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紅楼夢  作者: 翡翠
翻案意図(第一回~第十三回)
257/259

第八回

 第八回は第十三回までのうち、私が一番好いちばんすきな回である。私は「紅楼夢」自体じたいを「“じょう”の紅楼夢」だとはまったく思わないが、この回はまさに「“じょう”の紅楼夢」の面目躍如めんもくやくじょであり、宝玉も、黛玉も、宝釵も李ばあやも、そして花襲人もじょうがだだれの、それぞれのみっともなさをさらけ出していて、そのみっともなさが言葉ことばくせぬほどあいくるしい。

さて、翻案ほんあん冒頭ぼうとうは李ばあやの場面からはじめた。宝玉ほうぎょく乳母めのとであるためには、李貴を産んだあと、乳母うばとなったか、その次の子を産んで乳母うばとなったか、どちらかであろうと考えた。

 同じ乳母うばとなるにも二つの悲しみがあって、前者ぜんしゃえらべば実子じっしからはなされ、子をうばわれるかなしみ、後者こうしゃえらべば子をくした悲しみが生まれることとなる。なぜなら李ばあやの次子じしには言及げんきゅうがないため、後者の場合、子は死亡しぼうしている可能性かのうせいが高い。

李ばあやの宝玉に対する執着しゅうちゃくから、後者こうしゃ選択せんたくをしたが、これは今でも間違まちがっていなかったと思う。


 原文げんぶん冒頭ぼうとうでは宝玉が賈母おばあさまに秦鐘と自分の義塾ぎじゅく入りを談判だんぱんするところから始まる。ここまで熱意ねついをもって語る宝玉はめずらしいが、王熙鳳の策略さくりゃく介在かいざいし、前回のひょうべたとおり、そもそも宝玉と秦鐘の関係性かんけいせいがいびつなため、それを真情しんじょうとは言いがたい。

 そしてこの間の挿話そうわ秀逸しゅういつで、宝玉に阿諛追従あゆついしょうべるやからが次々とあらわれ、後の真情しんじょう場面ばめん対照たいしょうになっている。

 次の薛のおばさまの場面ばめんは、彼女のおっちょこちょいさが合間あいま合間あいまに見える。薛のおばさまの宝玉への“じょう”はあくまでおいに対しての愛情あいじょうで、宝玉の幼いころのイメージを引きずっており、あか坊扱ぼうあつかいしている。また宝玉の質問しつもんにもきちんとこたえられていない。

 ここで宝釵が「つたなきをまもる」女性じょせい」であることがしめされる。が、その後の宝釵はおよそその印象いんしょうからはとおい。“宝玉”を見せてもらう名目めいもくで賈宝玉へと近づき、鶯児おうじを「お茶を持ってくるように」めいじて宝玉と二人っきりになろうとし、それがかなわないと鶯児にあたってみせる。

 原文げんぶんではあまり明示めいじされないが、この場面ばめん代表だいひょうされるような宝釵のあいくるしさ、いじらしさというものはあまり評価ひょうかされてきていない。これが作者のふか意図いとによるものだというのは分かるのだけれど、黛玉に引きくらべて「地味じみ真面目まじめ堅物かたぶつな子」とおとしめたり、黛玉を上げるために使われられがちだが、彼女にも代えがたい魅力みりょくがあることを強調きょうちょうしていきたい。

 ここまでを読みこんだうえで、黛玉の次の場面ばめん嫉妬しっと鑑賞かんしょうした方が面白い。黛玉が宝釵の宝玉に対する好意こういを知ったうえで、いわれのない文句もんくをつけていると思った方が黛玉ファンであっても深く読めるだろう。

