プロローグ(後編)
「常盤さぁぁぁあああああん!」
「はい? なんでしょう」
僕はあまりのショックで幻視の世界にいざなわれた。僕の息の尽きるまで発された腹の底から足の裏を伝わって大地をも震わしかねない……しかしコンクリの堅さが邪魔をして結局誰の心をも揺すぶれずにいる叫び声が辿る方向には、いとも暗きカヤ林が延々と続いていた。それらを切り出す人間たちを僕が憎々しげな眼で見ていると、ちょうどそのとき、現実という里程標が出ているあたりから声がして、光へ抜けた先では生首が突然話し出した……。
僕ははっとして我に返る。どうやら今見ていたビジョンは幻覚だと判ったが、肝心の生首が物を言うところは悲しいかな事実であり、僕は現実の非情な一面をここに知る。
「いぃぃぃぃいいやぁぁぁあああ! 生首が喋ったぁぁぁあああああ!」
「大声で呼ばれたから返事いたしましただけですのに……まったく、失礼な人ですわね」
そう言って常盤さんは……否、顔をなくした常盤さんの本体は、たいそう気怠げな動きで自身の頭顱をひっつかむと、「うんしょっと」と短く息を吐くや(肺と直結していないのに、どうして呼吸できるんだろうか。教えてお医者さん)むんずと片腕で頭頂をしっかり抑えつけるように頸まで持って行くと、ザクロのように裂かれた傷口からニュニュニュとミミズみたいなものが伸びてきて接続し、ガッチリとロボットのような音こそしなかったが、すぽんとコミカルな擬音と共に分断された肉体は旧に復した。
ありえない。この先何があっても、きっと僕は眼の前で両親を惨殺された日を境に心を閉ざしてしまった少年のように何事にも動じず、驚かなくなるのだろう。
「あが、あがあがあが、……、……」
「どうされました? アゴでも外されましたか?」
僕は口を開けたまま固まってしまった。彼女の言うようにアゴが外れてしまったわけではないが、それなりの衝撃である。衝撃というものはいつまでたっても斬新で、一向に免疫が生まれないのがお約束みたいなものだ。
「ふぅー、それにしても、あまりたくさん血を流しすぎてしまいましたわね。わたくしとしたことが、まだまだ修行不足ですわね」
「………………」
いや、修行なんかで落ちた首が元通りになる世界なんだとしたら、おそらく誰もマリー・アントワネットに勝てやしなかっただろうし、ロベス・ピエールは単なる道化に終わっていたことだろう。
「……あれ? どういうことだよ、おい? 手応えは確かにあったはずだったんだが……それに漲月のあの反応、周りにこびりついた血……おっかしいな、なんであんた無事なんだよ?」
僕が呆けたままでいると、ちょっと崩落しかけたタイル壁からようよう身を起こし、朦々と立ちこめる土煙の中から姿を現した鈴木さんは、どうやら常盤さんのアンパンが元の鞘に納まる衝撃的な瞬間を見逃していたらしく、
「……生えてきたのか、トカゲみてぇに?」
だなどとトンチンカンなことをのたまっている。レルネーのヒュドラでもあるまいに、落としたそばから首が生えてくるなんてそんなこと……。
……尤も、現実に起こったことをかいつまんで説明した場合にはもっと滑稽で信用性に欠けるお話ができあがるわけだが……。
「ええ。まあ大方そのような理解でさしつかえなくてよ」
「……なんてこったい。まあ、残像とか行える時点でまったく不思議じゃねぇんだけどよ……」
と、この状況に順応できてしまえる鈴木さんが、どちらかというとやはり僕は常盤さんより気持ち悪いと感じた。これは本能的な嫌悪感なのだろう、たぶん。
「ちっ。参ったな。どうやら今の俺にあんたを倒すことはできねぇようだな」
「そうですね。今のままではできないと思います」
「そこでだ。俺は一時撤退しようと思うんだよ……じゃあな漲月」
そこで鈴木さんは、僕に一瞥を与えた。
人間を見る眼ではない。それは家畜とか、少なくともカーストやヒエラルキーの下に位置する者を見る時の、侮蔑のこもった冷たい眼だった。僕はわけもわからない寒さに震えおののいた。
「おっと。そうはさせませんのよ。誰あろうこの朝野常盤、貴方を退治するために東洋くんだりまで足を展ばして参りましたのですから」
「ほう、そいつはご足労だったな。だが俺はまだちぃとばかし弱い。この時代に生きる人間を容易に屠れないようじゃこの先が思いやられる……だからよぉ、力をつけたい」
「いえいえですから逃がしませんわよって。あなたはここで、この水仙の靡く路上で道半ばにして醜く散華する星の下にござそうろう」
……いったい二人は、なんの話をしているのだろうか。僕にはさっぱり判らない、おそらく次元の違うやりとりを数語交わしているうちに、段々と空が暗くなりだしてきた。あれ? さっきまであんなに明るかったのに……。
「まあまあ。ここは一つ大目に見てくれや。次に会う時には、お前と張り合えるくらいには――」
――そのときだった。どこからともなく不快な声が沸き起こり、そうかと思うと、たちまち鈴木さんの周囲に何か黒々としたものがまとわりついて、そのまま彼の身体を一気に押し上げた。家々の煙突から吹き出る黒雲のようなそれは、気体とも固体ともとれない出で立ちのまま、数軒の甍よりも高い位置に鈴木さんの身体を留め置いた。
「――俺も強くなっているだろうからな!」
瞬間、黒い煙の中からいくつもの顔が浮かび上がってきた。顔は大きいものから小さいものまで様々で、口々に悲鳴を上げながら空中を旋回してそこわたりを蹂躙する。素早く動き回るために、残像とまではいかないものの、彗星の尾が引かれるほどには飛び回る顔は俊敏だった。
「しまった、これは幽鬼――!?」
常盤さんが歯噛みしたように視線をあちこちに泳がせている。絵巻物なんかで見る魑魅魍魎の形をまとった巨大な顔も浮遊していて、譬えは下手くそになってしまうかもしれないが、僕は子供の時に訪れた遊園地のアトラクションの中で、CG映像を駆使したお化け屋敷みたいなのがあって、ハイテクノロジーに潜む恐怖がどうしようもなく怖かったのだが、これはどういうわけか愉快に感じられた。
「じゃあな、漲月……」
「あ……鈴木、さん」
鈴木さんの身体は、顔があちこちを飛び回るおかげで界隈に散布された黒い霧の中に姿を昏ませた。常盤さんが「お待ちなさい!」と鋭い声を発した後に「財!」と短く言って、空手チョップを何も無い空間に向けて放ったが、むなしく黒い霧を薙ぎ払っただけに終わった。
キェーだとかギョエーだとかいった不吉な音頭だけが、平日の目抜き通りに奏でる喧鬧だった。
「くっ……道理で、誰も通りかからないわけですわ……変だとは思っていたのですが、まさか幽鬼とは……」
「……あ、あの、常盤さん……状況を説明してください。その、つまり、ユウキとは何ですか? 僕は夢でも見ているんですか」
けたたましい声にいてもたってもいられず、僕は恐怖に衝き動かされて常盤さんに質問した。実はこの質問をしたせいで、常盤さんは注意力が散漫になり、またさっきみたいに首でも脚でもちょんぎられるだなんてことがあっては困るから、なるべくなら僕は何も差し挟まず、ただオブジェのようにこうしてここでうずくまっていたかったのだが、ヒュードロロと踊り狂う怪しげな顔を浮かべた煙のようなものに辺りを取り囲まれて、すわあと何センチかずれていれば触れていたというすれすれのところを通り抜けられるシチュエーションのただ中とあっては穏やかにいられない。まさに僕はアタラクシアを求めるのに恰好な偶像を得た信者のような取り縋る気持ちで、常盤さんに解説をお願いしたのである。木霊する叫びが僕の不安をいたずらに刺激してくる。
「これは幽鬼といいまして、古くは怪靈といって呼びならわされていたものです」
「ケリョウ……? なんです、それ。大事に関わることだったりします?」
