九尾の狐は神々しい
それは──神が授けてくれた、運命だったのだと思う。
「出ていきな!! テメェに喰わせる飯はねぇよ!!」
どこへ行こうとも、大罪を犯した私を受け入れてくれる場所はありませんでした。
正体を知られれば石を投げられ、事情を知る者には罵られ。
あらゆる者から、私は逃げ続けてきたのです。
逃げて──
逃げて──
逃げて──
そんな生涯にも、私はとうに疲れて果ててしまいました──
それでも──私は楽になることは、許されない。
誰からも許されなくとも──私が犯した罪から目を背けることだけは許されない。
そう思って──ただ息をしていたのです。
そんな折。
彼が頭上から降ってきた日。
私は、目を疑いました──
私が滅ぼしたはずの人間が──目の前にいるという現実。
千年前に、この世から消え去ったはずの存在が。
怯えた目で妖を見て、鬼に追い回されていた、あの人──
彼と接触を図ってみると、彼は人一倍妖怪を恐れていて──不思議な力を持ちながらも、この世界ではうまく生きていけそうにない。
そう思ってしまうほど、彼は危うく、不安定でした。
そんな彼を、放っておけませんでした。
──助けていただいたお礼をしたい。
そんな理由をつけて、彼の身の回りの世話をすることにしました。
せめて──この人には幸せになってもらいたい──
こんなことをしたところで、私の罪が消えることはありません── たとえ、どれだけ誰かに尽くしたとしても。
それでも、私は続けるしかありませんでした。
それが──私にできる唯一の贖罪。
「一緒に食べようぜ」
そんな中、貴方は私を食事に誘ってくれました。
貴方は私の姿にもう慣れたと言っていました。
けれど、人間である貴方が妖と食卓を囲むことは、きっと簡単なことではなかったはずです。
──勇気を、出してくださったのでしょう。
私は戸惑いました──私には、貴方と食卓を囲む資格などないのですから──
でも、久しぶりに食べた誰かのご飯は、あまりにも温かくて──
誰かと一緒に食べたことも、誰かの手料理を食べたことも、誰かが、私を褒めてくれたことも──千年ぶりのことでした。
貴方の言葉や行動で、私の心がどれだけ救われたのか、きっと貴方は知らないのでしょう──
だからこそ、私は貴方と距離を置きたかった。
人間を滅ぼした私には、本来なら貴方と共に過ごすことなど許されない。
こんな、幸せな気持ちになって良いはずがない。
なにより、『全てを知った貴方に、嫌われること』。
それが何より、怖かった。
「コイツはその昔、お前たち人間を滅ぼした九尾の妖狐よ!」
知られたくなかった。
この人だけには。
この場で殺されることよりも、彼に嫌われることの方が恐ろしかった。
侮蔑の眼差しで見られることが、耐えられなかった。
「奈央の凄さは、お前らなんかには一生わかんねぇよ」
──でも、私の大罪をすべて知ってなお、貴方は私を助けようとしてくれた。
私のために。
私なんかのために。
「……あ?」
振り翳された棍棒は、空を切った。
黒鬼の声が少し遠くに聞こえた。
頭の後ろに、柔らかい感触。
温かくて、傷だらけの身体を、そっと包み込んでくれるような温もりだった。
「本当に───貴方は、お優しい人なのですね」
頭上から、天使の声が聞こえた。
「な、お……」
目に映ったのは、いつもの奈央ではない。
顔には紋様が刻まれ、瞳は黄金に輝き、その背後には九本の巨大な尾が揺れている。
しかし、その眼差しだけはいつもの奈央のままだった。
彼女の膝の上に頭を乗せ、横たわった俺に、いつもと変わらぬ優しい眼差しを向けていた。
奈央がそっと俺の身体へ手をかざす。
すると、折れたはずの腕や足に走っていた激痛が、少しずつ遠ざかっていった。
