プロローグ(前編)
僕が個人的に先生と私淑してやまない一歳ばかり年下の少女、常盤さんと出逢ったのは、今を去ること三年前、まだ街路樹の傍らにすっくと伸びていた水仙の青い花蕊に滴る露が、テッサリアの古戦場をさまようエリクトーのように陽気な風に吹かれて揺れる、春の昼下がりのことだった。算を乱した記憶のフラグメントをかき集めてみれば、慥かその頃世間は相変わらず吝い経済不況の気運に呑み込まれていて、流される人々は枯れた花弁のように、いつもがっくりと首を垂れているような折柄だったから、スカラシップの恩恵に与ることもままならなかった一介の苦学生志望の僕も御多分に洩れずその荒波に揉まれ、無償で入学させてくれる心優しいマンモス大学は残念ながら一つも現れなかった。……もっと平易に言おう、身寄り・縁故の皆無な身では、学業に従事するだけのお金を工面することがどうあってもままならなかった。
「俺は○大出のキャリアだぞ」と周囲に威張り散らすことを密かにアンビシャスとして小さい頃から抱いていた捻くれ者の僕は、当然そのこと――人生のほとんどを刻苦して勉強に費やし励んだというのに、実際的な壁がたちはだかったせいで大学に行けなくなるというしょうもない事実――で強い失望を感じたものだから、「社会に出て本当に大事なのはキャリアやステータスがどうとかいう過去の栄華でもなければそれに縋るほど見窄らしいことでもない」と都合よく前向きにポジティブシンキングな持論を捏ねくりあげて、旧来の考えを改めおおせたのも束の間……。
“そこ”に居合わせてしまった僕はばつの悪い表情をしたまま固まっていると、篠突く雨の中をギャバジンのコートで突き抜けた時のびしょ濡れになったような後味の悪い汗が一挙に噴き出して来て、いても立ってもいられない不快感が僕の総身を絶望の麻縄できつく縛り上げた。譬えるならそれは、そう、ちょうどペーネイオスの河の畔でカエサル軍に大敗したボンペイウス軍の兵士のような面持ち、だろうか。僕は自分の額から蟀谷にかけてをカマキリの体内に巣くうハリガネムシを天日で干したように真っ直ぐ縦に並べた黒い線を骨として編み込んだトーンの濃い緞帳で蓋い被し、つまりはすっかり青ざめきった顔を陰らせて、逃げ出すべきか、あるいはこのまま意志の無いオブジェのふりを最後まで貫き通すのかという喫緊の二者択一を頭の中でグルグルとめまぐるしく高速回転させて考えていた。
考えていたって“この場合”の後腐れの無い正しい切り抜け方なんてものをこれまで学習してこなかった僕にはどうしようも打つ手が思い浮かばず、教わった公式に解がピタリと合致していく方程式のようなやり方でしか物事を揣摩できないのではそれは準備不足のレジャーキャンプにも等しいので、いっそ醍醐天皇の呼び掛けに諾々と応じたゴイサギのような潔さで投降しようかとも思ったが、ぶんぶんと必死に頭を振る。投降って、そもそも僕は誰かと戦っているわけではないのだから(戦っている相手がいるとすれば、それはそう、僕に大学進学を諦めさせて有為な才能をこんなところでくすぶらさせている巨大な何かだ)、降参を持ちかけようにも願い出る当の相手もいなければ、それを必要とする対象もない。
いや、対象ならあるか。なぜなら僕は、この時およそ普通ではない事態に直面していたのだから……。
まず死体が一つある。これだけでも日常のぬるま湯にどっぷりつかっていた僕にとって色を失うのに充分すぎるほどのマテリアルだったのだが、具合の悪いことに血の滴々としたたる凶器と思しき刃物が眼前にちらついていたのだ。これではさしもの平和ボケした頭であっても、戦慄と恐惶に心胆を寒からしめずにはいられない。しかもどうやらその凶器と思しき刃物の柄の部分には、しっかりと誰かの手が握られていて……えーと、つまり。
――そう、僕は殺人が行われた、まさにちょうどその直後の現場にはち合わせてしまったようなのである。なんという不運、なんという外れクジ、バッドタイミング。同じバッドタイミングであれば「ど○でも○ア」で某入浴中の少女の発育途上の裸体美を堪能できる眼福を拾いたいものだったが、いやそれではグッドタイミングになるのか、などと余計なことを考えていると、その“犯人”は僕に向かって刃物を突き出してきた。
――前言撤回。僕はこの時、降参を申し入れるべき相手を得た。
「す、すすす鈴木さん、おお落ち着いてください……ね? 話せばわかりますよきききっと」
「……落ち着くのは……お前の方だろ、なあ漲月ぃ……? これでも飲んで、リラックスしろや……」
……いやいや。
……いやいやいやいやいや。コレ、と言って小太りの彼が白い脂ぎった手首を持ち上げて示してみせたのは、変な気分の冷や汗をかいたせいで失った分だけを補うための飲み水やスポーツドリンクの類……ではなく、電光の光を受けて鋭利さにより磨きをかけるカトラリーの切っ先からしたたり落ちる、殷紅色をした粘液だった。
というか人間の血だった。そこに仰臥して苦悶の表情を顔筋に記憶させたまま硬直してしまった悲痛な死体から得たあまり鮮やかとは言い難い不健康な血液だった。というか“ここ”の店長であり、僕の雇用主でもある人の体内から迸った酸素エネギルー運搬のための流通機構そのものだった。そしてその流通網は、決して外に漏洩してはいけないほどたくさん、フローリングに溢れていた。やっぱり死んでいる。今から病院に急いでかつぎ込んだって、おそらく医者のお墨付きの証文が渡されるだけで適切な処置は施されないだろう。後は警察に回されてそこで司法解剖を受けてから荼毘に付されるだけの、もうただそれだけの物体と店長の肉体はなってしまっていた。そしてもはやそのような物体に、僕の時間を拘束するだけの法的拘束力はない。僕は店長の死体を前に、人間の死という形にショックを感じるよりも大きく何かから解放されたような気分になった。しかし血を帯びた刃物が向けられていたんじゃおちおち感慨にもひたれないから、取り敢えず事態の把握に専念しようと逃げ道よりも逃げ口上をさぐる。腹をさぐる言葉をさぐる。今ほしいのはお金よりも社会的ステータ
スよりも、脳内レファレンスのために費やす時間と動揺を落ち着ける心の平静だ。今この時だけ僕は敬虔なクリスチャンであると同時に熱心な仏教徒だ。なんならイスラムの神にだって願ったっていい。とにかく僕にはじっくりと哲学に耽る時のような心の平静さが必要だった。アタラクシアと涅槃の違いなんざ一介の小市民にはわかりっこないが、神仏の数だけ夜空に星を流して聞きかじりの念仏のようにぶつぶつとひたすら願い事を唱えようではないか。動揺よ立ち去れぃ。
「……僕はあいにく吸血嗜好は持ち合わせていないので、できれば純粋なH2Oがいただきたいです。出来うるものならば、その液体を濾して不純物を取り去っていただけませんでしょうか?」
「……いやだよ、つーか血液って濾過できんのかよ? かなり大掛かりな円心分離器が必要だと思うが……そんだけしてでも水が欲しけりゃ自分でやれよ」
「ですよねー」
「俺が今お前に供してやれる水分は、俺の唾液とコレくらいだ。どうだ、飲むか? ……このクソヤローの血管を流れてた血だぜ」
「え、遠慮しておきます」
なんだ……なんなんだこの状況……。
僕は混乱に頭を鈍器で殴られたような感覚に苛まれながらも、気丈に振る舞っていなければなるまいとグラつく身体をフローリングにしっかり、扁平足の足裏を押さえつけることでなんとか平衡を保つ。靴と沓下を履いてはいたが、この時ほど土踏まずを欲したことはなかった。
刃物を持った危険人物――鈴木さん――は財布を盗られないよう用心する窃盗の常習犯のように切っ先を注意深く僕に向けながら、視線を一瞬だけチラっと「かつて店長だったモノ」へ注いだ。当然だが店長の身体は終始ゾクゾクしっぱなしの僕と違って、睨まれたって何をされようがピクリとも動かない。何をされようがってのは別に彼が死体を切りつけたとかそういう猟奇的な展開を示唆するものではなく、単なる僕の予想だ。おそらく店長は今更何をされたって何を言われたって、そのことによって激昂して目くじら立てて掴みかからんばかりに怒鳴り散らすことはもうしないだろうという、死んでいるのなら至極当たり前の帰結を予想しただけだ。
僕は大学を諦めてすぐに、都市部に程近い安アパートに居住するようになった。高校在学中にアルバイトで貯めた金があったからもう少しだけ(そこよりはほんのちょっぴり)リッチなアパートに居を構えることができたにはできたが、あえて閑散とした駅から近い方が界隈のホームレス達の暮らしぶりが観察できて、それが僕にとって「こうはなりたくあるまい」と闘争心に火をつけてくれる反面教師ともなるので、自身を奮い立たせる意味であえてそこを選んだのだった。職場は必然的に、そこから近い目抜き通りの小食堂を選んだのだが……場所柄が場所柄なだけに、店員の人柄も底が知れていた。
僕は就職してすぐに、店長や彼にゴマ擂る先輩連中たちからひどい扱いを受けた。「教育」と称していろいろアゴで使われ、さんざんな目に遭わされた。ちょっと手を抜いたり、粗相をしたところなどを見られれば、店長の恫喝がすぐさま飛んできて、しばしば周囲の笑い物にされた。もちろん耐え難いほどの屈辱を覚えた。
そうしたハラスメントはパワラハラばかりでなく、セクシュアルな意味合いにおいても行われた。といっても誤解しないでいただきたいのは、なにも僕がお尻を触られただのという興ざめな擦った揉んだはなかった。ここで日々行われたセクハラ行為というのは肉体的なものではなく、つまり扱いの不平等のことをさす。
店長は僕ら新入りの男はいびるクセに、女の子には(とりわけ可愛い娘には)猫を撫でる時のような聞いていてこっちが恥ずかしくなるほど拍子抜けな話し方で接するのだ。僕に指示を出したりする時の一括や呼びかける際の乱暴と比べたら、おそらく誰もがその急激な落差に転がり落ちること間違い無しだろう。僕は日々そういった、ほとんど不当とも云える労働行為に鬱屈を感じていた。
しかし僕の堪忍袋は溜まり続ける一方で捌け口の見いだせないフラストレーションでパンパン膨れ上がることはあっても、その緒がプチンと切れて中身が破裂するようなことは一切なかった。というのも、自分よりもひどい扱いに甘んじている人間がいたからだ。心境としては江戸時代に非人を見ていた農民に近い。