「つまりは幽霊です」
「それって一大事じゃん!?」
僕は色を失ったように叫ぶと、浮遊する顔――幽鬼どもはその声を聞きつけた様子で、真っ直ぐにいろんな方向から僕に向かってきた。獲物を眼にした猛禽のごとく。
「は、はわわ……な、なんとかなりませんか常盤さん!? 常盤さん、実は霊媒師かなんかだったりしません!?」
常盤さんはばつの悪そうな顔をすると、心底申し訳なさそうに応える。
「残念ながらわたくしは霊媒師ではありません。霊媒師ではありませんが……まあ、少しだけ、ほんのちょっぴり荒っぽいのですが、」
と、かなり艶っぽい科をつくってから、上目遣いで僕を見やる。首を吹っ飛ばした太刀とかが玩具に見えてしまうほどの凶器だ、男にとっての婀娜というものは。
「除霊自体は、まあやってできないことはありません」
「どんだけチートな設定背負ってノッケから登場してきてんですか貴女は!? まあでも、この際助かりますよ。さあ、ちゃっちゃと幽鬼とやらをやっつけてください!」
「除霊は初めてなのですがねぇ……」
「え」
出し抜けに不安をかき立てられるようなことを言われて、僕は正直鼻白んだものだが、しかし僕には目前を飛びすさる幽霊をどうすることもできないならば、ここはチート級の設定が付与された彼女の陰に隠れているしかない。そう思い、実際彼女の細く括れた腰を見ていると、さてではどうやって幽鬼とやらを退治するつもりだろうか、有名なリンピョートーシャでも唱えて、エクソシストの凄さを宣伝するための佯狂番組みたいなことをするのだろうかと内心ドキドキしていると、
「裂!」
まず彼女はそのように短く叫び、自身に渇を入れたかと思うと……、
グッと拳に力を込め、腰溜めに何やら敵の到来を待つ仕草。
ひょぉぉおおとか肉にありついた獣のような叫びを上げながら一斉に迫ってきた幽鬼達に対して、常盤さんが取った行動は「ちょっと荒っぽい」だなんてとんでもない、
「――うぅぅぅううううりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃぁぁぁぁああああああっ!」
それはあからさまに荒っぽい、パンチの連打だった。
しかしただのパンチの連打ではない。拳は残像を作って常盤さんの周囲に一種のバリアーみたいなものを築き上げ、しかも突き出された拳は狙い過たず、無慮数百にもおよぶ幽鬼の顔面に痛烈な一撃を見舞っている。
見た目に華やかさが無いものの、その除霊は的確だったし、なによりスピーディだった。瘴気のように辺りにたちこめていた靄は、気付いた頃には文字通り雲散霧消していて、カラリとした昼の見慣れた風景を僕は取り戻したのだった。
「……な、なんだったんですか、今のは、いったい……? 鈴木さんは……」
僕は晴れた空の明るさを利用して街の隅々までを見回してみたが――店と店の隙間や車一台やっと通れようかというくらい狭い路地、ダストボックス集まる掃き溜めや寂れた看板が立ち並ぶ店先の数々――そのどこにも、鈴木さんの姿は、どころか人っ子一人散見されなかった。昼の陽光を受けて澄明な水のように透けるショーウィンドウ越しに店の中を覗いてみても、客や店員らしき人影は一つも見当たらなかった。
常盤さんは帯でも締めたように拳を寝かせて正眼にかまえると、次いで臍のあたりで水平に並べて「ふぅ」と長く息を吐いてから口を開いた。
「彼はもうここにはいませんわよ。わたくしに勝てないと覚って、早々に退散したのでしょう。ご丁寧に幽鬼の置き土産まで残していって」
「……その、幽鬼なんですが……どうして、鈴木さんはあんなものを……?」
無数に飛び交い、叫び、共鳴し合う、大小さまざまな顔、顔、顔。それがもたらす恐怖を思い出した僕は身震いしながらも、今は真相を知ることのみに必死だった。
傷の痛みはどこ吹く風となる。
「……そのことですが……そうですね、まずは確認しておきましょうか」
「確認? なんの、確認でしょう?」
「いいから、随いて来てくださいましな」
「?」
わけもわからず、言われた通りにしようと思った僕は、腿に刺さった包丁が変な風に食い込まないか気を使いながら、彼女の後を跛行していった。それで気付いたのだろう、彼女がピタっと事故防止機能の搭載された車のように止まる。
「ああ、そうでしたわね。すっかり失念していましたわ。まず先に怪我の治療をしなくては」
「手当ですか……? 治療も何も、病院に行かないことにはなんとも……て、常盤さん、なにを……!?」
常盤さんは僕に向き直ると、すたすたと迷いもなく僕に近寄り――そう、ほんの一分の迷いも見られなかった――、柄を握るや「えい」とばかり、一息に僕の身体の一部となりつつあった包丁を引き抜いた。アンペアの単位を超えた電流が迸り、そのあまりの痛みに僕はやっと立ち上がったのも一瞬、またも路上を転げ回った。
「ひぎぃぃいいいいい!? なにすんですか常盤さん!? 動脈まで達してたんですよ!?」
人工的な瘡蓋の役目を務めていたそれが大根かなんぞのように引っこ抜かれてしまったせいで、せっかく落ち着いていた休火山のようだった僕の傷口からはフラストレーションのマグマが盛大に噴出した。留めどなく流れるそれを見ていると気をおかしくしてしまいそうだったが、いや、間違いなくこれまでの僕だったならば気絶なり失神なりしていたものだろうが、数々の人体にメスを入れては内部をいじくる医者がオペ中に卒倒したりすることが無いように、この日の経験が僕に変な免疫をつけていた。
僕は医者のように冷静なまなこで、傷口からだくだくと流れる血を見ていた。背筋のあたりがぞわぞわっと寒くなったのは、熱を伝える血液が不足しているからなのだろうか。それとも垂れ流される人間の体液を、全体と直結する一部としてではなく、あくまで部分にすぎないものとして見ようとする自分の価値観におののいてしまったからなのだろうか。僕にはその辺がよくわからずに、とにかく凍り付いた。
「……前」
常盤さんは妙に落ち着き払った声でポツリと呟いた。瞬間、吐き出されたその言葉が、あるいは呼気が形と光を伴いながら彼女の周りをめまぐるしく旋回し、取り囲んだ。光は彼女の背に春の陽に遊ぶ蝶の羽根のようなものを立体的に浮き上がらせ、その鱗粉だろうか、小さな光の球が羽根の方からふわふわと風に乗ってやってきた。
「……なに、これ……――へ?」
光の球は僕の身体がそれらを引き付ける磁場ででもあるかのように集まってくると、たちまち傷口を覆い、あっと言う間に血を塞いだ。
「……!? 光が、傷口を通って僕の中に入ってくる!?」
「脅えないで。その光は人の脅えに敏感なんですの。あなたが脅えれば脅えるほどに、その光は傷の治癒を遅くする……」
「……」
何がなんだかさっぱりわからなかった。傷の、治癒……? この人は何を言ってるんだ、もっとわかりやすい言い方で、要点だけをきっぱり言い切ってくれればいいのに。傷を癒すって、この光が僕の抉られた肉となってくれるとでもいうのだろうか? それとも失った血と連結して、僕の身体を隅から隅まで循環するのだろうか? そして、鈴木さんがいったいどうなってしまったのかという答えが、僕の中を照らして流れる光によってわかるとでもいうつもりだろうか。わからない。僕にはさっぱり、彼女のまどろっこしいやり方がわからなかった。
ただ僕は、常盤さんの蝶の羽根を生やした艶やかな姿に見惚れていた。色々あった一日だったが、何一つわからないことの連続した一日だったが、唯一疑いないのが、僕は彼女の見目麗しき容姿に恋をしてしまったのだ……揺れる水仙の青き花蕊が僕と重なる。その蝶は花に惹かれるでもなく、風のまにまにヒラヒラと羽根を翻すのみで、そんないじらしい姿に、花は蝶に恋をした。
