第44話 影の女王と三十分何もしない約束をしたら、見つめ合うだけで限界が来た
翌日の昼過ぎ。
俺が居間へ入ると、ノアはすでに窓際の長椅子に座っていた。
いつもなら壁際や俺の影の近くにいることが多い彼女が、今日はわざわざ日の当たる場所を選んでいる。それだけでも珍しいのだが、さらに妙なのは、膝の上にも手元にも何もないことだった。
「本当に何も持ってないんだな」
「うん」
「暗器は?」
「ある」
「あるのか」
「服の下」
「そこまで置いてこいとは言わないけどさ」
ノアは小さく首を傾げた。
「先生を守れなくなる」
「今日は家の中だぞ」
「家の中でも、セレスが先生を連れ去る可能性はある」
「それは襲撃じゃない」
「ミレイユも」
「だから違う」
「アウラなら窓ごと」
「ありそうなのが嫌だな……」
それでも今日は、影を周囲へ伸ばしていないらしい。
普段のノアなら無意識のうちに家の出入口や周囲の気配を探り、俺が何をしているのかまで確認している。十年前から続く癖であり、今や世界最高峰の諜報組織を率いる彼女にとっては、呼吸に近い行為なのだろう。
第26話で俺が頼んだのは、その全部を三十分だけ止めることだった。
見張らない。
警戒しない。
何かあった時に備えない。
ただ、俺の隣にいる。
「じゃあ始める?」
「うん」
「三十分」
「うん」
「何もしない」
「……うん」
最後だけ返事が少し遅かった。
俺はノアの隣に腰を下ろす。
『計測を開始します』
「家」
『はい』
「時計まで家に頼むの?」
ノアが俺を見る。
「先生が時計を見ると、何もしないにならない」
「そこまで厳密なのか?」
「私が見るのも駄目」
「じゃあ家に任せるか」
『三十分後にお知らせいたします』
「頼む」
それで、本当に何もしない時間が始まった。
◇
一分。
たぶん。
正確には分からない。
窓から入ってきた風がカーテンを揺らし、庭の木の葉がさらさらと音を立てている。
隣にノアがいる。
それだけだ。
「……」
「……」
二人とも喋らない。
何もしない約束だから、無理に話題を探す必要もない。
俺としてはわりと平気だった。
問題はノアだ。
最初の数分こそ静かだったが、やがて彼女の視線が落ち着かなくなってきた。窓を見る。天井を見る。扉を見る。それから俺を見る。
すぐ目を逸らす。
また俺を見る。
「ノア」
「何?」
「今、何か探してる?」
「探してない」
「扉を三回見たぞ」
「見ただけ」
「影も動いてない?」
「……少し」
「駄目じゃないか」
「難しい」
ノアは珍しく困った顔をした。
「何もしないって、何をすればいい?」
「何もしないんだから、何もしなくていい」
「それが分からない」
「禅問答みたいになってきたな」
俺が笑うと、ノアもほんの少しだけ口元を緩めた。
「先生」
「ん?」
「私はずっと、何かを見てきた」
「ああ」
「敵がいるか。危険があるか。誰かが嘘をついているか。先生が困っていないか」
「ああ」
「何も見なくていいと言われると」
彼女は自分の手を見る。
「急に、自分が何をすればいいか分からなくなる」
その言葉に、俺は少しだけ胸が痛くなった。
十年前。
ノアは誰よりも静かな子供だった。
怖い時も泣かなかった。
腹が減っても言わなかった。
その代わり、いつも周囲を見ていた。
誰が怒っているか。
誰が近づいてくるか。
逃げ道はどこか。
そして俺がどこにいるのか。
あの頃の癖が、そのまま世界最高の諜報技術にまで育ったのだとしたら。
彼女が「何もしない」を知らないのは、当然なのかもしれない。
「じゃあ」
俺は背もたれへ体を預けた。
「俺と同じことをしてみる?」
「何してる?」
「座ってる」
「それだけ?」
「それだけ」
「先生を見るのは?」
「好きにすれば」
「警戒じゃなく?」
「ああ」
「観察でもなく?」
「ああ」
「……見るだけ」
「そう」
ノアはしばらく黙ってから、こちらへ体を向けた。
本当に俺を見る。
「……」
「……」
「そんな真顔で見られると落ち着かないな」
「先生が好きに見ていいって言った」
「言ったけど」
「やめる?」
「いや」
俺もノアを見る。
黒い髪。
黒い瞳。
感情を表へ出すのが苦手なのは昔から変わらない。
でも、昔と違うところもある。
「ノア」
「何?」
「顔、赤いぞ」
「先生も」
「俺も?」
