第2話 最後の一枚に、二人
逆光の中の遼は、記憶より背が高く見えた。
高校時代の面影はある。
けれど、五年という時間の分だけ、知らない人の顔でもあった。
「……久しぶり」
先に言ったのは遼だった。
「久しぶり」
美帆も短く返した。
それきり、言葉が続かなかった。
訊きたいことは山ほどあるはずだった。
手の中のファイルのこと。
五年前の封筒のこと。
なのに、どれから口にすればいいのか分からない。
沈黙を破ったのは、遼が提げたカメラの、ストラップの擦れる音だった。
「取り壊しの前に、校舎を撮る仕事で来たんだ。学校から依頼されて……」
「……そうなんだ。私は資料の整理。図書館の仕事で……」
「知ってる。図書館に勤めてるんだって?」
「誰から聞いたの?」
「木村」
美帆の指が、ファイルの縁で止まった。
「……千秋と連絡を取ってるの?」
「いや。卒業してからはほとんど。高校の頃の連絡先が残ってたらしくて、取り壊しの話を聞いた木村から連絡が来たんだ。そのとき、片町のことも少し……」
「そう……」
また、会話が途切れた。
五年間は、一言で埋まる長さではなかった。
◇
遼が、ふとカメラを持ち上げた。
レンズが美帆の方を向く。
美帆は反射的に顔を背けた。
考えるより先に、体が動いていた。
遼は、ゆっくりとカメラを下ろした。
「まだ、撮られるの苦手なんだな」
「相川君は、まだ人の嫌がることをよく覚えてるんだね」
言ってから、刺のある言い方になったと気づいた。
けれど遼は、怒らなかった。
「どうして嫌がるのか、あの頃は分かってなかった」
「……どういう意味?」
「そのままの意味。片町がカメラを避ける理由を、俺は勝手に決めてた」
美帆は手の中のファイルへ視線を落とした。
「別に、写真で嫌なことがあったわけじゃないよ。撮られると、どんな顔をしていいか分からなくなるだけ……」
口にしながら、それだけではないような気もしていた。
「それだけ?」
「……たぶん」
遼は何かを確かめるように美帆を見ていたが、やがて部屋の棚へ視線を移した。
「……ここも撮らないと。案内、頼んでいいか? 保存する資料の場所とか、図書館側で決まってるんだろ?」
仕事の話に戻された。
美帆は少しほっとして、少しだけ物足りなかった。
「……いいよ。回る順番はこっちで決めてもいい?」
「ああ、任せる」
二人は、五年ぶりの校舎を回ることになった。
◇
旧校舎は、静かだった。
掲示物はすでに外され、画鋲の穴だけが壁に残っている。
机も椅子もない教室は、思っていたより広く見えた。
あの頃、この廊下は放課後でも人の声で満ちていた。
今は、二人分の足音しかしない。
遼は教室ごとに三脚を立て、黙々と撮影していく。
その手つきは高校時代より正確で、迷いがなかった。
仕事にしたのだと、それだけで分かった。
美帆は保存対象の資料を確認しながら、時折その背中を見た。
訊きたいことを、どの場所で訊けばいいのか。
考えているうちに、図書室に着いた。
◇
図書室の書架は空になっていたが、窓辺の閲覧席だけはまだ残っていた。
美帆は持っていたファイルを開き、一枚の写真を出した。
窓辺で本を読んでいる、高校時代の自分。
「これ、いつ撮ったの?」
遼はファインダーから顔を上げ、写真を一目見て答えた。
「文化祭の準備が終わった日」
「……全然気づかなかった」
「気づかれたら、片町は逃げるからな」
否定できなかった。
現にさっきも、レンズを向けられて顔を背けた。
「片町って、自分で撮るばかりで、ほとんど写真に写ってなかっただろ。だから撮ってたんだ」
「それにしては、多すぎない?」
遼は答えなかった。
代わりに三脚の位置を直し、窓辺の閲覧席へレンズを向けた。
シャッターの音が、空の図書室に響いた。
「次、どこ?」
はぐらかされたのは分かった。
けれど美帆も、それ以上は踏み込めなかった。
◇
体育館の壁には、歴代の部活動の写真がまだ掛かっていた。
外し忘れたのか、最後まで残すことにしたのか。
その中に、ユニフォーム姿の千秋がボールを追っている一枚があった。
