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第2話 最後の一枚に、二人

逆光の中の遼は、記憶より背が高く見えた。


高校時代の面影はある。

けれど、五年という時間の分だけ、知らない人の顔でもあった。


「……久しぶり」

先に言ったのは遼だった。

「久しぶり」

美帆も短く返した。


それきり、言葉が続かなかった。


訊きたいことは山ほどあるはずだった。

手の中のファイルのこと。

五年前の封筒のこと。

なのに、どれから口にすればいいのか分からない。


沈黙を破ったのは、遼が提げたカメラの、ストラップの擦れる音だった。

「取り壊しの前に、校舎を撮る仕事で来たんだ。学校から依頼されて……」

「……そうなんだ。私は資料の整理。図書館の仕事で……」

「知ってる。図書館に勤めてるんだって?」

「誰から聞いたの?」

「木村」


美帆の指が、ファイルの縁で止まった。

「……千秋と連絡を取ってるの?」

「いや。卒業してからはほとんど。高校の頃の連絡先が残ってたらしくて、取り壊しの話を聞いた木村から連絡が来たんだ。そのとき、片町のことも少し……」

「そう……」


また、会話が途切れた。

五年間は、一言で埋まる長さではなかった。



遼が、ふとカメラを持ち上げた。


レンズが美帆の方を向く。

美帆は反射的に顔を背けた。

考えるより先に、体が動いていた。

遼は、ゆっくりとカメラを下ろした。


「まだ、撮られるの苦手なんだな」

「相川君は、まだ人の嫌がることをよく覚えてるんだね」


言ってから、刺のある言い方になったと気づいた。

けれど遼は、怒らなかった。


「どうして嫌がるのか、あの頃は分かってなかった」

「……どういう意味?」

「そのままの意味。片町がカメラを避ける理由を、俺は勝手に決めてた」


美帆は手の中のファイルへ視線を落とした。


「別に、写真で嫌なことがあったわけじゃないよ。撮られると、どんな顔をしていいか分からなくなるだけ……」


口にしながら、それだけではないような気もしていた。


「それだけ?」

「……たぶん」


遼は何かを確かめるように美帆を見ていたが、やがて部屋の棚へ視線を移した。

「……ここも撮らないと。案内、頼んでいいか? 保存する資料の場所とか、図書館側で決まってるんだろ?」

仕事の話に戻された。


美帆は少しほっとして、少しだけ物足りなかった。

「……いいよ。回る順番はこっちで決めてもいい?」

「ああ、任せる」


二人は、五年ぶりの校舎を回ることになった。



旧校舎は、静かだった。


掲示物はすでに外され、画鋲の穴だけが壁に残っている。

机も椅子もない教室は、思っていたより広く見えた。


あの頃、この廊下は放課後でも人の声で満ちていた。

今は、二人分の足音しかしない。


遼は教室ごとに三脚を立て、黙々と撮影していく。

その手つきは高校時代より正確で、迷いがなかった。

仕事にしたのだと、それだけで分かった。


美帆は保存対象の資料を確認しながら、時折その背中を見た。


訊きたいことを、どの場所で訊けばいいのか。


考えているうちに、図書室に着いた。



図書室の書架は空になっていたが、窓辺の閲覧席だけはまだ残っていた。


美帆は持っていたファイルを開き、一枚の写真を出した。

窓辺で本を読んでいる、高校時代の自分。


「これ、いつ撮ったの?」

遼はファインダーから顔を上げ、写真を一目見て答えた。

「文化祭の準備が終わった日」

「……全然気づかなかった」

「気づかれたら、片町は逃げるからな」


否定できなかった。

現にさっきも、レンズを向けられて顔を背けた。


「片町って、自分で撮るばかりで、ほとんど写真に写ってなかっただろ。だから撮ってたんだ」

「それにしては、多すぎない?」


遼は答えなかった。

代わりに三脚の位置を直し、窓辺の閲覧席へレンズを向けた。

シャッターの音が、空の図書室に響いた。

「次、どこ?」


はぐらかされたのは分かった。

けれど美帆も、それ以上は踏み込めなかった。



