第八回
第八回は第十三回までのうち、私が一番好きな回である。私は「紅楼夢」自体を「“情”の紅楼夢」だとはまったく思わないが、この回はまさに「“情”の紅楼夢」の面目躍如であり、宝玉も、黛玉も、宝釵も李ばあやも、そして花襲人も情がだだ洩れの、それぞれのみっともなさをさらけ出していて、そのみっともなさが言葉に尽くせぬほど愛くるしい。
さて、翻案の冒頭は李ばあやの場面から始めた。宝玉の乳母であるためには、李貴を産んだあと、乳母となったか、その次の子を産んで乳母となったか、どちらかであろうと考えた。
同じ乳母となるにも二つの悲しみがあって、前者を選べば実子から離され、子を奪われる悲しみ、後者を選べば子を亡くした悲しみが生まれることとなる。なぜなら李ばあやの次子には言及がないため、後者の場合、子は死亡している可能性が高い。
李ばあやの宝玉に対する執着から、後者を採る選択をしたが、これは今でも間違っていなかったと思う。
原文の冒頭では宝玉が賈母に秦鐘と自分の義塾入りを談判するところから始まる。ここまで熱意をもって語る宝玉は珍しいが、王熙鳳の策略が介在し、前回の評で述べたとおり、そもそも宝玉と秦鐘の関係性がいびつなため、それを真情とは言い難い。
そしてこの間の挿話が秀逸で、宝玉に阿諛追従を述べる輩が次々とあらわれ、後の真情の場面と対照になっている。
次の薛のおばさまの場面は、彼女のおっちょこちょいさが合間、合間に見える。薛のおばさまの宝玉への“情”はあくまで甥に対しての愛情で、宝玉の幼いころのイメージを引きずっており、赤ん坊扱いしている。また宝玉の質問にもきちんと答えられていない。
ここで宝釵が「拙きを守る」女性」であることが示される。が、その後の宝釵はおよそその印象からは遠い。“宝玉”を見せてもらう名目で賈宝玉へと近づき、鶯児を「お茶を持ってくるように」命じて宝玉と二人っきりになろうとし、それが叶わないと鶯児にあたってみせる。
原文ではあまり明示されないが、この場面に代表されるような宝釵の愛くるしさ、いじらしさというものはあまり評価されてきていない。これが作者の深い意図によるものだというのは分かるのだけれど、黛玉に引き比べて「地味で真面目で堅物な子」と貶めたり、黛玉を上げるために使われられがちだが、彼女にも代えがたい魅力があることを強調していきたい。
ここまでを読みこんだうえで、黛玉の次の場面の嫉妬は鑑賞した方が面白い。黛玉が宝釵の宝玉に対する好意を知ったうえで、いわれのない文句をつけていると思った方が黛玉ファンであっても深く読めるだろう。
このときは黛玉も対等に張り合おうとする。宝釵なら十分追いつけると思っているからだ。だがここで思わぬ強敵が登場するのだった。
それは李ばあやで、李ばあやは宝玉が酒を飲むことを咎める。これはやはり母親としての真情であって、薛のおばさまが甘やかすのはあくまで甥っ子としての仮情であるが、薛のおばさまの方が明らかに立場が上のため、李ばあやの真情は退けられることとなる。
ここで宝釵が、「冷たいお酒はだめよ」と本質的ではない忠告をするのだが、宝玉は素直に従う。それは俗な言い方をすればその言が芯を食っていないからである。
だからこそ、黛玉が「宝釵の話なら言うことを聞く」などと、わがままを言う余地が残されている。だが、李ばあやにはその隙すらないため、「老いぼれ」などとおよそ理知からは遠い、悪口しか出てこないのだ。
宝玉は李ばあやのことを本当の母親、王夫人よりも母親らしく思っているからこそ、本気で喧嘩をできるのだろう。だからこそ「あいつさえいなければ」とまで言うのである。
黛玉と襲人はお互いにお互いを意識しつつ、両天秤にかけようとする宝玉の気を惹こうとし、黛玉にいたっては何も言わず帰ってしまう。
だが、やはり宝玉が本当に甘えられるのは李ばあやであって、だからこそ楓露茶を勝手に飲まれたとき、怒髪天をつくように怒ったのである。これには直前の伏線があって、李ばあやが「孫に持って帰る」と言い、「息子」であるはずの宝玉の感情を触発したからだ。
ここの李ばあやのいじらしさも素晴らしい。酒を戒めるために酒ではなく茶を所望し、それで耐えてみせる。
そしてそれに対する茜雪の対応も見事であって、躊躇なく、李ばあやに茶を捧げ持ち、宝玉に茶をかけられることも厭わない。
なお、ここでの脂評は、乳母とは総じて愚かなものだ。となっており、私が脂評を全面的には信じられない根拠となっている。
宝玉が「李ばあやを追い出す」とわめいて、襲人がなだめるが、襲人の言葉は空疎なものであって、本質を突いていない。だから宝玉は眠り込んでもぶつくさと文句を言い続けるのである。
ここで通霊宝玉を懐に入れるのが襲人のいやらしいところで、最後に宝玉を独占するのは私だ、という意志を感じる。ただ、このいやらしさも襲人の人間らしさであり、私はかえって好ましく感じた。
なお、宝玉の李ばあやに対する呼称は妈妈であって現代中国語の「ママ」とか「お母さん」にあたる。もともと、「おばさん」だったこの呼称が「ママ」へと変質しはじめたのがこのころらしい。作者がどこまでこの一致を意識したか分からないが、私が宝玉と李ばあやの関係性に気づいたのは、まずここだったことを付け加えておきたい。
本回の末尾に置かれるのは秦業で、彼は私の翻案を抜きにしても、秦可卿とその兄を孤児院から拾ってきたり、五十を過ぎたときに生まれた秦鐘の母が誰か分からないなど怪しい人物である。脂評にも、秦業の名の由来は、「情」と「因業」との指摘があり、秦業・秦鐘の親子を末尾においたことで、続く第九回が「仮情」の物語であることを予告している。
第七回が建前に覆われた情だったとすれば、第八回はむきだしの情であり、そこから義塾における仮情へとゆるやかにつながっていく。




