第1話 写真の外にいた私
全二話の現実世界恋愛短編です。
取り壊しの決まった母校と、五年前に渡らなかった写真を巡るお話です。
最後までお付き合いいただけましたら幸いです。
旧校舎の昇降口は、記憶よりも狭かった。
片町美帆は記録用のカメラを首から提げ、五年ぶりに母校の敷地へ足を踏み入れた。
建て替えが決まった旧校舎は、夏の終わりに取り壊される。
市立図書館で郷土資料を担当する美帆に与えられた仕事は、校内に残された学校資料の整理と、建物そのものの記録だった。
廊下の木の軋み。
階段の手すりに残る無数の傷。
色の抜けた掲示板と、教室の入口に掛かったままの札。
美帆はそれらを一枚ずつ、丁寧にファインダーへ収めていく。
懐かしい、という感傷は意識的に脇へ置いた。
これは仕事だ。
失われる場所を、誰かの記憶の代わりに残しておく仕事。
「片町さんって、この学校の卒業生なんですよね?」
同行している市の職員が、資料の段ボールを抱えながら言った。
「そうです。五年前に卒業しました」
「じゃあ、片町さん自身の写真はないんですか? 母校の最後に、記念に一枚くらい……」
美帆は少し笑って、カメラを持ち直した。
「私は撮る側なので」
言い慣れた台詞だった。
高校の頃から、ずっとそうだったように。
◇
保存対象のリストには、旧写真部室が含まれていた。
職員には一階の資料整理を任せ、美帆は一人で北校舎へ向かった。
三階、突き当たりの部屋。
美帆はその扉の前で、足を止めた。
札の文字は褪せていたが、まだ読めた。
写真部。
この部屋に近づかないように、当時の自分が廊下の反対側を歩いていたことを、体が先に思い出した。
思い出さないようにしてきた名前が、鍵を回す指先のあたりまで上がってくる。
美帆は小さく息を吐き、扉を開けた。
埃の匂いがした。
棚には古いアルバムとネガのファイル。
印画紙の箱、脚の曲がった三脚、暗幕の切れ端。
部員がいなくなって久しいのか、時間ごと置き去りにされたような部屋だった。
棚の下段に、黒いカメラケースがあった。
革の角が擦り切れている。
美帆は手を伸ばし、その表面に触れた。
指先に伝わる硬い感触と一緒に、五年より前の記憶が、静かに開いた。
◇
高校二年の体育祭で、美帆は途方に暮れていた。
学年の記録係として行事の撮影を任されたものの、走る生徒はぶれ、跳ぶ生徒はフレームから消えた。
液晶を確認しては眉を寄せる美帆の横から、不意に声がした。
「シャッター速度、上げた方がいいぞ」
写真部の相川遼だった。
同じクラスになったことはあったが、まともに話すのは初めてだった。
遼は美帆のカメラの設定を手早く直し、走ってくる生徒に合わせて構え方まで教えた。
言われた通りに撮ると、砂埃を蹴る足が、初めて止まって写った。
「すごい」
「すごいのはカメラさ」
そう言いながら、遼は美帆が午前中に撮った写真を液晶で遡っていた。
応援席で笑う生徒。
水筒を回し合う生徒。
ゴールで抱き合う生徒。
「片町の写真って、撮られてる人がカメラを怖がってないんだな」
「……私が目立たないだけだよ」
「そうじゃなくて……」
遼は何か言いかけて、やめた。
「まあ、いいや。次、リレーだけど行ける?」
それから、行事のたびに二人は撮影で顔を合わせるようになった。
撮った写真を並べて見る放課後が、少しずつ増えた。
どの写真がいいかで意見が割れて、どちらも譲らない日もあった。
ただ、その放課後がこれからも続けばいいと、美帆は思っていた。
◇
三年に上がると、美帆はそのまま卒業アルバム委員になった。
その春、幼い頃からの親友である木村千秋が言った。
「遼君に写真頼んだんだ。推薦の資料に使うやつ。人物写真が上手いんだって」
