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第1話 写真の外にいた私

全二話の現実世界恋愛短編です。

取り壊しの決まった母校と、五年前に渡らなかった写真を巡るお話です。

最後までお付き合いいただけましたら幸いです。

旧校舎の昇降口は、記憶よりも狭かった。


片町美帆は記録用のカメラを首から提げ、五年ぶりに母校の敷地へ足を踏み入れた。

建て替えが決まった旧校舎は、夏の終わりに取り壊される。


市立図書館で郷土資料を担当する美帆に与えられた仕事は、校内に残された学校資料の整理と、建物そのものの記録だった。


廊下の木の軋み。

階段の手すりに残る無数の傷。

色の抜けた掲示板と、教室の入口に掛かったままの札。


美帆はそれらを一枚ずつ、丁寧にファインダーへ収めていく。

懐かしい、という感傷は意識的に脇へ置いた。


これは仕事だ。

失われる場所を、誰かの記憶の代わりに残しておく仕事。


「片町さんって、この学校の卒業生なんですよね?」

同行している市の職員が、資料の段ボールを抱えながら言った。


「そうです。五年前に卒業しました」

「じゃあ、片町さん自身の写真はないんですか? 母校の最後に、記念に一枚くらい……」


美帆は少し笑って、カメラを持ち直した。

「私は撮る側なので」

言い慣れた台詞だった。

高校の頃から、ずっとそうだったように。



保存対象のリストには、旧写真部室が含まれていた。


職員には一階の資料整理を任せ、美帆は一人で北校舎へ向かった。


三階、突き当たりの部屋。

美帆はその扉の前で、足を止めた。

札の文字は褪せていたが、まだ読めた。


写真部。


この部屋に近づかないように、当時の自分が廊下の反対側を歩いていたことを、体が先に思い出した。

思い出さないようにしてきた名前が、鍵を回す指先のあたりまで上がってくる。

美帆は小さく息を吐き、扉を開けた。


埃の匂いがした。

棚には古いアルバムとネガのファイル。

印画紙の箱、脚の曲がった三脚、暗幕の切れ端。

部員がいなくなって久しいのか、時間ごと置き去りにされたような部屋だった。


棚の下段に、黒いカメラケースがあった。

革の角が擦り切れている。

美帆は手を伸ばし、その表面に触れた。


指先に伝わる硬い感触と一緒に、五年より前の記憶が、静かに開いた。



高校二年の体育祭で、美帆は途方に暮れていた。

学年の記録係として行事の撮影を任されたものの、走る生徒はぶれ、跳ぶ生徒はフレームから消えた。


液晶を確認しては眉を寄せる美帆の横から、不意に声がした。

「シャッター速度、上げた方がいいぞ」


写真部の相川遼だった。

同じクラスになったことはあったが、まともに話すのは初めてだった。


遼は美帆のカメラの設定を手早く直し、走ってくる生徒に合わせて構え方まで教えた。

言われた通りに撮ると、砂埃を蹴る足が、初めて止まって写った。


「すごい」

「すごいのはカメラさ」

そう言いながら、遼は美帆が午前中に撮った写真を液晶で遡っていた。


応援席で笑う生徒。

水筒を回し合う生徒。

ゴールで抱き合う生徒。


「片町の写真って、撮られてる人がカメラを怖がってないんだな」

「……私が目立たないだけだよ」

「そうじゃなくて……」

遼は何か言いかけて、やめた。

「まあ、いいや。次、リレーだけど行ける?」


それから、行事のたびに二人は撮影で顔を合わせるようになった。

撮った写真を並べて見る放課後が、少しずつ増えた。

どの写真がいいかで意見が割れて、どちらも譲らない日もあった。


ただ、その放課後がこれからも続けばいいと、美帆は思っていた。



三年に上がると、美帆はそのまま卒業アルバム委員になった。

その春、幼い頃からの親友である木村千秋が言った。

