第49話 魔王に「今、踊りたい」と誘われたので、舞踏会ではなく台所の前で手を取った
翌日の夕方、俺は台所で夕食後の皿を片づけていた。
昨夜、家から「私との時間を」と妙な要求をされたせいで、朝から何度か壁に向かって話しかける羽目になったが、結論としては「家の点検を一緒にする」ということで落ち着いた。恋人扱いを認めたわけではない。そこだけは強く言っておきたい。
もっとも、家は妙に満足したらしく、それ以降は静かだった。
「先生」
背後から呼ばれて振り返ると、リリスが立っていた。
いつもの黒い服。十二枚の翼も普段どおり畳まれている。ただし、昨日の夜に見た時とは少し表情が違う。
「どうした?」
「今、暇か?」
「皿を片づけたら暇かな」
「では手伝う」
リリスは返事を待たずに残りの皿を持った。
「珍しいな」
「何がだ」
「魔王が皿洗い」
「先生は昨日、女帝にもさせていたではないか」
「見てたの?」
「家の中だぞ。普通に通った」
「最近、誰かが見てるって聞くと全部盗み見に思えてきた」
「環境が悪い」
「お前らのせいだよ」
二人で皿を片づける。
リリスは料理が好きなだけあって、台所仕事には慣れていた。俺よりよほど手際がいい。洗った皿を俺が拭いているうちに、あっという間に全部終わった。
「終わったな」
「うむ」
それなのに、リリスは帰らなかった。
台所の入口で立ったまま、俺を見ている。
「何かある?」
「……」
「リリス?」
「先生」
「何だ」
「昨日」
「ああ」
「私は、踊りたくなったら誘うと言った」
「言ってたな」
「その時は、今ではなかった」
「ああ」
そこでリリスは一度、自分の胸元へ手を置いた。
何かを確認するように。
「今は」
十二枚の翼が、わずかに持ち上がる。
「踊りたい」
「俺と?」
「先生と」
まっすぐだった。
「じゃあ踊るか」
「……」
「どうした?」
「そんなに簡単に決まるのか」
「誘われて、俺も嫌じゃない。ならいいだろ」
「場所は?」
「どこでも」
「音楽は?」
「なくてもいい」
「衣装は?」
「今のまま」
リリスは台所を振り返った。
「ここで?」
「狭い?」
「十二枚ある」
「それは問題だな」
「先生が吹き飛ぶ」
「もっと問題だ」
結局、俺たちは台所のすぐ外にある広めの居間へ移動した。
◇
「先生」
「何だ」
「踊れるか?」
「それを今聞く?」
「私は初心者だ」
「俺も大して上手くない」
リリスの表情が少し明るくなった。
「なら同じだな」
「前に子供から教わった分、お前の方が上じゃない?」
「右、左、回る、しか知らぬ」
「十分だろ」
「先生」
「ああ」
「手を」
差し出される。
俺も握る。
以前、リリスが子供たちと踊った時は、楽しさのあまり翼が本人より先に拍子を取っていた。
今日は音楽もない。
観客もいない。
教師もいない。
「どうする?」
「先生」
「何」
「右」
「はい」
「左」
「はい」
「回る」
「俺も?」
「当然だ」
「そこまで教わってない!」
結局、二人で適当に動いた。
右へ一歩。
左へ一歩。
俺がリリスの手を上げ、彼女がその下を回る。
十二枚の翼がぶわっと広がり、近くの椅子へぶつかりそうになった。
「翼!」
「分かっている!」
「分かってない動きだぞ!」
「勝手に嬉しがる!」
「本人が制御しろ!」
リリスが声を上げて笑う。
俺も笑った。
踊りとしては酷い。
舞踏会なら途中で追い出されるかもしれない。
でも。
「先生」
「何だ?」
「楽しい」
「ああ」
「前より」
「何が違う?」
「分からぬ」
少し動きを緩めながら、リリスは考える。
「前は、知らないことを教えてもらうのが楽しかった」
「ああ」
「今日は」
