第七回
第七回の冒頭には第六回の末尾からつなげるために焦大をおいた。焦大のやるせなさ、やりきれなさの理由が希薄に思えたので、それを補強したかったためである。
原文に戻ろう。作者はここで俗の象徴である周のおかみを持ってくるのだが、そこで彼女と邂逅するのが、香菱である。香菱は俗とは切り離された存在であり周のおかみと静かな物語上の対立構造を形成している。
ここで俗からいったん物語を切り離し、満を持して登場してくるのが薛宝釵だ。
作者は初めに宝釵の理の面を強調する。宝釵は周のおかみにもうやうやしく接し、「服薬が必要」という黛玉との共通項を出しておきながら、返す刀で釵や服装などに無頓着なさばさばした側面を見せる。
その流れから周のおかみは薛のおばさまに花かんざしを配るように頼むのだが、この薛のおばさまも相当変わり者である。彼女が用意した花かんざしはセットになっているものとなっていないものがあり、そのために寧栄に混乱をおこすもととなる。
周のおかみは初めに三春のところに向かう。
周のおかみが訪ねた際、迎春と探春は囲碁をしている。この二人と智能(尼)と談笑する惜春との対比が重要で現世に執着する二人、遁世を望む惜春を強調している。ただし、この智能は多分に俗っぽい人間であり、そのずれの加減もうまい。これによって惜春の孤独がなお引き立てられることとなる。
そこから熙鳳のもとへ向かう途中の屋根裏のような場所に李紈が住まい、三春と李紈が隔離されていることが思われる。
熙鳳に花かんざしを渡そうとするときに賈璉の笑い声が聞こえるが、王熙鳳の声は聞こえない。この場面は性交渉の暗示であることが後の描写で分かるのだが、王熙鳳の声がないというのは、情が足りないことを象徴しており、それは当該箇所の脂評でも指摘されている。
ここで周のおかみは豊児に止められるのだが、「鳳ちゃんはお昼寝中なのね」というような皮肉を言う。だが、それは耳ざとく熙鳳の侍女である平児に聞かれていて、平児の有能さが分かる。が、ばらばらのかんざしが残る不足に気づかない、およびそれを渡される人に思いを馳せない平児の不足も同時に呈示するのが作者の人物造詣の深さである。
ここを去り、周のおかみは娘の下世話な願いを聞くことになる。一見どうでもよい挿話のように思われるが、黛玉へのワンクッションとして機能している。直接つなげれば性描写の場面と直結することになり、また周のおかみの娘の俗と黛玉の気高さを対比させることができる。
さて、今までの十三回でもっとも訳出が難しかったのは次の場面だった。黛玉の台詞、原文は「我就知道,別人不挑剩下的,也不給我」であり、岩波訳では「分かってるわ。他の方が選び残したお余りでないと、わたしには回って来ないのよね」、私の訳は「もう分かったわ。不ぞろいのものを他の人たちは選ばない、それって私には何もやらないってことよね」直訳すれば「もちろん分かってる。他の人は余りなんて受け取らない、私になんてあげないわ」ただここで留意しなければならないのは黛玉が箱の中をのぞいて気づいた、ということ。
三春の花飾りは一対になっていた。王熙鳳は六本のなかから四本を選び二本を秦氏に送った。贈答用のものを不足のものにするはずがないと考えると、その四本も二対であったと考えられる。
黛玉の本意としては、「不ぞろいのものを他の人たちは選ばない、(ということは他の方のものは対になっていたってことでしょ。私のものは対じゃないじゃない)それって私には何もやらないってことよね」と言うことだと思われる。補ってもよかったが黛玉の面倒くささを表現したかったため、のちに絶対に言い訳のつかない季節の違う花かんざしという部分を補って、もとの台詞はあえて飛躍のあるかたちを残した。
そこに追い打ちをかけるように宝玉が宝釵を見舞うように命じる。そこに手を挙げるのが茜雪である。この宝玉の行為、言葉には不義があり、一に直接見舞わぬこと、二に義塾に行くからと嘘をついたこと。
これは黛玉に宝釵に対して直接見舞わず、明らかな嘘をつくことで阿っている。が、宝玉がずるいのは、後で見舞いに参りますと後付けすることで、宝釵にもすり寄っていることだ。この二者とも頭の良い女性だから、当然宝玉の思惑には気づく。
その折衝をかってでたのが茜雪で、彼女は紅楼夢における情の切り札のような存在で、彼女が何をしたかということを補足する形で翻案した。また、黛玉が第十三回まででもっとも傷ついたのはこの場面だと思い、原作では空白になっていた紫鵑改名のエピソードを挿入した。
また賈蓉と王熙鳳の会合の場面は二人の不義を暗示しているともとれるけれども、熙鳳の賈璉に対する態度から、それは考えづらいと思い、熙鳳が賈珍の夜這いを警告し、焦大が賈蓉と熙鳳の不義と早合点したという解釈を用いた。
もし私の読みがあたっていれば、茜雪→主の下心を読み当て、何事もなかったように処理する(原文に記載がないのもその証左)。熙鳳→賈珍の狙いを察知するが賈珍の不貞を阻止できない、という微妙にずらした対比構造が成立する。
そのうえで宝玉と秦鐘の内心の描写である。物語において二者関係の二者の心象を同時に叙述するのは失敗に終わることが多い。私はここで立ち止まり、この優れた作者がなぜこんな手法を用いたのかを考えた。ここの脂評にまた作者は読者を騙そうとしている! とある。
宝玉は、秦鐘を素晴らしい人物だと思い、秦鐘との身分の差を嘆く。これは宝玉の真情で間違いない。
だが、私は当該場面の秦鐘のせりふ、「溺愛」を「ちやほや」と訳した。他訳ではいずれも「溺愛」とそのまま訳されていたが、前者では秦鐘が宝玉の上皮しか見ていない、宝玉を羨んでいることになり、後者は宝玉の内面まで考察していることになる。入れ替えて、せりふを見比べてみてほしい。
宝玉の気持ちは真情であるが、秦鐘の本質を見抜いておらず、秦鐘は宝玉の上皮(裕福な部分)だけを見て、宝玉そのものを見ていない。宝玉のものは幻想であり、秦鐘のものは羨望であり、共鳴しているようで二人の感情はずれている。
ここまでの貴族たちの戯れに、爆弾を落とすのが焦大である。
賈珍と秦氏の不義を指摘し、他の誰か(おそらくは賈蓉と王熙鳳の関係を誤認)の不義も指摘し、賈府の凋落を嘆く。
彼が隔離されるのは荘子で、見て字のとおり老荘のにおいが燻されている。彼が擬されているのは、狂接與であって、風狂の立場から孔子に警告を与える。我が国でいえば、一休禅師あたりを想像すると分かりやすいかもしれない。
第七回では、理の支配のもとで黛玉はその情の欠落を突くも、力なく退けられ、見かけ上の規律を暴こうとした焦大の抵抗は排された。第八回ではそれに反発するようにそれぞれの情のあり方が示される。