 このときは黛玉も対等たいとうおうとする。宝釵なら十分追いつけると思っているからだ。だがここで思わぬ強敵きょうてき登場とうじょうするのだった。

 それは李ばあやで、李ばあやは宝玉が酒をむことをとがめる。これはやはり母親ははおやとしての真情しんじょうであって、薛のおばさまが甘やかすのはあくまでおいっ子としての仮情かじょうであるが、薛のおばさまの方があきらかに立場たちばが上のため、李ばあやの真情しんじょう退しりぞけられることとなる。

 ここで宝釵が、「つめたいおさけはだめよ」と本質的ほんしつてきではない忠告ちゅうこくをするのだが、宝玉は素直すなおしたがう。それはぞくな言い方をすればそのげんしんを食っていないからである。

 だからこそ、黛玉が「宝釵の話なら言うことを聞く」などと、わがままを言う余地よちのこされている。だが、李ばあやにはそのすきすらないため、「いぼれ」などとおよそ理知りちからはとおい、悪口あっこうしか出てこないのだ。

 宝玉は李ばあやのことを本当の母親ははおや、王夫人よりも母親ははおやらしく思っているからこそ、本気で喧嘩けんかをできるのだろう。だからこそ「あいつさえいなければ」とまで言うのである。

 黛玉と襲人はお互いにおたがいを意識いしきしつつ、両天秤りょうてんびんにかけようとする宝玉の気をこうとし、黛玉にいたっては何も言わず帰ってしまう。

 だが、やはり宝玉が本当にあまえられるのは李ばあやであって、だからこそ楓露茶ふうろちゃ勝手かってまれたとき、怒髪天どはつてんをつくようにいかったのである。これには直前ちょくぜん伏線ふくせんがあって、李ばあやが「孫に持ってかえる」と言い、「息子むすこ」であるはずの宝玉の感情かんじょう触発しょくはつしたからだ。

 ここの李ばあやのいじらしさも素晴すばらしい。さけいましめるために酒ではなくちゃ所望しょもうし、それでえてみせる。

 そしてそれに対する茜雪せんせつ対応たいおう見事みごとであって、躊躇ちゅうちょなく、李ばあやに茶をささげ持ち、宝玉に茶をかけられることもいとわない。

 なお、ここでの脂評しひょうは、乳母うばとはそうじておろかなものだ。となっており、私が脂評しひょう全面的ぜんめんてきにはしんじられない根拠こんきょとなっている。

 宝玉が「李ばあやをい出す」とわめいて、襲人がなだめるが、襲人の言葉は空疎くうそなものであって、本質ほんしついていない。だから宝玉はねむり込んでもぶつくさと文句もんくを言い続けるのである。

 ここで通霊宝玉つうれいほうぎょくふところに入れるのが襲人のいやらしいところで、最後さいごに宝玉を独占どくせんするのは私だ、という意志いしを感じる。ただ、このいやらしさも襲人の人間らしさであり、私はかえって好ましく感じた。

 なお、宝玉の李ばあやに対する呼称こしょう妈妈マーマであって現代中国語の「ママ」とか「お母さん」にあたる。もともと、「おばさん」だったこの呼称こしょうが「ママ」へと変質へんしつしはじめたのがこのころらしい。作者がどこまでこの一致いっち意識いしきしたか分からないが、私が宝玉と李ばあやの関係性に気づいたのは、まずここだったことを付け加えておきたい。

 本回の末尾まつびに置かれるのは秦業しんぎょうで、彼は私の翻案ほんあんを抜きにしても、秦可卿とその兄を孤児院こじいんからひろってきたり、五十を過ぎたときに生まれた秦鐘の母が誰か分からないなどあやしい人物である。脂評しひょうにも、秦業の名の由来ゆらいは、「じょう」と「因業いんごう」との指摘してきがあり、秦業・秦鐘の親子を末尾まつびにおいたことで、続く第九回が「仮情かじょう」の物語であることを予告よこくしている。

 第七回が建前たてまえおおわれたじょうだったとすれば、第八回はむきだしの情であり、そこから義塾ぎじゅくにおける仮情かじょうへとゆるやかにつながっていく。


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