それが鈴木さんだ。鈴木さんは僕よりもいくらか年上だったけれども、僕より遅れて入ってきたためタイムカードの数字番号は一番大きい。そのことはすなわち職場カーストにおいて一等立場が低いということを如実に示していた。尤も番号だけで云えば僕も大概だっだが、彼の場合は訥弁と小太り気味な体格、弱々しい見てくれやなんかが職場の人達の不評(あるいは人気、とも取れなくはないが……)を集め、それはもう大変な、陰湿な嫌がらせを毎日こうむっていた。
同病相哀れむという謂いはまさしく当たっていて、僕は僕よりも不運な人災に遭った彼と最初は励ましあったりしていたのだが、次第次第にエスカレートしていく周囲のブレッシャーから累が及ぶのをひどくおそれるようになって……最低な判断だったかもしれないが、しかたなく彼を見捨てた。
それがまさかこんな事態を引き起こそうとは……僕は鈴木さんの故障したように微笑むその明るさを装った表情の裡に陰る暗黒を見ようとして、本能的な恐怖に襲われてすぐに眼をそらしてしまった。なんだか別世界を生きるもう一人の自分自身を投影する魔性の鏡を見ているような気がして、僕には耐えかねたのだ。
間違いなく、そう、人にかぎらずそれが生物ならば誰しもが思うことだろうが、自分の肉体に負った傷は誰だって痛いと思うし、よほどのマゾヒストや嗜虐嗜好の持ち主でもなければ得てして人はそういった外傷から眼をそむけたりするものだ。僕もその例にはもれず、鈴木さんのわかりすぎるほどにわかる内面を推し量って彼から眼を離したのだ。
それがいけなかったのだということは、三年経った今だからこそようやくわかった。しかし同時に、そのような理解のしかたからしてが遅すぎるのだということにも今更気付く始末。
つぅん、と鼻を衝く死臭にぞっとして注視すると、鈴木さんは返り血を浴びた口端をひきつらせながら声を出す。
「……なぁ、漲月ぃ……」
「は、はいなんでしょう」
「俺はこうやって人を殺しちまったんだがよぉ……お前はこれを悪いことだと思うか?」
「……それは……」
少なくとも法律には悖っている。ジョン・ステュワート・ミルの危害原則からみても、デイビット・ヒューム的第三者の目線からみても、彼の犯した行為は明らかに、疑いなく善悪のうちの後者をさすものだろう。
……しかし僕はこの時どういうわけか、彼の問いに即座に応えることができなかった。普段押しの弱い性質の鈴木さんのごとく、咽喉まで出かかった言葉を口先でもごもごと咀嚼して嚥下するようなことをやってしまっていた。それはもちろん、僕がモノマネを趣味としているわけではなく、返答いかんによっては彼の手にする凶器が閃かないともかぎらない、という現実的な予測が言葉の検索より早く働いたから、というのも一つにはあったが……。
僕にはどうしても、彼の犯した過ちを糾弾したり、詰問したり、断罪できるとも思えなかったのだ。その理由が思い浮かばなかったのだ。こうして人一人不幸な、残虐な死に見舞われた直後だというのに、僕には彼の行為を心の中ではどうやら「過ち」とは認めていないきらいがあった、否、直情的に過ちとはしたくなかった……。それは僕もこの店長のことを面白く感じていなかったから……なのだろう、きっと。本当にそうだろうか、と冷静に突っ込まれれば何とも返しようがない宙ぶらりんな不安定元素のように電子を余所へ飛ばしたりして遊ぶファジーな心境だったが、とにかく僕は気が動顛していて、間を保たせる言葉を模索するのにあっぷあっぷしていて、気が狂いそうなほど眼を泳がせたりしていたからそんなことに懊悩していられる余裕はなかった。煩悶については当時から現在に至るまでの三年の間に内省してみて思ったことだ。
「……まあ、難しいよな。俺にも自分がしたことが……自分が何をしてしまったかが、ようわからん」
この人もいい加減ファジーな理由で人を殺すんだな……などと思えるようになったのもごく最近のことで、この時はただ戦慄と春寒料峭を過ぎた風とに震えるばかりだった僕はひたすらちびりそうな小便のことばかりを考えていた。アンモニア臭と膨張する膀胱バンクからほとばしる輝かしき黄金水の湧出とダムの決壊に思いを馳せどおしだった。冷や汗は狭い厨房の換気のための窓からやってくる、排気を多分に含んだ都市部ならではのビル颪に撫でられて全身をフリーズドライの発泡酒にさせる。職場用のスーツが肌にくっつく。火事か何かで大火傷した後に服をひん剥いたりすると皮がべりべりめくれると聞くが、この時の皮膚と支給された制服との癒着結合の具合といったらなかった。どういうわけか開高健の「玉、砕ける」という短編小説が頭をかすめた。
「……こいつ、明け透けな奴だったよな……勤務中だろうがなんだろうが、関係なく卑猥な暴言を吐いてきやがる……お前もよく笑い物にされてたよな……?」
彼は心持ち視線を下げてそう問うてきた。僕としては下げてほしいのは切れ長のその瞳ではなく血を拭っていないために血小板が最期のあがきをみせてこびりついている刃物の方をなんとかしてほしかったが、多くを望んでもしかたあるまい。それに彼が下を向いたのは、気分が鬱いで俯いたのではなく、「こいつ」と人代名詞で表した対象を示すためだった。昼時で混雑もピークだというのに、厨房は奇妙な静寂のしじまと僕がたまに唾を飲み下す音とに満ちていた。
「嫌だったよな、お前、あれ……? 周りから笑い物にされ、女にも笑われて……俺は毎日言われ続けてるうちに、なんだか生きる気失くしちまったぜ」
「それだけの……」
たったそれだけの理由で、人を殺したのか。
思った言葉はしかし発音されなかった。それは僕の心のどこかに、彼の言葉を肯定的に受け入れようとする忌むべき悪しき領域があったからなのかもしれない。あたかも厨房全体がたまには無音であることを欲していたかのように、僕の心の言葉は鈴木さんの耳にまで届かなかった。あまりにも遠すぎた。多くの隔たりと障壁がありすぎた。僕にはわかりすぎるほどわかる鈴木さんでも、僕の身体を電流のように駆けめぐるだけで吐き出されないでいる声にならない言葉は彼には届かないのだということを実感した。いよいよ刃物がこの身に突き刺さる段となれば、今度は痛みとともにそのことをよりクリアに悟るのだろう。
換気扇が音も無く無声映画のようにクルクルと回っていた。弁士もいない厨房には恫喝とからかいと催促もない代わりに、生きた心地も何も無かった。
「……ある時なんかは、『セックスの仕方も知らねぇくせに、デカイ口訊いてんじゃねぇ!』とか、俺がちょっと待遇改善の意見しただけでそう吐かすんだぜ、このオヤジ……意味わかんねぇよ、不当労働行為を糺すのに、童貞であることは不利ってことなのか? なぁ漲月、お前わかるか?」
「いや、そんなこと訊かれましても……」
「お前、童貞か?」
どきっ。ちょっと反応したのは、いったいどういう心の機微が動いたからなのかは僕は知らない。ただ嘘をついても不幸な結果が眼に見えていたので、冷たい風を舐めながらゆっくりとためらいがちに頷いた。
「セックスのやり方って、お前はどうやって学んでる? ネットの無料動画か? それとも書店で売られてるテキストからか? 人づての知識だけでわかるものか? なあ、労働環境を改善するには、どこでセックスの実習をすればいいんだ……?」
「さ、さあ、そんなことを訊かれましても……」
カーマスートラでも読めばいいのだろうか。しかしそんな提案をしたところで、彼の心が、包まれたその暗黒のとばりが晴れるとも思えなかったし、死者の甦生にあらたかだとも考えられなかったから、曖昧にお茶を濁すしかなかった。タイルの床にどろどろした血液が側溝に沿って流れている。早くホースで処理しなければ、血痕が遺ってたいへんな曰く付き物件に成り下がってしまいそうだったが、そんな懸念は地鎮祭を執り行う人達にこの際うっちゃって、とにかく僕は死中に活路を見いだすのに必死だった。生きるのに死にものぐるいというのも変な言い回しだが、まさに当節の僕の混乱ぶりを表現する言葉としてぴったりだったから採用することにする。僕は何もかも投げ捨てて、手に届く範囲にある皿を盾に、野菜包丁を剣にこの修羅場を切り抜けようとも考えていた。
しかしだめだった。何かが僕の勇気を押しとどめた。それはガクガク笑う膝だったかもしれないし、焦点を定めようとしたがらない僕の眼球のせいだったかもしれない。答えは今もって判然としないが、いずれ立ち向かうべき相手では鈴木さんはないぞということを知覚していたことは確かなので、僕は固唾を呑んで様子を窺っていた。当事者は僕だったけど、何かによって不用意に近付いてはならないという赤いシグナルを受信していたからだ。
「……お前、考えてるな……?」
「……え」
「今この状況、俺からどうやって逃げようかとか、どうせそんなこと考えてんだろ?」
バレてたのか……額から首筋にかけてびっしょり流れ落ちる汗が図らずも彼に判断推理の材料を提供させてしまったものらしい。僕はなんとか早鐘を打つ心臓を抑えようとその鼓動よ止まれぃと念じたが、いやいやそれでは本末転倒だなどとすぐに頭振りながら、とにかく会話をつなぐことによって少しでも延命につながる行動をとろうと努めた。
「やだなぁ、逃げる算段なんて練っていたりしませんよ。僕が考えていたのは放尿した三大宗教の開祖がイオン価をどうやって導出したかとか、そんな愚にもつかない事柄ですよ。ハハハいいですか、それがどんな時であれ、人間はすべからく考えるべき生き物なんですよ鈴木さん。」
……まぁ、あながち間違ったことは言っていない。僕はこの時本当におしっこのことを考えていたし、アッラーアーメンハレルヤ南無阿弥陀仏をリピート再生させていたし、モルと格闘していたのは確かな事実だった。
しかし彼は僕の冗長の方ではなく蛇足のお説教に意識を持っていかれたらしく、僅かに眉をピクリとやると、静かな怒りに包まれたように押し殺された声を吐き出した。
