第47話 女帝に「今だけ私の恋人でいてください」と頼まれたので、一時間だけ世界を放っておいた
翌日の午後、俺は庭で壊れかけた椅子を直していた。
壊した犯人は分かっている。昨日、アウラが「頭を撫でて」と勢いよく駆け寄った際、尻尾で横から叩き飛ばしたのだ。本人は朝から何度も謝っていたので怒るつもりはないが、世界最強の竜王が感情を表すたび家具が一つずつ犠牲になる生活には、そろそろ何か対策が必要かもしれない。
「これで……たぶん大丈夫だな」
最後の釘を打ち終え、腰を伸ばした時だった。
「先生」
振り返ると、セレスが立っていた。
皇帝として人前に出る時の豪華な衣装ではなく、家で過ごす時の簡素な服を着ている。手には書類も通信具もない。
「珍しいな。仕事は?」
「終わらせました」
「全部?」
「本日中に処理すべきものは」
なるほど。
「それで、どうした?」
「……」
セレスは答えず、少しだけ視線を逸らした。
昨日の夜、彼女は俺の部屋まで来て、「自分だけの時間が欲しいと言ってもいいのか」と尋ねた。その時は明日の予定にしようとしかけて、自分で止まった。
だから俺からは何も言わない。
今日どうするかは、今日のセレスが決めればいい。
「先生は、今から何をなさいますか?」
「椅子は直したし、特に決めてないな。夕飯までは暇だと思う」
「では……」
そこで彼女は一度言葉を止めた。
家の方を見る。
窓を見る。
どうやら他の七人がいないことまで確認しているらしい。
「セレス?」
「今から一時間ほど、私と二人でいていただけませんか」
ようやく言った。
「いいぞ」
「……よろしいのですか?」
「昨日、自分の時間が欲しいって言っていいって話しただろ」
「ですが、皆さんに事前の了承を取っておりません」
「取らなくていい」
「公平性の調整も」
「しなくていい」
「後ほど同時間を七名へ配分する必要も?」
「それをやったら結局八等分だろ」
俺が笑うと、セレスも少しだけ表情を緩めた。
「では、本当に」
「ああ」
「今から一時間だけ」
彼女は胸元で手を重ねた。
「私の恋人でいてください」
「一時間以外も恋人なんだけどな」
「……」
セレスが固まった。
「どうした?」
「先生」
「何だ」
「そういうことを、不意打ちでおっしゃるのは卑怯です」
「事実を言っただけだぞ」
「皇帝でなければ、その場で抱きついておりました」
「今は皇帝じゃないんだろ?」
「……」
今度は耳まで赤くなった。
「先生」
「何だ」
「本当に卑怯です」
◇
問題は、二人で何をするかだった。
「どこか行く?」
「昨日はアステラさんが星をご覧になりました」
「じゃあ星以外?」
「そういう意味ではありません。アステラさんと違うことを選ばなければならない、と考えかけただけです」
セレスは自分で気づき、苦笑した。
「また比較していました」
「気づけたならいいんじゃないか」
「はい。では先生は、何をなさりたいですか?」
「俺?」
「昨日は私が『自分だけの時間が欲しい』と言いました。ですから今日は、先生の希望も聞きたいです」
そう言われると難しい。
何か特別なことをしたいわけではない。街へ出てもいいし、庭にいてもいい。
俺は修理したばかりの椅子を見た。
「座る?」
「……椅子に?」
「ああ」
「二人きりの貴重な一時間を?」
「ああ」
「庭の椅子で?」
「嫌?」
「いいえ」
セレスが笑った。
「それが先生のしたいことなら」
「じゃあ決まり」
二人で庭の椅子へ座った。
一時間のうち、最初の五分ほどは本当に何も起きなかった。
鳥の声がして、風が吹いて、遠くでアウラが何かを壊したような音がした。
「……今の音」
「聞かなかったことにしよう」
「よろしいのですか?」
「今はセレスとの時間だからな」
そう言うと、彼女は少しだけ俺の方へ寄った。
「先生」
「ん?」