「少し」
こんなことをしていると、何もしないというより、妙に意識する。
ノアも同じらしく、目を逸らそうとして、途中で思い直したようにまた俺を見る。
「先生」
「ん?」
「これ、何もしないより難しい」
「俺も今そう思った」
◇
しばらくすると、ノアの肩から力が抜けてきた。
最初はまっすぐ座っていたのに、いつの間にか少しだけ俺の方へ傾いている。
「寄っていいぞ」
「……」
「嫌ならそのままでいいけど」
「寄る」
小さな声で答えて、ノアは俺の肩へ頭を預けた。
軽い。
本当に触れているのか不安になるくらいだった。
「先生」
「何だ」
「重い?」
「全然」
「邪魔?」
「なら言ってる」
「何かしなくていい?」
「何もしなくていい」
「先生に話しかけなくても?」
「ああ」
「楽しませなくても?」
「ああ」
「守らなくても?」
「この三十分くらいは」
「……」
ノアが少しだけ深く寄りかかった。
「これ」
「ん?」
「好き」
「何が?」
「何もしないの」
「さっき分からないって言ってたのに」
「先生となら」
その一言だけで、意味が全部変わった。
何もしない時間が好きなのではない。
何もしなくても、俺の隣にいていいことが好きなのだろう。
「ノア」
「何?」
「今まで、俺といる時もずっと仕事してた?」
「うん」
「警戒?」
「うん」
「監視?」
「先生には監視じゃない」
「じゃあ何だ」
「見守り」
「言い換えただけじゃないか」
「違う」
少しだけ不満そうに言う。
「先生が夜中に水を飲みに行く時も」
「見てた?」
「うん」
「庭で転びそうになった時も?」
「見てた」
「あれ誰にも見られてないと思ってたんだけど」
「三回ある」
「回数まで!」
「右足二回。左足一回」
「細かい!」
ノアが笑う。
小さな笑い声だった。
それだけなのに、妙に嬉しい。
「でも」
笑い終えると、ノアはまた静かな声になった。
「先生が死んだと思っていた十年」
「ああ」
「見るものがなくなった」
肩に預けられた頭が少し重くなった気がした。
「だから世界中を見た」
「俺の代わりに?」
「先生を殺したものがあるなら探すため」
「ああ」
「先生が残したものがあるなら守るため」
「ああ」
「いつか先生が帰ってきた時、困らないようにするため」
「……帰ってくると思ってた?」
「思ってない」
即答だった。
「でも」
一度、息を吐く。
「思ってないのに、待ってた」
俺は何も言えなかった。
ノアも言葉を続けない。
ただ肩を貸したまま、静かな時間が流れた。
◇
『残り十分です』
家の声がした。
「もう二十分?」
「早い」
ノアが驚いた顔をする。
「さっきまで何をすればいいか分からなかったのにな」
「今は」
「ああ」
「終わるの嫌」
「またやればいい」
「明日?」
「別に毎日でも」
ノアが勢いよく顔を上げた。
「毎日?」
「三十分くらいなら」
「先生」
「何だ」
「約束?」
「俺が嫌じゃなければな」
「嫌になる?」
「今のところは」
「じゃあ」
そこでノアは止まった。
「何?」
「……予約しそうになった」
「成長したな」
「みんなが予約するなって怒られてたから」
「ちゃんと見てるな」
「見守り」
「それ便利だな!」
また二人で笑う。
◇
「先生」
「ん?」
「十年」
「ああ」
「先生が帰ってくるまで」
「ああ」
「私はずっと、先を考えてた」
ノアが俺の肩から離れた。
「次に何が起きるか。次に誰が敵になるか。次にどこを守るか」
「ああ」
「今もそう」
俺を見る。
「先生と恋人になってからも」
「ああ」
「次は何をすれば先生が喜ぶか。次はどこへ行けばいいか。次は――」
一瞬。
言葉が止まる。
「キス?」
「……うん」
やっぱり。
「他のみんながしたから?」
「それもある」
「ああ」
「クロエの次だからとも思った」
「ああ」
「最後だから」
「ああ」
「早くしたほうがいいとも思った」
正直だ。
「でも」
ノアは自分の膝の上で指を組んだ。
「だから、嫌だった」
「何が?」
「考えた結果でするの」
俺は黙って聞く。
「先生が安全だから好きなのでもない」
「ああ」
「先生が私を必要としてくれるから好きなのでもない」
「ああ」
「最後だからキスしたいわけでもない」
そこでノアは、いつもの無表情に近い顔で俺を見る。