美帆は足を止めた。
ずっと聞けなかったことが、その写真を前にして、ようやく口から出た。
「相川君はさ……千秋のこと、好きだったんじゃないの?」
遼が振り返った。
その顔には、怒りも気まずさもなかった。
ただ、本当に意味が分からない、という表情だった。
「木村を好きだと思ってたの?」
「違うの?」
「違う」
即答だった。
あまりの迷いのなさに、美帆の方が言葉に詰まった。
「でも、何度も撮ってたじゃない。放課後に二人で相談してたし、文化祭のときも、写真の束を渡してたの、見たわ」
「木村の進学の資料用だ。推薦で人物写真が要るからって頼まれたんだ。相談してたのは撮影の日程と場所。文化祭のは試し焼き。どれがいいか、本人に選んでもらってただけ」
遼は一つずつ、短く答えた。
弁明する口調ではなかった。
ただの事実を、ただ置いていくような言い方だった。
「体育館のは、部活動の記録。アルバム用。学校中の部活を撮ってた。木村だけ撮ってた訳じゃない」
「……そう、なんだ」
進学資料。
撮影の相談。
試し焼きの選定。
一つずつは、何でもないことだった。
それを全部、同じ一つの意味に結びつけたのは、自分だった。
美帆は壁の写真から目を離せないまま、それを認め始めていた。
◇
渡り廊下に出ると、西日が差していた。
あの日と同じ場所だと、すぐに分かった。
遼がカメラを向け、慌てて下ろした場所。
美帆は立ち止まり、口を開いた。
「あの時のことも、聞いていい? この渡り廊下で、私にカメラを向けてたことがあったよね?」
「ああ」
「あれも、千秋を撮ってたんじゃなかったの? 私の後ろに、千秋がいたから……」
「片町を撮ってた」
息が、止まった。
「でも、私の後ろに千秋がいた……」
「知ってる。だから、片町はそう思ったんだろうなって……後になって分かった」
西日が、遼の横顔に当たっていた。
「どうして言わなかったの……?」
「片町が、撮られたくないんだと思ったから」
遼は手すりに軽く寄りかかった。
「カメラを向けると逃げる。写真に写らない。だから、撮られること自体が嫌なんだと思ってた。撮ってたなんて言ったら、もっと避けられると思ったんだ」
「……そんなこと」
「今なら分かる。でも、あの頃は聞けなかった。聞いて、はっきり嫌だって言われるのが怖かったんだ……」
美帆は何も言えなかった。
遼もまた、美帆の態度に自分で意味をつけて、確かめずにいたのだった。
見ているつもりで、二人とも、相手を見誤っていた。
◇
三階の廊下は、卒業式の日に二人が別れた場所だった。
窓の位置も、床の軋みも、あの日のままだった。
「ここで聞くのが、たぶん一番いいと思うから……」
美帆は息を吸った。
「卒業式の日、千秋に封筒を渡してたよね? あれ、何だったの?」
遼はすぐには答えなかった。
それから、観念したように言った。
「あれは、片町に渡す写真だったんだ」
「……私に?」
「高校で撮った分。卒業アルバムに片町がいないから、代わりになるものを作って……自分で渡す勇気がなくて、木村に頼んだんだ」
美帆は廊下の壁に手をついた。
厚みのある白い封筒。
千秋へ贈られたものだと思っていたそれは、最初から自分に渡されるはずのものだった。
五年間疑わなかった記憶が、音もなく裏返っていく。
「私、あれ、千秋への手紙だと思ってたの……相川君の告白かもしれないって、思って……」
「木村には、片町に渡してくれって頼んだんだ」
「私は、千秋宛てだと思ったの……」
遼はしばらく黙った。
「……そりゃ、話が通じないわけだ」
五年間信じてきた光景が、あまりに単純な一言で崩れて、美帆は力の抜けた息を漏らした。
遼も、口元だけで少し笑った。
けれど、すぐに真顔へ戻った。
「木村と電話で話したとき、あの封筒を渡せなかったって聞いた」
遼は、少しだけ視線を逸らした。
「写真のデータは残してた。片町がここを整理するって聞いて、もう一度プリントして、今朝あのファイルに入れたんだ」
美帆は目を瞬いた。
「相川君が置いたの?」
「直接渡したら、また逃げられる気がしたから。見るかどうかは、片町に決めてほしかった」
