第46話 午前零時に恋人と星を見に行くだけなのに、残り七人が『偶然』屋根へ集まっていた
「今、一緒に何かしたい」
扉の向こうから聞こえたアステラの声に、俺はしばらく返事ができなかった。
ついさっきまで「明日起きてから、その時したいことを考える」と言っていたはずなのに、家が余計なことを言ったせいで日付が変わったことに気づいてしまったらしい。
「家」
『はい』
「お前、絶対わざとだろ」
『時刻を正確にお伝えしただけです』
「その結果、俺の睡眠時間が減りそうなんだが」
『恋人との時間は大切です』
「最近、妙に恋愛へ積極的だな……」
扉を開けると、アステラが立っていた。寝る直前だったのか、普段よりずっと簡素な服装で、髪も少しだけ乱れている。
「それで、何したい?」
「まだ決めてない」
「今になっても?」
「うん」
アステラは少し考え、それから廊下の窓へ目を向けた。
「外、晴れてる」
「ああ」
「星、見たい」
「いいな」
「先生と二人で」
最後の一言だけ、少し小さかった。
俺は頷く。
「じゃあ行くか」
「うん」
その瞬間。
廊下の角から、何かが引っ込んだ。
「……」
「……」
俺とアステラは同時にそちらを見る。
「セレス」
返事なし。
「ミレイユ」
沈黙。
「リリス」
何も聞こえない。
「全員いるだろ」
しばらくして、廊下の角からセレスだけが顔を出した。
「先生。誤解です」
「何が?」
「私はただ夜間の家内警備を確認しておりました」
「皇帝が?」
「はい」
「寝間着で?」
「……はい」
その背後からミレイユの白い袖が見えている。
「ミレイユもいるよな」
「私はセレスさんの健康状態を確認しておりました」
「深夜零時に?」
「聖女に時間の区別はございません」
「あるだろ」
さらにリリスの翼の先が壁からはみ出していた。
「隠れるなら翼まで隠せ」
「これは影だ」
「十二枚ある影は嫌だな」
エリナ、アウラ、クロエ、ノアまで、最終的には全員出てきた。
ノアだけは最初から俺の影にいたらしい。
「お前はどこから出た」
「先生の近く」
「答えになってない」
アステラは七人を見て、それから俺を見る。
「先生」
「何だ」
「二人で、って言った」
「ああ」
声は穏やかだった。
けれど、その言葉を聞いた七人が少しだけ気まずそうになる。
以前なら、誰かが「なら私も」と言い出し、そこから八人全員が参加する流れになっただろう。
今日は違った。
セレスが最初に一歩下がった。
「……失礼しました」
ミレイユも微笑んで頷く。
「どうぞ、お二人で」
リリスは少しだけ不満そうだったが、それでも翼を畳んだ。
「明日は私も星を見る」
「予約するな」
「では、見たくなったら誘う」
「それならいい」
エリナもアステラへ手を振る。
「行ってらっしゃい」
アウラは俺たちを見比べて、少し頬を膨らませた。
「私も先生と星見たい」
「うん」
アステラが答える。
「でも今日は私」
「……うん」
アウラも頷いた。
クロエは何か書きかけた紙をすっと背中へ隠す。
「今のは?」
「記録ではありません」
「本当?」
「『星を見る際に最適な防寒用品』の購入候補です」
「商売にするな」
「先生とアステラさん専用でした」
「それでも今日はいい」
最後にノアを見る。
「ノア」
「何?」
「ついてくるなよ」
「……」
「ノア?」
「見守りも?」
「今日はなし」
「三十メートル」
「なし」
「百メートル」
「距離の問題じゃない」
「……分かった」
かなり残念そうだった。
それでも影は動かなかった。
俺は少し驚いた。
「みんな、本当に来ないんだな」
言うと、セレスが苦笑する。
「先生が昨日おっしゃったではありませんか」
「何を?」
「普通の恋人になる練習をすると」
「ああ」
「その中にはきっと」
一度、アステラを見る。
「他の恋人が二人で過ごしたい時、その時間を奪わないことも含まれるのでしょう」
なるほど。
教えた覚えはない。
でも、八人は自分たちで考え始めている。
「じゃあ」
アステラが俺の袖を引く。
「行こ」
