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世界を滅ぼす七人の悪女を更生させた俺、死亡したと思われていたら彼女たちが世界大戦を始めようとしていた  作者: てへろっぱ


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第43話 商業王と『売らないもの』を決めたら、俺との思い出だけ市場から消された



 朝食を終えたところで、クロエが俺の前に青い器を置いた。


 以前、俺が誰かのためでも、何かの役に立てるためでもなく、ただ自分が気に入ったという理由だけで買った器だ。第26話で使い道を一緒に考えてほしいと頼んだものの、その後は互いに色々あって、結論を出さないままになっていた。


「先生。お時間をいただいてもよろしいでしょうか」


「ああ。というか、それを持ってきたってことは、使い道を考える?」


「はい」


 クロエは頷いたが、いつもの帳簿は持っていなかった。


 代わりに、首から一枚の木札を下げている。


『また明日』


 第33話で俺が彼女へ贈ったものだ。


「今日は店じまい?」


「はい。先生との時間を、勤務時間の隙間へ入れるのはやめました」


「いいことだな」


「商業王としては、一日停止した場合の機会損失を計算したくなりますが」


「計算した?」


「途中まで」


「したのか」


「ですが破棄しました」


 それなら進歩だろう。


 俺が青い器を手に取ると、クロエも隣の椅子へ座った。


「それで、何か案はある?」


「ございます」


「何個?」


「四百十八案」


「多い!」


「三日前には千二百七十六案ございましたので、大幅に削減しております」


「褒めればいいのか、それ」


「先生に褒めていただけるなら」


「よく減らした」


「ありがとうございます」


 素直に微笑んでから、クロエは一枚だけ紙を出した。


「候補には、菓子入れ、鍵入れ、硬貨入れ、文具入れ、薬草入れ、来客用の砂糖入れなどがございます」


「普通だな」


「さらに、記念品として複製販売した場合――」


「クロエ」


「……削除します」


 線を引く。


「先生」


「何だ」


「難しいのです」


「何が?」


「器を見ますと、どうしても最も適した用途を選びたくなります。収納効率、利用頻度、洗浄性、破損時の代替性まで考慮すれば、答えを最適化できます」


「でも、俺が頼んだのは最適解を出してくれ、じゃなかっただろ?」


「はい」


 クロエは青い器を見つめた。


「先生が、何を入れたいと思うか知りたい、でした」


「覚えてたんだな」


「当然です」


 即答だった。


 それから少しだけ頬を赤くして付け加える。


「帳簿には記録しておりません」


「覚えておきたいって言ってたな」


「はい」


 その言葉が、少し嬉しかった。


     ◇


「じゃあ、一回考え方を変えるか」


「どのように?」


「何を入れると便利かじゃなくて、何を入れたら嬉しいか」


 クロエの眉が僅かに寄った。


「評価基準が極めて曖昧です」


「そこがいいんだろ」


「先生は最近、曖昧さへの耐性が高すぎます」


「お前たちに鍛えられたからな」


 青い器を間に置いて、二人で考える。


 菓子。


 悪くない。


 花。


 それも綺麗だ。


 鍵。


 便利だが、今日はそういう話ではない気がする。


 俺が黙っていると、クロエがそっと尋ねた。


「先生。何も入れない、という選択肢もありますか?」


「あると思う」


「器なのに?」


「器だからって、絶対に何か入れなきゃいけないわけじゃないだろ」


「……」


「気が向いた時だけ何か入れるとか」


 クロエはしばらく考えていた。


「空いている時間のある倉庫は、収益機会を失っています」


「器を倉庫として見るな」


「癖です」


「知ってる」


「ですが」


 彼女は自分で言ってから、青い器へ手を添えた。


「空いていても損ではないものがある、ということですね」


「俺はそう思う」


「空いている時間も?」


「ああ」


「使わない部屋も?」


「場合によるけどな」


「働いていない私も?」


 そこで声が少しだけ小さくなった。


 俺はクロエを見る。