「昨日、アステラさんと星をご覧になっていた時」
「ああ」
「私は羨ましかったです」
「知ってる。屋根にいたし」
「その件については反省しております」
本当に反省しているらしい。
「でも、アステラさんへ怒っていたわけではありません」
「ああ」
「先生を取られた、とは少し思いました」
「少し?」
「かなり」
「正直だな」
「ですが、それと同時に」
セレスは庭へ視線を向けたまま続ける。
「アステラさんが『今日は私』と言えたことが、少し羨ましかったのです」
「そっちも?」
「はい。私は皇帝ですから、何かを望む時は必ず周囲への影響を考えます。私が一つ選べば、誰かが譲ることになる。私が一時間使えば、その一時間に本来できた別のことが失われる」
世界を治める立場になれば、それは必要な考え方なのだろう。
でも。
「今も皇帝として考えてる?」
「……半分ほど」
「残り半分は?」
セレスは俺を見る。
「先生の恋人です」
「じゃあ、その半分は何を考えてる?」
少し迷う。
それから彼女は、俺の肩へ頭を預けた。
「こうしたかったです」
「それだけ?」
「はい」
「じゃあすればいい」
「……簡単ですね」
「簡単なことを、お前たちが難しくしすぎなんだ」
「否定できません」
肩にかかる重みは軽い。
皇帝の冠も、国も、軍も、今日はここにはない。
ただセレスがいる。
「先生」
「何だ」
「私、今は何も考えていません」
「珍しいな」
「明日の政務も、帝国のことも、他の七人のことも」
「ああ」
「先生が隣にいることだけです」
少し間を置いて。
「悪いでしょうか」
「どうして悪いんだ?」
「世界で、今この瞬間にも何か問題が起きているかもしれません」
「起きてるだろうな」
「……」
「でも、セレスが一時間休んだから滅びる国なら、そっちの方が問題だろ」
彼女が顔を上げた。
「先生」
「何だ」
「皇帝へ言う内容ではありません」
「元教師だからな」
「そうでした」
くすりと笑う。
「それに、お前一人で全部やらなくてもいいように国を作ってきたんだろ?」
「はい」
「なら部下を信じろ」
「はい」
「今は?」
「先生を信じます」
「俺?」
「一時間くらい世界を放っておいてもいい、と」
「責任重大だな」
◇
二十分ほど過ぎた頃、家の中から扉が開く音がした。
俺とセレスはほぼ同時に振り返る。
アウラが顔を出した。
「あ」
「アウラ?」
「先生、セレス」
「どうした?」
「お菓子食べようと思って」
手には皿。
三人分。
「……」
アウラも、自分が何をしているか気づいたらしい。
皿を見る。
俺を見る。
セレスを見る。
「二人だった?」
「ああ」
「今は」
セレスが少し緊張した様子で答える。
「先生と二人でいたいのです」
「……」
昨日までなら、ここでアウラが「私も」と言っても不思議ではなかった。
けれど彼女は少し頬を膨らませただけだった。
「分かった」
皿から一つ菓子を取る。
「これ、二人で食べて」
「いいの?」
「うん。私は中で食べる」
「ありがとう、アウラ」
「でも」
尻尾が一度だけ揺れる。
「あとで先生、私とも食べたくなったら言って」
「予約じゃなく?」
「うん」
「分かった」
アウラは満足そうに戻っていった。
セレスはしばらく閉じた扉を見ていた。
「驚きました」
「俺も」
「アウラさんが、そのまま戻られるとは」
「成長してるな」
「はい」
それから、セレスは皿の上の菓子を見る。
一個。
「半分にしますか?」
「アウラの影響?」
「少し」
二人で割る。
セレスの方が少し大きかった。
「先生、こちらを」
「別にいいよ」
「ですが」
「半分が完全に同じじゃなくてもいいって、アウラも覚えただろ」
「……そうでした」
セレスは大きい方を受け取った。
「私の方が大きいですね」
「ああ」
「嬉しいです」
「そこは素直なんだな」