千秋は誰にでも屈託なく話しかける。
遼にもそうだった。
撮影場所はどこがいいか、服はどうするか、放課後の光は何時がいいか。
二人が廊下で相談している姿を、美帆は何度か見た。
遼は妥協しない性格らしく、納得のいく一枚になるまで千秋を何度も撮り直した。
「遼君って、ほんと真剣に撮ってくれるんだよ」
千秋がそう言って笑う声は、いつも通り明るいだけだった。
それなのに美帆は、その明るさの方ばかり気にしてしまった。
何枚も、何度も、千秋にレンズを向ける遼。
それは美帆の知らない、二人だけの時間に見えた。
◇
ある放課後、美帆は校庭で下級生の部活動を撮っていた。
ふと顔を上げると、渡り廊下の先に遼がいた。
カメラが、こちらを向いていた。
目が合った、と思った瞬間、美帆は反射的に振り返った。
少し後ろに、千秋が立っていた。
部活帰りらしく、鞄を肩に掛けて誰かと笑っている。
視線を戻すと、遼は慌ててカメラを下ろしていた。
「……別に。光を見てただけ」
聞いてもいないのに、そう言った。
不自然な誤魔化し方だと思った。
そうか、と美帆は静かに納得した。
撮ろうとしていたのは、千秋だ。
それを見られて、慌てている。
胸の奥が小さく軋んだことには、気づかないふりをした。
◇
文化祭の準備期間、美帆は廊下の角からその場面を見た。
遼が千秋に、写真の束を渡している。
千秋は嬉しそうに一枚ずつ確かめ、遼と肩を並べて何かを話し、それから言った。
「これ、すごく好き。ありがとう」
中身までは見えなかった。
写真の束を二人で覗き込む姿だけが、美帆の目に残った。
写真の出来を褒めただけかもしれない言葉が、遠くで見ている美帆には、まったく別の意味に聞こえた。
千秋が遼に写真を頼んだ春から、胸の内に積み重なっていたものが、そこで一つの形になった。
遼が好きなのは、千秋だ。
千秋も、たぶん。
美帆は角から離れ、静かに教室へ戻った。
◇
「遼君と話してる時の美帆、いつもよりよく喋るよね」
昼休み、千秋が弁当をつつきながら言った。
探るような声ではなかったが、美帆の箸は一瞬止まった。
「そんなことないよ。写真の話しかしてないし」
「そうかなあ……?」
「それを言うなら」
美帆は笑ってみせた。
「相川君が好きなのは千秋でしょう?」
「え? 違うよ。あれはただ写真を──」
「無理に否定しなくていいよ」
美帆は笑って、弁当へ視線を落とした。
「応援してるから」
千秋は何か言いかけていた。
けれど美帆には、それが照れ隠しにしか見えなかった。
話を閉じた美帆に、千秋はそれ以上、踏み込んでこなかった。
踏み込めなかったのだと、当時の美帆は考えもしなかった。
◇
卒業アルバムの編集が大詰めを迎えた頃、部誌の資料を借りに来た遼が、ページの束をめくりながら言った。
「片町、自分の写真は?」
「え?」
「これだけ撮ってて、片町がどこにもいないから」
指摘されて初めて、美帆は自分のページ構成を見直した。
友人たち、教師たち、行事の風景。
確かに、自分は一枚もいなかった。
「なくても困らないでしょう?」
「卒業アルバムなのに?」
「みんなが写っていれば、それでいいよ」
本心だった。
少なくとも、本心だと思っていた。
遼はしばらく黙ってページを見ていた。
その沈黙の意味を、美帆が知るのは五年後になる。
◇
卒業式の日は、よく晴れていた。
遼は県外の大学へ進むと聞いていた。
式の後の廊下で、美帆はその場面を見てしまった。
遼が千秋に、一通の封筒を渡している。
厚みのある、白い封筒だった。
手紙だ、と思った。
あるいは、もっとはっきりした言葉かもしれない。