「……五年前と、同じじゃない」
「そうだな」
遼は苦く笑った。
「だから今度は、写真だけ置いて帰るんじゃなくて、ちゃんと話そうと思ってた」
遼は一度息を吐き、廊下の先へ目を向けた。
五年前と同じ場所に立っているのに、今度はそのまま話を終わらせるつもりはないらしい。
「あの日、片町に言われたな。千秋を泣かせないでねって……」
「……うん」
「俺は、あれを断りの言葉だと思った。俺の気持ちに気づいてて、その上で線を引かれたんだと……」
「違う」
美帆は首を振った。
「私は、相川君と千秋が両思いだと思ってた。だから、傷つく前に、応援する側に回ったの……ううん、応援するふりをして、逃げたの」
言葉にすると、五年前の自分の姿が、ようやくはっきり見えた。
確かめなかったのではない。
確かめるのが、怖かったのだ。
◇
廊下の突き当たりには、歴代の卒業写真が並んでいた。
何十年分もの生徒たちが、同じ構図で写っている。
美帆はその前で足を止めた。
「私は、写真に写らなくてもいいと思ってた」
「どうして?」
「みんなのことを残せれば、それでよかったから」
「それだけ?」
静かな問いだった。
美帆は答えようとして、詰まった。
それだけ……ではなかった。
ずっと言葉にしてこなかっただけで、理由は、もっと下の方にあった。
「……自分が、誰かが残したいと思うほどの人間だって、思ってなかったんだと思う」
悲しい告白のつもりはなかった。
実際、悲しんでもいなかった。
それは美帆にとって、雨の日は傘を差す、というのと同じくらい、当たり前の前提だった。
遼は何か言いかけて、やめた。
代わりに、短く言った。
「部室に戻ろう。あの写真の話が、まだ終わってない」
◇
写真部室に戻ると、西日はさらに低くなっていた。
美帆は机の上にファイルを置き、遼の方へ向けた。
「どうして、こんなに私を撮ってたの?」
今度は、遼ははぐらかさなかった。
「片町が撮った写真には、いつも誰かがいた」
遼はファイルを開き、一枚ずつ捲った。
「笑ってる奴、走ってる奴、泣いてる奴。片町の写真の中で、みんなちゃんとそこにいた。でも……その中に片町だけがいなかった」
文化祭の美帆。
校庭の美帆。
図書室の美帆。
「誰か一人くらい、片町がそこにいたことを残してもいいと思った……それだけ」
それだけ、と遼は言った。
飾った言葉は一つもなかった。
けれど美帆には、それで十分だった。
撮られていたと知ったとき、最初にあったのは戸惑いだった。
今は違う。
頬が熱いのは確かで、それは恥ずかしさだけではなかった。
自分がそこにいたことを、残したいと思った人がいた。
その事実が、静かに嬉しかった。
◇
美帆は廊下へ出て、千秋に電話をかけた。
三コール目で、千秋は出た。
「珍しいわね、電話なんて。どうしたの?」
「今、学校にいるの。旧校舎の資料整理で……それで、相川君に会った」
電話の向こうが、一瞬、静かになった。
「卒業式の日の封筒のこと……聞いた」
「……そっか」
千秋の声が、少し低くなった。
「ごめん。渡せないまま、ずっと持ってた」
「うん……」
「最初の頃は、会うたびに鞄へ入れてたんだよ。でも、遼君から何も言ってこないなら、今さら渡しても美帆を困らせるだけだって、勝手に決めた……そうしてるうちに、出せなくなって……」
「私こそ、ごめん。あの日、千秋の話を最後まで聞かなかったから……その前から、ずっと……」
「美帆は違うって言うし、遼君も自分では何も言わないから、私もそれ以上は踏み込まなかった」
千秋は息を吐いた。
「でも、正直に言えば、面倒なことに巻き込まれたくなかったんだと思う。踏み込んで、どっちかに恨まれるのが嫌だった。親友のふりして、一番安全な場所にいたかったんだと思う」
「そんなことない」
「あるよ。五年も封筒を机に入れっぱなしにしてた人間の言うことだから、確かだよ」
自分を笑う千秋の声は、けれど、どこか楽になったようでもあった。
「私も、千秋の気持ちを勝手に決めてた。千秋は相川君が好きなんだって……勝手に」