「かもしんないな……けどな漲月、俺……俺にはわからなくなったよ。本当は好きなことしていたかったけど、嫌々社会に出て、正しいと信じられてることと出くわして、みんなそれを疑いも抱かずに生きてて……俺が知ってたこと、俺が考えてたこととあまりに世界が違うんだよ!」
どうやら踏んではいけない地雷を踏んでしまったらしい……鈴木さんは悲愴な顔を暗闇からのっぺり浮き上がらせると、そのつるりとした表情の表面にだけ笑みを浮かべ、あべこべな感情を言の葉に乗せて口から迸らせた。まだLED化されていない電光がチカチカと明滅して、いっそう凶器と彼の艶のある顔の不気味な光沢をこの世ならざるものと見せることに寄与した。
「俺は止めたよ! 考えるのをやめたよ! 考えたって考えたって、どうしようもないんだ! 周りの奴らは違う考えだし、しかも大多数が同じなんだ、それを覆せやしないんだよ! だから俺はやめてやった! しちめんどくせぇから、厄介なことは考えないようにした。
……そうしたら今度はどうだ、このクソおやじが、指示もろくにしねぇで『自分で考えろ』と連発しやがるしよ……ざけんじゃねぇ、俺は考えたさ!」
電光がスパークしたように、弾けた光の明滅の連続で部屋全体に明と暗のアンサンブルをほどこす。一つの絵画的叙情、一つの精神的雄叫びが、今この時部屋全体を巨大な意志をもってどよめき支配したのだと感じた。
「考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて――考え抜いた結果が、コレなんだよぉ!」
黒々とした結実が彼の口腔から吐き出された……と感じた。実際に、彼は言い終えると嗚咽するよう息をあがらせていた。眼は虚ろで、その濁った虹彩は僕でもなければ厨房内の調理器具の何を映してもいないように見えたが、慥かに何かを憎々しげに捉えていた。その中でか黒い焔がメラメラと熾っている。明滅を続けるライトがやかましいほど、彼のずんぐりとした背中をパチパチと幾度も叩く。僕は明滅の激しさをいよいよ増す厨房にいながら、眼だけがハエにでもなってしまったかのような錯覚に包まれ、そのぶつぎりに描写される一瞬一瞬の静止画を何枚も何枚も釘付けになって見ていた。とても結婚式の日に思い出の一枚としてスクロールさせることができない暗黒が瘴気のように辺りにたちこめていた。
……なんだか旗色が悪くなってきたぞ……。鈴木さんの胡乱な眼を静かに見つめているうちに、たまりかねた恐怖が体外へと表出されるのを感じた僕は、一刻も早くこの場を立ち去るべきだと考え、退路を模索する。この部屋から別のゾーンへと通じる直接的な退路は二つあり――むろん床や天井にある特別な蓋を外せばスパイや忍者が御用達の逃走経路をいとも容易く確保できるのだろうが、そんなものはこの際無視するとして――、一つは僕の真後ろ、すなわち僕が厨房までこうしてやって来るのに利用したホールへと一直線に続く通路で、現実的に考えればこちらの方を退路として使用するべきなのだろう。もう一つの出口というのが、僕と死体と鈴木さんの更にその向こうにある、人一人やっと通れるかといった大きさの換気窓しかないことを思えばなおさらだ。
しかしこの退路、いかんせん大きな問題を孕んでもいる。それは場所が町の小さな食堂だということだ。小さい食堂であることがどう大きな問題に関わってくるかと言うと、たとえば今ここで僕が尻尾を巻いて逃散したとする。これは理の当然として、鈴木さんは刃物を閃かせて僕を追うだろう。そして僕は必然的にホールへ抜ける。これは仕方ない。なぜならこの通路は建築の構造上、ほとんど直結といっていいくらいホールとキッチンを密接に連絡しているのだから、追跡者が距離にしておよそ一メートルもないその道の途中で都合よく僕を見失ってくれでもしなければ、彼はホールにその姿を表すだろう。
そうなると、さて、どうなることだろうか。時刻は平日の昼日中、本日はお日柄もよく、地元近傍の労働者はこぞって当店を利用している。賑やかなホールを大忙しで右往左往している何人かの先輩従業員もいる。客にしろ店側にしろ、仕事に疲れてはいても平和を謳歌しているその眼前に、こんな返り血まみれの刃物を持った人物を披露してみろ。たちまちパニックは燃え広がる炎のようにどっと沸き起こることだろう。そうなることだけは避けなければならなかった。なんといっても、“彼が”可哀想だから。
「……鈴木さん……わかりましたから、とにかくその刃物を下ろしてください……」
僕は意を決して、おそるおそる彼へと近付く。要らぬ警戒を与えてしまわないよう、スズメやシカに近付こうというように静かににじり寄る。厨房用の長靴が血で滴る床に波紋を広げた。
「なにが……わかったってんだ……俺は……お前だって……」
「わかってます。僕だって、あなたから見ればこの男――」
と言って、僕は不出来な玉子焼きか何かのように、床に転がる人間だったものを見る。
「――と変わらない、同罪なんですよね。それはわかります。でも、ひとまず話し合わないことにはどうにもなりませんよ」
だからどうにか、その刃物を――。
――と、自分でも自覚があるくらい取って付けたようなキザな台詞を言い掛けたところで、僕は言葉を失った。
ほんの一瞬だった。狭いゆえに、生きていた頃はよく店長と肩がぶつかって胴間声で叱られたこともしばしばあったその店長の頭を避けて進む際に、ほんの一瞬眼を離しただけだった。
それだけで――たったそれだけの時間のうちに――、彼はいつの間にか、僕の視界から忽然と姿を消してしまっていた。
「――な、ど、どこに……!?」
慌てて眼球だけを、床や天井も含めてくまなく、またどこかに隠れた形跡がないかも詳しく調べながら、キョロキョロ激しく動かして捜した。が、どういうスパイテクニック、忍術を駆使したものか、鈴木さんのぽっちゃりした脂ぎった身体はどこを捜せど皆目見あたらなかった。
信じられない。まさかあの一瞬で、換気窓から外に逃れたというのか……? だがそれはありえない。あの窓は比較的細身な僕でさえ、やっと通れるか怪しいというくらいの逃走経路なのだから、太った彼が眼を離した一瞬に音も立てずに、あの突き上げ窓を通り抜けたなぞとは到底思えない。それになによりも、彼が外に逃れ出なければならない理由が少しも見あたらない。雰囲気的に、間違いなく目撃者である僕を抹殺するという感じだった。そんな彼が、いざという段になって怖じ気づいて逃げ腰になったのだろうか……?
……思えば何かがおかしい。僕は頭をひねった。
何かがおかしい。そのおかしさが何なのか、わからないことそのものがおかしいとさえ思えてしまうような、そうした所与のものとされたおかしさがこの殺人事件には綺麗に剥がせないシールのように、ひっついて回っていた。
グルグル回っていた。涼やかな風が入り込んできて、換気扇のプロペラを風車かなんぞのようにもてあそんでいた。
「――逃げようったって、そうはいかねぇぜ、おい――?」
「――っ!?」
ゾクっと背筋に悪寒が走った。僕は振り向くこともかなわず、突然ヘラクレスがアンタイオスにしたホールドアップさながらに腋から抱きかかえられ、足の裏が宙に浮いた。
人工の大地から重力環境を利用したアクセスが拒否されたのを知って、僕はこれまでに感じたことのない頼りなさのために強烈な恐怖を覚えた。身震いしようにも、ぬくもりのある温かな肌がしっかりと僕をホールドしていたから、僕は汗臭さの中に黙って身を預けるしかなかった。
……そう、信じられないことに鈴木さんは、いつの間にか僕の背後に回っていたのだ。
「な、なんで、どうして、いつの間に!?」
眼球だけちょこまかと動かして、僕は目測で壁や調度や設備やら……とにかくこの狭い厨房のどこをどう利用したら、こんな一瞬で相手の背後をとれるようなアメフト選手垂涎のフットワークを獲得できるのだろう。この技があれば、おそらく僕は厨房で店長に怒鳴られることはもうなくなるのだろう。いや……もう既に、怒鳴られる心配については無いのだったが。
とにかくこの時僕は、不意に後ろをとられたことで激しく動揺していた。しかも彼の、筋肉由来ではない太さをした腕のどこに、平均成人男性の体重とそう変わらない僕をがっちりと宙に固定できてしまうほどの力が秘められていたのだろう。僕は困惑と恐怖に取り憑かれたまま、むなしく脚をじたばたさせることしかできなかった。採光窓から入る明かりが雲に遮られたのか、にわかに光量が乏しくなった。電灯は明滅すら忘れて、そのまばたきの間隔は世間の無関心さを僕に思わせた。
今まさに、僕は陰りの中に閉ざされていた。
「ほぉら、捕まえたぞ漲月ぃ」
不敵な声がすぐ耳許に届く。遊んでいる児戯のような、考えることをやめてしまった者が息継ぎをさえ億劫がってしまったような、そうした聞いている者を我慢ならない居心地悪い気にさせる、生の鼓動を停止させたような鈍い声だけが日陰に光る。
「……くっ、は、はなせっ……!」
ノドが絞められているわけではなかったが、僕はまさに窒息に追いやられている苦悶のうめきを発して抵抗した。憎まれ口一つ叩けやしない。だからじたばたとあがく。あがいてもあがいても、抑圧の力は決して弱まらず、それを嗤うものの嘲笑の声だけが鼓膜を不規則に振動させる。桎梏はゆるまず、たゆまず、なおも僕にむなしくなってくるような抵抗の努力をうながす。
もてあそばれているな……僕は屈辱を前に一個の男として、耐えきれない憤懣を沸騰させた。
「いやだ。放さない。俺は俺を見捨てた……見限ったお前を、許さない。同類を見放したお前を放さない」
「同類なもんか……! 僕は人を殺したりしない!」
「同じだよ。同じ穴のムジナだろうがよ兄弟。俺とお前は、根の方で同じ感覚を培養させている。世間に対する鬱屈を肥え太らせている……」
「皮下脂肪で反骨を太らせてるのは、あんただけだろ! こんな時だけ兄弟面されても、人殺しのデブを兄貴だなんて呼べるほど僕はそれこそ三大宗教に著名な聖人でもなければ、お人好しでもない!」
そう、お人好しは金持ちであったり、それによって権威や名声を博し、作られた人望で選任された者のことを指す――。
僕は無理無体に僕を同類と看倣す彼にやりきれない憤りを抱いた。そんな郢書燕説があってたまるか。
僕は弱い人間じゃない!