俺の手を握り直す。
「下手な先生と一緒に、分からないままやっているのが楽しい」
「下手は余計だ」
「事実だ」
「お前もだろ」
「うむ」
二人でまた笑った。
◇
ところが。
「……」
何度か回ったところで、俺は妙な気配に気づいた。
「リリス」
「何だ?」
「観客いるよな」
「いる」
「分かってたの?」
「最初から」
「何で言わない!」
居間の扉を開ける。
廊下。
七人。
座っていた。
「お前ら!」
「先生」
セレスが静かに手を上げる。
「今回は侵入しておりません」
「扉一枚隔てただけだろ!」
「音が聞こえましたので」
ミレイユが微笑む。
「楽しそうでしたから」
エリナ。
「踊ってた?」
「ああ」
「いいな」
その言葉に。
リリスの翼が、少しだけ固くなった。
俺は気づいた。
たぶん。
以前ならここから、「私も」と続いた。
でもエリナは続けなかった。
「私も、踊りたくなったら誘う」
「……」
リリスがエリナを見る。
「今日は入らぬのか?」
「今日はリリスが先生を誘ったんでしょ?」
「うむ」
「なら見ない」
エリナが立つ。
「聞いちゃったけど」
「私もです」
セレスも続く。
「失礼しました」
ミレイユも。
アウラは少しだけ名残惜しそうに居間を見る。
「先生」
「何だ」
「踊り終わったら」
「ああ」
「お菓子食べたくなったら呼んで」
「条件多いな」
「今は食べたいけど、一人で食べる」
「偉い」
尻尾が動く。
自分で止めた。
「もっと偉い」
「頭はあとで!」
「結局予約するのか!」
クロエもノアもアステラも、それぞれ戻っていく。
七人が消えた後。
「先生」
「何?」
「変な感じだ」
「何が?」
「誰も入ってこなかった」
「前なら全員参加だったな」
「うむ」
リリスはしばらく閉じた扉を見た。
「少し寂しい」
「え?」
「だが」
俺を見る。
「嬉しい」
「両方?」
「両方だ」
「最近みんなそれ覚えたな」
「先生」
「何だ」
「感情は、一つでなくてもいいのだな」
「たぶんな」
アステラなら色で説明するのだろう。
でもリリスはリリスなりに、同じことを覚えつつある。
◇
再び手を取る。
「今度はどうする?」
「先生が決めろ」
「俺?」
「うむ」
「じゃあ……」
適当に。
右。
左。
回る。
リリスが回った勢いで、翼が俺の背中へ触れた。
「危なっ」
「すまぬ」
「今のは柔らかかったな」
「先生」
「何」
「触ってもいいぞ」
「翼?」
「うむ」
「今?」
「今」
踊りを止める。
十二枚の翼。
一枚。
目の前。
黒く。
大きい。
「触るぞ」
「うむ」
手を伸ばす。
羽。
指。
沈む。
「柔らかいな」
「……」
「リリス?」
「もう少し」
「ここ?」
「そこ」
撫でる。
翼。
僅かに震える。
「くすぐったい?」
「違う」
「嫌?」
「違う」
「じゃあ?」
リリス。
少し。
顔。
赤い。
「嬉しい」
「ああ」
「先生」
「何だ」
「昔」
翼。
少し畳む。
「私は、これが嫌いだった」
「翼?」
「うむ」
昔。
リリスを拾った時。
十二枚の翼は、彼女が人から恐れられる最大の理由の一つだった。
「邪魔だった?」
「違う」
首を振る。
「これを見ると皆、魔族だと言った」
「ああ」
「化け物だと」
「ああ」
「先生だけ」
一度。
俺を見る。
「大きくて格好いい、と言った」
「言ったな」
「覚えている?」
「もちろん」
当時。
リリスは泣かなかった。
でも。
俺が翼を褒めた時だけ。
少しだけ。
嬉しそうに広げた。
「先生」
「何」
「今も」
一枚。
俺の手へ。
「格好いいか?」
「ああ」
「綺麗?」
「ああ」
「好き?」
「好きだよ」
「……」
十二枚。
一斉。
ばさああっ!