僕は光の中で、一心に恍惚としていた。
「……傷口はこれでよし、と……他にお怪我はございませんか?」
「……は!?」
我に返ると僕は瞠目した。なんと、なんとなんとなんと。あんなにも深々と刺さっていた包丁の抜けてできた穴ぼこが、縫合した痕一つ遺さずキレイに塞がれていたのだ。
僕は破けたズボンの穴に手を忍ばせ、臀部に近いその辺りをさすってみた……大丈夫、感覚は生きている。これはまぎれもない、僕の肉だ。僕の皮膚だ。僕の肉体を構成するための、僕のDNAからなる僕の動物細胞の巨大な塊だ。
「すごい……あなたは、魔法使いなんですね」
僕は常盤さんの美しい顔立ちを見る。妖艶さのうちに善意の花を咲き誇らせる彼女のかんばせには、無私の芳香とみずみずしいハリが窺えた。
「……ご期待を裏切ってしまうようで甚だ心苦しいのですが、わたくしは魔法使いなんかではありませんわ。ただの……あ、そうそう」
と、そこで彼女は何かを思い付いたように言いさすと、たまらず侘びしい表情になりながら、婉然とした笑顔を絶やさずに続けた。
「わたくしも今の治癒でほとんど力を使い切ってしまいましたの。正直、こうして話しているのもしんどいくらいで」
無理もないだろう。残像、投擲、首の接着、パンチの連打、そしてこの治癒……否定はしているものの、仮に彼女が魔法使いだったにしても、MPゲージの消費は甚大なものであろう。僕が今日繰り出された技の中でどれが一番燃費が激しいのかということを脈絡もなく考え、パーティー育成のうえでどの技を中心に駆使して冒険の旅を勝ち抜いていこうかと益体もなく思案していると、彼女は顔をしかめてこうお願いしてきた。
「ですから、お願いします。貴方の血を吸わせてください」
「吸血鬼だったの!?」
なんてことだ、そんなジョブは設定にはない。というか酒場に都合よくいたとしてスカウトするのは相当はばかられる人材だ。つーかむしろ、駆逐する対象じゃねぇかそれ。
「ドドド、ドラキュラって慥か、太陽に弱いんじゃ」
僕は今この瞬間、実は僕は夢を見ていて夢の中でこれは夢だぞと気付いている気持ちになってみて、それから全てのものに疑いを抱いた眼で太陽を見上げた。昼の紫外線が虹彩を灼く。僕はエクソシストの祝詞を聞きながら銀でできた十字架の尖らせた先端にニンニクのエキスをたっぷり塗り込んだそれを心臓に突き立てられた某伯爵のような心境で直射日光の辛さを、文字通り目の当たりにした。
「いえ。わたくしは魔法使いでもなければ、吸血鬼でもございません。ただただその辺にいる女の子とそう変わらない――人間の血を原動力にうごく、しがない美少女ですわ」
「自分で美少女とか言うなよ……」
いや、美少女なんだけどさ。
彼女は眼を潤ませて、懇願するように顔を近づけた。ほんのりと額に照る汗が、女の子の色香を僕の鼻腔に押し込んでくる。くぅ、こんなのその辺の女の子とはまるっきり違うぞ。
「あの、……それが血液だったらなんでもいいんです。なんでしたらその、ズボンにこびりついた血だけでもいいので……ああ! そうこうしているうちに乾いてきています! はやく舐めさせてください!」
「えっ、舐めるってこのズボンを!?」
僕はお尻の部分にかけてを流れてこびりついた血液の河を見る。穿いたまま舐めるのか、これを? たしかにまだ春先とはいえ、照りつける太陽と擦過する風に水気をさらわれて徐々に剥がせないシールみたいになりつつあるそれを舐め回すのであれば、一刻の猶予もあるまい。脱いでいる間も惜しいはずだ。しかしそれは、なんとなくというか確実に、変態チックな画だ。
考えてもみたまえ、君。こんな可愛らしい若い女の子にいくらズボンを穿いているからってお尻をペロペロされるなんて……想像するだけで、なんかこう、胸の内側から込み上がって来るものがある。そしてそんな際どい妄想は、サテュロスだって好むまい。
「本当に、吸血鬼なんだ……くっ、最近はやりの吸血っ娘と、まさかこんな形で出くわすことになるなんて!」
「血液なら誰のでもいいというわけではありませんのよ。ドラキュラとは真逆で、わたくしの場合若い殿方の血を好みますの」
「古のラミアーみたいなものか」
「その方が気分が高揚しますの」
なんだかひどく隠微な会話になってしまったが、ともかく僕はお尻……血を舐めさせないことにはどうにも話が先に進まないという気がしたので、釈然としない……思うところは色々とあったのだが、まあその、なにはともあれ尻を突き出した。傷口から臀部にかけてが、一番血の湿りが豊潤だったからだ。足先の方へ流れていったのはもう大方干からびてこびりついてしまっていたのだ。
「あ、あの常盤さん……! くすぐったくておならが出てしまいそうなのですが……!」
「我慢してください。放屁の衝動をこらえたところで、人の腸は張り裂けたりしません」
「そ、そんな無体な」
「ペロペロ」
「は、はぅんっ」
本当に人通りが少なくて心底よかったと、僕はこれほど実感したことはなかった。僕はこの経験を境に、人としての、男として生きるための沽券のいくつかをふいにしてしまったような気分になり、ひどくアパティアな三年間をその後消光した。
愚者は教えたがり、賢者は学びたがる。そう言ったのは慥か、中国の思想家である荘子であったか。その意味でいくと子供の教育に熱心な大人達は総じて愚者ということになってしまうわけだが、まあ哲学的思考を皆がしようとせずに、考えることといえばナントカ税の納入とか、何号線道路の界隈がどうなっていてとか、どうせそんなくだらないことを共通の「思考」としてしまっている現代人だからこそ日々つまらないことで喧嘩や諍いがやまないのだし、だからこそ哲学的アタラクシアからは随分隔たっていると考えれば、やはり子供を教育する可能性が誰にでも等しくありうる世の大人達は総じて愚者と云えるのかもしれない。
さて、僕は自分で自分のことを賢者だとか思ったりするほどお目出度い頭をしているわけでもないのだが、しかし三年前の僕は比較的「なぜ何どうして」の多い多感な時期だったのは事実であったものだから、この時もその例にもれず、僕は美少女にお尻をペロペロされるという耐え難いスティグマとこの上ないエクスタシーとの綯い交ぜになった奇妙な感覚を味わいながらも、エネルギー補給を完了した常盤さんを質問責めにしていた。今度は攻めに回るのである。
「なぜ若い男の血が原動力になるんですか?」
「人間の身体を巡る血液には、人間の魂とでもいうべきものが染み込んでおりますの。わたくしが得ているものはそれです。とりわけ若い男性のを好むのは、意志が強いから、でしょうね。むろん意志力なんてものは明確な数値による基準もなければ、そんなもの性別や年齢に関わらず個々に千差万別なのでしょうけれど、わたくしの体験からしますと、おしなべて若い男性の血の方が回復がよかったりするのです」
「なぜあなたはあのような力を持っているのですか? つまり、幽霊を退治したり、切断された首をくっつけたり、自分よりも体格の大きい相手を投げ飛ばしたり、残像が生まれるほど速く動けたり、どうしてできるんですか?」
「それは精神の力を開放したことによります」
「精神の、力?」
これはもうちょっとまじめにSFの勉強をしておくんだった、と後悔するうちにも、彼女の解説は立て板に水の譬えよろしく淀みなく続く。
「ええ、そうですわ。わたくし共は目に見えない精神エネルギーのことをして“破魔”と呼称していますが、これによって常人にはなしえないことをも可能にします。またこれは、修行次第では誰でもできます」
「誰でもできるって、そんなドラ○ン○ボールみたいな世界観……じゃあ、あれですか。努力次第ではみんな貴女みたいに、首がポロンと落ちても拾えば大丈夫、みたいなビックリ人間になれるんですか?」