……カッとなって、何かを掴んでしまったことだけは覚えている。しかし無意識だったもので、何を掴んでしまったのかは覚えていない。しかし、そこ(厨房)にあるもので、その部位(顔面)を叩けば、どうなるかということくらいは、血のたぎった頭でも考えればわかろうというものだ。
僕はいつだって「考え」を放棄したことはなかった。彼はそうしてしまっただろうが、僕は今だって考えることをやめたためしはない。だからこの時も、怒りに我を失って……というよりも、そう、未必の故意というやつだろう。自己弁護に聞こえてしまうかもしれないが、僕には確かにそういう心理状態が、社会的な既成の意識がたちばたらいていた。
「――てい!」
「いぎぃっ!?」
僕は瞬間的に怒りを爆発させ、手にした“何か”で彼の側頭をめった打ちにした。振り向きざまの巨大なクレーン機にやられたように音立てて調理器具の山の中へダイブした彼の身体をそのままに、僕は間違いなく血のついただろう“何か”を放り捨てて、すぐさま換気窓から外へ飛び出そうとする。肺腑にこびりついた死臭を慣れた都市の空気と入れ替えたかった。僕の身体のリズムを呼吸と一体化させたかった。このように僕は二つの死体をそこにうっちゃったまま、永遠の逃避を換気窓に求めてしまったのだが……。
見込みの甘さが、間もなく僕を恐怖のどん底に突き落とした。死体は二つではなく、依然として一つだけだったのだ。
「――二つ目は――お前だよ、漲月ぃぃぃ!!」
窓を抜ける。こんな修羅場の第一発見者として警察に引っ張られるのはごめんこうむりたかったから僕は、いつの間にか外のトイレに抜け出していたものとして一応のアリバイとした後に、店の誰かに死体を見つけてもらおうと楽観的に考えていたのだが、そうは問屋が卸してくれなかった。代わりに下ろされたのは、ギョッとするほどの怪物的言葉と他人の血糊のついた鋭利な刃物だった。
――排気によって黒く変色した雑草茂る床に着地した僕の臀部よりちょっと下の腿を、刃渡り八センチほどの刃がざっくりと刺し貫いた。筋繊維をかいくぐり動脈を傷つけ骨まで達した厭な感覚が、異物の侵入感よりも勝った。その一点を震源に、痛みの奔流が全身を駆け巡る。爪や髪の末端にまで、僕という身体の一部を構成する全てに無声の叫びを上げさせた。僕はニッチを舐めたほんの些細な隙間風にくずおれた。
身を起こそうとするのを恐怖が圧しとどめた。気を張ろうにも痛みが考えを阻害する。そもそも痛覚とは、生物が自らを危地から生き延びさせるために獲得した防衛手段だったのではないか。それなのにどうして僕は、痛みによって思考を満足にはたらかせられないのだろう、これでは本末転倒ではないか。あるいは痛みを生物の防衛と定義づけた科学の方に誤りがあるのか。僕はこの期に及んで、まだ人類の過ちについて貴重な思考を費やそうとしていた。
――いよいよ板に付いてきた猟奇的な文句が、換気窓の向こうから降ってきた。これまでの彼の台詞の一言一句は、僕の中に既に形成されていた「鈴木さん」というイメージを崩壊させるものであった。
「痛いか、漲月ぃ……? 痛いのか、なぁ、おい……」
身体がガクガクと震えてしまう。
汗腺という汗腺から、ごまかしのきかない量の粒が抑えがきかないくらい一気に噴き出してきて、僕の膚が暑さを覚えたからではなく、その反対で寒さに粟立っているかのような、恐怖にすくんで動けずにいる子供のように僕を惨めに見させる。隣の建物の黒い窓ガラスが当座の姿見だった。
飛び降りたのは、ちょうど僕の背丈と同じくらいの高さにある換気窓からだ。着地よるダメージなんてものは全くといっていいほど無かったが、深々と刺さった刃物による激甚な痛みと精神にもたらされた動揺とが半端じゃなかった。
痛いなんてものじゃない。傷をおして街道まで出て助けを請うとか、もうそんなことができる奴がいたとしたらそいつこそけだし聖人と呼ぶにふさわしい……そんな風に思えてしまうくらい、尋常じゃない痛みが僕を襲った。
「……痛いだろうな。この店長も痛がってたよ……まぁ、お前と違って頸動脈をザクリだったから、すぐに楽になったんだけどな……」
言い返す言葉も、気力も無かった。ただ楽という割にはあの店長、随分と苦しそうな顔のまま固まっていたような気もするが……。
僕は草が茂った泥土のように黒い地面に寝そべったまま、まるでギラギラ照りつける太陽を恨みがましく睨めつける砂漠の遭難者のように眼を細めて今しがたくぐったばかりの窓を見上げる。そこには顔の半分だけを奇妙にゆがめて苦悶に声も出せないでいる僕を見下したように見返す闇の住人が立っていた。
「……ああ、待ってろよ漲月ぃ……今俺も、そっちへ行くからな」
「……い、いや、結構……止血くらいなら自分でできますし、こんな痛み、怺えて病院に行くのなんて訳ないですから」
むろんこれは嘘だ。本当は死ぬほどに痛い。一言発するたびに皮膚がジンジン悲鳴を上げている。
絞り出すようにしてやっと発声した言葉がハッタリとは、我ながら様にならないとは思うが、しかし彼にすぐやって来られてもこの命が削り取られるのだろうことを思うと間を稼ぐしかできなかった。ぽっちゃりした彼の身体では、あの窓をかいくぐることは到底不可能だ。それは僕の、ところどころ破けてしまった割烹着が証明している。割と細身な僕でさえ、焦っていたとはいえこのザマなのだから、メタボ気味な彼があの隘路を辿って青息吐息の僕の息の根をとめにかかることができるとは思えない。
となると、僕を襲うには彼は必然的にホールへ抜けなければならない。客や店長にへつらう従業員が大勢いる、小汚いあのホール……。
「……いや、でもよぉ……大腿部の負傷は痛いだろ……? 俺が負わしちまったんだし、責任は俺が取るよ」
「……責任、と言いますと?」
「楽にしてやる」
「いえいえ結構です!」
まずいことになった……この勢いだと、本当に彼はホールを抜けて正面入り口からこちらまでやって来て、僕にトドメを刺しかねない……僕は咄嗟に、身を守れるようなものを探したが、手の届く辺りにあるのは室外機と灯油タンクと、それらのためのいくつかのアタッチメントくらいなもので、まともに護身の役にたえられそうだったのは僕の血液の体外への流出を最小限に留めてくれている、今は栓の役割を担っている包丁くらいだった(この段になってやっと包丁だというのがわかったが、しかしこの包丁、厨房にあった物の中でかなりのクセモノで、なかなか切り難いやつだったのだが……これで店長を殺したのだろうか……?)。
「そんな謙遜するなよ……せっかく俺が好意でやってやるって言ってんのに、お前ときたら。お前と俺の悪いところだぞ、そうやってすぐ縮こまるのは」
「……いや、だってそれは痛いからで」
「だから、俺が楽にしてやるよって」
「いえですからそれはお気持ちだけで充分ですって!」
そんなことよりさっさと自首してくれ。今はただもう切に、そう願うのみだった。
「大丈夫だよ。これについてはもう、経験済みだし。もう殺人童貞と違う、痛みも感じられずにすぐ逝けるって」
「No,a thousand times no!」
僕の拒絶の意思は彼のどうやら錯乱してしまったらしい頭には届かなかった。彼はそう言い残すと、窓から顔を退けて奥へ引っ込んでしまった。本当にホールへ行ったんだろうか……? もしそうだとしたら、返り血を浴びて血塗れになった彼を客や従業員が咎めないわけにはいかない。彼はもう凶器は持っていないし……いや、厨房ならいくらでも殺傷能力の高い器具が手に入る。もしや、彼は目撃者である僕を殺そうとして、客や関係の無い従業員までを襲う気なのだろうか。それはなんとも、本末転倒な気がする。
だが可能性は充分にあった。なにより彼はその言動からも伺える通り多少気が触れたような話しぶりだったし、それに従業員もまったく無関係でいるわけでもない。彼という爆弾の導火線に早く火が回り易いようにせっせと油を撒いていたのは彼らとて否定できない事実である。しかしそうなると、彼はたった一人で、あの狭い食堂にぎゅうぎゅうと押し込められている大勢と闘わないといけないわけで……。
悲鳴と騒音に考えを中断させされてハッとなった僕は、開けられた窓から漏れる判断不能な聴覚情報だけを頼りに中の様子を探ろうとする……ひどいパニックになっているのは、男も女も絶叫している声から想像がつくが、阿鼻叫喚の殺戮が行われているのか、それとも鈴木さんは手近の誰かを切りつけただけですぐにお食事中のサラリーマンや先輩達によって取り押さえられたのか、一切わからない。
風が血と油にまみれた僕の鼻腔を流れるようにわたった。
僕はそこで思考を切り替え、とにもかくにもまずは病院、いや止血が先か、いやいや助けを請うのが先決と思い至り、文字通りの這々の体でなんとか街道へ逃れ出て、道なりに食堂とは反対の方向へ折れた。
平日の昼間だというのに、車は一台も走行していなかった。ガードレールの内側に植樹された街路樹並木はてんでに春の花を咲かせていて、馥郁たる芳香で僕の血を清める。僕は点々と滴る赤い血をアスファルトのスレート色に染み込ませながらずりずり歩き、青い花を乙女の囁くようにくゆらせる水仙の手前で息絶えたようにばったり俯せになる。
……だめだ、意識が壊れる……。
思えば一日の間にいろいろとありすぎた。店長の死、鈴木さんの凶行、怒りの爆発、そして包丁……僕は鈴木さんとはそれほど仲が好いわけではなかった、とはいえ共に店長が嫌いだったという共通した負の感情を抱いてもいたが、愚痴を肴に一杯やるような間柄にまで発展させるには――彼が云っていたように――二人ともあまりにも縮こまりすぎていた。有り体に言えば親睦を深めようだとか行動を起こすキャラでも僕たち二人はなかった。
そこがいけなかったのだろう。バリバリな体育会系である店長の矛先が彼に向くようになってからは、僕は彼を助けようとする気持ちよりも、なんだかスカっとしたような、胸のすくような気持ちが大いに勝っていた。自分よりも下の身分の人間がいれば、不思議とカーストに飼い慣らされた労働者という被造物は互助の精神よりも地位の安定と確立を望む。僕が彼に狙われている理由も、実は目撃者だからという単純な動機でなく、そこのところの、複雑なものに根ざしているんじゃないかと思えてしまう。
つまり、本当に罪深いのは、わかりやすい暴力を態度で示した店長ではなく、彼と同じ立場にありながらも、彼に救いの手を差し伸べようとしなかった僕の方ではないのか……?