けれど瞳だけは、まったく隠せていなかった。
「今」
「ああ」
「先生と何もしないで」
「ああ」
「ただ隣にいて」
「ああ」
「先生を見てたら」
一度だけ唇を噛む。
「キスしたくなった」
俺の心臓が、少し強く鳴った。
「それは」
「ああ」
「考えてない?」
「考えてない」
「計画?」
「ない」
「順番?」
「どうでもいい」
ノアは少しだけ困ったように笑った。
「たぶん、これが私の気持ち」
「……」
「先生は?」
聞かれる。
俺も同じように、自分の中を探した。
ノアは世界最高の暗殺者でも、影の支配者でもない。
俺を守る役目も、今は必要ない。
ただ隣にいて。
静かに笑って。
時々、どうでもいいことを話した。
それだけで。
「俺もしたい」
ノアの目が少し大きくなった。
「今?」
「ああ」
「先生から?」
「どっちがいい?」
「……」
考えそうになって。
ノアは首を振った。
「考えない」
「じゃあ?」
「近い方」
「何だそれ」
「今」
少しだけ顔を寄せる。
「同じくらい」
確かに。
「じゃあ一緒に?」
「うん」
俺たちは、どちらからともなく少しずつ距離を縮めた。
途中でノアが止まる。
「先生」
「何だ」
「していい?」
「ああ」
「先生も?」
「したい」
「……うん」
もう一度。
今度は止まらない。
唇が触れた。
◇
短い。
本当に短いキスだった。
離れた後も、ノアは俺を見ていた。
「どうした?」
「確認」
「何を」
「夢じゃない?」
「頬つねる?」
「先生の?」
「自分のをつねれ」
「先生が痛かったら本物か分かる」
「分からないだろ!」
ノアがまた笑った。
その笑顔が。
今までで一番、普通の女の子に見えた。
「先生」
「ん?」
「もう一回したい」
「今日は一回」
「アウラにも言ってた」
「聞いてたのか!」
「見守り」
「どこまで見守ってるんだ!」
「でも」
ノアは不満そうにはしなかった。
「次があるならいい」
「ああ」
「いつ?」
「決めない」
「……」
「ノア?」
「今、予定表を作りたくなった」
「お前まで!」
「我慢する」
「偉い」
「頭」
「結局そこは全員共通なんだな!」
俺が頭を撫でると、ノアは目を閉じた。
そして、ほんの少しだけ俺の手へ頭を押しつける。
「先生」
「何だ」
「これも」
「ああ」
「見張らなくていい?」
「何を?」
「終わる時間」
「好きなだけ」
「……」
「どうした」
「それは危険」
「何で?」
「一日終わる」
「撫でられるだけで!?」
◇
『三十分が経過しました』
家の声。
「終わった」
ノアが少し残念そうに言う。
「どうだった?」
「難しかった」
「ああ」
「最初」
「ああ」
「途中から楽しかった」
「ああ」
「最後」
「ああ」
「足りない」
「増やす?」
「今日はいい」
「意外だな」
「先生」
「ん?」
「何もしない時間は」
ノアは立ち上がった。
「何もしなくても、なくならないって分かった」
「時間は過ぎるぞ」
「違う」
俺へ手を伸ばす。
「先生との関係」
「ああ」
「役に立たなくても」
「ああ」
「守らなくても」
「ああ」
「何も話さなくても」
「ああ」
「ちゃんと恋人だった」
その言葉に、俺は頷く。
「最初からそうだよ」
「うん」
「これからも」
「……うん」
ノアが俺の手を握った。
◇
そして居間へ戻ると。
七人がいた。
「……」
「……」
「……」
全員、妙に静かだった。
「何だよ」
セレスが微笑む。
「何も?」
「ミレイユ」
「何もございません」
「リリス」
「何もない」
「エリナ」
「何も!」
「アウラ」
「何もないよ!」
「クロエ」
「特筆すべき事項は」
「あるだろ」
「ございません」
「アステラ」
「みんな」
「ああ」
「十五分前からここに集まってた」
『アステラ!』
「やっぱり待ってたんじゃないか!」
ノア。
俺の隣。
立っている。
「先生」
「何だ」
「言っていい?」
「ああ」
ノアは全員を見る。
「キスした」
静寂。
その後。
「……最後」
セレス。
「全員ですね」
ミレイユ。
「八人」
リリス。
「全員」
エリナ。
「した」
アウラ。
「先生と」
クロエ。
「初回の口づけを」
「数えるな!」
俺が叫ぶ。
けれど。
何かがおかしい。
八人。
顔。
見る。
「……何で全員ちょっと嬉しそうなんだ?」
セレスが答える。