ふくらはぎに空いていた穴は淡い光に包まれ、流れ出ていた血も、裂けた肉も、折れた骨も、まるで最初から傷などなかったかのように塞がっていく。
「な、なんだこの妖力は……!」
耳に入ったのは鬼どものざわつき。
無理もない。
俺に妖力なんてものは感じられないが、それでもわかる。
黒鬼なんて、絶対に相手にならない。
それくらい奈央は今、神々しく、輝いて見えた。
「ま、まさか、その人間の恐れを喰らったのか!?」
「いいえ──この方を、恐れさせてなどいません。そもそも、妖が真の力を発揮するのは、人間の恐れを喰らった時ではないのです」
奈央は俺の頭を膝に乗せたまま、ゆっくりと鬼どもへと視線を送る。
「妖が真の力を発揮するのは───『人間が恐れを乗り越え、妖との絆が結ばれた時』なのです」
「は……?」
鬼の一人が、信じられないものを見るように奈央を見る。
「ひ、人と、妖の絆だと!? そんなもの聞いたこと……!」
「ないでしょう──妖は人間に恐怖を与え、人間は妖を恐れる。そういう関係でしたから」
奈央はわずかに目を細めた。
黄金の瞳が、鬼どもを射抜く。
「この現象は、千年前、人間と最高の関係を築き上げた極小数の妖しか知り得ません──あなた方のような妖には、一生わからないでしょう」
『恐れ』という負の感情とは対極に位置するもの。
信頼、安心、相手を想う心──
その想いが妖へ流れ込み、さらなる力を与える。
「て、てめぇ……ふざけんじゃねぇ!」
黒鬼が奈央の妖力に気圧されながらも、吠えた。
「その人間をこっちへ寄越せ! そいつを殺せばお前の力は……!」
「──黙りなさい」
奈央の声が低く落ちた、その瞬間。
九本の尾が黒鬼の体を薙ぎ払った。
ドガアアアアン!!!
黒鬼は凄まじい勢いで吹き飛び、壁へとめり込んだ。
「が……!!!」
壁にはでかい亀裂が入り、黒鬼はそのまま意識を失う。
あの黒鬼が、一撃で──
「この方に触れようとすることは許しません──」
静かな声に含まれた凄まじい殺気に、鬼達は震え上がった。
「ひ、ひっ……た、たすけ……」
「幽冥町から出て行きなさい──」
奈央の背後で、九本の尾が大きく広がる。
「この町は──零様が暮らす町です。貴方達のような下郎がいると、彼は安心して暮らせません」
黒鬼へと向けられた殺気が、今度は他の鬼達へと向けられた。
その瞬間、鬼は悲鳴をあげた。
「ひ、ひぃ!! に、逃げろ!」
「き、九尾が……復活しやがったぁ!!」
鬼どもは逃げていった。
転び、押し合い、我先にと外へ。
「二度と、我々の前に現れないでください。もし再びこの町に現れたら──容赦はしません──」
奈央の声が、鬼達の背中へ届く。
いずれ鬼どもの気配が、倉庫から消え、残ったのは九本の尾を揺らす奈央と、奈央の膝に横たわる俺だけになった。
「妖と、人間の絆……すげぇ力だな」
これが、九尾の力なのか。
「──この力は、我々のお互いへの想いが最高潮に達しなければ顕現されません」
先ほどまで鬼どもへ向けていた鋭い眼差しは消え、そこにはいつもの奈央がいた。
「『相手のために、この身の全てを捧げてもよい』。そのくらいの想いがなければ……」
奈央は俺の頰を両手で包み、顔を近づけた。
目の前に、逆さになった奈央の顔がある。
驚くほど、綺麗な顔だった。
「どうして、私のことをそこまで想ってくれているのですか──? 私は───貴方を騙していたのですよ?」
涙の滲んだ黄金の瞳で、俺に問いかけた。
俺は、その美しい瞳を見つめた。
「妖怪だらけの世界で、こんな別嬪さんに世話してもらったんだ。文句なんて一つもねぇよ」
奈央の目が、少し見開かれる。
やがて、涙を一滴だけこぼして、嬉しそうに、微笑んだ。




