第45話 『普通の恋人』を調べるなと言ったら、八人が世界中の恋愛指南書を買い占めた
翌朝、俺が居間へ入った瞬間、嫌な予感がした。
誰も喧嘩をしていない。セレスもミレイユも穏やかに茶を飲み、リリスは本を読み、エリナは珍しく剣を持っていない。アウラは朝食前だというのに菓子へ手を伸ばしてクロエに止められ、ノアは窓際、アステラは色紙を眺めている。
一見すると、平和そのものだった。
問題は、食卓の中央に積まれた本の山である。
「……何だ、これ」
俺が一冊抜き取る。
『恋人になったら最初にする百のこと』
その下。
『絶対に失敗しない初めての交際』
さらに。
『愛される女になるための七十二箇条』
「誰だ」
返事がない。
「誰が買った」
八人の視線が、ほんの少しだけクロエへ集まった。
「皆様」
クロエが静かに言った。
「視線による告発はお控えください」
「お前か!」
「発注処理を担当しただけです」
「何冊?」
「こちらにあるのは代表的な二百四十冊です」
「代表的!?」
「原本、類似書籍、古典、各国における恋愛指南書を合わせますと、一万八千六百四十二冊ございます」
「買いすぎだ!」
俺の声に驚いたのか、アウラの尻尾が床を叩きかける。
途中で止まった。
「止めた」
「偉い。でも今はそこじゃない」
俺は本を食卓へ戻し、八人を順番に見た。
「昨日、何て言った?」
セレスが姿勢を正す。
「普通の恋人について、九人で学ぶと」
「その前」
「会議で決めない」
「そうだ」
ミレイユが申し訳なさそうに目を伏せた。
「ですので、会議は開いておりません」
「じゃあこれは?」
「個別調査です」
「もっと悪い!」
聞けば、全員が別々に「普通の恋人」を調べようとした結果、それぞれの配下へ命令が飛び、世界各地の恋愛指南書が一晩で集められたらしい。
クロエの商会は市場に流通していた書籍を確保し、セレスは帝国図書館の恋愛文学部門を調査させ、ミレイユは神殿に保存された古い婚姻記録まで持ち出そうとした。
「リリスは?」
「魔界に伝わる求愛儀礼を調べた」
「参考になりそうなのあった?」
「交際初日に敵対部族の首を三つ贈る」
「全部忘れろ」
「私もそう思う」
そこは意見が一致した。
「エリナ」
「勇者の恋愛記録」
「どんな?」
「好きな人のために魔王を倒す」
「魔王そこに座ってるぞ」
「私も読んでて気まずかった」
リリスとエリナが目を合わせ、二人同時に苦笑する。
「アウラは?」
「竜の求婚」
「聞くの怖いな」
「宝物を全部見せて、相手が一番欲しがったものを渡す」
「意外とまともだな」
「そのあと巣から出さない」
「最後で台無しだ!」
ノアにも聞く。
「情報網」
「何を集めた?」
「街で恋人が何してるか」
「それはまだ参考になりそうだな」
「手をつなぐ。食事。贈り物。一緒に歩く。喧嘩。仲直り。たまに物陰でキス」
「最後だけ妙に具体的だな」
「現地観察」
「覗くな!」
「見守り」
「恋人まで見守るな!」
最後にアステラを見る。
彼女の前には、本が一冊もない。
「アステラは調べなかったのか?」
「うん」
「どうして?」
「先生が昨日、知らないって言ったから」
「ああ」
「なら、私も知らないままでいいかなって」
「……」
八人の中で、いちばん正解に近い気がした。
◇
「よし」
俺は本の山を指差した。
「今日はこれを読まない」
セレスが目を見開く。
「一冊も?」
「一冊も」
「先生。比較検討だけでも」
「しない」
クロエが手元の紙へ何か書こうとしたので、その紙も取り上げる。
「記録もしない」
「反射です」
「知ってる」
「では何をして、普通の恋人を学ぶのでしょう」
ミレイユの問いに、俺も少し考えた。
デート。
贈り物。
手をつなぐ。
キス。
どれも間違いではない。