青い水仙は春風に揺れる。大役は回ってこないが序盤から出ずっぱりのサブヒロインのように、それが与えられたロールをひたすら、へこたれず忠実にこなしている。
血はダクダクと流れ続ける。僕が辿った経路はマーカーの引かれた教科書のように明瞭で、もし彼が、からがらに食堂内のABCD包囲網を脱出してきたとしたら、万事休すのお手上げ状態だろう。その時はその時だ。その時がくれば僕は潔く、彼の怒りを鎮めるための人身御供として、意識の底に沈んでやろうじゃないか。往生際はすんなりとしていて、悪くない方が美しい。
僕はコンクリートに接吻した姿勢のまま、俯きな思案にひたすら耽っていた。
していると――
「――もし。道をお訊ねしたいのですが、お顔をお上げになってくださいませんか?」
――凛とした女の人のバカ丁寧な声が、そよと吹く風にわたってどこからともなく舞きあげられた広告チラシのような軽さで僕の耳から進入して脳を刺激した。僕はバネのように上半身だけ跳ね起こすと、実はたった今まで歩道で堂々と人目もくれずに腕立て伏せをしていた風変わりな人物が僕なんですよと言わんばかりの顔でその女の人のご尊顔の拝謁の栄にあずかった。
「……あ」
その女の人――常盤さん――は、言葉を失うほど、痛みが飛んでいって夜空に浮かぶ星を一つ落としてそれによって願いが達成しその縁であわよくば結ばれることができればいいのになぁと思えるほどには痛みがさして意識されなくなるきっかけをつくってくれるほど、可憐な女性――当時はまだ十七歳の女の子――だった。
どこで売っているのか、フリフリの巫女さんが羽織っているような薄手の上着に身を包み、タイトな黒いパンツで足首までをすっぽり……いやさ、すらぁっと隠し、動き易いシューズが色気もなくその足先を飾る。出で立ちのアンバランスさもさることながら、最も印象的だったのはその髪だった。おそらく彼女が僕の物語において、ただすれ違うだけの行きずりの人物とだけ描写されたとしても、老い先短くなった時にもう一度過去の出来事を追体験しようと述懐しだした際に真っ先に思い起こされるのが、就職とか結婚とか出産とか退職とかをさしおいて彼女の容姿なのではないかというくらい、その髪の与えるインプレッションは強烈だった。
なんたって僕は、これまでの人生において全く染めたり脱色していたりした様子も見受けられない、生のままの色が快晴の空よりも蒼い毛髪なんて、見たためしがなかったのだから。
衝撃という言葉では形容できない、それは感動の大きさだった。
「わたくし、ある人を捜しておりますの。こういう感じの方なのですが、お心当たりはございませんか?」
凛とした声――。ナメクジに塩をまぶした時のように、耳の穴からその声を拾うだに脳が溶けてなくなってしまいそうなほど、可愛い、美しい、コケティッシュな響きをまとわせた甘い声だった。そのテイストから云えば塩ではなく砂糖に近かったが、僕は頭がぼーっとしてしまい、なんだかよく分からず、差し迫った事態も瞬時に忘れてしまい、何も応えることもできずに差し出された用紙を見る。風に紙が揺れる。鉛筆か何かで書かれたらしいそのイラストが、風のためか疲れのためか焦点が絞れずにファジーに映る。僕は臆面もなく彼女にずいといざり寄り、もっと近くでその似顔絵を見ようと努めた。甘い香りが彼女のしなやかな手首から立ち上ってくる。
「……えと、これはその……この絵は、人間を描いたものですか……?」
「はい」
ややの間を空けて、僕は見たままの感想を述べた。感想が疑問文になってしまったのは、抽象絵画や前衛すぎるアートを見させられた時以上の困惑と不理解が僕を一時に襲ったからだ。まず描かれている模様が人物なのかどうかを確認せねばならなかった。彼女は鷹揚に、朗らかに「はい」といらえした。歌うような屈託のなさがその調子には含まれていた。僕は我が眼を疑ったが、やがてすぐに疑うべきは僕の疲労のために覚束なくなってしまった視力や認識力ではなく、紙と炭素粒子による奇跡の誤作動か、彼女の絵を見る観察眼の方に違いないという答えに至った。
「……えーと、その、紙を間違えていたりしませんか。僕にはこのデタラメな線と丸のみで図形された記号のどこに、人型の示唆が埋め込まれているのかさっぱり分からないんですが」
「おや? 変ですねぇ……私は絵心に自信が無いのは認めるところですが、しかしこのイラストはこのお方の特徴を的確におさえている会心の出来映えだと思ったのですが」
と言って、彼女が巫女さんみたいな白いフリフリした服の懐から取り出したのは一葉の、人物を写した写真だった……つーか写真あんのかよ。初めからそっちを見せろよ。
「……いやいや、ちょっと待ってくれ。どうしてこの写真の人がこの絵になるんですか! もはや人間の形骸をとどめていないでしょ!」
「おやおや? 変ですねぇ……そんなに似ていませんかね? 私には瓜二つのクリソツだと思われるのですが」
あり得ねえよ、言葉のチョイスもさることながら、その感性の鈍さと絵心の無さがありえない。
歌うように朗らかだった彼女の声が、船を難破に導くというらしいセイレーンの歌声でないことを祈りつつ……僕はオデュッセウスよろしく、全身がどうにかなってしまう前に麻縄で縛り上げたい衝動に駆られた。要するになんだか、破滅の予感めいた気配を感じ取った。
「こんな奇っ怪な姿は、アッシリアの空想上の動物にも見られないことでしょう……」
「あら、よく見たら貴方、血を流しているじゃありませんか! まあ大変、刃物が刺さっています!」
「い、今更ですか……僕は、今ここでこれから走馬燈を幻視して『フッ、なかなか悪くない、人生だったぜ……』って臭い台詞吐きながら涙ながらに息を引き取る段階に移行しようとしていた矢先に声をかけられたんですよ」
登場の仕方とキャラクター性において、ちゃんと空気を読んでください。太股から夥しい血を流して路上にうつ伏せているのにどうして「この人、具合悪いのかなぁ~」とか疑わないんですか。どんだけトンマな設定なんですか貴女は。
「おかげで痛みも感じないし口もちゃんと利けるくらい楽になっちゃったじゃないですか、まったく……」
「まあ、それは……お気の毒、なのですか……?」
「……ん、いやまぁ……あれ?」
くだらないやりとりをしているうちに、不思議と身体に活力が漲ってきた。痛みはもうほとんどない。おそるおそる大腿部を見てみると、突き立ったナイフが偉人を称えるべく丘に据えられた大岩の碑のように見えたが、そこから噴きこぼれる血の量はかすかだった。貸与されたズボンは赤黒い液体でぐちょぐちょだったが、幸いもう血が固まってきているものらしく、肉に異物が食い込んでいる違和感を覚えるくらいで痛みも熱さもまったくなくなっていた。
「……あれ、おっかしいな……僕は今、慥かに自分自身の最期を自覚していたのに……これだけ血を流したのに、どうして平気でいられるんだろう……?」
風が水仙の香りを運んでくる。僕は常盤さんの端整な小顔を顧みると、コードで接続された関係同士のようにそこから元気を勝ち得た。
なんてことだ、僕はどうやら恋心によって発生する燃焼を生命エネルギーへと換えているようだ。これでは無性生殖生物もびっくりのエコ生命体じゃないかまるで。
「よかったですね、大したケガではなくて」
「いやいや、大怪我でしょう。どう見ても」
尤も科学的には一目惚れによって生命の維持をはかる論文が書かれることはまず無いだろうからここではひとまず議論をおくとしても、とにかく僕は生きていて、割と意識もしっかりしていて、そのうえ彼女に懸想までしている。
(可愛いなぁ……なんてキレイな人なんだろう……肌も真っ白で、身体のラインも調ってて……なんか、凄い、この世ならざる美人って感じ)
「あらあら、そうでしたの。ごめんなさい、わたくし、自分で云うのも口幅ったいようですが、箱入りで育ってきたいわゆる深窓の令嬢というやつですから、臀部に程近い大腿部を刃渡り八センチほどのよく使い込まれたせいで切れ味が目減りした感のある野菜包丁で一突きというのが、ケガとしてどの程度のレベルなのかしっくりこないところがありまして……それはよほど大きなお怪我なのですか?」
「なにその認識! 刺さった包丁まで見事に看破してるよ! 深窓の令嬢ってか、ほとんど神の視点じゃん! 貴女いったいなにも……っ……!?」
突っ込んだ……いや、叫んだ拍子に思い出したかのように太股が疼き出す。堪えきれず顔をしかめていると、中腰だった彼女が細い膝をくねるように折り曲げて、お尻を路面に触れるか触れないかのぎりぎりで浮かすようにしゃがんだ……手っ取り早く云うと、うんち座りだ。
「おや? まだ痛むのですね。弱りましたわねぇ……わたくしも用事をすまさなくてはなりませんし、病院まで連れて行こうにも、ここらには不案内なものでして……」
しゃがんだ彼女の身体から立ち上る匂いが僕の意識をまたくすぐった。うう、女の人ってずるい……僕は生と死の中間をふわふわとしながらも、彼女のこの世の物とは思えない青き地毛に取り縋るように這い寄る。なんだかゾンビみたいだが、この際甘えたくもなる。
「あ、ああっ! も、もうダメだ……僕はこの痛みに耐えられそうもない……早く病院に連れて行ってもらわねば、死んでしまいそうだぞ!」
「へぇー、さようですか。その割にはお顔は随分溌剌とされてますわね。不思議と血色も良好です」
「ああっ! 病院はすぐそこだというのに! 僕にはもう、一人で歩いていけるだけの余力が無い……だ、誰かが肩を貸してくれれば、立って歩けるんだろうけどな……?」
「困りましたねぇー。どうして誰も道を通りかからないのでしょうか」
「ああっ! もうダメだぁぁあ死ぬぅぅ」
「まだピンピンしていますよね」
この受け答え……さては僕の下心に気付いているな!?
