第五回
第五回は栄府、寧府の紅塵の場面と、太虚幻境の場面に分けられる。
1.栄府
まず着目してほしいのは、黛玉が賈母のお気に入りになったことだ。だが、本当に気にしないといけないのは、そのことそのものではなく、迎春、探春、惜春の三人が半ば排斥されたことである。
賈母には悪気がない。黛玉が身寄りのないことを憐れんで、身びいきをしたのだと思われる。
ただし、彼女たち三春の心情はいかばかりか推し量る必要はある。ことに、妾の子である探春はどう思ったことだろう。
賈母に気に入られるかどうかの差は非常に大きい。繰り返すが賈母に三春を排斥する意志はなかったはずだ。それでも“情”のもたらす負の部分はここで鮮明に描かれている。
ここにおいて薛宝釵が登場し、家中の人望をさらってゆく。黛玉においてはそれに対して多少の妬みはあったはずだが、それ以上に「家中の人々がこれほどまでに宝釵を慕っているのなら、宝玉はどう思っているだろう?」と思ったに違いない。
この宝玉と黛玉の間隙が宝玉を惑わせ、寧府でのできごと、そして太虚幻境へとつながっていく。
2.寧府
寧府の秦氏の居室へ向かう際、宝玉はばあやにたしなめられる。つまり、わずか十ばかりの身空でありながら、暗に不貞と見られる行為をしないようにと釘をさされたわけである。
さらに注視すべきは秦氏がそれを容易に受け入れてしまうことだ。これは貞操観念がないという単純な指摘ではなくて、あくまで秦氏は“情の人”だということだ。
また、秦氏の部屋にある調度はほぼ帝王を象徴している。これらがただの一豪族に過ぎない賈家にあることで彼女の高貴な出自が暗示されている。
3.太虚幻境
ここから夢へ、太虚幻境へと入っていくわけだが、ここで宝玉は「古今の情」、「風月の債」への興味を持ってしまう。
そのうえで宝玉は警幻仙姑に「意淫の人」という烙印を押されてしまうわけだが、ここでの意淫はそれほど悪い意味ではないと思われる。私の感じた限りでは、「男女に対する正にも負にも振れるプラトニックな情」と大づかみに捉えておけばいいだろう。
さて、ここに出てくる秦可卿の取り扱いだが、作者の幼いころに憧れた女性が反映されていると予測している。脂評によって秦氏にモデルがいたことはほぼ確実であり、幼きときの作者にとって、秦可卿のモデルとなった人物は理想の女性だったのだろう。だが、年月を経るにつれて秦可卿は変質し、史実をもとにしたであろう第十三回の悲劇へとつながってくる。秦可卿が秦氏の幼名であることがその証左であり、本文中にも“秦可卿”とはここと数か所にしか書かれていない。あとの表記は統一して“秦氏”である。
第五回で重要なものは判詞だろうが、物語の趨勢にかかわってくるため、ここでは詳述しない。ただ、この第五回の詩は物語全体を通じても白眉である。裏を返せば、その他の詩はいくつかをのぞいてそれほどいいとは思えない。ただし、これは文章を引き立てるためのエッセンスとして意図的に行っていると思われ、書き下しのみ行い、意味が必要となる詩以外は現代語訳していない。また、判詞は各人物の結末が決まり次第、再掲し訳することとした。
さて、第五回では紅楼夢の要素が出そろい、これからの結末が予言された。このまとまった状態をくつがえしていくのが第六回となる。