「うわっ!」
「すまぬ!」
「壁!」
『損傷軽微です』
「家!」
『はい』
「急に入るな!」
「先生!」
「何!」
「今のは先生が悪い!」
「俺は聞かれたから答えただけだ!」
「好きと言った!」
「翼が!」
「分かっている!」
「なら制御しろ!」
「無理だ!」
◇
少し落ち着いて。
また踊る。
今度は。
かなりゆっくり。
「先生」
「何?」
「一つ聞きたい」
「ああ」
「私」
動き。
止めない。
「前」
「ああ」
「先生とキスした時」
「ああ」
「先生が私を好きだと言ってくれた」
「ああ」
「今日も」
「ああ」
「翼が好きだと言った」
「ああ」
「……」
「何?」
「私」
一度。
言葉。
探す。
「何度も確認したくなる」
「ああ」
「先生が」
一歩。
近い。
「まだ好きか」
「ああ」
「今日も好きか」
「ああ」
「昨日と変わっていないか」
「ああ」
「確認しないと」
ほんの少し。
声。
弱い。
「怖い時がある」
俺は。
動きを止めた。
「十年のせい?」
「たぶん」
「ああ」
「先生は」
一度。
目。
伏せる。
「突然いなくなった」
「ああ」
「好きだと言ってくれた人も」
「ああ」
「明日もいると思っていた人も」
「ああ」
「いなくなる」
リリスの手。
少し。
強い。
「だから」
「ああ」
「今、好きと言われても」
一度。
笑おうとして。
少し失敗する。
「明日は違うかもしれないと、思う時がある」
それは。
リリスだけではないのかもしれない。
八人全員。
形は違っても。
同じ恐怖を抱えている。
「リリス」
「うむ」
「明日も絶対好きだって約束は、しない」
「……」
リリス。
少し。
目。
見開く。
「先生?」
「約束したら、また明日の保証を集めるだろ」
「……」
「ああ」
「今」
「ああ」
「好き?」
「好き」
「今日?」
「好き」
「明日は?」
「明日聞け」
「……」
「明日、聞きたくなったらな」
長い。
沈黙。
「先生」
「何だ」
「それ」
一度。
翼。
ゆっくり。
開く。
「怖い」
「ああ」
「でも」
俺を見る。
「少し」
笑う。
「安心する」
「変な感じ?」
「うむ」
「明日の分まで今日決めなくていい」
「ああ」
「明日は明日」
「ああ」
「先生がいたら」
「ああ」
「その時また聞けばいい」
「ああ」
「……」
握っていた手から。
少しだけ。
力が抜ける。
「それでいい」
◇
もう一度。
踊る。
今度は。
さっきより。
リリスの動きが軽い。
「先生」
「何だ」
「今」
「ああ」
「キスしたい」
「……」
今度は。
俺も。
自分へ聞く。
「俺も」
「明日も?」
「今の話聞いてた?」
「冗談だ」
「お前まで九割とか言うなよ」
「十割」
「完全に冗談か」
「うむ」
リリス。
顔。
近い。
「先生」
「何?」
「私からしていい?」
「ああ」
「今?」
「今」
リリスが。
少し。
笑う。
「よい言葉だ」
「何が?」
「今」
そのまま。
唇。
重なる。
◇
二回目。
最初より。
少し長い。
でも。
離れる。
「……」
「……」
翼。
静か。
「今日は開かないな」
「必死だ」
「我慢してる?」
「うむ」
「開いてもいいぞ」
「先生が吹き飛ぶ」
「じゃあ駄目だ」
「先生」
「何?」
「抱きついていい?」
「いいぞ」
今度は。
翼ではなく。
腕。
俺。
抱く。
「……」
「リリス?」
「先生」
「ああ」
「今」
「ああ」
「好き」
「俺も」
「……」
翼。
ぶわっ!