「ですが次は先生へ大きい方を」
「次の話は次にしろ」
「はい」
◇
三十分を過ぎた頃。
セレスが突然尋ねた。
「先生」
「何?」
「私のことを、今も生徒だと思いますか?」
少し意外な質問だった。
「生徒だったとは思ってる」
「今は?」
「恋人」
また一瞬で顔が赤くなる。
「先生」
「何だ」
「即答をおやめください」
「聞いたのはお前だろ」
「心の準備が」
「じゃあ三秒待ってから言おうか?」
「それはそれで嫌です」
「難しいな!」
セレスが笑う。
「私は、先生という呼び方を変えるべきか迷っていました」
「ああ」
「恋愛指南書にも書かれておりましたので」
「読んだの?」
「表紙と目次だけです」
「ギリギリだな」
「恋人になったら特別な呼称へ変える、と」
だから家も以前、「恋人らしい呼び方」を次の課題候補として出していたのか。
「変えたい?」
「分かりません」
「なら変えなくていいんじゃない?」
「ですが、他の皆さんが変えた場合」
「比較しない」
「……はい」
「セレスが呼びたいように呼べばいい」
彼女は少し考えてから、小さく呟いた。
「レオン」
「ん?」
「……」
「何?」
「試しただけです」
「嫌?」
「いいえ」
俺を見る。
「とても恥ずかしいです」
「じゃあ先生に戻す?」
「それも嫌です」
「どっちだよ」
「先生」
「ああ」
「……レオン」
「ああ」
「先生」
「ああ」
「レオン」
「遊んでる?」
「少し」
俺が笑うと、セレスも笑った。
「どっちでもいいんじゃない?」
「その時、呼びたい方で?」
「ああ」
「決めなくても?」
「ああ」
「……それは」
彼女は嬉しそうに目を細めた。
「少し贅沢ですね」
◇
一時間が終わりに近づいた頃だった。
『残り五分です』
家が律儀に知らせる。
「もう?」
セレスが呟く。
「延長する?」
俺が聞くと、彼女は一瞬だけ迷った。
でも、首を振った。
「今日はここまでにします」
「いいの?」
「はい」
「他のみんなに悪いから?」
「違います」
即答だった。
「私は今、もう少し一緒にいたいです」
「ああ」
「ですが」
俺の手へ、自分の手を重ねる。
「もう少し欲しい、と思ったまま終わるのも悪くない気がします」
「どうして?」
「次が楽しみになります」
「……なるほど」
「以前の私なら」
セレスは少し自嘲気味に笑う。
「一度得たものは確保し、次の予定まで決めて安心しようとしたでしょう」
「今は?」
「次があると」
俺を見る。
「先生を信じます」
それは。
たぶん彼女にとって、「一時間独占したい」と言うこと以上に難しいことだった。
「あるよ」
「……」
「次」
「ああ」
「いつかは決めないけど」
「ああ」
「また二人で何かしよう」
セレスの手に少し力が入った。
「はい」
◇
『一時間が経過しました』
家の声と同時に。
家の扉が開いた。
七人。
並んでいる。
「お前ら!」
「先生」
ミレイユが困ったように笑う。
「今回は盗み聞きしておりません」
「本当?」
「はい」
リリスも頷く。
「アウラから、一時間だと聞いた」
「アウラ!」
「言っちゃ駄目だった?」
「いや、そこまではいいけど」
エリナがセレスを見る。
「どうだった?」
セレスは少し考える。
「楽しかったです」
「何した?」
「椅子に座って、お菓子を半分食べました」
「……それだけ?」
「はい」
エリナが驚く。
アウラまで。
「一時間?」
「はい」
「先生と?」
「はい」
「ずっと?」
「はい」
「いいなぁ」
アウラの尻尾が揺れる。
けれど。
「次は私」
とは言わなかった。
クロエが質問する。
「収穫は?」
「クロエ」
「……失礼しました」
自分で止める。
「楽しかったのでしたら、それで十分ですね」
「はい」
ノアはセレスの顔をじっと見ている。
「満足?」
「……」