 彼女は笑っていなかった。


「それが一番聞きたかった?」


「……少しだけ」


 商業王。


 世界中の金を動かし、一つの判断だけで国家の経済すら傾けられる女。


 そんな立場になれば、休む一時間にも莫大な金額がつくのだろう。


 けれど。


「働いてないクロエにも価値がある、とか言うと、また価値計算を始めそうだな」


「はい。危険です」


「じゃあ言い方を変える」


「お願いします」


「働いてなくても、クロエはクロエだ」


「……」


「俺といる時くらい、それでいいだろ」


 クロエは目を伏せた。


「利益を出さなくても?」


「ああ」


「先生のお役に立たなくても?」


「ああ」


「何も生産せず、ただ隣にいるだけでも?」


「俺はそのほうが嬉しい日もある」


 沈黙が落ちた。


 けれど嫌な沈黙ではなかった。


 クロエは『また明日』の木札へ触れてから、ふっと息を吐いた。


「先生」


「何だ」


「本日の予定を、一つ追加しても?」


「聞いてから決める」


「青い器の用途を考えながら」


「ああ」


「何も生産しない時間を一時間」


「いいぞ」


「……即決ですね」


「恋人と一時間のんびりするのに稟議はいらないだろ」


 クロエの顔が赤くなった。


「先生」


「何だ」


「最近、その単語を自然に使われますね」


「恋人?」


「繰り返さなくて結構です!」


     ◇


 一時間。


 本当に何もしなかった。


 いや、正確には茶を飲んだり、窓の外を見たり、たまに話したりはした。


 ただし仕事はしない。


 青い器の使い道についても、答えを急がない。


 最初の十分、クロエは五回時計を見た。


 二十分を過ぎると三回になり、四十分を過ぎた頃には一度も見なくなった。


 代わりに、窓の外で鳥が木の枝から滑り落ちかけたのを見て笑った。


「今、笑ったな」


「鳥が」


「ああ」


「失敗しました」


「ああ」


「何の利益もありません」


「笑うのに利益いる?」


「……不要ですね」


 そんなことを話しているうち、クロエが突然立ち上がった。


「先生。少しだけ外へ出ませんか?」


「仕事?」


「違います」


「市場調査?」


「しません」


「商会?」


「寄りません」


「じゃあ行こう」


「確認されないのですか?」


「何を」


「目的地を」


「歩きながら決めればいい」


 クロエは困ったように笑った。


「先生。私はセレスさんほどではありませんが、予定のない外出は苦手です」


「知ってる」


「ですが」


 木札を裏返して確認する。


『また明日』


「今日は、こちらなので」


「じゃあ迷おう」


「はい」


     ◇


 街を歩いていると、クロエは何度も店先へ目を向けた。


 ただし今日は値段を口にしない。


 布地を見ては「あれは先生に似合いそうです」と言い、果物を見れば「アウラさんなら一箱食べるでしょうか」と笑う。


 俺は途中から気づいた。


「クロエ」


「はい?」


「今日、一回も相場って言ってないな」


 ぴたり、と足が止まった。


「先生」


「何だ」


「数えていたのですか?」


「数えてない。気づいただけ」


「……」


「どうした?」


「嬉しいのですが」


「ああ」


「先生が私の変化を、数値なしで把握されていることに若干の敗北感があります」


「結局勝負なのか」


「職業病です」


 また歩き出す。


 やがて小さな広場へ出たところで、一人の少女が紙を配っていた。


「どうぞ!」


 俺とクロエへ一枚ずつ差し出す。


 紙を折って作った小さな花だった。


「これ、売ってるの?」


「ちがうよ。今日、お母さんのお店のお手伝いしてるから、来た人にあげてるの!」


「ありがとう」


 受け取る。


 クロエも受け取った。


 だが、紙の花を見つめたまま動かない。


「クロエ?」


「……先生」


「何だ」


「原価を計算しても?」


「駄目」


「紙の品質から推定すると――」


「駄目」


「では市場価格を」


「売り物じゃないぞ」


「そうでした」


 少女が不思議そうに首を傾げる。


「お姉ちゃん、いらない?」


 クロエの目が大きくなった。


「いいえ」