「ああ」
◇
庭へ出た。
夜の空気は少し冷たい。
雲はほとんどなく、星がよく見えた。
「屋根に上がる?」
アステラが言う。
「普通に庭じゃ駄目?」
「屋根のほうが見える」
「落ちるなよ」
「先生より落ちない」
「それ、みんなに言われるな……」
家の壁沿いにある階段を使い、屋根へ上がる。
アステラは慣れた様子で先へ進み、傾斜の緩い場所へ腰を下ろした。
俺も隣に座る。
「寒くない?」
「少し」
「戻る?」
「戻らない」
即答だった。
「じゃあ毛布取ってくるか」
「先生」
「ん?」
「それ」
自分の肩を指す。
「先生の上着」
「ああ」
「半分貸して」
「半分?」
「二人で使う」
「アウラの半分こが伝染してないか?」
「少し」
上着を脱ぎ、二人の肩へかける。
一枚では少し狭い。
だから自然に距離が近くなった。
「……」
「……」
アステラが俺を見る。
「何だ?」
「近い」
「お前が半分って言ったんだろ」
「うん」
「嫌?」
「ううん」
それだけ言って、また空を見る。
しばらく何も話さなかった。
星を見るだけ。
本当にそれだけだ。
けれど妙に居心地がいい。
「先生」
「何?」
「昔も星見た」
「ああ」
「覚えてる?」
「何度かあったな」
「私が眠れなかった時」
思い出す。
アステラは八人の中でも、感情の整理が苦手な子だった。
自分が怒っているのか、悲しいのか、怖いのか、それすら分からない夜があった。
そんな時、俺はよく外へ連れ出した。
星を見れば問題が解決するわけではない。
でも。
少なくとも、分からないままでも座っていられた。
「先生」
「ん?」
「昔は」
アステラが膝を抱える。
「星を見ると、色が減った」
「色?」
「頭の中」
「ああ」
「いっぱい混ざって、ぐちゃぐちゃだったのが」
夜空へ手を伸ばす。
「黒と、青と、白だけになる」
「だから好きだった?」
「うん」
少し考えて。
「でも今は違う」
「どう違う?」
「いっぱいある」
「色が?」
「うん」
「嫌?」
「ううん」
アステラは笑った。
「先生が帰ってきてから、いっぱいあるほうも好きになった」
「そうか」
「嫉妬も」
「ああ」
「嬉しいも」
「ああ」
「恥ずかしいも」
「ああ」
「先生にキスしてほしいも」
「急に入れたな」
「あるから」
「正直でいいけど」
アステラは少し笑う。
◇
しばらく星を見ていると、彼女がふいに指を差した。
「あれ」
「どれ?」
「一番明るいの」
「ああ」
「先生みたい」
「そんなに光ってないぞ」
「違う」
「じゃあ何?」
「みんなが見る」
「……」
「先生がいると」
一度。
俺を見る。
「八人とも見る」
「それは最近ものすごく感じてる」
「でも」
指を少しずらす。
「こっちもある」
「小さい星?」
「うん」
「ああ」
「誰も見てなくても、ある」
「そうだな」
「先生」
「何だ」
「私は」
少し迷ってから。
「先生が見てない時も、ちゃんと私でいたい」
俺は黙った。
それは、とても大きな変化だった。
昔のアステラは、自分の感情を俺に確認することが多かった。
『先生、今の私は怒ってる?』
『これは悲しい?』
『笑っていい?』
そんな子だった。
「最近」
アステラが続ける。
「先生と一緒じゃない時も、色を作る」
「ああ」
「先生に見せない色もある」
「ああ」
「一人で好きな色も」
「ああ」
「それでもいい?」
「もちろん」
「恋人なのに?」
「恋人だからって、全部見せる必要ないだろ」
アステラは驚いたようにこちらを見る。
「秘密も?」
「あるだろ」
「先生にも?」
「ある」
「女の人?」
「何でそうなる!」
「秘密の恋人?」
「八人で限界だ!」
アステラが声を上げて笑った。
「先生」
「何だ」
「今の色」
「何色?」
「安心と、面白い」
「ああ」
「少しだけ嫉妬」
「まだ秘密の恋人疑ってる?」
「冗談」
「本当?」
「九割」
「一割!」
「先生たちの真似」
「クロエの悪いところを学ぶな!」
◇
その時だった。
屋根の反対側から。
かすかに。