体育館の壁には、歴代の部活動の写真がまだ掛かっていた。

外し忘れたのか、最後まで残すことにしたのか。


その中に、ユニフォーム姿の千秋がボールを追っている一枚があった。


美帆は足を止めた。


ずっと聞けなかったことが、その写真を前にして、ようやく口から出た。


「相川君はさ……千秋のこと、好きだったんじゃないの?」


遼が振り返った。

その顔には、怒りも気まずさもなかった。

ただ、本当に意味が分からない、という表情だった。


「木村を好きだと思ってたの?」

「違うの?」

「違う」


即答だった。

あまりの迷いのなさに、美帆の方が言葉に詰まった。


「でも、何度も撮ってたじゃない。放課後に二人で相談してたし、文化祭のときも、写真の束を渡してたの、見たわ」

「木村の進学の資料用だ。推薦で人物写真が要るからって頼まれたんだ。相談してたのは撮影の日程と場所。文化祭のは試し焼き。どれがいいか、本人に選んでもらってただけ」


遼は一つずつ、短く答えた。

弁明する口調ではなかった。

ただの事実を、ただ置いていくような言い方だった。


「体育館のは、部活動の記録。アルバム用。学校中の部活を撮ってた。木村だけ撮ってた訳じゃない」

「……そう、なんだ」


進学資料。

撮影の相談。

試し焼きの選定。


一つずつは、何でもないことだった。

それを全部、同じ一つの意味に結びつけたのは、自分だった。


美帆は壁の写真から目を離せないまま、それを認め始めていた。



渡り廊下に出ると、西日が差していた。

あの日と同じ場所だと、すぐに分かった。

遼がカメラを向け、慌てて下ろした場所。

美帆は立ち止まり、口を開いた。


「あの時のことも、聞いていい? この渡り廊下で、私にカメラを向けてたことがあったよね?」

「ああ」

「あれも、千秋を撮ってたんじゃなかったの? 私の後ろに、千秋がいたから……」

「片町を撮ってた」


息が、止まった。

「でも、私の後ろに千秋がいた……」

「知ってる。だから、片町はそう思ったんだろうなって……後になって分かった」


西日が、遼の横顔に当たっていた。

「どうして言わなかったの……?」

「片町が、撮られたくないんだと思ったから」

遼は手すりに軽く寄りかかった。


「カメラを向けると逃げる。写真に写らない。だから、撮られること自体が嫌なんだと思ってた。撮ってたなんて言ったら、もっと避けられると思ったんだ」

「……そんなこと」

「今なら分かる。でも、あの頃は聞けなかった。聞いて、はっきり嫌だって言われるのが怖かったんだ……」


美帆は何も言えなかった。

遼もまた、美帆の態度に自分で意味をつけて、確かめずにいたのだった。


見ているつもりで、二人とも、相手を見誤っていた。



三階の廊下は、卒業式の日に二人が別れた場所だった。

窓の位置も、床の軋みも、あの日のままだった。


「ここで聞くのが、たぶん一番いいと思うから……」

美帆は息を吸った。


「卒業式の日、千秋に封筒を渡してたよね? あれ、何だったの?」

遼はすぐには答えなかった。

それから、観念したように言った。


「あれは、片町に渡す写真だったんだ」

「……私に?」

「高校で撮った分。卒業アルバムに片町がいないから、代わりになるものを作って……自分で渡す勇気がなくて、木村に頼んだんだ」


美帆は廊下の壁に手をついた。

厚みのある白い封筒。

千秋へ贈られたものだと思っていたそれは、最初から自分に渡されるはずのものだった。

五年間疑わなかった記憶が、音もなく裏返っていく。


「私、あれ、千秋への手紙だと思ってたの……相川君の告白かもしれないって、思って……」

「木村には、片町に渡してくれって頼んだんだ」

「私は、千秋宛てだと思ったの……」

遼はしばらく黙った。


「……そりゃ、話が通じないわけだ」


五年間信じてきた光景が、あまりに単純な一言で崩れて、美帆は力の抜けた息を漏らした。


遼も、口元だけで少し笑った。

けれど、すぐに真顔へ戻った。


「木村と電話で話したとき、あの封筒を渡せなかったって聞いた」


遼は、少しだけ視線を逸らした。