セレスは少し考えた。
「まだ一緒にいたいです」
「ああ」
「ですが、満足もしています」
ノアが首を傾げる。
「両方?」
「はい」
「難しい」
「私も今日知りました」
アステラがにこりと笑った。
「色、いっぱい?」
「はい」
「でも嫌じゃない?」
「はい」
七人。
それぞれ。
少し羨ましそう。
少し嬉しそう。
そして。
ちゃんとセレスの一時間を、セレスのものとして受け入れている。
◇
「先生」
エリナが手を挙げた。
「何だ」
「私も」
「ああ」
途中で止まる。
「……」
「どうした?」
「『私も一時間』って言いそうになった」
「おお」
「でも違う」
「何が?」
「私が先生としたいことは」
一度、考える。
「一時間座ることじゃない」
「じゃあ?」
「今は分からない」
「それでいいんじゃない?」
「うん」
リリスも続く。
「私は踊りたいかもしれぬ」
「ああ」
「だが今日とは限らぬ」
「ああ」
ミレイユ。
「私は先生とお茶を」
「ああ」
「ですが、私自身が疲れた日にお願いしたいです」
第26話で俺が頼んだことだ。
治癒魔法で誤魔化さず、疲れた時に隣で茶を飲む。
「その時言ってくれ」
「はい」
クロエ。
「私は予定を空けてから、その場で考えます」
「昨日言ってたな」
「はい」
ノア。
「私は」
「ああ」
「また何もしない」
「気に入ったな」
「うん」
アウラ。
「私は食べる」
「知ってる」
「まだ言ってない!」
「絶対食べるだろ!」
最後。
アステラ。
「私は」
「ああ」
「今日、何もしたくない」
「じゃあ何もしない?」
「ううん。一人で色作る」
「ああ」
「できたら見せるかも」
「楽しみにしてる」
「見せないかも」
「それでもいい」
「うん」
アステラ。
笑う。
◇
『本日の記録を開始します』
「評価なしな」
『承知しております』
家の声が続く。
『セレス様は、自身のみが旦那様と過ごす時間を明確に希望。他七名への事前調整・代替時間の設定を行わず、自身の希望として一時間を受領しました』
「ああ」
『また終了時、延長可能であることを提示されながら、自ら終了を選択』
「そこも記録するの?」
『重要です』
「どうして?」
『「次の機会を事前確保せずとも関係は継続する」と信頼したためです』
セレス。
少し驚く。
「……家」
『はい』
「それは」
俺を見る。
「たぶん、その通りです」
『記録しました』
「先生」
「何だ」
「私」
少しだけ。
照れながら。
「進歩しました?」
「したと思う」
「……」
「セレス?」
「頭を」
「結局そこ!」
笑いながら、頭を撫でる。
次の瞬間。
「先生!」
七人。
「お前らまで頭出すな!」
「これは公平性ではありません」
クロエ。
「では何だ!」
「羨ましいので希望しています」
「言い方を変えただけだろ!」
◇
その夜。
俺は自室の窓を閉めようとして。
庭に誰かいることに気づいた。
ミレイユだった。
椅子に一人で座っている。
手には茶。
少し疲れているように見える。
「……」
声をかけようとして。
俺は止まった。
今日はセレスの一時間だった。
だから次はミレイユ。
そんな順番にする必要はない。
でも。
今のミレイユは。
本当に疲れているように見えた。
そして俺は第26話で、彼女に頼んでいる。
疲れた時。
治癒魔法で自分を誤魔化さず。
俺の隣で茶を飲んでほしい、と。
窓を開ける。
「ミレイユ」
彼女が顔を上げた。
「先生?」
「隣、空いてる?」
「……はい」
「俺も茶、もらっていい?」
ミレイユの表情が。
ゆっくり。
柔らかくなる。
「もちろんです」
俺は部屋を出た。
順番だからじゃない。
誰かと同じ時間を与えるためでもない。
ただ。
今。
そうしたかったから。
たぶん。
普通の恋人になるというのは。
こういうことを増やしていくことなのだろう。