ごそ。
「……」
「……」
俺とアステラが止まる。
「先生」
「ああ」
「いる」
「だよな」
立ち上がり。
反対側へ回る。
そこには。
毛布にくるまった七人がいた。
「お前ら!」
『違います!』
「何が違う!」
セレスが星を指差す。
「天体観測です!」
「七人全員で!?」
「偶然目的が一致しました」
「その毛布、クロエ商会の新品だろ!」
クロエが目を逸らす。
「防寒性能の試験です」
「さっき作ってた候補、買ったのか!」
「即日配送です」
「早い!」
リリス。
「先生」
「何だ」
「誤解するな」
「もう無理だ」
「私たちは」
一度。
アステラを見る。
「話は聞いていない」
「……本当?」
アステラが聞く。
七人。
黙る。
「聞いてない?」
もう一度。
セレスが最初に答える。
「……少し」
「どこから?」
「『先生みたい』の辺りから」
「ほとんど後半じゃないか!」
エリナが手を挙げる。
「でも、邪魔しなかった!」
「屋根にいる時点でかなり邪魔なんだよ!」
アウラ。
「声も出してない」
「尻尾が屋根叩いてたぞ」
「一回だけ」
「聞こえた!」
ノア。
「私は最初から」
「いたの?」
「屋根の影」
「約束!」
「途中で来た」
「もっと駄目だ!」
俺が頭を抱える横で、アステラは七人を見ていた。
怒るかと思った。
けれど。
「みんな」
「……」
「次は」
一度。
笑う。
「来るなら最初から一緒に見よう」
七人が驚く。
「今日は?」
アウラ。
「今日は二人」
「……うん」
「だから」
アステラが手を振る。
「帰って」
『はい』
七人。
本当に。
帰った。
「……」
「……」
「すごいな」
「何が?」
「お前が言ったら帰った」
「先生が怒るより効いた?」
「かなり」
「じゃあ今度から私が言う」
「頼む」
◇
再び二人になる。
星を見る。
「怒ってない?」
「少し」
「何色?」
「むっとする色」
「どんな?」
「赤と黒」
「ああ」
「でも」
少し。
柔らかい表情。
「帰ってくれた」
「ああ」
「だから薄くなった」
「よかった」
そのまま数分。
アステラが俺の肩へ頭を預ける。
「先生」
「何?」
「今日」
「ああ」
「キス」
「ああ」
「したい」
今度は俺も驚かなかった。
「今?」
「うん」
「星見ながら?」
「星は見えなくなる」
「そりゃそうだ」
「でも」
少し。
俺へ近づく。
「今したい」
「俺も」
答える。
それだけ。
アステラの表情が柔らかくなる。
「先生」
「何だ」
「聞いて」
「ああ」
「キスしていい?」
「いいよ」
「先生も?」
「したい」
「うん」
俺たちは。
ゆっくり。
唇を重ねた。
◇
前より少しだけ長い。
でも。
本当に少しだけ。
離れる。
「……」
「……」
アステラ。
目。
開く。
「先生」
「何?」
「二回目」
「ああ」
「初めてじゃない」
「ああ」
「でも」
一度。
胸。
押さえる。
「違う色」
「何色?」
「分からない」
「珍しいな」
「うん」
少し困って。
でも嬉しそうに。
「まだ名前ない」
「じゃあそのままでいい」
「名前つけなくても?」
「ああ」
「……うん」
アステラが。
笑う。
「それもいい」
◇
家へ戻る。
七人。
居間。
まだ起きていた。
「寝ろよ!」
セレス。
「先生が戻られるまで」
「待たなくていい!」
アウラ。
「どうだった?」
「星?」
「キス」
「直球すぎる!」
アステラが答える。
「した」
七人。
一斉に。
少しだけ反応。
でも。
以前ほど大騒ぎしなかった。
エリナが聞く。
「二回目?」
「うん」
静寂。
俺は少し身構える。
ここから。
『じゃあ次は私!』
となるかと思った。
でも。
誰も言わなかった。
リリスが。
少しだけ翼を揺らす。
「羨ましい」
「うん」
アステラ。
「でも」
リリス。
「今すぐ私も、とは言わぬ」
「……」
ミレイユも。
「私も羨ましいです」
「ああ」
「ですが」
少し笑う。
「私が先生としたくなった時に、お願いすることにします」
クロエ。
「回数による公平性は」