「ああ、あれは難しいですね。言ってみればあれはわたくしの固有のスキルみたいなものですので、あれを会得したいがために試みに首を落としてみようとするのはあまり推奨できませんわ」
「間違ってもそんなデンジャラスな実験には踏みきりませんから、ご心配にはおよびませんよ常盤さん。……しかし、精神の力とは、また随分抽象的なパラメーターですね」
「……人は所詮、他人の気持ちを本当の意味では斟酌できないものです」
「努力すれば、僕でもその“ハマ”っていうのは、使えるんですか? 残像とまではいかなくとも、せめて俊歩とか簡単な治癒とか」
「修行のスパンとその内容にもよりけりですが、それくらいならどなたでも可能でしょう。努力には値千金の価値があります」
「残念ながら努力は等しく無価値で、本当に価値があるのは努力に払った分だけの時間です。努力とは怠ってみて初めて価値がわかるもののような気がします」
「……あなたがそうおっしゃるのでしたら、きっとそれはそういうことなのでしょう。わたくしは貴方の経験を否定しませんわ」
「ところで鈴木さんは、いったいどうしてしまったんです? なぜ幽鬼みたいな、あんな力を? なぜ前とは人が変わったようになってしまったんですか? そして何故、貴女は鈴木さんを捜してここまでやって来たんですか?」
……この最後の問いについては、彼女はじっと僕の顔をのぞき込むばかりで何も教えてはくれなかった。
彼女は愚者ではない、ということだろう。
ややあって、彼女は恋人を殺した張本人が出所してくるところを待ちかまえていた人のような面持ちでこう問い返してきた。
「身に覚えはありませんか?」
「……と言うと? まさか僕が直接的に彼に何かをしたとでも?」
「いいえ、してないのでしょう。眼を見ればわかります。ですが、間接的にしてしまったのかもしれませんよ」
「間接的にしてしまったことまでは、ちょっとわかりませんね」
「おそらく多くの人がそう言うのでしょう。ところで貴方はこれまでにどのくらい嘘を吐いてきましたか? 日常茶飯事?」
「いやだなぁ、僕はいつだってオネストマンですよ。吐いた嘘は方便くらいです」
「……嘘に方便なんか、ありはしませんわ」
常盤さんはそれだけ言うと、もう質問タイムはこれで終わりとばかり、最後に一つの問いを投げかけた。彼女の口許には、未だに拭われていない僕の血がこびりついている。
彼女のいうところの僕の魂の一部が、今彼女の体内を流れているという事実が、僕の気分をなぜかしら高揚させていた。
「あなたのお名前、お教えくださいませんか?」
「漲月堅盤です――図らずも似たような名前ですね。貴女と僕とで、常盤堅盤」
「あらあら、それはそれは奇遇ですこと……」
軽く受け流すつもりだったのだろう。彼女はそれきりまた前を向いて、今しも歩き出そうとしかけたところで、はたと動きをやめ、前日の夜になってから翌日までに済まさなければならない宿題を思い出してしまった駅前の女子高生といった顔で慌てて聞き返してきた。
「いま、漲月とおっしゃいましたか……!?」
「え、ええ。まあ……」
はて、漲月という苗字に彼女が敏感に反応する理由とはいったいなんであろう。慥かに珍しい姓ではあるのだけれど、取り立てて眼を瞠るほどにはエキセントリックネームというわけでもない。ならばといって、有名人でもない一介の大学生なり損ないである僕のことを彼女が噂に聞き及んでいて……ということも考えられないし、鈴木さんのように写真だり名簿だりを持って僕のことを捜していたという反応でもそれはないのだろう。
ならばなにゆえ彼女が唖然としたまま数刻前の僕みたいに口をぱくぱくとしているのか。謎は深まるばかりだが、返す言葉も他に無いので僕は黙っていると、
「……ふふ。奇妙な縁ですね」
「……はい?」
「なんでもありません。それよりもう立ち上がって平気なようでしたら、生存者の確認に向かいましょう」
なんだか僕を置いて一人で勝手に納得している様子なのが気になったが、常盤さんの言うように何はともかく職場仲間、お客さん方が無事かどうか確認する方が先決だった。
……正直僕は、店の中を見るのが辛かった。結局わからずじまいだったが、どうも鈴木さんはオカルトな能力に目覚めてしまったものらしい。僕の憶えている範囲では彼がヲタク的趣味を持っていたかどうか定かじゃないが、そんなこととは無関係に、彼は男の子なら求めてやまないファンタジックな力を手にしてしまったのだ。
そしてそれを用いて、憎き店長を弑したのだ。
「……店の中の人、無事でしょうか……?」
僕はこの期に及んで解りきったことを、無意識に訊ねてしまった。風が無遠慮に笑っていた。僕の大腿部はもはやなんともなかったが、さっきまで異物がそこにあったという感覚が痛みやらムズ痒さやら形容し難い違和感を訴えてきて、記憶となった傷口から生暖かい風が僕の中に侵入してくる。
常盤さんは僕の問いに答える気はなかったらしく、全然別の話をしだした。
「……幽鬼とは、ある一定範囲に限られた霊的空間――早い話が結界ということなのですが――そこに浮遊せる死者の魂を、なんらかの術者が意のままに操り他人の身体に憑依させて乗っ取るか、あるいは精神を食らいつくすもののことをいうのです」
「結界、ですか?」
僕は周囲を見回す。換気扇や室外機のプロペラが回っていたり、ファンやモーターの音がどこかからブウウゥゥゥゥンと聞こえてくるほかはまったく人気のない街並みが、道なりにまっすぐいけば突き当たるそれなりに大きな駅の方まで真っ直ぐひろがっているだけで、目新しいものは何一つ見当たりはしない。風だけが閑散とした通りを寂しげに吹き渡った。
「人が一人も通りかからないでしょう? おかしいと思いませんか、平日の昼間なら、それこそサラリーマンや主婦やなんかで、駅前の商店街は賑わっていてもおかしくはない筈ですのに」
「確かに……するとここは、もう既に結界の中ってことですか?」
「ええ、そうでしょうね……そして店の中にいた貴方や従業員、それに客を除いた全ての人間が結界の外へ追いやられた……というよりも、わたくし達が別の世界に飛ばされたと理解した方がよいのかもしれません。そして幽鬼は、結界で現されたポイントにおいて放浪する死者の魂が変貌したものなのです。もともとこの地に漂っていた漂泊の浮遊霊に限っても、一度の結界で繰り出せる幽鬼の数はせいぜい数十体……それも肉体の死後の年月が経てば経つほど魂というものは漸次鮮度を落としていきますから、さきほどの幽鬼は……」
「……あ」
彼女が何を言わんとして、そして躊躇っているのかが僕にはわかった。唇を噛みしめるように内側へしまい込み、何かをこらえた様子の表情を窺っていると、なまじ勉強は得意だったものだから、これまでの彼女の専門用語を交えた説明を思い出し、今の発言と綜合してみるだけですぐに気付いた。常盤さんの口端から血が出ているのは、僕の血を舐める際に付着したものか、あるいは自前のか。そんなことはわからなかったが。
彼女はどうやら、さきの僕の問いをまんざら無視したわけでもなかったのだということはわかった。
店の自動ドアが情感もなく開く。何の感慨も、バラエティ番組の編集のような溜めもなく、簡便さとスピーディさと省略を効果音に、あっさりと中の惨憺たる地獄絵図を開帳させた。
僕の中の平和な世界が、音を立てて崩れ去っていくのがわかった。音は風のささやきに似ていた。
「……そんな……みんな、何の罪も無い、無辜の人達だったのに……」