「写真のデータは残してた。片町がここを整理するって聞いて、もう一度プリントして、今朝あのファイルに入れたんだ」


美帆は目を瞬いた。

「相川君が置いたの?」

「直接渡したら、また逃げられる気がしたから。見るかどうかは、片町に決めてほしかった」


「……五年前と、同じじゃない」

「そうだな」

遼は苦く笑った。


「だから今度は、写真だけ置いて帰るんじゃなくて、ちゃんと話そうと思ってた」


遼は一度息を吐き、廊下の先へ目を向けた。

五年前と同じ場所に立っているのに、今度はそのまま話を終わらせるつもりはないらしい。


「あの日、片町に言われたな。千秋を泣かせないでねって……」

「……うん」

「俺は、あれを断りの言葉だと思った。俺の気持ちに気づいてて、その上で線を引かれたんだと……」

「違う」

美帆は首を振った。


「私は、相川君と千秋が両思いだと思ってた。だから、傷つく前に、応援する側に回ったの……ううん、応援するふりをして、逃げたの」


言葉にすると、五年前の自分の姿が、ようやくはっきり見えた。


確かめなかったのではない。

確かめるのが、怖かったのだ。



廊下の突き当たりには、歴代の卒業写真が並んでいた。

何十年分もの生徒たちが、同じ構図で写っている。

美帆はその前で足を止めた。


「私は、写真に写らなくてもいいと思ってた」

「どうして?」

「みんなのことを残せれば、それでよかったから」

「それだけ?」


静かな問いだった。

美帆は答えようとして、詰まった。


それだけ……ではなかった。

ずっと言葉にしてこなかっただけで、理由は、もっと下の方にあった。


「……自分が、誰かが残したいと思うほどの人間だって、思ってなかったんだと思う」


悲しい告白のつもりはなかった。

実際、悲しんでもいなかった。


それは美帆にとって、雨の日は傘を差す、というのと同じくらい、当たり前の前提だった。


遼は何か言いかけて、やめた。

代わりに、短く言った。


「部室に戻ろう。あの写真の話が、まだ終わってない」



写真部室に戻ると、西日はさらに低くなっていた。


美帆は机の上にファイルを置き、遼の方へ向けた。

「どうして、こんなに私を撮ってたの?」

今度は、遼ははぐらかさなかった。

「片町が撮った写真には、いつも誰かがいた」


遼はファイルを開き、一枚ずつ捲った。

「笑ってる奴、走ってる奴、泣いてる奴。片町の写真の中で、みんなちゃんとそこにいた。でも……その中に片町だけがいなかった」


文化祭の美帆。

校庭の美帆。

図書室の美帆。


「誰か一人くらい、片町がそこにいたことを残してもいいと思った……それだけ」


それだけ、と遼は言った。

飾った言葉は一つもなかった。


けれど美帆には、それで十分だった。

撮られていたと知ったとき、最初にあったのは戸惑いだった。

今は違う。


頬が熱いのは確かで、それは恥ずかしさだけではなかった。


自分がそこにいたことを、残したいと思った人がいた。

その事実が、静かに嬉しかった。



美帆は廊下へ出て、千秋に電話をかけた。

三コール目で、千秋は出た。


「珍しいわね、電話なんて。どうしたの?」

「今、学校にいるの。旧校舎の資料整理で……それで、相川君に会った」


電話の向こうが、一瞬、静かになった。

「卒業式の日の封筒のこと……聞いた」

「……そっか」

千秋の声が、少し低くなった。


「ごめん。渡せないまま、ずっと持ってた」

「うん……」

「最初の頃は、会うたびに鞄へ入れてたんだよ。でも、遼君から何も言ってこないなら、今さら渡しても美帆を困らせるだけだって、勝手に決めた……そうしてるうちに、出せなくなって……」

「私こそ、ごめん。あの日、千秋の話を最後まで聞かなかったから……その前から、ずっと……」

「美帆は違うって言うし、遼君も自分では何も言わないから、私もそれ以上は踏み込まなかった」

千秋は息を吐いた。


「でも、正直に言えば、面倒なことに巻き込まれたくなかったんだと思う。踏み込んで、どっちかに恨まれるのが嫌だった。親友のふりして、一番安全な場所にいたかったんだと思う」