「ああ」
「考慮しないことにします」
「お前、それ言うの大変だっただろ」
「かなり」
セレス。
「先生」
「何だ」
「一人が二回目を迎えたことで」
「ああ」
「私も少し焦りました」
「ああ」
「ですが」
アステラを見る。
「今夜はアステラさんの時間でした」
「そうだな」
「なら」
一度。
息。
「羨ましいまま、祝います」
俺は。
少し。
驚いた。
八人全員。
同じ回数。
同じ時間。
同じ順番。
そうしなければ公平ではないと。
きっと以前なら考えただろう。
でも。
恋愛は帳簿じゃない。
「成長したな」
言った瞬間。
「先生」
アウラ。
「何だ」
「頭」
「そこは平等を求めるのか!」
「これは別!」
◇
『本日の記録を――』
「家」
『はい』
「評価はなし」
『承知しております』
「本当?」
『事実のみ記録いたします』
「ならいい」
『アステラ様は、自身が旦那様と二人で過ごしたい旨を明確に表明』
「ああ」
『他七名も一時的に侵入したものの』
「そこ詳しく記録しろ」
『アステラ様本人の要請により退去』
「ああ」
『また』
「ああ」
『二回目の口づけについて、他七名は嫉妬を自覚しつつも、即時の同等行為を要求せず』
「そこも大事だな」
『はい』
家。
少し。
間。
『そして旦那様』
「何だ」
『本日の最大の進展は』
「ああ」
『「全員が同じでなくても、誰か一人が幸せな時間を持つことを許容できた」点であると推定します』
八人。
静かになる。
「……家」
『はい』
「たまにはいいこと言うな」
『常に適切な発言をしております』
「それは違う」
◇
寝る前。
俺の部屋。
扉。
こんこん。
「先生」
「今度は誰?」
「セレスです」
「入っていいぞ」
開く。
「どうした?」
「一つだけ」
「ああ」
「今日」
少し。
言いにくそう。
「アステラさんと星をご覧になったこと」
「ああ」
「羨ましかったです」
「ああ」
「非常に」
「ああ」
「途中で屋根へ行きました」
「知ってる」
「ですが」
一度。
俺を見る。
「次回」
「ああ」
「私が先生と二人で何かしたい時」
「ああ」
「他の皆さんに、来ないでほしいと」
「ああ」
「言ってもよいでしょうか」
俺は。
即答した。
「もちろん」
「……」
「それは独占じゃない」
「ああ」
「一日中ずっと誰にも会わせない、とかは困るけど」
「しません」
「本当?」
「二時間」
「具体的だな」
「……一時間」
「値下げ交渉じゃないんだよ」
セレスが少し笑う。
「先生」
「何?」
「私」
一度。
息を吐く。
「自分だけの時間が欲しい、と言うのは」
「ああ」
「悪いことだと思っていました」
「どうして」
「七人がいるからです」
「ああ」
「私だけ望めば」
「ああ」
「争いになると思っていました」
「でも今日」
「ああ」
「アステラさんが言った」
『今日は私』
「……」
「誰も怒らなかった」
「はい」
「なら、セレスも言えばいい」
「……はい」
表情。
少し。
柔らかくなる。
「今日は?」
「今日は寝る」
「では明日」
「予約するな」
「……」
「セレス?」
「言いそうになりました」
「偉い」
「頭」
「やっぱりそこは全員予約するんだな!」
撫でる。
セレス。
少し笑う。
そして。
「おやすみなさい、先生」
「おやすみ」
扉。
閉じる。
静かになった。
「……」
俺は。
今日のことを思い返す。
一人だけ二回目のキスをした。
一人だけ深夜に二人で星を見た。
でも。
それで誰かが負けたわけじゃない。
誰かが減ったわけでもない。
八人と付き合うというのは。
全部を八等分することじゃない。
その瞬間。
その人と。
したいことをする。
たぶん。
そういうものなのだろう。
『旦那様』
「何だ」
『明日の予定ですが』
「家」
『はい』
「今は言うな」
『承知しました』
「……本当に?」
『ただし午前中に――』
「言ってる!」
普通の恋人になる練習。
どうやら次は。
平等ではなく。
それぞれ違っていいと覚える段階らしい。




