第十一回 10
「宝珠、早くなさい!」
瑞珠は耳もとで小さく、そして強くささやいた。宝珠と瑞珠とは年かさこそほとんど変わらないものの、寧府での奉公の年季には雲泥の差がある。
瑞珠が自ら動かず、ただ宝珠をたしなめたのも、瑞珠の怠慢ではなくその年季の差のために、後から宝珠が叱責されることを恐れたためだったが、なおも宝珠は一歩も動かずにいた。 「この分からず屋!」
そう宝珠へ刺すように言って、瑞珠はお茶の支度へと向かった。
秦氏は熙鳳の手を握ったまま、強張った顔を笑みへと変える。
「私には福がないのです」
秦氏は漏らすようにつぶやいた。
「こんな素晴らしい家に嫁せたばかりか、お義父さまもお義母さまもまるで実の娘のように扱ってくださいます」
熙鳳はかすかに眉を顰め、秦氏はふっ、と目をそらす。
「嬸娘さまの甥御はまだお若いけれど、あちらは私を敬い、わたしもあちらを敬って、諍いなど一度もしたことがありません」
秦氏は賈蓉を流し見る。賈蓉はわずかに顔を伏せた。
「長幼のいかんにかかわらず……、嬸子さまを初めとした家中の皆さまで、私を可愛がってくださらない方はおらず。私と親しくない方もおられませんでした」
秦氏は深くため息をついた。
「それなのにこの病を得てからは気丈な心もすっかりくじけてしまったのです。
義父母に一日たりとも孝養のできぬまま……、嬸娘さまもこれほど目をかけてくださるのに、思いを尽くしたい気持ちはあってもそれも叶いません」
秦氏は細い息をさらに細くしながら言った
「いくら考えてみても、年を越せるかどうかすら分からないのです!」
絶句にも似た秦氏のささやきが流れるころ、宝珠は自らの真横で別の声を聞く。
「嫩寒夢を鎖ざす春冷に因り,芳気人を籠む、是れ酒香」
おののくようにもう一つの声の方を見やると、大粒の涙を流しながら、栄国府の公子が秦太虚の対聯を誦している。
彼はしゃくりあげながら、黙に沈む房に掛かった「海堂春睡図」を凝視していた