「結局開くのか!」
「無理だ!」
◇
居間を出ると。
七人。
いなかった。
「本当に帰ったな」
「うむ」
リリス。
少し。
嬉しそう。
「先生」
「何?」
「報告する?」
「何を」
「二回目」
「自分から言いたい?」
「……」
考える。
「言いたくない」
「じゃあ言わなくていい」
「秘密?」
「秘密ってほどでもないけど」
「聞かれたら?」
「答えたければ答える」
「答えたくなければ?」
「言わなくてもいい」
リリス。
驚く。
「恋人同士のことを?」
「ああ」
「八人に共有しなくても?」
「ああ」
「……」
「嫌?」
「違う」
少し。
口元。
上がる。
「嬉しい」
俺たちは、そのまま夕食後の居間へ戻った。
◇
「おかえり」
アステラ。
「ただいま」
「踊れた?」
「うむ」
リリス。
それだけ。
エリナが見る。
「楽しかった?」
「うむ」
セレス。
「よかったですね」
「うむ」
誰も。
『キスした?』
とは聞かなかった。
以前なら確実に聞いただろう。
アウラも。
口。
開きかけた。
「……」
閉じた。
「アウラ?」
「何でもない」
「聞きたい?」
「少し」
「聞かないの?」
「リリスが言いたかったら言う」
リリス。
アウラ。
見る。
「……」
「何?」
「成長したな」
「リリスに言われた!」
「私も成長している」
「知ってる!」
二人。
笑う。
◇
クロエが青い器の中へ新しい紙を入れていた。
「何書いた?」
「秘密です」
「俺にも?」
「はい」
「お」
クロエ。
少し。
得意そう。
「先生が、見せないものがあってもよいと以前おっしゃいましたので」
「ああ」
「実践しています」
「いいじゃないか」
「中身を聞かれませんか?」
「聞いてほしい?」
「……少し」
「どっちだよ」
「秘密にしたい自分と、先生には気づいてほしい自分が同時に」
「それも両方でいいんじゃない?」
「なるほど」
最近。
全員。
どんどん複雑になっている。
でも。
たぶんそれでいい。
◇
『本日の記録を開始します』
「家」
『はい』
「どこまで見てた?」
『共有空間のみ』
「本当?」
『はい』
「キスは?」
『記録対象外です』
リリス。
俺。
同時。
家を見る。
「珍しいな」
『旦那様が、全てを共有する必要はないとお考えであることを学習しました』
「……」
「家」
『はい』
「お前まで成長した?」
『高性能ですので』
「そこ自分で言うな」
『本日の記録としては』
「ああ」
『リリス様は昨日生じた希望を即座に予定化せず、本日改めて希望が生じた時点で旦那様を誘いました』
「ああ」
『また』
「ああ」
『未来の感情を事前確保せず、現在の感情のみを確認する試みを開始』
リリス。
少し。
考える。
「……今だけ」
『はい』
「今好き」
『はい』
「明日は明日」
『その理解です』
「うむ」
納得。
◇
夜。
俺が自室へ戻ろうとすると。
階段。
エリナ。
座っていた。
「どうした?」
「先生」
「何?」
「今日」
少し。
考える。
「リリスと何したか」
「ああ」
「詳しく聞きたい気持ちある」
「ああ」
「でも」
自分の胸。
軽く。
叩く。
「聞かない」
「どうして?」
「聞いたら」
一度。
笑う。
「比べるから」
「ああ」
「何回キスしたとか」
「ああ」
「何分一緒にいたとか」
「ああ」
「どっちからとか」
「ああ」
「たぶん気になる」
「うん」
「だから」
俺を見る。
「今日は知らなくていい」
「……」
「先生」
「何」
「これも恋人?」
「たぶん」
「難しいね」
「俺もそう思う」
「でも」
少し。
笑う。
「前より楽」
「何が?」
「全部知らなくても」
一度。
視線。
廊下。
「先生が明日もいる気がする」
その言葉に。
俺は。
少し。
胸。
詰まる。
「エリナ」
「何?」
「明日は保証しないぞ」
「知ってる」
「じゃあ?」
「明日いたら」
笑う。
「おはようって言う」
「……ああ」
「それでいい」
「ああ」
「おやすみ、先生」
「おやすみ」
階段。
上がる。
俺は。
少しだけ。
振り返る。
八人に。
明日の俺を。
約束することはできない。
死なないとも。
消えないとも。
永遠に何も変わらないとも。
言えない。
でも。
今。
ここにいる。
好きなら。
好きと言う。
隣にいたいなら。
隣にいる。
踊りたいなら。
踊る。
明日の分まで。
今日のうちに確保しなくてもいい。
『旦那様』
「何だ」
『明日』
「家」
『はい』
「今は?」
『……』
「今は何したい?」
少し。
沈黙。
『照明を消したいです』
「寝ろってこと?」
『はい』
「じゃあ消して」
『おやすみなさいませ』
「おやすみ」
灯りが消える。
普通の恋人になる練習は。
いつの間にか。
普通に明日を待つ練習へ。
少しずつ変わり始めていた。