僕はおずおずと顔を見上げる。南天に位置する太陽と重なって、強烈に明るい彼女の微笑みが僕の面を打つ。気のせいでなければ、青い地毛が細く透けて輝いて見えた。
「……ああ、どうやらもう僕はこれまでのようです。最期に貴女に、伝えなければならないことがあります……」
「あの、なんでもないようでしたらそろそろわたくし先を急ぎたいのですけれど、この茶番はいつまで続くのでしょうか?」
「ス、スフィンクスの視線の先にあるのは……ケンタッキー、フライドチキンなんだぜ……」
「いまわの際に言うことが豆知識かよ。てゆーかそれ、結構有名なトリビアですよ」
と、くだらない応酬をしている間にスフィンクスさながら四つん這いになっていた僕の損傷箇所は、春の午後の麗らかな陽射しと麗しの眼差しとに身も心もホッカリ暖められているうちにみるみる血が凝固していき、制服ズボンはもうカピカピに乾いてしまっていた。恐るべし冗長の力。
余裕も出てきた辺りで、僕は話を切り替えて彼女に質問した。実は写真をチラと見た際に、気がかりと思えるような感覚がはたらいていたのだ。その正体は、写真を見ることで確認しておきたい。
「ふぅ……まあ冗談はそれくらいにして……写真の人物の件に戻りましょうか、えーっと……」
「常盤と申します。ちょっとお伺いしてすぐに失礼する予定でしたけど、これほど強烈なキャラクターを見せられては報いに応じて名乗らないわけには参りませんしね。写真の方がわかりやすいというのでしたら、どうぞお見せします。ただし血でよごさないようにしてくださいましね」
と言って、彼女は丁寧な手付きで三色刷りの粗い写真を差し向けてきた。……ほっそりしていて、綺麗な指だった。爪の色は健康的な桃色で、まめな性格なのか全ての爪が磨かれていて、表面が陽光にテカテカ光っていた。
「写真ではなくてわたくしの爪がそんなに見たかったのですか? 厭ですわその変態的フェティシズム……」
「い、いや、決してそんなつもりは……ていうかさっきから常盤さん貴女鋭すぎます」
僕は写真をしげしげ見やる。本当はもっと手首から上の方へ視線を移してニヤニヤしたかったのだが、そんなことをすればたちまち彼女に嫌われて、見れる写真ももう見れなくなるだろう。僕にはなんとしてでも――たとえ彼女の見立てでは重傷ではなくとも、僕からすれば大怪我であるこの傷の痛みをおしてでも――その写真を、今もう一度よく見直す必要があった。
というのも――。
「……やっぱり、鈴木さんだ……」
そこには見慣れた小太りの男が、虚ろな眼を脂肪によって重たそうに見える目蓋に半分以上覆いながら、どこだかの藪へ分け入っている姿が正面から映し出されていた。粒子が粗くてよく判らないが、手には草刈り鎌のような物が握られている。さやかに照る月光が、撮られた時の宵の程を告げている。
「おやおやおや? そのご様子から推測するに、どうやら貴方はここに写っていらっしゃる小太りの方をご存じなのですね?」
常盤さんは、当然答えがわかりきっているようなことをあえて確認する調子で訊いてきた。どうしてこの人はさっきからこんなにも察しが鋭いのだろうと不思議がりながらも、とりあえず今はサスペンドしておいて、僕の顔が隠し事が下手な人のそれのようにわかりやすいのだということにしておく。何人も同時多発的に発生する問題を瞬間に処理してしまえるものではないという格言を即席で作り上げながら。
「ご存じも何も、僕はこの人にやられたんですよ、これ」
と言って、包丁の赤く染まった柄を示す。彼女は柏手打ったように「相わかった委細承知」といった時代劇風な、それこそわかりやすい顔をして「すみませんがそのお話、詳しく教えていただけませんか? その後でしかるべき手当はきちんとほどこしますので」と僕に鈴木さんの一件をつまびらかにするよう催促してきた。
「手当は後回しなんですね……」
「はい。プラスしてご褒美もさしあげますわ」
「ご褒美? ほぅ。参考までにどのような物がいただけるんですか?」
僕は期待に胸を高鳴らせた。
「……いい子いい子してさしあげます」
「僕は子供かよ!」
いや、まあ、嬉しいと感じてしまう自分が心のどこかにいるというのは事実なんだけども……。
「ただしお触り厳禁なのです」
「まったくもって意味がねぇ!」
「最近はやりのエアいい子いい子です」
「それって台詞だけじゃん! いや、そこに萌えを感じてしまう自分がいるのも確かに事実なんだけども!」
「と、まあ冗談はこのくらいにして……さっそくですが貴方の身に何が起こったのか、仔細を詳しく教えていただけないでしょうか。ひょっとしたら、わたくしがここにやって来たのが既に手遅れになっているのやもしれませんから」
手遅れ……僕には彼女が言わんとしていることが、それどころか奇抜な衣装を纏った彼女がいったい何者なのかすら皆目わからなかったが、澄んだ美しい眼を見ているとその誠実さが肌に感じられてきて、なんだろう、頭を撫でられているような……いい子いい子してもらっているような無限の安心感を得られたので、その時詐欺の被害に遭ったとしても誰をも非難できない特殊な心理状態に僕は陥った。行きずりに過ぎない彼女を信用して、全てを話そうと思った。写真の鈴木さんの眼は――ピンボケしているから判りづらかったが――不気味なくらい虚ろだった。そのことが僕の気がかりに余計な拍車をかけていた。
僕はスーハーと息をして、気を落ち着けた。
「……わかりました、全てをお話します。それはさっき――」
「――それは俺の口から喋らさせてもらうぜ、漲月ぃ」
「!?」
僕はぎょっとして来た道を振り返った。来た道もなにも、距離にして二十メートルも無い地点でばったり伏せってしまったものだから、こんなところでもたもたしていれば、そのうち店から出てきた人間にすぐ見つかってしまうのは考えるまでもなく明白だった。ならば僕が何にぎょっとしたかといえば、
(……誰も、店から出てこない……!? あんなに騒がしかったのに、今は異様なくらいしんと静まりかえってる……まさか……)
みんな、撃退されたというのか? 刃物で武装しただけの鈴木さん一人を相手に? いや違う。いくら武器を持っていても殺しのスペシャリストでもない一般人が三十人くらいはくだらない人間を全員切りつけるなんてマネ、到底できるわけがない……しかし、ならばなぜ、誰一人として店から姿を出す者が現れないのだろう。少なくとも恐慌状態におちいった者から順番もへったくれもなく我がちに外へ逃げ出しそうなものだ。
みんな縮こまって顔を膝の間に埋めてしまっているのか? 切りつけられて動けないのならともかく、無事な人間も幾たりかはいるだろうし、まさか全員が全員臆病風に吹かれるなんて、そんなこと……。
その時僕の脳裏を、嫌いでしかたなかった店長の顔がまざまざとよぎった。その顔は今、一面を血の海と変えながら、その真ん中に浮かんでいる一つの島となっているだろう。その穴の開いた咽喉の太さが、不安という形で僕の首をしめた。
「まったく、人間ってやつは……とりわけ男ってやつは、どうしてこうも危地へと自ら飛び込もうとするんだかな。特攻隊でもあるまいに、ケッ、カッコつけやがって。資本とどでかい社会にまんまと踊らされてるだけのサラリーマン風情が、慣れないことすっからこんな惨い眼に遭っちまうんだぜ……まあ尤も、ハナっから生かしたままにするつもりもなかったが……それとも男は単に見栄を張りたいだけなのか、なあおい漲月、お前はどう思う? たとえばそのわけわからん身なりした女にカッコいいところ見せようとして、俺からこの得物を奪い取るなりはたき落とすなり、しようと思うか?」
「……あ、あ、あ……そ、そんな……!」
不敵な笑みを浮かべておもむろに近付いてくる鈴木さん……その手には、僕の腿に刺さっているのよりも遙かに切れ味のよさそうな大振りな刃が……というか何でそんなものが都合よく厨房にあるんだ。
「……おやおやおやおや。これはまた、そちらの方からお出でいただけるとは、好都合です」
僕がひたすら都合の悪さについて恐怖していると、常盤さんはそう言うやすっくと立ち上がり、ずかずかとスレンダーな脚を内股で運びながら彼に接近して行った。止める間もなかった。彼女の意志はまっすぐで、その行動にはいささかの迷いもなかった。
「……!? だ、ダメだ常盤さん! その人に近付いては――!?」
聞こえているのか、いないのか。
常盤さんは僕の制止の声を容姿と同じくらい華麗にスルーしてのけると、その艶やかさを自慢げに見せびらかすクジャクのような振る舞いで、長身のプロポーションを鈴木さんの眼前に突きつけた。ヒールも色気も無いスニーカーなだけに、鈴木さんとしては結構な侮辱じゃなかろうか。僕は言葉の代わりに鈴木さんが常盤さんに突きつけている物騒なモノがおそろしくて、瞬きするのさえ億劫がった。無論そんなことに気づきもせず、常盤さんは不遜な目つきで鈴木さんの頭から立ち上る臭気を嗅ぎでもするかのように見下ろしていた。
「……おい、女……いきなり近付いてきて、なんの用だよ……?」
鈴木さんは不審がっている……無理もない。店長のせいで、職場の女性にはさんざん気持ち悪がられ、すっかり自信を失くしてしまった彼には、全ての女性が忌々しく映ってしまうのだろう。僕にも似たような経験があるから、ひ弱な男の気持ちなら手に取るように解る。その僕がこうして思うのだ、このままだと常盤さんが危ない、と。鈴木さんの手はブルブル震えている。今しもその手にする凶器が常盤さんの繊細な身体に食い込まないとも限らない……ちょうど僕の太腿のように。
そうなるとぞっとしない。僕の頭の中に美術的価値の高い壺が四散するイメージが再生された。僕は死力を尽くして、有らん限りの声を振り絞って叫んで、せめて注意だけでも逸らせようかと、何もできず、ただ手を拱いて見ているしかない現状に耐えかねて、息を吸い込んだところ……。
「ちゅ」
「……!?」
「!!!???!?!!????」
常盤さんが驚きの行動に出た。なんと、キキキ、キスをしたのだ。あの、あまり清潔とはいえない鈴木さんに、誰からもモテず当人も奥手だったから誰とも好き合った人がいなかった彼に、まったく躊躇いもなく口付けを与えたのだ。それも彼女の唇から最も近い距離にあった脂ぎった額とか、汗の密集した頬とかじゃなく、唇と唇で、マウストゥーマウスで接吻してのけたのだ。正直羨ましいことこの上ない気分だ。こんな美人と生涯に一度でも唇同士を重ね合わせられることを知っていたのなら、僕だってもうちょっと不細工に生まれてよかったかもしれない。
「……どういう、つもりだよ……? お、俺が可哀想だからとか、同情でキスしたのか……? そ、そうだったら、許さないぞ……!」
ギリっとゴマメより激しい歯ぎしりをした鈴木さんは、野球の球でも打ち返そうするかのように鉈みたいな刃を握りしめる。このままだと直球ストレートの勢いで、常盤さんの首は飛ぶ。僕は一瞬恍惚とやっかみに我を忘れてしまったことを遅まきながら悔やんだ。やはり何もしないで横になっているよりは叫ぶべきだったのかもしれない。
僕が臍を噬む思いでいると、常盤さんは肩をすくませるようにした。クスっと空気を漏らしただけのような、人が相好を崩した時の音がした。わからない。僕には常盤さんのしようとしていることが、全然まったく皆目わからない……。
「まったく、失礼な殿方ですこと……このわたくしが、酔狂やからかいで人に唇を与えるような軟派な女に見えますか?」
常盤さんはずいと身を近づける。相変わらず顔が近い。しかし僕の時とは違って、もう彼女の唇の味を知ってしまった鈴木さんは動揺することもなく、注意深く眼をギラギラと光らせていた。
「……じゃあ、なんだったんだよ、今のは…?」
「わたくしは……本当に好きな人としか、本当のキスはいたしません……ファーストキスだったんですよ、今のが」