やっぱり、と思う自分の冷静さが、かえって痛かった。
人波が流れて、気づけば美帆は遼と二人になっていた。
遼が口を開きかけた。
「あの、片町──」
「千秋を泣かせないでね」
先に、笑って言った。
これ以上ないくらい、上手に笑えたと思う。
遼の表情が、一度だけ揺れた。
それから、短く言った。
「……分かった」
それが、高校生活最後の会話になった。
◇
昇降口の外で、千秋が追いかけてきた。
「美帆、あのね、これ──」
鞄から何かを出そうとする千秋に、美帆は先に言った。
「二人の邪魔はしないから。私のことは気にしなくていいよ」
「違うの、私と遼君はそういうんじゃなくて」
「私に気を遣わなくていいから」
「聞いて!」
そこへ、写真を撮ろうと呼ぶ声が重なった。
別れを惜しむ生徒たちの輪が二人を分け、腕を引かれ、名前を呼ばれ、会話はそこで途切れた。
千秋の手は、鞄の中の何かを掴んだまま、行き場をなくしていた。
結局、封筒は美帆に渡らないままだった。
春、遼は県外へ発ち、美帆は地元に残った。
◇
それから五年が経った。
美帆は地元の大学を出て、市立図書館に就職した。
郷土資料の担当になり、古い写真や、失われていく建物の記録を扱うようになった。
自分には合っていると思う。
千秋とは今も月に一度は会う。
ただ、遼の名前だけは、いつからか二人の会話に出なくなった。
失恋で人生が止まったわけではない。
仕事は楽しく、日々はきちんと流れてきた。
遼のことだけを、「親友を選んだ人」という札をつけて、確かめないまま棚の奥に仕舞っていただけだ。
その棚の扉に、今、指が掛かっている。
◇
写真部室の整理は、二日目に入っていた。
机の上に置かれた資料箱の一番上に、背表紙に何も書かれていない薄いファイルがあった。
昨日は見かけなかった気がしたが、すべての資料の位置を覚えているわけではない。
美帆はファイルを手に取り、表紙を開いた。
息が、止まった。
高校時代の自分が、そこにいた。
一枚目は、文化祭の準備風景だった。
紙花を作りながら、隣の誰かに笑いかけている美帆。
こんな顔で笑っていたのかと、他人事のように思った。
二枚目は、校庭でカメラを構える美帆だった。
友人たちにレンズを向け、真剣な横顔をしている。
撮る側の自分が、撮られている。
三枚目、図書室の窓辺で本を読んでいる美帆。
頁に落ちる西日まで、丁寧に写し取られていた。
四枚目、転びそうになった千秋の腕を、咄嗟に掴んでいる美帆。
五枚目、撮った写真を液晶で確かめながら、眉を寄せている美帆。
六枚目、放課後の教室で、窓の外を見ている美帆。
一枚ずつ、手に取った。
どの一枚にも、撮られた記憶がなかった。
どの一枚も、カメラを見ていなかった。
それなのに、分かってしまった。
これは偶然写り込んだ写真ではない。
同じ誰かが、行事や放課後の折々に、美帆の姿を見つけて残した写真だ。
ファイルの最後の頁に、小さな紙が挟まっていた。
――撮影 相川遼。
見慣れた几帳面な字だった。
美帆は写真の上で、指が動かなくなった。
私は、撮る側だったはずだ。
誰かを残す側で、残される側ではないはずだった。
それなのに。
誰かが、私を残したいと思っていた。
五年前に自分で結んだはずの結論が、手の中で音もなく緩んでいく。
その時だった。
背後で、扉の開く音がした。
美帆は反射的にファイルを閉じた。
「その写真、やっと見たんだ」
男の声だった。
振り返る。
逆光の戸口に、カメラを提げた男が立っていた。
五年ぶりの、相川遼だった。
写真の中の自分は、一枚も遼を見ていなかった。
けれど、写真を撮った人の視線だけは、あの頃ずっと、美帆へ向けられていた。