「そんなことない」

「あるよ。五年も封筒を机に入れっぱなしにしてた人間の言うことだから、確かだよ」


自分を笑う千秋の声は、けれど、どこか楽になったようでもあった。

「私も、千秋の気持ちを勝手に決めてた。千秋は相川君が好きなんだって……勝手に」

「知ってた。否定したのにね」

「……うん。聞かなかった」

それを、五年かけて、ようやく言葉にできた。


「ねえ、美帆」

千秋の声が、いつもの明るさに戻った。

「校舎がなくなる前に、二人とも、ちゃんと卒業してきなさい」

「……何それ」

「先生っぽく言ってみた。じゃあね。今度、預かってた写真も持っていくから」

電話は切れた。


美帆はしばらく、暗くなった画面を見ていた。

それから、写真部室へ戻った。



校舎の撮影が終わったのは、日が沈む少し前だった。

機材を片付けながら遼が言った。


「最後に一つだけ、昔の話をしていいか?」

「うん」

「高校の頃、俺……片町が好きだった」

まっすぐな言葉だった。

五年遅れの言葉は、けれど、過去形だった。

遼は少し間を置いて続けた。


「今日会って……改めて、今の片町のことも知りたいと思った。でも、五年前の返事を今もらおうとは思ってない。あの頃の俺と片町は、もういないから」

美帆は、頷いた。


「あの頃、私の気持ちには、勝手にブレーキがかかってたけど……私も、相川君が好きだった」


口にすると、思ったよりも簡単だった。

五年間言えなかった言葉は、たった一秒で終わった。


「今日会えなかったら、私はずっと自分の気持ちに蓋をしたまま、もっと時間が経ってから……ようやく気付いて、後悔していたかもしれない」


美帆は小さく息を吐いた。

それから、ゆっくりと顔を上げた。


「相川君の言う通りだと思う。だから……」

美帆は一度だけ視線を落とした。

「五年前の続きからじゃなくてもいい? 今の相川君を、もう一度知りたい」

遼は小さく頷いた。

「俺も、今の片町を知りたい」

それだけだった。

ただ、今度会う日を決めた。

それが、二人の始め方だった。



「最後に、あれだけ撮らせて」

遼は校庭に出ると、取り壊される校舎の全景が入る位置に三脚を立てた。

構図を決め、設定を確かめ、それからセルフタイマーのボタンに指を置いた。


「セルフタイマー?」

「そう」

美帆はいつもの癖で、カメラの後ろへ回ろうとした。

「今度は、撮る側に逃げないで」

遼の声に足が止まった。


逃げないで。


その言い方が正しいのだと、今日一日で、美帆はもう知っていた。


美帆は息を吸い、カメラの前へ歩いた。

校舎を背に、遼が示した場所で足を止める。


遼は三脚の前に残り、構図を確かめてからタイマーを押した。

それから美帆の隣へ駆けてくる。

肩一つ分、距離を空けて遼が並んだ。


赤いランプが点滅を始める。

十秒。

夕方の風が校庭の砂を撫でていった。


美帆は隣の遼を見た。

遼も美帆を見た。


五年前、渡り廊下ですれ違った視線が、今度はまっすぐに重なった。


美帆は、自分から半歩、近づいた。

肩が、触れた。

シャッターが切れた。



一週間後、図書館の美帆のもとへ、一通の封筒が届いた。


差出人は相川遼。

中には、一枚の写真が入っていた。


夕方の光の中、取り壊される校舎の前に、遼と美帆が並んで立っている。


二人とも、少しだけぎこちなく、少しだけ笑っている。

肩が触れている。


美帆はその写真を、しばらく見ていた。

それから、机の上の保存資料の箱には入れず、鞄へ仕舞った。


これは郷土資料ではない。

校舎の記録でもない。

私の写真だ。


誰かを残すために、美帆はいつも写真の外に立っていた。

けれど、校舎で撮った最後の一枚には、相川遼と片町美帆が並んでいる。


それは、五年前のふたりを終わらせる一枚だった。


そして、これからのふたりを始める、最初の一枚でもあった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

写真を撮る側に立ち続け、自分自身は写真の外にいた女性が、誰かの視線を知り、自分から一歩だけ写真の中へ入る物語でした。

五年前の恋をそのまま取り戻すのではなく、過去のすれ違いに区切りをつけ、今の二人として新しく始める結末にしています。

美帆が遼の隣へ半歩近づく場面まで見届けていただけたことを、嬉しく思います。

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最後の1枚は、最初の1枚に…(*´艸`) 素敵なお話をありがとうございます(*˘︶˘人)
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