるが、秦鐘の本質(ほんしつ)を見抜(みぬ)いておらず、秦鐘は宝玉の上皮(じょうひ)(裕福(ゆうふく)な部分(ぶぶん))だけを見て、宝玉そのものを見ていない。宝玉のものは幻想(げんそう)であり、秦鐘のものは羨望(せんぼう)であり、共鳴(きょうめい)しているようで二人の感情(かんじょう)はずれている。

ここまでの貴族(きぞく)たちの戯(たわむ)れに、爆弾(ばくだん)を落とすのが焦大である。

賈珍と秦氏の不義(ふぎ)を指摘(してき)し、他の誰か(おそらくは賈蓉と王熙鳳の関係を誤認(ごにん))の不義(ふぎ)も指摘(してき)し、賈府の凋落(ちょうらく)を嘆(なげ)く。

彼が隔離(かくり)されるのは荘子(べったく)で、見て字のとおり老荘(ろうそう)のにおいが燻(いぶ)されている。彼が擬(ぎ)されているのは、狂接與(きょうせつよ)であって、風狂(ふうきょう)の立場から孔子(こうし)に警告(けいこく)を与える。我が国でいえば、一休禅師(いっきゅうぜんじ)あたりを想像すると分かりやすいかもしれない。

 第七回では、理(り)の支配(しはい)のもとで黛玉はその情(じょう)の欠落(けつらく)を突(つ)くも、力なく退(しりぞけ)けられ、見かけ上の規律(きりつ)を暴こうとした焦大の抵抗(ていこう)は排(はい)された。第八回ではそれに反発(はんぱつ)するようにそれぞれの情(じょう)のあり方が示される。


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