眼鏡のレンズの破片がが眼球に突き刺さった丸顔の中年男性の首がカウンターに転がっていた。床一面は赤絵の具をまき散らしたみたいな大惨事になっていて、OLなのか従業員なのか、身体のあちこちが千切れたり捻れたりしているせいで判別はつかないが、傷だらけの乳房が覗けたりスカートを穿いていたりするからには女性なのだろう遺体が、くの字型に横たわっていて、床の間の布団のように積み重なっている。
座席には骨を覗かせた人達が上を向いたり下を向いたりしている恰好のまま固まっているのが眼に入って、僕はむき出しの贓物ゆえに生ずる異臭のせいか、おぞましいグロテスクな光景のせいかわからないが、赤い血で満ちた床に黄色い吐瀉物で波紋をひろげてみせた。身体中の饐えた臭いの因を出そうとするかのように、長いことゲェゲェやっていると、見かねた常盤さんが僕の肩を抱いて外に引きずり出した。無神経な風が僕の面を叩きつけた。水仙の青い花が皮肉なまでに笑んでいた。
「……世界が……平和な世界が、壊されました……鈴木さんが、壊してしまいました……何が、彼を、そうさせたのでしょう……」
それが地獄を見てきた人間の発する第一声であった。
「……いいえ、違います。あの方は本質的に、初めからそうだったのです。貴方はお気付きではないかもしれませんが、世界平和に何より必要なのは、根源的な悪なのですわ。貴方が平和を実感していたのであれば、それは同時に悪を看過していたことにもなる」
間接的……いくらかのタイムラグがあってから、この言葉が僕の胸を鋭利な野菜包丁でメッタ刺しにした。サックリ、ザックリ。雪でもかくような、単調な作業の音。僕の胸に響くのにはちょうどいい、譴責のリズムだった。
「……常盤さんの力で、彼らを甦生させることは、できないんですか……?」
僕の血ならいくらでも搾り取ってもらってかまわなかった。それで失わされてしまった者らが息を吹き返すのならお安いものだ。
しかし常盤さんは案に相違して、悲しげな表情でふるふると首を左右に振った。プラタナスの細い枝の先端が僕の神経をくすぐった。
「……それはできませんわ。彼らはもはや命を容れる器にすぎず、割れた容れ物をどれだけはつり合わそうと、こぼれた水は取り戻せません」
「水って、何の譬えですか……?」
僕はおずおずと伺ってみた。常盤さんは僕の肩を支えたまま、まだ明るい空の青さを見上げていた。淡い色をした髪が蒼穹に溶けたかのように風に散らされて舞う。僕は空にではなく、すぐそばの状景のうちに光明を見いだす。
「……あの幽鬼……もともとこの地にいた者と、急拵えの新鮮なものとが入り交じっていました。もしやとは思っていたのでしたが、まさか皆殺しとは……」
なんてことだ……常盤さんはさっきの幽鬼を、店の中にいる人達の幽鬼となってしまった魂を残らず成仏してしまっている。だから命は還らないという意味なのだろう。僕は下を向いた。僕がこの通りで常盤さんと数語を交わしているほんの僅かな間に、鈴木さんは店長を殺した時のように、店内の人を全員惨殺におよんでいたのだ。
なんの感情もなく、ただただ冷酷に、無慈悲に、彼は他人の命を奪ってしまった。
「……なんなんですか、鈴木さんは……彼の身に、一体何があったっていうんです……? あの写真はどういう意味だったんですか!?」
「落ち着いてくださいまし。まずは順を追って話を整理しておきましょう……そうですね、まずは結界を解くのが優先事項でしょう」
と言って、彼女は僕の手をとってすたすたと歩み出す。細くしなやかな指先だ。僕の手の平よりも幾分小さめな手で、皮膚の内側からは健康的でしっかりとした体温が伝わってくる。身体を巡る精神エネルギーとやらが作用しているからなのか。
「……結界って、解いたらどうなるんですか?」
「もともとの空間との差異を正すので、わたくし達が本来あるべき空間にジャンプするだけです。結界を解けば、昼時に相応しい雑踏の姿がお目見えできます」
「結界を解くのは店の前じゃ無理なんですか? どこかに移動しないとできないことなんですか?」
「いえいえ、そんなことはございませんが……ただ、解いた時にわたくし達があの店の前にいては、大変な騒ぎになりましょう? あなただってまだズボンに血がこびりついていますしね」
「あ」
そうか……結界を解くということは、彼らの無惨な亡骸をも外の人達の眼にさらすということなのか……。とすれば、何も知らない一般人達からすれば、この猟奇的すぎる殺人が音もなく、気付いた頃にふっと行われていたと知れば、慥かにこれはビッグなニュースになりそうだと考えていると、唐突に彼女が「……財」とごちたので、これまでの経験からまた何か起こるのだろうなと事前に身構えることができた。案の定、三次元の空間がぐにゃりと歪む。
「ぐっ、う……」
眩暈に酔っていると、耳に聞き慣れた道行く人の足音、喧噪、車の排気音……。
はっと眼を見開くと、正面には手を繋いだままこちらを振り返る常盤さんと、わいわいがやがやと浮かれ騒ぐ通行人や道路に走行するバスや自動車……戻ってきたんだという実感が僕を虚脱させる。
と同時に、もう戻らない命もある。僕が背後を向こうとするのを、常盤さんが視線だけで制した。
「いま振り返ると、警察やら何やらに後で面倒くさいことになります。今日起こったことを貴方はどう説明するつもりですか? バカだと思われますよ? 気でも狂ってるんじゃないかと疑われますよ? 最悪下手人として名指しされるかもしれませんよ?」
「でも……僕があそこで働いていたのは記録に残ってますから、いずれ同じことだろうとは思いますけど……」
「それでも振り返らないことをお勧めしますわ。オルペウスの二の舞になりたくはないのでしたらね」
「……? なんです、それ?」
「ギリシア神話には明るくないようですね。冥府より妻を取り戻そうとして、後ろを振り返ってしまった男の不幸な教訓です。一生後悔する羽目になりますよ」
「一生を失意のうちにすごすのはいやですね。ギリシア神話、勉強します」
さしあたっては、呉茂一あたりを読んでいればいいのだろうか。とこの時僕は冷静に考えていた。
「なにはさておいても、騒ぎが起きて警官が群がったりする前に、その血染めのズボンをどうにかしませんとね」
と言って、彼女は僕の下半身をまじまじといやらしい眼つきで見つめていた。僕はなぜだろうお尻に焼け付くような違和感を覚え、頬のあたりまで羞恥で焦がしてしまいそうだった。とみに吹き荒れる春の風が、街中で堂々と手をつないでお互いを見つめ合う若きカップルに世間の視線を乗っけて運んできた。
カランコロン、いらっしゃいませ~。
僕らが駅の眼と鼻の先にあるカフェレストランの窓際四人掛け席に向かい合って座った頃には、店の前には何台もの救急車両とパトカーが、そして「コーション」と英字で書かれた黄色いテープが張り巡らされ、その外では野次馬達が押すな押すなの大盛況、店長が生きてこの光景を見ていたならば嬉しい悲鳴を上げていたろうが、声帯を一突きでやられてしまった彼は今や青いビニールシートにくるまれて運び出されるただの物質だ。宗教にでも入信していれば、死後の肉体はナントカで、といった風に説明できてしまえるのだろうが、残念ながらこの国の人間は科学以外の信仰を持たないから、肉体はあくまで物質で、常盤さんのいうところの精神エネルギーを失ってしまえばそれはただの物質にすぎなかった。
対面に座す常盤さんはアイスカフェラテをストローでチューチュー吸い上げながら、窓の外のそんな光景をしげしげと眺めていた。長い睫毛が西日に影を落としている。よく見ると化粧はほとんどしておらず、素材のままの美しさがありありと窺えた。
「改めまして自己紹介をば。わたくしの名前は朝野常盤。以後お見知り置きを願い申し上げますわ、漲月堅盤さん」