「知ってた。否定したのにね」
「……うん。聞かなかった」
それを、五年かけて、ようやく言葉にできた。
「ねえ、美帆」
千秋の声が、いつもの明るさに戻った。
「校舎がなくなる前に、二人とも、ちゃんと卒業してきなさい」
「……何それ」
「先生っぽく言ってみた。じゃあね。今度、預かってた写真も持っていくから」
電話は切れた。
美帆はしばらく、暗くなった画面を見ていた。
それから、写真部室へ戻った。
◇
校舎の撮影が終わったのは、日が沈む少し前だった。
機材を片付けながら遼が言った。
「最後に一つだけ、昔の話をしていいか?」
「うん」
「高校の頃、俺……片町が好きだった」
まっすぐな言葉だった。
五年遅れの言葉は、けれど、過去形だった。
遼は少し間を置いて続けた。
「今日会って……改めて、今の片町のことも知りたいと思った。でも、五年前の返事を今もらおうとは思ってない。あの頃の俺と片町は、もういないから」
美帆は、頷いた。
「あの頃、私の気持ちには、勝手にブレーキがかかってたけど……私も、相川君が好きだった」
口にすると、思ったよりも簡単だった。
五年間言えなかった言葉は、たった一秒で終わった。
「今日会えなかったら、私はずっと自分の気持ちに蓋をしたまま、もっと時間が経ってから……ようやく気付いて、後悔していたかもしれない」
美帆は小さく息を吐いた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「相川君の言う通りだと思う。だから……」
美帆は一度だけ視線を落とした。
「五年前の続きからじゃなくてもいい? 今の相川君を、もう一度知りたい」
遼は小さく頷いた。
「俺も、今の片町を知りたい」
それだけだった。
ただ、今度会う日を決めた。
それが、二人の始め方だった。
◇
「最後に、あれだけ撮らせて」
遼は校庭に出ると、取り壊される校舎の全景が入る位置に三脚を立てた。
構図を決め、設定を確かめ、それからセルフタイマーのボタンに指を置いた。
「セルフタイマー?」
「そう」
美帆はいつもの癖で、カメラの後ろへ回ろうとした。
「今度は、撮る側に逃げないで」
遼の声に足が止まった。
逃げないで。
その言い方が正しいのだと、今日一日で、美帆はもう知っていた。
美帆は息を吸い、カメラの前へ歩いた。
校舎を背に、遼が示した場所で足を止める。
遼は三脚の前に残り、構図を確かめてからタイマーを押した。
それから美帆の隣へ駆けてくる。
肩一つ分、距離を空けて遼が並んだ。
赤いランプが点滅を始める。
十秒。
夕方の風が校庭の砂を撫でていった。
美帆は隣の遼を見た。
遼も美帆を見た。
五年前、渡り廊下ですれ違った視線が、今度はまっすぐに重なった。
美帆は、自分から半歩、近づいた。
肩が、触れた。
シャッターが切れた。
◇
一週間後、図書館の美帆のもとへ、一通の封筒が届いた。
差出人は相川遼。
中には、一枚の写真が入っていた。
夕方の光の中、取り壊される校舎の前に、遼と美帆が並んで立っている。
二人とも、少しだけぎこちなく、少しだけ笑っている。
肩が触れている。
美帆はその写真を、しばらく見ていた。
それから、机の上の保存資料の箱には入れず、鞄へ仕舞った。
これは郷土資料ではない。
校舎の記録でもない。
私の写真だ。
誰かを残すために、美帆はいつも写真の外に立っていた。
けれど、校舎で撮った最後の一枚には、相川遼と片町美帆が並んでいる。
それは、五年前のふたりを終わらせる一枚だった。
そして、これからのふたりを始める、最初の一枚でもあった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
写真を撮る側に立ち続け、自分自身は写真の外にいた女性が、誰かの視線を知り、自分から一歩だけ写真の中へ入る物語でした。
五年前の恋をそのまま取り戻すのではなく、過去のすれ違いに区切りをつけ、今の二人として新しく始める結末にしています。
美帆が遼の隣へ半歩近づく場面まで見届けていただけたことを、嬉しく思います。