 すぐにしゃがみ、少女と同じ高さになる。


「いただきます」


「よかった!」


「ありがとうございます」


「うん!」


 少女が走って戻っていく。


 クロエは紙の花を大事そうに掌へ乗せていた。


「先生」


「ん?」


「これは、いくらでしょう」


「また値段?」


「違います」


 クロエは首を振った。


「売ろうとしても、おそらく価格はほとんどつきません」


「ああ」


「材料費も僅かです」


「ああ」


「ですが」


 紙の花を潰さないよう、指先でそっと持つ。


「今、売ってくれと言われても嫌です」


「じゃあ売らなければいい」


「価格を提示されても?」


「クロエが売りたくないなら」


「金貨百枚でも?」


「ああ」


「一万枚」


「好きにしろ」


「一国の国家予算相当」


「そこまで紙の花を欲しがる奴がいたら怖いな」


「そうですね」


 クロエが笑った。


 そして。


「先生」


「何だ」


「青い器」


「ああ」


「使い道を思いつきました」


     ◇


 家へ戻るなり、クロエは青い器の中へ紙の花を入れた。


「これ?」


「はい」


 俺の紙の花も隣へ置く。


 二つ。


 青い器の中へ並んだ。


「何入れ?」


 聞くと、クロエは少し考えた。


「売らないもの入れ」


「……いいな、それ」


「値段のつかないもの、ではありません」


「ああ」


「この紙にも価格はあります。器にも価格があります。思い出を利用した商業価値まで考えれば、もっと大きな金額を算出することもできます」


「クロエならな」


「ですが」


 俺を見る。


「売りません」


「ああ」


「価格がないからではなく」


「ああ」


「私が持っていたいから」


 その言い方が、とてもクロエらしかった。


 数字を捨てたわけではない。


 価値を計算する能力を否定したわけでもない。


 全部分かる。


 分かった上で。


 売らない。


「それでいいんじゃないか」


「はい」


「これから増やす?」


「増やしたくなった時だけ」


「いい答えだ」


「最適な収納容量になるまで埋める必要もありません」


「さらにいい」


「ただし、湿度管理だけは」


「紙だからな。それはしていい」


「ありがとうございます」


 クロエが安心した直後だった。


『クロエ様宛てに緊急通信が入っております』


 家の声が響く。


「仕事?」


「本日は休業中ですが、緊急であれば」


『商会本部より。「先生が個人的に使用する青色の器へ、二人の思い出の品を保管し始めた」との情報を取得。商品化可否について至急確認を求めています』


「早い!」


 俺が叫ぶ横で、クロエの商業王の顔が戻った。


「想定販売価格は?」


「クロエ!」


「……失礼しました」


『類似品の予約希望が、既に十二万件――』


「誰が情報流したんだよ!」


 窓の影が少し動いた。


「ノア?」


「私は見ただけ」


「伝えた?」


「伝えてない」


「じゃあ誰だ」


『家の外から窓越しに目撃した商会職員が』


「休ませろ!」


 クロエは額へ手を当てた。


「先生」


「ん?」


「商品化した場合」


「考えるな」


「非常に大きな利益が」


「クロエ」


「分かっております」


 しばらく青い器を見る。


 紙の花。


 俺のものと。


 クロエのもの。


 たった二つ。


「家。商会本部へ返信を」


『内容をどうぞ』


 クロエが一度だけ息を吸った。


「商品化しません」


『理由は?』


「私物だからです」


 それだけ。


「類似品の製造も?」


『確認を求められています』


「禁止はしません。青い器そのものは一般商品ですから」


「ああ」


「ただし」


 クロエは俺を見る。


「『先生との思い出入れ』という名称、意匠、宣伝文句は一切使用不可」


『承知しました』


「私と先生のこれは」


 青い器へそっと手を置く。


「売りません」


『記録しました』


 通信が切れた。


「……平気?」


「はい」


「十二万件だぞ」


「知っています」


「惜しくない?」


 クロエは少しだけ顔をしかめた。


「物凄く惜しいです」


「そこは正直だな!」


「ですが」