けれど、八人が「普通」という正解を求め始めれば、それはすぐ課題になる。
俺たちはもう十分、課題をこなしてきた。
「夕飯の買い物に行くか」
全員が黙った。
「……先生」
セレスが確認する。
「国家行事ではなく?」
「買い物」
「視察でも?」
「ない」
「市場調査?」
クロエ。
「違う」
「護衛任務?」
ノア。
「違う」
「食材調達競争?」
エリナ。
「競わない」
「先生に一番おいしいものを食べさせた者が勝ち?」
アウラ。
「勝敗を持ち込むな」
リリスが腕を組む。
「では、本当に夕食の材料を買うだけか」
「そうだ」
「九人で?」
「嫌?」
八人が一斉に首を振った。
『行きます』
「揃うな」
◇
結果として、世界でもっとも物々しい夕飯の買い出しが始まった。
もちろん護衛はつけていない。
少なくとも俺の目に見える範囲には。
「ノア」
「何?」
「屋根の上に黒い服の人が三人いるけど」
「猫」
「人型の猫はいない」
「今日はいる」
「帰らせろ」
影が三つ消えた。
「セレス」
「はい」
「さっきから道の角ごとに帝国兵っぽい人がいる」
「休日です」
「全員同じ休日?」
「偶然です」
「帰らせろ」
「……はい」
神殿騎士、魔族、竜騎士、商会警備員まで発見して帰らせるのに十五分かかった。
「普通の買い物って難しいな」
俺が呟くと、アステラが笑う。
「先生たちの場合だけだと思う」
「俺もそう思う」
◇
市場へ着く。
「今日、何食べる?」
俺が聞くと、八人が顔を見合わせた。
以前なら、それぞれが俺の好物を提案していただろう。
でも今日は少し違った。
「私は魚が食べたいです」
セレス。
「私は温かいスープを」
ミレイユ。
「肉」
リリス。
「私も肉」
エリナ。
「肉いっぱい」
アウラ。
「野菜も必要です」
クロエ。
「辛いもの」
ノア。
「甘いもの」
アステラ。
「まとまらないな!」
八人が少し気まずそうになる。
「先生は?」
「俺は何でもいい」
言った瞬間。
八人が俺を見る。
「何だよ」
エリナが眉を寄せる。
「先生」
「何だ」
「それ、駄目」
「何が?」
「私たちに、自分の食べたいものを言えって教えた」
「あ……」
今度はアウラが続ける。
「先生も欲しいって言う」
クロエも頷く。
「平等性の観点からも必要です」
「急に固いな」
「先生」
ノアが俺を見上げる。
「何食べたい?」
なるほど。
教えているつもりで。
俺自身も、いつの間にか同じことを求められる側になっていたらしい。
「じゃあ……煮込みが食べたい」
「肉?」
「入れたい」
「魚?」
「別皿なら」
「野菜?」
「欲しい」
「辛い?」
「少しなら」
「甘い?」
「食後に」
アステラが嬉しそうに手を叩く。
「全部できる」
「本当だな」
誰か一人の希望に合わせる必要なんてなかった。
全部少しずつ入れればいい。
「じゃあ買うか」
『はい!』
◇
買い物自体は。
全然、普通ではなかった。
「先生、この肉」
リリスが塊を持ち上げる。
「大きすぎない?」
「九人いる」
「それ三十人分くらいあるぞ」
「アウラがいる」
「なら足りないか」
「先生!」
本人が怒った。
「今日は普通に食べる!」
「いつも普通じゃなかったのか」
「いつもも普通!」
クロエが店主へ価格を尋ねる。
「銅貨十二枚です」
「現在の市場平均より二枚高いですね」
「クロエ」
「……」
「今日は?」
「市場調査ではありません」
「よし」
「買います」
店主が震える。
「ほ、本当に値切られないのですか、商業王様」
「はい」
「病気では?」
「先生」
「俺に言われても」
別の店。
セレスが野菜を選んでいる。
「先生。この人参は?」
「いいんじゃない?」
「形が不揃いです」
「味は同じだろ」
「皇室へ納入されるものは全て完全な――」