「!?」
ガーン。僕の頭がかち割れてしまいかねないほどに大きな鐘が近くで打ち鳴らされた。ガツンとハンマーでやられた時のような疼痛が後頭部を襲う。大好きな人の初キスは、目の前でたった今奪われました。
「な……なに言ってんだよ! 俺のこと、好きになるような女なんて……!?」
「います、ここに」
ズイ。決然とした声で、常盤さんはきっぱりと言い切ったかと思うと、もうそれ以上彼我に距離という概念は無いにも関わらず、常盤さんは彼へと近付いた。もっと近くへ、もっと深層へ――それは本来、通りすがりの彼女ではなく、彼と同じ時間を共有していた僕がやらなくてはならない行為だった。
そこでハッと気付かされた。彼女は鈴木さんにではなく、僕へと語りかけている。僕をしかりつけている。いい子いい子と甘やかすダメな母親の代わりに、僕を厳しさの中でしつけ直そうとしているのだ。
「……な、なにを、なにをわけのわからないことを! 俺を! 俺をよく見ろよ! こんだけ近付いてても見えてないのか、あんたには!? こんな俺を、男として何の取り柄も無い俺を好きになってくれる女なんて、いるわけないだろ! 騙そうったってそうはいかないぞ! 俺は何度もその手に喰わされて、みんなの笑い者にされてきたんだからな! そう言ってお前も、どうせ俺をからかってるんだろ! そうはいかない、騙されないぞ、俺はもう――」
「なら、はっきりと言ってさしあげましょうか?」
「な、何をだよ……?」
ぐらついている。僕は息を呑んだ。刃物によって大きく見えていた鈴木さんの身長は、背の高い常盤さんを前にみるみる縮んでいき、臆したように初めて半歩退いた。前進を拒むかのように、鈴木さんの足があったそのタイルの一箇所が空くや、常盤さんがすぐさまそこを埋めた。鈴木さんは終始、たじろぎっぱなしだった。
「わたくしは、貴方のことを――」
「……」
ごくり、と生唾を飲む。なんだ、この緊張感……鈴木さんは戦意喪失したように、刃物の柄を握る指の力を弛めていってるように見える。常盤さんの気迫は凄かった。彼女は一歩一歩確実に、鈴木さんへと肉迫している。彼をコーティングする不審の皮を巧みに剥いでいっている。鈴木さんはすっかりたじたじで、骨抜きにされてしまっていた。無理もない、こうして背中だけしか見えていない僕だって魅了されてしまうのだから、彼の狂気が――負の感情の蓄積が――一気に氷塊したとしても、納得できるほどの力が、本能的な美というものには秘められていた。
そして、とどめの一言が今囁かれる。それはおそらく末代まで記憶されて、僕の心になんとも遣りきれない感情を澱のように沈滞させるのだろう。なぜならそれは……。
「俺は……俺は……!?」
「――今だ! 隙ありぃぃぃぃ!」
「あへぇひゃあぁぁあ!?」
油断を誘うために唇まで利用した、あざとい策略だったのだから。
「くっ、お前……卑怯だぞ! 色仕掛けで俺を油断させるだなんて……」
「これは異なことを。目の前に刃物を見せびらかす返り血まみれの男がいるというのに、籠絡させておいてからその威力となりうる牙を取り上げるのがよくないだなどという法がありましょうや?」
常盤さんは鈴木さんが眼を泳がせているその隙に――それは一瞬のエヴィデンスだった――、彼のその手をひねり上げて、出刃包丁よりもっと凶悪な見ているだけで背筋がぞぞぞと冷たくなるような光を白昼に閃かせる刃物をアスファルトの地面へカランと小気味よい音を響かせて落とし、間髪いれずにそれを踏みしだく。バキッ。スニーカーの下で凶悪な刃物は短い金属質な断末魔の声を張り上げた。……というか、できれば常盤さんほどの美少女には足の裏でスチールを砕いてほしくなかった。
いろいろと設定がむちゃくちゃだ。
「さあ。丸腰になったところで貴方からもお話を伺いましょう……すなわち貴方のそのシャツにこびりついた血は、貴方のものでないとすると一体誰のものなのか?」
「う、ぐぐ」
信じられない……僕は唖然として、口をぱっくりと開けたまま黙ってその光景を見ているしかなかった。神秘すぎる。常盤さんは鈴木さんの掴んだその腕を更に強くねじり上げ、草でも引っこ抜くかのようにぞんざいに彼の身体のコントロールを奪う。あのたおやかな細腕のどこに、彼の厚ぼったい脂肪でできあがった身体の体重を支えるほどの力が入るのだろう。僕の中のニュートン力学が間違っているのだろうか。不思議でならないことばかりが、この日僕の前でのべつ幕なしに連続していた。
「さぁ、お答えあそばせ!」
子供の尻でも叩く母親のような強烈な声で彼女が叱咤すると、鈴木さんはそういう変態的な趣味でもあったのか、ノドの奥を鳴らすようなくつくつとした変な笑い方をして応じ、それがために僕や常盤さんを不気味な居心地に包みこんだ……。
「一体誰の血だ、もなにも……答えようにも、その質問に答える言葉を俺は知らねぇよ」
「……なぜです? もう一度だけ猶予を与えますが、返答いかんによってはこのまま腕を引きちぎって差し上げてもかまわなくてよ?」
「ひぃ」
悲鳴を上げたのは僕だ。なんて情けないことだろう。か弱い女の子に任せっぱなしで、男として立つ瀬が無かった。しかしこの時僕が取った選択は決して間違いじゃなかった。選択といってもまあ、怪我のために寝そべる以外何もできなかったようなものだが、それにしても僕が見ず知らずの常盤さんを魔の手から救おうとかかっこつけて、鈴木さんと死にものぐるいで対峙しようだなんて血迷わなくて正解だったと、直後に僕は知ることとなる。僕の判断は正答だった。僕は二人より離れた位置で傍観していて、直感的に賢明だったといえる。それはもうケイローンもかくやというくらいの賢者ぶりだ。
「……だってよ、なんたってこの血はよう――!」
「――なっ!?」
鈴木さんが、背中から刃物をつきだした。余った方の手で、背後に隠していたらしき刃物を――出刃包丁とか、鉈とか、そんなレベルじゃすまされない、抜き身の太刀を――、常盤さんの目の前でなんのためらいもなく一閃してのけた。
「――これからお前ので上塗りになんだからな!」
「――常盤さん、危ないっ!?」
無論僕の叫びは遅きに失した。もとより野球のフライすら一度として拾えたためしのない動体視力では、あの空を裂く凄まじい一斬を見切れるはずもなかったのだ。僕の叫びは、全てが終わった頃に路上をあてもなくよちよち一人歩きしていたのだ。
「――陣!」
しかし、当時の僕には皆目わからなかったが、実は僕が叫んだまさにその刹那、彼女は弾むように軽やかに、歌うように朗らかに、きっとそう唱えていたに違いない……彼女の身体は、肩口から腰にかけてを袈裟懸けに一気に切断されていた。
「……きゃは」
鈴木さんがさも愉快そうに――快感そうに笑う――。
「……あ……あ…………………あああ!」
僕はどうしようもできなかった歯がゆさに身悶えする。しかし僕が飛び込んでいたところで、それは間違いなく犬死にだっただろう。なぜなら僕にはよしんば万全な状態であったにせよ、“今の”彼を止める力もなければ――。
――彼女のように、いなす術もなかったのだから。
「――残像です」
えっ、と思ったのは、無論僕ばかりでなく鈴木さんも同様だった。訳の分からない状況のままに、見るともなく常盤さんの斬られたはずの身体を眺めていると、血が噴き出てくるとかグロテスクな中身が窺えるとかそんなイメージは像を結ぶことなく、というか僕らの見ていた常盤さんは声がするや忽ち姿を消してしまった。
幽霊が成仏するように、霧がふっと霽れるように――。
常盤さんの身体は、あの変テコな衣服も含めて俄に空気のようにかき消えていった。
「――なっ、い、いつの間に!?」
鈴木さんが血相を変えて後ろを振り向く。その手には、昼下がりの陽光を受けて怪しい光を放つ……血染めの太刀が握られていた。
「お、おまおまお前!? 今、どうして……え? だって俺、確かに斬ったよな!?」
鈴木さんは取り乱した様子で、太刀を見たり地面を見たり、空を仰いだり自分の身に何か起こっていたりしないかを順に確認していった。おどおどまごつく彼の後ろ姿を見ていて、なんだか僕は滑稽な気持ちになったが、その不思議や困惑は僕にも等分に伝わってきて、というかぶっちゃけ咽喉まで出掛かったツッコミを入れたい衝動を限界までこらえている部分もある。
「……ですから、今申し上げたとおりですわ。貴方が切りつけたのはわたくしではなく……まあ危ないところではありましたが、残像です」
「な……残像だって!?」
鈴木さんの驚きの声と僕の内心のツッコミはシンクロした。ていうか常盤さん、あんたどこのマンガ世界からジャンプしてきたんだ。
いろいろとスペックがやばすぎて、なんだかパワーインフレ的な展開が今後眼に浮かぶようなんですけど。
「そう、残像。原理がわからないわけではないのでしょう? あまりに高速で動くものだから、そこにかつていたわたくしの像が実体をもたない虚像として取り残される……忍者の使う分身の術のタネとしてもよく紹介されますわよね」
し、信じられない……残像が生じるほど速く動ける人間なんて……しかもどうやっても瞬発力を生み出しそうもない細脚でである。でもまあ、こうして鈴木さんの一刀をかいくぐって背後に回ったのを思えば、そして今まさにこの眼で残像とやらの実物を見せられれば、いくらそれが現実から遊離した話であろうと信じずにはいられない。
アンビリーバボー。オリンピック選手もビックリしすぎるあまり眼球だけを独立してすぽーんと体外へ放出することだろう。
「……残像だとぉ……そんな、フィクションみてぇな……いや、まあいい……なんだろうと、俺は俺の気持ちを一時でも弄んだお前が許せない。だから殺す」
チャキ。鈴木さんはやけに古めかしい太刀を再び野球バットのようにかまえる。位置どり的には彼が空振りストライクでもしようものなら、存在しないキャッチャーや審判をすり抜けた先にどういうわけかスライディングポーズで固まったままいる僕にデッドボールが叩き込まれる寸法だったが、幸い投げられるのは球ではなく常盤さんの常人離れした、さりとて優しげな言葉だった。
「まあまあ、そう怒らないでくださいましな。わたくしも女ですから、目の前の脅威を取り除くために方便の一つや二つ、咄嗟に思いついてしまいますわ」
「思い付くもんか、バカヤロー。女ってぇのはよぉ、目の前に刃物持った男を見れば、そこが積み上げられたタマゴの山の上であってもキャアと絶叫する生きモンなんだよ。お前はあろうことか、残像かよコノヤロー」
「わたくしは野郎ではなくてよ。このラブリーでチャーミングなフリフリ衣装のどこにボーイッシュな要素が見受けられますか」
主にスニーカーのあたりが……とか思ったあたりで、僕は心の声まで絶句させた。そのスニーカーからはプスプスと煙のようなものが微かだがくゆっていて、鈴木さんの周囲には半円球の模様がくっきりと描き出されていた。残像、おそるべし。
「なんだっていい。とにかく俺をとっちめるつもりなら、早めにした方がいいんじゃねぇか? 漲月だって、血を流しすぎちまってるだろうし、さっさと病院に連れ込まねぇと助からねぇぜ?」
「わかってますとも。ですからこうして、貴方が向かってくるのを今か今かと待ちかまえているのですよ」
「あん? なんだよ、ご自慢の脚力で、一気に俺を殺らないのかよ?」
「殺りません。それに、あいにくわたくし勝負ごとにおいては後の先を取る気質なものですから、さっきのように策略や仕掛けがない時は無謀な攻撃はしかけないようにしておりますの」
「へー。残像とかいう割には、意外とドMなんだな」
「せめて殊勝な心がけといってくださいな」