「遼君に写真頼んだんだ。推薦の資料に使うやつ。人物写真が上手いんだって」


千秋は誰にでも屈託なく話しかける。

遼にもそうだった。

撮影場所はどこがいいか、服はどうするか、放課後の光は何時がいいか。

二人が廊下で相談している姿を、美帆は何度か見た。


遼は妥協しない性格らしく、納得のいく一枚になるまで千秋を何度も撮り直した。


「遼君って、ほんと真剣に撮ってくれるんだよ」

千秋がそう言って笑う声は、いつも通り明るいだけだった。


それなのに美帆は、その明るさの方ばかり気にしてしまった。


何枚も、何度も、千秋にレンズを向ける遼。

それは美帆の知らない、二人だけの時間に見えた。



ある放課後、美帆は校庭で下級生の部活動を撮っていた。


ふと顔を上げると、渡り廊下の先に遼がいた。

カメラが、こちらを向いていた。


目が合った、と思った瞬間、美帆は反射的に振り返った。

少し後ろに、千秋が立っていた。

部活帰りらしく、鞄を肩に掛けて誰かと笑っている。


視線を戻すと、遼は慌ててカメラを下ろしていた。

「……別に。光を見てただけ」


聞いてもいないのに、そう言った。

不自然な誤魔化し方だと思った。

そうか、と美帆は静かに納得した。

撮ろうとしていたのは、千秋だ。

それを見られて、慌てている。


胸の奥が小さく軋んだことには、気づかないふりをした。



文化祭の準備期間、美帆は廊下の角からその場面を見た。


遼が千秋に、写真の束を渡している。

千秋は嬉しそうに一枚ずつ確かめ、遼と肩を並べて何かを話し、それから言った。


「これ、すごく好き。ありがとう」


中身までは見えなかった。

写真の束を二人で覗き込む姿だけが、美帆の目に残った。

写真の出来を褒めただけかもしれない言葉が、遠くで見ている美帆には、まったく別の意味に聞こえた。


千秋が遼に写真を頼んだ春から、胸の内に積み重なっていたものが、そこで一つの形になった。


遼が好きなのは、千秋だ。

千秋も、たぶん。


美帆は角から離れ、静かに教室へ戻った。



「遼君と話してる時の美帆、いつもよりよく喋るよね」


昼休み、千秋が弁当をつつきながら言った。

探るような声ではなかったが、美帆の箸は一瞬止まった。


「そんなことないよ。写真の話しかしてないし」

「そうかなあ……?」

「それを言うなら」


美帆は笑ってみせた。

「相川君が好きなのは千秋でしょう?」

「え? 違うよ。あれはただ写真を──」

「無理に否定しなくていいよ」


美帆は笑って、弁当へ視線を落とした。

「応援してるから」

千秋は何か言いかけていた。


けれど美帆には、それが照れ隠しにしか見えなかった。


話を閉じた美帆に、千秋はそれ以上、踏み込んでこなかった。


踏み込めなかったのだと、当時の美帆は考えもしなかった。



卒業アルバムの編集が大詰めを迎えた頃、部誌の資料を借りに来た遼が、ページの束をめくりながら言った。


「片町、自分の写真は?」

「え?」

「これだけ撮ってて、片町がどこにもいないから」


指摘されて初めて、美帆は自分のページ構成を見直した。


友人たち、教師たち、行事の風景。

確かに、自分は一枚もいなかった。


「なくても困らないでしょう?」

「卒業アルバムなのに?」

「みんなが写っていれば、それでいいよ」


本心だった。

少なくとも、本心だと思っていた。


遼はしばらく黙ってページを見ていた。

その沈黙の意味を、美帆が知るのは五年後になる。



卒業式の日は、よく晴れていた。


遼は県外の大学へ進むと聞いていた。

式の後の廊下で、美帆はその場面を見てしまった。


遼が千秋に、一通の封筒を渡している。

厚みのある、白い封筒だった。


手紙だ、と思った。


あるいは、もっとはっきりした言葉かもしれない。

やっぱり、と思う自分の冷静さが、かえって痛かった。