「今日は皇帝じゃなくて?」
「……恋人です」
小さな声だった。
店主のおばちゃんがにやりと笑う。
「あらあら」
「な、何でしょう」
「じゃあ彼氏さんと一緒に選びな」
「彼氏」
セレスの動きが止まる。
「先生」
「何だ」
「今」
「ああ」
「彼氏と」
「ああ」
「呼ばれました」
「そうだな」
「私の?」
「そうだろ」
「……」
顔がみるみる赤くなる。
「セレス?」
「この店の野菜を全部買います」
「戻れ!」
◇
ミレイユは香草を。
リリスとエリナは肉を。
アウラはパンを。
クロエは野菜を。
ノアは香辛料を。
アステラは食後の果物を選んだ。
俺も荷物を持つ。
すると当然のように、八人が止めようとした。
「先生。私が」
「重くない?」
「私なら影に」
「先生が持つ必要は」
「待て」
俺は袋を持ったまま言う。
「これも普通の買い物だろ」
「ですが」
ミレイユが心配そうにする。
「俺も買い物に来たんだから、持つよ」
「先生」
アステラが袋を一つ持ち上げる。
「じゃあ半分」
「アウラ方式?」
「うん」
「それいいな」
袋を分ける。
俺だけ持つでもなく。
八人に全部持たせるでもない。
みんなで持った。
ただそれだけなのに。
なぜか八人は楽しそうだった。
◇
帰宅。
今度は九人で夕飯を作る。
ここでも問題が起きた。
「先生、包丁を」
「ミレイユ。俺も切れる」
「ですが先生のお指が」
「切ってから治療してくれ」
「切る前に守りたいのです」
「普通の料理で指を守るため聖女の結界はいらない」
リリスは鍋を担当する。
エリナは肉を切る。
アウラはつまみ食いする。
「アウラ」
「味見」
「まだ焼いてない」
「肉の状態を」
「生で確認するな」
クロエは材料を等分し始めた。
「そこまで測らなくていい」
「九人ですので」
「少しくらい違っていいだろ」
「……」
クロエ。
一秒だけ悩み。
秤をしまう。
「今日は、目分量で」
「進歩したな」
「非常に怖いです」
「料理だぞ!」
ノアは玉ねぎを切っている。
「ノア」
「何?」
「泣いてる?」
「玉ねぎ」
「本当に?」
「……九割」
「残り一割は?」
「先生がみんなと料理してる」
「嬉し泣き?」
「秘密」
「言ってるようなものだぞ」
アステラは果物を切りながら、笑っていた。
◇
夕食。
一つの大きな煮込み鍋。
魚。
パン。
辛味のある小皿。
果物。
「いただきます」
全員で食べる。
別に豪華ではない。
世界最高の料理人もいない。
高級食材でもない。
盛り付けも少し雑だ。
「うまい」
俺が言う。
八人が俺を見る。
「何だよ」
「先生」
リリス。
「どれが一番だ?」
「一番?」
嫌な予感。
「肉?」
エリナ。
「スープでしょうか」
ミレイユ。
「パン」
アウラ。
「果物」
アステラ。
「先生」
セレス。
「最もお気に召したものを」
「決めない」
八人。
止まる。
「全部うまい」
「……」
「一番決めなくていいだろ」
少しの沈黙。
最初に笑ったのはアステラだった。
「うん」
続いてエリナ。
「そうだった」
リリスも肩をすくめる。
「また競わせるところだったな」
「危ない」
ノア。
アウラは自分のパンを半分に割る。
「先生、半分いる?」
「もう俺にもある」
「でも?」
「……もらう」
「やった」
◇
食後。
片づけも九人でした。
セレスが皿を洗い、俺が拭く。
皇帝と。
元教師。
二人で食器洗い。
「先生」
「何だ」
「これは恋人らしいでしょうか」
「知らない」
「……」
「でも俺は嫌いじゃない」
「私もです」
それだけで。
セレスは満足そうだった。
隣ではミレイユとリリスが鍋を片づけ、エリナとアウラが残った料理を保存している。クロエは冷蔵庫の空きを確認し、ノアとアステラは食卓を拭く。
誰も世界を救っていない。
