平穏な日々は壊される
この世界に来て2ヶ月ほどが経過した。
朝、香ばしい朝食の匂いが部屋いっぱいに漂い、その香りに誘われるように俺はゆっくりと目を覚ます。
「ふぁぁ……」
大きな欠伸を一つして布団から起き上がり、寝癖のついた頭を掻きながら居間へ向かうと、そこにはもう見慣れた光景があった。
エプロン姿で朝食を盛り付ける、一人の女性。
人の姿をしているが、頭には狐の耳、腰の辺りでは一本の尻尾がゆらゆらと揺れている。
「──おはようございます。零様」
「おはよう、奈央」
俺は軽く伸びをしながら椅子へ腰を下ろした。
「今日の朝飯はなんだ?」
「今日は、趣向を変え──豚汁を作って見ました」
「おお、いいね」
テーブルの上には奈央が丹精を込めて作った色とりどりの和朝食。
「いただきます」
「──いただきます」
俺は九尾の妖狐である奈央と共に、とても穏やかで、平和な日常を送れていた。
目覚めて、共に飯を食って、家事を分担して、昼寝して、飯食って、風呂入って、クソして、寝る。
なんともまぁ、のんびりとした人生だこと。
スローライフとはこうでなくては。
異世界に来た当初は、毎日妖怪に怯えて胃を痛めていたというのに、奈央と暮らすようになってからはそんな心配はカケラもない。
飯を食べながら奈央と会話をする。
他愛もない話。
そんななか、奈央の視線が最近おかしい。
俺のことを怪訝そうにチラチラ見ている。特に俺の腹辺りを。
「──あの、零様」
奈央は困った顔をして、言いにくそうに言葉を発した。
なんだってんだい。
そんなに俺の割れた腹を見たいってのか? しょうがないな。
「──お太りに、なられましたか?」
「……」
平穏な日々が、壊される予感がした。
俺は箸を置いて、落ち着いて答える。
「それはな、奈央、君のご飯が美味すぎるからだよ」
「そ、そう、ですか?」
「あぁ。見たまえこの白米、豚汁、魚、サラダ。一つ一つが輝いている。一流料亭ですら顔負けさ。君のご飯を食べられるなんて、俺はなんて幸せ者なんだろう」
褒めに褒めたからか、奈央の頬がどんどん赤くなっていっていった。
「な? 太るのも仕方のないことなんだよ。これは幸せ太りってやつ。さて、そんなことより今日は何するか。またオセロでもやる? 今日は俺が勝つぞー」
「しかし──」
奈央は困ったように首を傾げた。
「──私は、2日に一度しか、料理してませんよ……? 私と、零様で交代でしてますよね……?」
「……」
何も言い返せなかった。
正直に言おう。
運動不足だ。
妖怪が苦手な俺は極力外に出ない。
奈央が買い物に行ってくれるおかげで、外に出る必要がなくなったのだ。
そして、奈央の作った美味しい料理を食べると、結果はもうお分かりだろう。
この腹に乗った贅肉が爆誕したのである。
「──このようなことは、あまり、言いたくないのですが……不健康なのは良くないと思います」
「そ、そうか? お、俺ももう二十代だしさ、こんなもんじゃない?」
「ですが、やはり外に出て軽く運動をするだけでも、必要です。そこで、ですが──」
言葉を切った奈央を見て、俺は天を仰いだ。
なんとなく、奈央が次に言うセリフがわかってしまっていたからだ。
「一緒に、街へ買い物に行ってみませんか?」
やっぱりそうだ。
純粋なデートの誘いだったのなら喜んでたところだが……
「一応聞くけど、それって妖怪いっぱいの幽冥町にってことだよな?」
「はい」
俺は心の中で頭を抱えた。
「で、でもぉ? 人間の俺が外に出るってなると、色々事件に巻き込まれたりとかあるしねぇ? やっぱ命が一番大事っていうか……」
「──私が一緒にいます。なにがあろうとも、私が命に換えても守ります」
頼もしいけど、今だけは覚悟を決めないでほしい。
「このままの生活が続けば、体の方がボロボロになってしまいます──それに、この世界で生きていくと決めたのであれば──遅かれ早かれ、この世界の様相に適応した方が良いかと、思うのですが……」
うーんごもっともだ。
このまま病気にでもなったら病院にもいけねぇ。
妖怪の医者が人間を見てくれるかどうかはわからないが……
「いやぁでもやっぱりね? 無理は良くないと思うのよ。妖怪苦手な俺が毎日外に出るってことは、怖いもの苦手な人が毎日心霊スポットに通ってるようなもんだからね? そんなんもう苦行よ。痩せるって言っても運動じゃなくて精神的な面でガリガリになっちゃうね」
ペラペラと言い訳が口から出てくる。
正直マジで行きたくない。
あんな魑魅魍魎のところに行くのであればメタボになるのもギリ厭わんくらい。
「いやもちろん行きたいよ? 俺だって太陽の下を奈央と一緒に歩けたらどれだけ幸福なことか。でもやっぱり無理なものを強要するのもねぇ?」
俺が一通り言い訳を終え、奈央の方に目を向けた。
「──」
奈央は俯いていた。
流石に怒ったか……?
それとも呆れた?
俺だってあんまり駄々捏ねたくないけど、だって怖いもんは怖いんだもん。
奈央は顔を上げる。
「グス……」
奈央はとんでもなく悲しい顔をしていた。
「え……」
今にも涙が零れ落ちそうなほど瞳は潤み、何かを必死に堪えているように唇をきゅっと結んでいる。
肩は小さく落ち、耳も尻尾も力なく垂れ下がっていた。
な、何その顔……なんか聞き分けのない息子に本気で嘆き悲しむ母親みたいな……
めちゃくちゃ罪悪感増長させる顔してる。
「お、おい、そ、そんな悲しい顔しないでくれよ。なんか、ドメスティックバイオレンスレベルの酷いことやったみたいな気になっちゃうんだけど……」
「──も、申し訳ありません……で、ですが……零様がもしこのまま……健康に害してしまって死んでしまったらと思うと……」
「い、いやいやいや、そんな大袈裟な……」
奈央の瞳の涙がツゥ……と溢れた。
「零様には、いつまでも、健康体でいてほしいのです……」
「悲しそうな顔をするの止めてぇ?」
計算などではない、純粋な優しさからくる涙。
心が痛い。
泣いてほしくない。
いやだ。
外に行きたくない。
でも……
くっ……
「……わかったよ。努力してみるから」
「──え……」
「外に出るよ」
「──よ、良いのですか?」
「あぁ」
「──!」
奈央はとびっきりの笑顔を見せた。
まぁ嬉しそうにしちゃって。
多分奈央の息子は不良にはなれないな。
俺はすっかり冷めてしまったご飯を頬張った。