人波が流れて、気づけば美帆は遼と二人になっていた。

遼が口を開きかけた。


「あの、片町──」

「千秋を泣かせないでね」


先に、笑って言った。

これ以上ないくらい、上手に笑えたと思う。


遼の表情が、一度だけ揺れた。

それから、短く言った。

「……分かった」


それが、高校生活最後の会話になった。



昇降口の外で、千秋が追いかけてきた。

「美帆、あのね、これ──」

鞄から何かを出そうとする千秋に、美帆は先に言った。

「二人の邪魔はしないから。私のことは気にしなくていいよ」

「違うの、私と遼君はそういうんじゃなくて」

「私に気を遣わなくていいから」

「聞いて!」


そこへ、写真を撮ろうと呼ぶ声が重なった。


別れを惜しむ生徒たちの輪が二人を分け、腕を引かれ、名前を呼ばれ、会話はそこで途切れた。


千秋の手は、鞄の中の何かを掴んだまま、行き場をなくしていた。


結局、封筒は美帆に渡らないままだった。


春、遼は県外へ発ち、美帆は地元に残った。



それから五年が経った。

美帆は地元の大学を出て、市立図書館に就職した。


郷土資料の担当になり、古い写真や、失われていく建物の記録を扱うようになった。

自分には合っていると思う。


千秋とは今も月に一度は会う。

ただ、遼の名前だけは、いつからか二人の会話に出なくなった。


失恋で人生が止まったわけではない。

仕事は楽しく、日々はきちんと流れてきた。


遼のことだけを、「親友を選んだ人」という札をつけて、確かめないまま棚の奥に仕舞っていただけだ。


その棚の扉に、今、指が掛かっている。



写真部室の整理は、二日目に入っていた。


机の上に置かれた資料箱の一番上に、背表紙に何も書かれていない薄いファイルがあった。

昨日は見かけなかった気がしたが、すべての資料の位置を覚えているわけではない。

美帆はファイルを手に取り、表紙を開いた。


息が、止まった。

高校時代の自分が、そこにいた。


一枚目は、文化祭の準備風景だった。

紙花を作りながら、隣の誰かに笑いかけている美帆。

こんな顔で笑っていたのかと、他人事のように思った。


二枚目は、校庭でカメラを構える美帆だった。

友人たちにレンズを向け、真剣な横顔をしている。


撮る側の自分が、撮られている。


三枚目、図書室の窓辺で本を読んでいる美帆。

頁に落ちる西日まで、丁寧に写し取られていた。


四枚目、転びそうになった千秋の腕を、咄嗟に掴んでいる美帆。


五枚目、撮った写真を液晶で確かめながら、眉を寄せている美帆。


六枚目、放課後の教室で、窓の外を見ている美帆。


一枚ずつ、手に取った。

どの一枚にも、撮られた記憶がなかった。

どの一枚も、カメラを見ていなかった。

それなのに、分かってしまった。


これは偶然写り込んだ写真ではない。

同じ誰かが、行事や放課後の折々に、美帆の姿を見つけて残した写真だ。


ファイルの最後の頁に、小さな紙が挟まっていた。


――撮影 相川遼。


見慣れた几帳面な字だった。


美帆は写真の上で、指が動かなくなった。

私は、撮る側だったはずだ。


誰かを残す側で、残される側ではないはずだった。


それなのに。


誰かが、私を残したいと思っていた。

五年前に自分で結んだはずの結論が、手の中で音もなく緩んでいく。


その時だった。


背後で、扉の開く音がした。

美帆は反射的にファイルを閉じた。


「その写真、やっと見たんだ」


男の声だった。


振り返る。

逆光の戸口に、カメラを提げた男が立っていた。


五年ぶりの、相川遼だった。


写真の中の自分は、一枚も遼を見ていなかった。


けれど、写真を撮った人の視線だけは、あの頃ずっと、美帆へ向けられていた。

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