 今度は笑う。


「惜しいまま、売らないことにします」


「そっちのほうがお前らしい」


「先生」


「何だ」


「今の言葉も」


「ああ」


「入れてよろしいですか?」


「器に?」


「はい」


「言葉は入らないだろ」


「書きます」


「じゃあ紙に書けば?」


 クロエはすぐ紙を取った。


「『惜しいまま、売らなくていい』」


「俺、そこまで綺麗に言った?」


「意訳です」


「商業王の加工が入ってるな」


「付加価値です」


「結局それは言うのか!」


     ◇


 夕方。


 青い器には三つのものが入った。


 紙の花が二つ。


 そして。


『惜しくても、売りたくないなら売らなくていい』


 クロエが自分で書いた小さな紙。


 俺はそれを見ながら思った。


「クロエ」


「はい」


「俺も一枚入れていい?」


「もちろんです」


 紙をもらう。


 少し考えて。


 書く。


『またクロエと出かける』


 折る。


 青い器へ入れる。


「……」


 クロエが固まった。


「どうした?」


「先生」


「何だ」


「これは」


「ああ」


「予定ですか?」


「いや」


「契約?」


「違う」


「予約?」


「違う」


「では」


「俺がそうしたいってだけ」


「……」


 クロエが紙を取ろうとして、途中で止める。


「見る?」


「見ません」


「何で」


「何度も見たくなるので」


「見てもいいだろ」


「仕事中に思い出すと、効率が落ちる可能性があります」


「じゃあしまっておけ」


「はい」


 嬉しそうに答える。


「先生」


「何だ」


「この紙には、市場価格がありません」


「ああ」


「ですが」


 クロエは俺へ向き直った。


「私にとって、今日一番価値があります」


「それならよかった」


「先生」


「ん?」


「お願いがあります」


「言ってみろ」


 さっきまで自然に話していたクロエが、急に落ち着かなくなった。


 指を組み、ほどき、また組む。


「契約ではありません」


「ああ」


「対価もありません」


「ああ」


「交換条件も」


「ああ」


「利益率も」


「クロエ」


「はい」


「何を頼みたい?」


「……口づけを」


 声が小さくなる。


「したいです」


 俺は黙ってクロエを見る。


 彼女は逃げなかった。


「みんながしたから?」


「それを考えなかったと言えば嘘になります」


「ああ」


「残りが私とノアだけであることも把握しております」


「ああ」


「順番による希少性も――」


「計算した?」


「一瞬」


「したのか」


「ですが」


 クロエは自分で苦笑した。


「今は、それとは別です」


「どうして?」


「先生が」


 青い器を見る。


「私との次を、欲しいと書いてくださったから」


「ああ」


「それを見たら」


 また俺を見る。


「私も、今日の次へ進みたくなりました」


「キスが?」


「はい」


「俺と?」


「……はい」


 今度は、はっきり。


 俺も自分の気持ちを確かめる。


 クロエがかわいいと思った。


 第33話でもそうだった。


 今日だって、紙の花の値段を計算しかけて止まった時も、十二万件の予約を惜しみながら断った時も、いかにも彼女らしかった。


「俺もしたい」


「……」


「クロエ?」


「先生」


「何だ」


「今の言葉を金額換算すると」


「するな!」


「危険でした」


「本当に職業病が強いな」


「申し訳ありません」


 二人で笑った。


 それで緊張が少し抜けた。


「クロエ」


「はい」


「していい?」


「はい」


 一歩近づく。


 クロエも逃げない。


 けれど唇が触れる直前になって、彼女が俺の胸へ手を当てた。


「待ってください」


「嫌になった?」


「違います」


「じゃあ?」


「確認が一つ」


「ああ」


「この後」


「うん」


「私が先生へ何かを差し上げる必要はありませんか?」


「何で?」


「いただいたものには、お返しを」


「クロエ」


「はい」


「俺もしたいって言っただろ」


「……はい」


「だから、どっちかが貰うものじゃない」