以後、というからには、どうやら僕と彼女の関係はこれからも継続していくものらしい……少なくとも現在にいたるまで三カ年の間行動を共にしているのは事実だから、この言葉に嘘は無かった。
「……朝野、ですか……!? もしや、その朝野というのは……!?」
しかし当時の僕はこんな美少女と「以後」までご一緒できることに少なからざる喜びを感じる以上に、彼女の姓に驚かされた。お互い相手の苗字を気にしているようで、なんだかお見合いのカップルみたいだったが、しかし僕が驚いたのも無理はない。僕が知る中で歴史上、こんな凄い人間離れした力を持ち、かつ朝野姓を有した人間といえば高名なあの一族しか思い浮かばなかった。
「はい。おそらく貴方のご推察どおりの朝野です」
「……はは、凄いや……道理で浮き世離れしているわけだ。常盤さんって、あの語り継がれる独裁者、今から八十七年前のENNJU暦五九年に世界を征服したあの朝野未来の子孫だったんですね!」
「……」
僕が歴史上の人物の末裔と出会った興奮から嬉々とした調子で言うと、彼女は恥ずかしがるというか、居心地悪いというのか、ちょっとばつの悪い顔をして眉をしかめた。
「……あ、ごめんなさい……」
僕は浮かし気味だった腰を落ち着けて、僕の分であるホットコーヒーを一口すする。香りもそうだが味も苦かった。
……先祖が歴史的に汚名を着せられている独裁者、なんて人の気分は実際にその立場になってみないことには理解できないのだろうけど、朝野未来については、「大っ嫌いな歴史上の人物ランキング」なんてものが仮にあったとしたらぶっちぎりのナンバーワンに輝いてしまうくらいに悪名高い名前なのだ。そもそも暦をそれまでの慣例にして統一基準であった西暦からデタラメな時点を元年としたENNJUに改元させたことによって、自然科学との符合によって暦の研究をはかっていた世界中の学者やインプットされていた耐久型の機械に混乱を生じさせたのは朝野未来だし、他にも多くの人々に不満を抱かせる統一政策を推しすすめたあげく世界中の悪意をその一身に浴びた彼女は、人類史上最悪の愚帝、暴君とまで揶揄されている。
そんな人物の子孫であることを大衆的なお店の中で、叫んだつもりはなくても大きい声で言ってしまったことは、デリカシーがなかったと今でも反省している。凄惨な現場を見てきたばかりとあって、少々気が動転していたのは確かだったのだが。
「……いえ、気にしてませんから、お気になさらず」
……まただ。またも彼女は僕に気を遣う。僕だから特別、というわけじゃないのだろう。僕と彼女は出会ったまだ数時間たらずだ。彼女はおそらく、誰にでもそうなのであろう。
誰にでも、どんな人に対してでも、自然と気を遣えてしまうのだろう。それはなんだか、社会に飼い慣らされた僕には恐ろしげに映った。
「それに、わたくしは朝野未来と血がつながっているわけではありませんし」
「……? というと……?」
「未来の血は、その孫、圭の代で途切れています。それ以降は圭の義理の妹であった美和子が、美鈴、美幸、祐希、緑と、彼女が救い出した人物達に次々と朝野姓を継承させていき、わたくしは最後に美和子によって養子となり、朝野の衣鉢を継いだ緑の実の娘です」
ほどなくして、頼んでおいた軽い食事が身なりの整ったウェイトレスによって運ばれて来た。僕は何の気なしに、いつも勤めていた職場を眺めやる。あまりに肉片が散乱していたものだから片付けや遺留品捜索が難航しているのだろう。垣をなす群衆はまだはける気配を見せない。
僕は自分の注文したティラミスを食べ方がわからずぐちゃぐちゃに層を崩しながら、今し方彼女が語っていた未来以降の朝野の家系図を頭に思い浮かべ、反芻していた。ティラミスを反芻したんではなく、常盤さんの言葉を、だ。淡々と語ってはいたが、未来という先祖の存在が常盤さんにとって相当の重石であったことは想像に難くない。たとえば孫の圭にしたところが、子を設けられなかったというところが、なんだか「朝野未来の孫」というレッテルが貼られたためであったような気がしてきて、窓を強く叩いてくる外の風を僕は忌々しく思った。この風が常盤さんの青い髪をまたいじくるのかと思うと、耐え難かった。
常盤さんはイチゴのムーンタルトをおいしそうに頬張っている。こうして見ている分には、幽鬼とか破魔とかとは無縁の少女に見えるのだが、彼女の傍目には見えてこない歴史の部分が、彼女の心に暗いものを投げかけずにはおかないのではないか。他人に気を遣ったり、薄く笑んだりするその仕草は、そう演じているのでもなければ、そうするしかない状況にあるからというのでもなく……。
あるいはそれが、彼女の根の性格として芽生えてしまっているんじゃないか、と……僕はそんな気がして、そんな気がしたからこそ、とりあえず彼女の綺麗なところはありのまま率直に綺麗だと言ってしまおうと思って、まずは当たり障りのないその奇抜な毛髪から触れてみた。
「その青い髪、随分と綺麗ですよね」
ピクリ、彼女のスプーンを口に運ぶ手が止まり、全身が凍結したように固まり、わなわなと眼を震わせている……その表情は死んだように強ばり、今にも血を吐きだしそうな勢い……てゆーかいきなり地雷踏んじゃったの!?
「ふふっ。冗談ですよ冗談。変わってるとは言われたことがあっても、綺麗だと面と向かって言われたことがなかったものですから、つい嬉しくて」
「嬉しいと表情を殺すんですか貴女は……僕はてっきり、最愛の人を亡くしたとか、何かおそろしい因縁がその髪の色にはまつわっているのかと一瞬冷や冷やしましたよ……」
「ふふ。からかってみただけですわ」
「よしてください……こんな美少女の機嫌を損ねてしまっては、世間に対する僕の評価が危ういですよ……まあでも、そんな常盤さんにはよくお似合いですよ、その髪」
「ありがとうございます……ふふ。お似合いといえば、そのズボンもなかなかどうして、映えておりますわ」
「えぇ~、本当ですか……?」
僕はテーブル下に隠すようにしまっていた自分の脚を覗きこむ。カーキ色をした随分とパンクな一点物だ。服屋に行って彼女に適当に見繕ってもらったのだったが、そもそも奇抜な衣装を纏った常盤さんにコーディネートを頼んだのが間違いだった。他人から見たら気にならなくても、僕はこういう、若者若者した服装というものがまったく肌に合わない体質なのだ。
しかし事が事だけに文句もいってられない。せっかく購入してくれたものを、厭だと言って突っぱねるほど僕も子供ではなかった。
「なんというか、常盤さんのセンスは型破りですよね、これはもちろんいい意味で」
「型破りという言葉は、基本をしっかりと身につけているからこそ型破りと謂うのであって、最初から世間ズレした人間のことは形無しというのです……西暦時代の歌舞伎役者がそんなことを言っていました」
……あれ、常盤さんなんかそれ婉曲に自分のこと卑下してません? 僕がぼろぼろに形崩れしてしまったティラミスをスプーンで掬っていると、それまで微笑みの裏に全てを隠していた彼女は急に真剣な眼差しをしだしたかと思うと、辺りをキョロキョロやりだした。
「……大丈夫ですよ、客はほとんど外の野次馬と同化していますし、店の中に残っているのもほとんどがカップルかグループですから談笑に切れ目はなく、店員もどうやら根が真面目らしくてさっきからレジスターに隠れてちまちま小物を確認したりしてますから、話を聞かれる心配はありませんよ」
そう言うと、常盤さんはびっくりしたような顔をつくって僕を見た。
「……貴方も大概、察しがよろしくて」
クスっと相好を崩してみせた彼女の顔の、なんといじらしいこと。僕は愛玩動物に心癒された若手サラリーマンのような心境になりながら、ずいと身を乗り出した。ティラミスの皿に置かれていたスプーンの柄が腹に当たってカチャリと冷たい音がした。