「先生が」
「ああ」
「誰かを置き去りにしなかったからです」
「……」
ミレイユも頷く。
「順番は重要ではありません」
「ああ」
「ですが」
リリスが続ける。
「全員」
「ああ」
「自分の気持ちで」
エリナ。
「先生とした」
アウラ。
「先生もしたいって言ってくれた」
クロエ。
「その結果として全員に経験が生じただけです」
ノア。
「だから」
アステラ。
最後。
「みんな嬉しい」
俺は。
少しだけ言葉に詰まった。
全員で俺を取り合って。
嫉妬して。
牽制して。
今でも世界大戦一歩手前みたいなことをする。
それでも。
誰かだけが幸せになればいいとは。
もう思っていない。
「……成長したな」
言うと。
八人。
少し。
笑った。
◇
『八例すべてを確認しました』
「家」
『はい』
「やっぱり数えてたのか」
『記録上必要です』
「公開するなよ」
『家族史としてのみ保存いたします』
「本当に?」
『はい』
「家族史も怖いんだけど」
『本日のノア様について』
「始まった」
『三十分間、周囲への監視・索敵行動を大幅に抑制』
「ああ」
『旦那様の隣で、自身が役割を果たしていない状態を受容』
「ああ」
『また、口づけについて』
「そこは短く!」
『順番・計画・義務ではなく』
「ああ」
『その場で生じた自身の希望として言語化』
「ああ」
『旦那様も希望を表明し、双方同時に接近』
エリナ。
「同時!」
アウラ。
「それいい!」
「反応するな!」
『高評価です』
ノア。
少し。
胸を張る。
「先生」
「何だ」
「高評価」
「家に褒められて嬉しい?」
「少し」
「俺も褒めようか?」
「頭」
「やっぱりそれか!」
◇
夕食後。
俺は自室へ戻った。
今日は妙に疲れた。
何もしない時間を過ごしただけなのに。
「……不思議だな」
『旦那様』
「何だ」
『本日をもって、八名すべてが旦那様と初回の口づけを経験しました』
「ああ」
『次の課題を提示しましょうか?』
「やめろ」
『まだ内容を申し上げておりません』
「嫌な予感しかしない」
『例えば――』
「やめろって」
『恋人らしい呼び方の検討』
「却下」
『二人きりでの宿泊』
「却下!」
『記念日の設定』
「予定を増やすな!」
『添い寝――』
「家!」
『はい』
「絶対楽しんでるだろ!」
『学習しています』
「何を!」
扉の外から、複数の気配。
「……」
俺はゆっくり扉を見る。
「お前ら」
返事はない。
「聞いてるだろ」
沈黙。
「家」
『八名おります』
『家!』
扉の向こう。
「先生!」
セレス。
「家が勝手に!」
「私は添い寝という単語だけ」
ミレイユ。
「宿泊なら魔界に」
リリス。
「勝負なしなら」
エリナ。
「竜の巣!」
アウラ。
「専用宿泊施設の取得なら」
クロエ。
「隣で寝るだけ?」
ノア。
「私は」
アステラ。
「先生が嫌ならしない」
一人だけ。
まとも。
「アステラ!」
「でも」
「ああ」
「先生がいいなら」
少し。
間。
「したい」
「お前もか!」
扉の向こうが一気に騒がしくなる。
『私が先です!』
『順番はありません!』
『竜の巣が一番広い!』
『寝具の品質なら私が!』
『先生の影なら近い』
「お前ら!」
俺は扉を開けた。
「初キスが全員終わった瞬間に次へ進もうとするな!」
八人。
ぴたり。
「……」
「……」
「まず!」
指を突きつける。
「普通に恋人でいる練習をしろ!」
全員。
顔。
見合わせる。
「普通の恋人」
セレス。
「とは?」
ミレイユ。
「具体的には」
クロエ。
「何をする?」
ノア。
「……」
俺も止まった。
「先生?」
アステラ。
「……俺も知らない」
全員。
黙る。
次の瞬間。
八人が笑った。
「何で笑う!」
セレスが目元を拭いながら言う。
「では先生」
「ああ」
「九人で覚えましょう」
「……」
なるほど。
それなら。
悪くないかもしれない。
世界を滅ぼしかけた八人と。
恋人という関係を。
誰も正解を知らないまま。
一つずつ覚えていく。
「ただし」
俺は念を押した。
「会議で決めるなよ」
クロエがそっと背中へ隠した紙を、俺は見逃さなかった。
「今、議事録作ろうとしただろ!」
「反射です!」
世界大戦を止めるより。
普通の恋人になる方が。
もしかすると、ずっと大変なのかもしれない。