……なんだろう、この、異様な緊張感……。僕はなんだかもう展開に追いついて行ける自信をなくしていたから、ほとんど考えるという行為を棚上げにしてしまっていたから、ここでこうやって太腿を刺されて動けなくなっている被害者Aの役は、通りがかりのネコやイヌやなんかにやらせたって全く問題にはならないのだ、とかそんなどうでもいいようなことばかりをひたすら頭にスクロールさせていた。浮かしていた頭から落ちる影だけが、いたずらな運動を僕に強いていた。
「……なぁおい、あんた、」
「常盤と申します」
「……常盤さんよぉ、競争ってのは常に公平な条件で行われるもんだとは思わねぇかい? カーブの無い真っ直ぐなトラックだったとしたら、スタートラインは横並び一直線だよな、普通?」
「そうだと思います」
「ならよ、あれだ。残像とか正直ずるいわ。慥かに俺も刃物持ってってけどよ、冷静に考えてみればさ、残像ができるほどの速さで移動しちまうほど軽いフットワークのできる女を捕捉できる自信がないわけよ。だからさ、せめて勝負とか言い出すんであればだよ? もしおたくが後の先とやらで行くんであれば、残像は無しにしようや。それで俺達のスタート地点はやっと対等だ」
「おやおやまあまあ。女性にだけ武器を捨てさせ、自分だけは帯刀で対等ときましたか……ですがいいでしょう。時として平等であることのうちには、不条理な不平等がついて回るものです」
常盤さんは言うと、相手を誘う時に人間がよくやる、手の甲を相手に向けて親指以外の指をクイっと手前に倒すサインを鈴木さんに合図した……。
鈴木さんは――彼の方こそどこにそんな脚力が潜んでいたものか――アスファルトを蹴立てるくらいの凄まじさで、一気に泰然自若とした常盤さんの許へと詰め寄った。彼の瞳は見えなかったが、さながらステュムパーロス湖の猛禽のごとき勢いであった。
鈴木さんの猛突進。
しかし常盤さんは臆した様子も見せず、どころか突き出された刃を事もなげにさっと横に弾くと、無防備になった鈴木さんの首根っこを掴み、持ち上げ、そして――。
「――うぅぅぅうううりゃぁぁぁぁあああ!」
剛速球でも投げるような気合いの入ったモーションで、鈴木さんの身体を道路を挟んで対岸にある歩道まで訳もなく投擲した。僕は口をあんぐりと開けてそれを見ていた。鈴木さんの八十キロに近い体重を有した身体は、軽々と幅二十メートル以上の四車線道路を流麗な放物線をくっきり描きながら飛び越え、肉体は対岸の壁に深く陥没した。マンガのような土煙がその身体をたちまち覆う。
「……す、すごい……常盤さん、あなたいったい何者……」
僕は聖人君子を見るような眼で常盤さんを見上げた。気のせいか中天に位置した太陽がその時彼女の姿態を艶めかしく浮き上がらせ、僕はそこに神秘的な美しさを垣間見た。青く長い髪は、やんごとなき姫君を御簾のうちにおし隠すヴェールだった。
「今はその質問に答えている場合ではありませんわ。早くしないと、店の中の人達が手遅れになってしまいます」
「……!? そうだった!」
そう、あまりにもいろんなことがありすぎてついすっかり忘れてしまっていたことだが……僕は慌てて勤務先でもある小食堂に視線を向ける。コンクリートに点々としたたる血は、僕のものでないとすると、鈴木さんがどこからか引っ提げてきた刃物から伸びたもので……。
ぞわっと厭な予感が背筋を走り抜けた。こうしちゃいられない、早く、早く行かないと……と思う反面、絶え間ない疑問が幾度となくやって来ては僕の脳をしたたかに打ちつけるように、しつこいくらいついて回って進む足をとめにかかる。
……だって、店の中には身動きも取れないほどにたくさんの、人、人、人がいたんだ……それなのに、横幅の広い鈴木さんがかいくぐれるスペースなんて、立錐の余地もないような店の中で刃物を持った彼が誰との接触もなく無事通り抜けられるとは、考えられなかった……僕は飛び降りた換気窓の先で不敵に笑う彼の顔を思い出してみた。彼が顎と首の境目をなくしたその顔を奥の方に引っ込めた途端、女性のものと思しき金切り声が堰をきったように店内を沸かした。あれはやっぱり、そういうことなのだ。
僕は閑散とした通りを眺めている。誰一人道を通らない、そればかりか、一悶着あったことは間違いない店内から出てくる客や従業員は一人もいなかった。
声一つなかった。静寂のしじまを、しーんというオノマトペがひたすら打っていた。
僕はさっきまでとは違った意味の恐ろしさを肌に感じて、吐き気をもよおした。陽に温められて躍る分子が僕の冷や汗を舐めた。
「……中の、人達は……!」
ええい、くよくよ考えてても仕方ない。とにかくこの眼で確かめねばと、覚悟を決めて歩み出そうとする僕を押しとどめたのは、やはりというのかなんなのか、忘れた頃に間を空けて疼き出す痛みが一つと、常盤さんの繊細な手弱女の衣を纏った剛力の手首だった。
「あなたはそこでじっとしていてくださいな。……察するに、あの中にはお知り合いも多いのでしょう?」
「ええ……しかし、どうしてまだ話してもないのにそんな……」
「なに。簡単な推測ですわ。貴方と先ほどの方はお知り合いであり、それにどちらも同じ制服を着てらっしゃる……彼があの店から出てきたことを思えば、初歩的なな演繹法で、二人があちらの店で汗水流していることなぞ容易に窺い知れます」
「……ほんと、鋭すぎますよ、貴女……」
常盤さんは白皙の容貌に憂いを滲ませたような顔をして微笑んでみせた……悲しい、のじゃないだろう。彼女が悲しむ謂われがない。たまたますれ違っただけの、たまたま鈴木さんを捜していただけの彼女が見も知らぬ他人のために哀愁ある顔色を浮かべられるもんじゃない。そうそう、写真のことも後で問い質さなきゃだけど、とにかく今は、あんまり常盤さんに気遣われないようにしなくては。気丈に振る舞わなくては。
「では、わたくしが見て参ります」
「………」
彼女は風に身を任すかのように、すっと立ち上がると、軽やかなステップで店へ向かう……全滅、はありえないだろう。いくら刃物を持っているからって、店の中には男の人達がいっぱいいた。そりゃ、どれも屈強って感じはしない、風采のあがらない中年男が乗っ闊歩するような時代だけれども、幸い鈴木さんだって殺しに特化した鍛え方をしているというわけでもない。全員無傷、なんてことはいかなくても、少なくとも何人かは無事に生きているに違いない。そうだ、落ち着け。静かなのは怯えてたり、パニックになったりしているだけで、みんな死んでしまったはずがないじゃないか。
……僕はこの時、見落としていたんだろう。何を見落としていたって、それはもう益体もない人生のうちほとんど全てを見落としていたような気もするが、この鈴木事変の一つに限ってみれば、それはほんの些細に思えるような、か細い不気味、不思議の不確かな感覚だけなのだろうが……。
この些細にもっと早く気づけていれば、少なくとも常盤さんの首は刎ねずに済んでいたのかもしれない。
すなわち、店長の身体は鋼鉄の鎧でできているかのような頑丈の筋肉で鎧われていて、そんな肉体にたかだか刃渡り七、八センチたらずの、しかも使い古されてほとんどナマクラと化していて厨房の脇にいつも置かれたままだったヤワな野菜包丁なんかで――いつも職場の隅に追いやられていたような鈴木さんのあるかなきかの力なんかで――ほとんど達人といってもいいくらいに武術をマスターした店長が、あっさりと殺される筈も無いのだということに。
「……え、」
目の前で、首が飛んでいた。譬喩でもなんでもなく、別に平将門の亡霊を幻視したわけでもなく、僕の眼前の中有でクルクル縦回転しながら、鼻の頭に粘つく粘液を振りまいて、対となる色をした髪をおどろと乱しながら舞っているのは――首だけで舞っているのは、誰あろう常盤さんの頭であった。
「……皆」
かすかに、ほんの微かな、空気の漏れる音よりも耳許を飛び交うモスキートどもの羽音よりも、もっともっと微かな声だったが、慥かに彼女の唇からはそんなような声が発された気がした。あくまで「気がした」に過ぎず。
僕は真っ白になった頭を徐々に下へ移動させて、ぼてっと棚から落ちたゴム鞠ででもあるかのように鈍く着地した常盤さんの頭部を見る。
頭部だけを見る。
血の海が冷たげにアスファルトに浸潤する。
「……残像、なんだよな……? なんで、なんで身体はピクピク痙攣してるだけで、さっきみたいに消えないんだよ!?」
……おかしい。僕と常盤さんはさっき知り合ったばかりで、まだお互いのこともよく知りもしないのに、それでも何故か、僕は悲しいんだか恐ろしいんだか、憤ろしいんだか知れない感情の波に包まれた。血液が沸騰していた。真っ白な頭が急激に熱くなった。
おかしい。なんで彼女は、会ったばかりの僕を気遣ったのだろう。「貴方はここにいて」と彼女は言った。それは僕に、共に職場で働いていた人達の、ひょっとしたら無惨な姿になっているかもしれない彼らの姿を見て気をおかしくさせないためだ……いや、違う。そんな打算なんかで、彼女は動かない。そもそも彼女の目的は、写真に写る人物……どういう関係か知らないけれど、鈴木さんを見つけることにあった。ならばその目的は、さっき彼とあいまみえたことによって達成されたはず。僕から情報を聞き出す必要もなくなれば、僕が知り合いの折り重なる死体を見て発狂しそうになったとしても、全然まったく、彼女の行動に差し障りは無い筈だ。既に彼女は当初の目的を遂げているのだから。
それなのに彼女は、はやって店へ這って行こうとする僕を押しとどめて一人で中の様子を窺おうとした……なぜだ。なぜ彼女は、そんなことを……そんな、バカなことを。
自分の利益だけを――目的だけを優先して考えていれば、首をかかれなくて済んだものを。
「……どうやら、今度は残像だって、ご都合展開にはならなかったようだな……ふぅ、冷や冷やもんだったぜ。なんたってこの女の怪力、しゃれになんねぇぜおい。身体がメリっと壁に埋まっちまったよ。ほんと、マンガだなこの世界はよ」
車の走らない道路を挟んだ向こう側から声がした……無論それは、鈴木さんのものに相違ない。相違ないのだが、それは僕の知る“鈴木さん”とは似て非なる存在だった。少なくとも僕の知る鈴木さんは、身の丈の半分はあろうかという太刀をブーメランかなんぞのように軽く投げおおせ、二十メートル離れた標的の首をスパっと切れてしまうような超人でもなければ、壁にめり込まされてもへっちゃらでいられるほどタフでもなく……。
……そもそも店長を殺せるほど、強くもないのだから。
偽物だ……僕は立ちのぼる煙の向こう側でくつくつと咽喉の奥を鳴らしているシルエットが、本当はエセ鈴木さんなんじゃないかと疑ってみる。いや、疑わずにはいられない。なんたって“あの鈴木さん”は、言葉の一句一句が変に間延びしてはいても、どもってなんかいやしないし、思えば“いつもの鈴木さん”とは雰囲気といいか、感じも違っていた……。
そうだ、きっと彼は偽物に違いない。鈴木さんのフリをした偽物が、鈴木さんを窮地に陥れるために彼になりすまして殺人をしていたのだ。
……では、ならばなぜ、そもそも鈴木さんになりすまさなければならない? 誰からも恨みを買えない、社会的に弱い立場にある、そのために暴力から身を守るための刃さえ持たない彼を奸計を働かして窮地に陥れる必要が、彼の人生のどこにある?
わからない。まったくわからないことばかりが僕の頭をひどく混乱させる。足を遠くして幾久しい田舎に帰った時に、そのあまりの変貌ぶりに思わず声を失い、記憶の田園風景と現在の眼と資本で見る実物との距離感が掴めなくてごっちゃになってますますこんがらがって余計に解らなくなってしまうような、そんな身悶えしてしまいそうなほどの恐怖が僕の脳天を突き抜けて噴火した。
僕は身も世もないというくらい、声を限りに叫びだした。それはなにも錯乱したからじゃない。ただひたすら、純粋に。
常盤さんのために叫び出したかったのだ。