「……それで、鈴木さんはどうして、あんなことになってしまったんですか」
僕は意図せず責めるような口調でこう訊いてしまった。目線は無意識に、窓の外を流れない景色に向けられていた。野次馬の群は一向に散らばらない。
「常盤さん、あの写真は常盤さんが直接撮影されたんですか?」
僕は写真に写った鈴木さんの虚ろな眼を思い出す。不気味な夜闇の中、大した明かりも無いのに焚かれたフラッシュには、確かに鈴木さんの丸々とした身体が立体的に写真の奥から浮き上がってきていた。被写体は茫漠とした昼の砂漠をさまよう遭難者のような場違いな異常性が際だっていた。
そして異常なのは、その撮られた写真自体もだ。もちろん写し出された鈴木さんも充分に異常たりえていることは先刻既に確認済みなのだが、その異常きわまりない鈴木さんを正面から捉えたことになるあの写真の撮影者も、ある意味異常だ。鈴木さんの様子を見るかぎりでは、正面に誰かがいることを承知で前進しているように見えなかった。単純に灯りも無いうえにカメラマンが気配を消していただけなのかもしれなかったが、シャッターを押せば人間味を欠いたあの眼にすぐバレる。そもそも被写体に気付かれること前提で撮影するならば、忍び寄らずとも離れた地点からズーム撮影すればよいだけのこと。接近することに何か意味でもあったのだろうか。
常盤さんは、ああ今口にしたタルトがおいしかったわ、これどうにかして自分でも作れないかしらと思ったパティシエ志望の女子高生のような顔をしていた。
「ああ、あの写真はですね……実はあれ、写真ではありませんの」
「はい? 何を言ってるんですか? 僕は己の蒙を一瞬自覚させられかけたあのアバンギャルド画のことを言っているんじゃないんですよ? その後に見せたのは、確かに写真だったじゃないですか。なに言ってんですかもう聞き間違えないでくださいよやだなぁ」
「いえいえ、聞き間違えたりなどしていませんわ。わたくしが二枚目にお見せした紙のことですわよね? あれは写真ではなくて、念写なんです」
「……念写?」
「ええ」
僕は浮かした腰を椅子に戻す。スプーンを持ってティラミスを掬い取り、口に放る。ティラミスの甘ったるい部分が僕の口の中で溶けて広がる。僕はコーヒーを一口すすることによってまろやかなテイストに中和させ押し流す……。
……またSFチックな流れになってきたぞぉ……。
「それはあれですか、例によって精神エネルギーのなせる技ですか? 凄いですね精神の力って。だとしたら精神医学ってもっと開放的になるべきですよね。夢野久作じゃありませんが、そう思いますよ僕はホントつくづく」
そう言って僕は、テーブル脇にある伝票を裏返して、素っ気ない白地を彼女に差し出す。何もそれによって僕の心の清らかさを証明しようというのじゃない。
「試しにここに何か念写してみてくださいよ。血でもなんでも吸わせてあげますから」
すると彼女は、は? 血を吸ってもいいとか何を言ってんだこの変態キモっマジ死ねと作り笑いを浮かべつつ胸中では口汚く顧客を罵るキャリアウーマンさながらのひくついた柳眉を見せつつしなやかに流れるような自然な動作で紙をこちら側へ戻して来た。僕が払え、という意思表示ではもちろんない。
「それはできません。今こちらで念写を披露することは、残念ながらできかねます」
「え、何故です? だってあの写真……あ、いや、念写で鈴木さんを捉えたのは、常盤なんでしょう?」
当然頷かれるのを予期してかかった質問なだけに、常盤さんの西洋人形みたいな小顔がフルフルと横に振られた時には、いたく驚いた。ということは、まさか……。
「念写はわたくしの……そうですね、友人とでも申しましょうか、その方にしかできない特殊技術なのです」
愕・然・! 世の中にはなんと、精神エネルギーなる奇妙キテレツな力を扱う人間が、少なくとも二人は存在することがたった今言明されました、まる。
「ああ、凄いですね精神エネルギー……えっ、でも常盤さんにはできないんですか、念写? 少なくとも残像とかよりは簡単そうに思えますけど?」
「実際やってみれば理解できると思いますが、ただ速く走ればいいだけの残像と違って、遠くの物の景色を見、頭で像を結ばせ、目の前にある物質の表面に映像ないし画像という形でアウトプットさせる念写には、膨大な修練と巧みな研鑽、繊細さが必要とされます。わたくしの感覚では念写よりも首の接着の方が容易いですね。そうは言い条、個人差がありますが」
「なんてことだ……」
残像のことをただ速く走ればいいと豪語するだけじゃなく、首の接着の方が念写よりも簡単って……言ってみれば念写って、放送波とプロジェクターとその他なんやかやがあれば、あとは機材と人員も足りていれば誰にだってやれることだろうに。言うに事欠いて首の接着の方が簡単だなんて、そんなことお医者さんが知れば大助かりだろう。
「にしても、精神エネルギーってレパートリー豊富ですね」
「ある種固有の能力みたいな面もありまして、これもなかなか楽しみの一つでもありますね」
能力って……いかにも超能力者みたいな言い方だな。と思い、僕はティラミスを掬うばかりで一向に折れ曲がるきざしを見せないスチール製のスプーンを見やる。
でもまあ、尋常ならざる能力という意味では、慥かに精神エネルギーは超常の範疇なのだろう。その意味でいくと常人以上の能力を持つオリンピック選手も超能力者と言って言えなくはない。頑張れアスリート、負けるなファイ、オー。
「あ、そうそう。肝心なことを訊くのを忘れてました。念写された鈴木さんはあの時、何をしていたんですか? そしてどうして、常盤さんがそんな鈴木さんを捜索していたんです?」
僕が本題とすべき話をもののついでとばかりに訊ねたのが面白かったのだろうか、常盤さんはふふふとお上品な笑みを浮かべると、ストローでアイスカフェラテを吸引した。
「彼はこの近くにある山の深くへ、ある晩一人で分け入ったのです。念写に浮き出ていた通り、懐中電灯すら持たず、クレセントな草刈り鎌を一つ取って」
「……なんでまた、そんなことに……?」
常盤さんはそこで意味深な笑みを浮かべた。口端の片側だけが奇妙につり上がり、唇がクレセントな魔女のそれとなる。
「さぁ、理由までは存じ上げませんが……目的はわかっています。ずばり、山奥にあると謂われていた祠でしょう」
「祠、ですか」
「ええ、正確にはその中にある廟のことですが……この祠、あくまで伝説上の存在でして、本来ならばそこには蔚然たる茂み以外、何も無かった筈なのです」
「本来ならば、ということは、つまり……」
「ええ。その夜、つまりこれは鈴木さんとやらが深い山へと暗中分け入った当夜のことを指しますが、語り継がれてきた幻の廟堂が、どうです皎々と照る月夜の下、彼の前に姿を現したではありませんか」
常盤さんは物語でも語るみたいな調子でこうのたまった。僕としてはなんだか眉唾な話だったが、まあ、目の前であまりにショッキングな映像を見せられたことによる混乱と、不思議を目の当たりにしてしまった驚愕とが彼女の話を全面的に受け入れるように僕を認めさせていた。おそらく彼女がナントカ教の開祖を名乗って全国を行脚し集金し始めても、僕は惜しみなく私財を擲って金魚の糞よろしく彼女の尻尾につきまとうのだろう。
「言い伝えではその祠は、三日月の夜にしか現出しないとされていたのですが――もちろん、伝説の元とされた時代から既に千年以上経過していますが、誰一人として三日月の夜にこの祠を眼にした者はおらなかったのですが――どういうわけか鈴木さんは取り憑かれたように真っ直ぐこの祠を目指すと、いとも容易に幻の祠を見つけだしてしまったのです」