国も動いていない。
億単位の金も動いていない。
本当に。
夕飯を食べて。
片づけているだけ。
「……先生」
クロエが俺を呼ぶ。
「何?」
「先ほどから考えていたのですが」
「ああ」
「これに市場価値をつける必要はありませんね」
「夕飯に?」
「今日という時間に」
「そうだな」
彼女は小さく笑った。
「なら、売りません」
「誰も買えないよ」
「はい」
◇
片づけが終わる。
「先生」
アステラ。
「普通の恋人、できた?」
「どうだろう」
俺は八人を見る。
「恋人らしいこと、何かした?」
セレス。
「買い物」
ミレイユ。
「料理」
リリス。
「一緒に食べた」
エリナ。
「荷物を持った」
アウラ。
「半分こ」
クロエ。
「片づけ」
ノア。
「何も特別じゃない」
最後。
アステラ。
「でも楽しかった」
俺も。
「それでいいんじゃない?」
八人。
少し。
考える。
そして。
一斉に頷いた。
◇
『本日の課題達成を――』
「家」
『はい』
「今日は評価しなくていい」
『しかし』
「点数にしたら、また正解探しが始まるだろ」
家が。
珍しく。
少し黙った。
『……承知しました』
「記録は?」
『必要です』
「するのか」
『ですが評価点は付与いたしません』
「それでいい」
クロエが少し落ち着かない顔をする。
「高評価ではないのですね」
「クロエ」
「はい」
「今日、楽しかった?」
「……はい」
「なら十分だろ」
「……」
しばらくして。
「はい」
笑った。
◇
その夜。
俺は自室で、昼間の本を一冊開いた。
『普通の恋人が休日にすべきこと』
一ページ目。
『一緒に買い物をする』
「……」
二ページ目。
『一緒に料理をする』
「……」
三ページ目。
『何気ない会話を楽しむ』
「……」
俺は本を閉じた。
「結局合ってたのかよ」
『旦那様』
「何だ」
『続きを読みますか?』
「読まない」
『次項は「互いの家で過ごす」です』
「もう一緒に住んでる」
『その次は「旅行」』
「嫌な予感がする」
『その次は「記念日」』
「閉じろ」
『その次は――』
「読むな!」
こんこん。
扉。
「先生」
クロエ?
「何だ?」
「明日」
扉の向こう。
「仕事、午後からにしました」
「珍しいな」
「午前中」
「ああ」
「先生と何かしたいです」
「何を?」
「まだ決めていません」
「……」
一瞬。
俺は返事を忘れた。
「先生?」
「いや」
「ああ」
「すごいなと思って」
「何がでしょう」
「クロエが、予定を空けたのに予定を決めてない」
扉の向こう。
少し。
沈黙。
「……怖いです」
「やっぱり?」
「はい」
「じゃあ一緒に考える?」
「いいえ」
「え?」
「明日」
一度。
息。
「先生に会ってから、考えたいです」
その言葉に。
俺は笑った。
「分かった」
「おやすみなさい、先生」
「おやすみ」
足音が離れていく。
その直後。
別の足音。
「先生」
「セレス?」
「私も明日の午後を」
「予約するな!」
「まだ何も!」
「流れで分かる!」
さらに。
「先生」
ミレイユ。
「私も夕方を」
「駄目!」
リリス。
「夜なら」
「駄目!」
エリナ。
「朝の稽古のあと」
「予定を埋めるな!」
アウラ。
「じゃあ今!」
「もう寝る!」
ノア。
「深夜」
「寝かせろ!」
アステラ。
「先生」
「何だ!」
「私は明日でいい」
「……」
「朝起きてから」
「ああ」
「その時したいこと、考える」
「アステラ……!」
感動しかけた俺の横で。
『旦那様』
「家?」
『午前零時を過ぎました』
「ああ」
『つまり既に明日です』
「……」
扉の外。
アステラ。
「先生」
「何だ」
「今、一緒に何かしたい」
「家ぇぇぇぇ!」
普通の恋人になる練習。
たぶん。
まだ始まったばかりだ。