常盤さんは話が長くなると覚ったのか、そこで一旦言いさしムーンタルトをパクリとやる。イチゴ色で描かれた絵柄は偶然にも三日月だった。三日月の祠の話を三日月型のタルトを三日月のような口許へと運びながら語る常盤さん。ルナとディアナとヘカテーほどの三位一体ぶりだ。
「その祠には何が祀られていたんです?」
「鬼です」
「……オニ? オニって、あの鬼のことですか?」
常盤さんは短くこっくりとがえんじると、たちまち悲しげな表情を浮かべる。
「……母の遺言がそれなのです。『鬼を倒せ』と……。それでわたくしは、友に念写を頼み鬼をその身に取り込んだ人間の素性を割り出したのです。それが――」
「――そんな、じゃあまさか、鈴木さんが、」
「ええ、」と、彼女は残酷な病名を突きつける医者のように息を溜め、それからものものしく言い放つ。
「彼はもはや人間・鈴木ではなく、怪生の鬼です」
僕は幽鬼の禍々しい顔立ちのなかにまぎれた鈴木さんの姿を思い返してみた。紫煙にくゆる結界のなかで、彼はこの世ならざる雰囲気を遺憾なく発揮していた。
「……その、常盤さんのお母上は、鬼に……もしかして鈴木さんにやられたんですか?」
彼女は一瞬小鳥のようにキョトンとした眼をしたかと思うと、少し遅れて理解したように「ああ、いいえ違います」と明るく否定した。どうやら復讐心があって鈴木さんを追っていたわけではないようだ。
「母はもともと身体が虚弱だったのと……まあその、クロード・テイラー戦役の際に少なからざる怪我を負ってもいましたから、それが響いて……」
「ああ、そうだったんですか、ごめんなさい、言い辛いことを訊いてしまって」
ちなみに僕の両親もクロード・テイラーにやられたクチだ。世界統一政府、ロドニゲスの元将校にして、革命義勇軍の実質的リーダーであったクロード・テイラーが、持てるパイプの全てを利用して、今より二十一年前――三年前のこの時点では十八年前――のENNJU一二六年に見境無く世界各地の主要都市を破壊していった大戦役のことだ。僕はちょうどこのクロード・テイラーの巻き起こした混乱期に産み落とされ、まさにトマス・ホッブズのように恐怖と双子に生まれたのだ。僕の両親はこの戦争で家族を失い、その後のドタバタのせいで僕が生まれてから数年足らずで死んでしまった。二人ともまだ若かったが、僕の方がよっぽど若かった。正直養い手を喪失した幼い僕は途方に暮れるしかなかった。戦役後の頽廃期に、孤児一人が生き延びていけるほど世相は温かくなかったが、僕の場合運がよかったのか、両親が死んでからすぐに拾い手が見つかり、その人と一緒に自活できるようになるまであばら屋で一時期を共に過ごしていた頃があった。後に独立して大きくなってからまたそのあばら屋に行った際には、もうそこは人が住めるような空間ではなくなっていて、僕を
拾ってくれた人の姿はどこにも見当たらなかった……彼女は今もどこかで生きているのだろうか?
「お気になさらず。わたくしは感傷から母の遺言にしたがうのではなくて、それがわたくしの遂げるべき使命、背負うべき宿命であることを知っているから、鬼退治をするのです」
どことなくしんみりした様子でそう言った常盤さんは、僕の瞳をじっと覗き込む間をつくるように、少し黙っていた。僕が耐えきれずドキっとして「あの」と声をかけようかとしたところで、彼女は教会で告白を行う人のように緊張した声で口を開いた。
「鬼を退治することが、朝野の姓を継ぐ者の宿命なのです」
「……桃太郎とかじゃなくて、常盤さんがそれをやるんですか?」
僕の冗談ににこりともせず、常盤さんはただ黙って頷いた。決然とした気構えだ。
「それが、千五百年もの間貯めに貯めてきた、朝野の背負うツケなのです」
「それはまた、随分なビッグスパンですね……しかし、ならこんなところで油売っていて大丈夫なんですか? こうしている間にも鬼は、常盤さんから遠ざかっていくんじゃ……」
「ああ、その心配はいりません。決して拭いとれないマークをつけておきましたから、居場所は手に取るようにわかります」
「マーク、って、発信器みたいなものですか?」
「ええ、キスマーク」
あれってそんな意味があったの!?
僕が手際のよさに呆れるというか感心したというか、惚けた気持ちで彼女の動きの乏しい表情を見ていると、どことなく陰を落とすように顎を引き睫毛を伏せさせ、次いで卓の上で細い指を組み合わせた。思い詰めた風情だ。
「……鬼だけではありませんの。というよりも、退治すべき本命は鬼ではないのです。なぜ朝野は血を途絶えさせてでも名を継承させねばならなかったか、そのルーツは今より千五百と少し前の時代に遡り、今日へといたるまでに続く闘いの連鎖――あのクロード戦役にしたところが――を引き起こす種ともなっているのですから」
「……よくわかりませんね。クロード戦役勃発の理由が、千五百年も昔にあったってことですか?」
そもそもなぜ、身分的にも家柄的にも恵まれていたクロード・テイラーが、あのような際限の無い殺戮ばかりが横行していく契機ともなってしまった戦争に没入していったか、その理由を知る者は誰もいないのだ。クロードは側近も置かず常に自分一人で行動していたらしいから、なおさらその動機や心情を推し量る材料は乏しく、今でも見つかっていない。歴史上の謎として、おそらくこれからもクロード・テイラー戦役は人々に刻印された忌々しい記憶とともに語り継がれていくこととなるのであろうが、どうやら常盤さんにとっては僕の出生時の大事件は既にミステリーではないらしい。
「はい。しかしそれだけではありません。ENNJU一一七年に起きた隕石騒動、八五年の第二次ロドニゲス軍の解体、四一年の“朱の鬼才”による第一次ロドニゲスの発足、更に遡行すれば、ENNJU暦三年に起こった、今をときめく指導者、飛鳥学によるクーデター……これら全ての遠因が、およそ千六百五十年ほど前にあると断言することができるのです」
「……なんだか、話が鈴木さんの鬼退治から凄い方向へ転換しましたね」
「……そうですわね、彼に憑いた鬼の特性を理解してもらう上でも、ここらで昔話をお聞かせするのが手っ取り早いでしょう。少し長い話になってしまいますが……千六百五十年前の――鬼と悪魔にまつわる昔話にどうか耳を傾けてはくださいませんか」
「悪魔、ですか……」
僕はいい加減子供騙しの絵本でも読み聞かせられてる気がしてきたが、しかし次に耳にした常盤さんの台詞に引き込まれ、俄然その昔話とやらに興味を覚えた。
「その昔話には、わたくしと貴方のご先祖様も登場してまいりますので――」
「僕の、ご先祖様……?」
おいおい、なんで当の本人も知らないような先祖の逸話を赤の他人である常盤さんが知ってんだよ、となおざりに扱われるプライベート情報の管理者を訴えたかったが、しかしちょっと待て、「わたくしの先祖」という言い方をしたのか? それってつまり、朝野の曩祖ということか? それとも常盤さんの直系の先祖? 僕は訝しがりながらも、僕の先祖が出てくる物語だというからにはいずれ聞かずばなるまいと思い直し、長い話にだれてしまわないよう、姿勢を正した。
「ちょっと興味が出てきました。どのみち鬼のことを聞かねばなりませんし、それでは昔話とやらをお願いします」
店内の白すぎる壁にかけられた時計を見ると、ちょうど夕焼けが春の空を朱に始める頃合いだった。僕はたくさんの人が殺されてしまった僕の職場に悼みの気持ちよ届けとばかり、視線をちょっと背の高い野次馬の背後に向けた。
常盤さんは僕のその様子を見るとクスっと笑い、「では――」と言って、鎮魂歌でも紡ぐ調子で語り出した。
「――槐の樹の下で、亞左埜編……はじまりはじまり――」