「では」


 少し考える。


「共同取得?」


「急に事業っぽくなった」


「共有利益?」


「もっと違う」


「……」


「ただ二人でした、でいいだろ」


 クロエの表情が柔らかくなる。


「はい」


「今度こそ?」


「お願いします」


 唇を重ねる。


 ほんの短い。


 触れるだけのキスだった。


 離れた後、クロエはしばらく黙っていた。


「どうした?」


「計算できません」


「何を」


「今の価値を」


「しなくていい」


「はい」


 頬を赤くしたまま。


 クロエは笑った。


「しないことにします」


     ◇


「先生」


「ん?」


「一つ問題があります」


「もう?」


「今の出来事を」


「ああ」


 クロエが青い器を見る。


「入れたいです」


「紙に書く?」


「はい」


「じゃあ書けば」


「ですが」


 耳まで赤くなる。


「他の皆様に見られます」


「確実にな」


 言った直後。


「何を?」


 背後からエリナ。


「うわっ!」


「先生」


 セレスまでいる。


「いつから!?」


「先ほど帰宅いたしました」


 ミレイユが微笑む。


「クロエさんのお顔が非常に赤かったので」


 リリスの翼が僅かに開く。


「何かあった」


「アウラ」


「キス?」


「直球!」


 ノアだけは壁際で俺とクロエをじっと見ている。


 アステラは青い器を覗き込んだ。


「何これ?」


「売らないもの入れです」


 クロエが即座に器を抱えた。


「売らない?」


「はい」


「私も何か入れていい?」


「駄目です」


「即答!?」


 セレスが一歩出る。


「先生との思い出であれば、私にも――」


「これは先生と私で用途を決定した器です」


「二人だけ?」


「はい」


「クロエさん」


 ミレイユの笑顔が怖くなる。


「独占は感心いたしません」


「所有権は先生にあります」


「そこを冷静に言うな!」


 リリスが青い器をじっと見る。


「買収する」


「売りません」


「魔界の宝物庫三つ」


「売りません」


「六つ」


「売りません」


 クロエ。


 強い。


 アウラも手を挙げる。


「お菓子一年分」


「売りません」


「世界中のお菓子」


「売りません」


「先生と半分こする権利」


「それは先生の権利です!」


「正論!」


 俺が感心していると、クロエは青い器を胸へ抱いた。


「皆様。価格を上げても無駄です」


「クロエ」


「はい」


「何かものすごく商業王らしいな」


「先生」


「何だ」


「これは」


 少し得意げに。


「非売品です」


     ◇


『本日のクロエ様について――』


「家、今日は評価しなくていいぞ」


『まだ何も申し上げておりません』


「最近の流れで分かる」


『では一点のみ』


「一点?」


『クロエ様は、旦那様との口づけに市場価格を設定しておりません』


「設定するわけないだろ!」


「先生」


 クロエが真面目な顔で言う。


「設定した場合、需要が供給を遥かに――」


「絶対に商品化するな!」


「冗談です」


「お前が言うと怖い!」


「九割ほど」


「一割本気だったのか!」


 みんなが笑う。


 クロエも。


 青い器を抱えたまま笑っていた。


     ◇


 夜。


 俺の部屋を出る前に、クロエが木札を見せた。


『また明日』


「今日はもう働かない?」


「はい」


「明日は?」


 くるり。


『営業中』


「働きます」


「無理するなよ」


「疲れましたら」


 もう一度。


『また明日』


「こちらへ戻します」


「いいな」


「そして」


 クロエは少しだけ迷ってから、俺の手を取った。


「先生とのデートへ行きたくなった日も」


「ああ」


「こちらへ戻します」


「休みじゃなくてデート専用になってない?」


「休業理由の一つです」


「商業王らしいな」


「先生」


「何だ」


「今日」


 俺の手を握る力が、ほんの少し強くなる。


「大損しました」


「え?」


「十二万件の予約を断りました」


「ああ」


「一日の仕事も休みました」


「ああ」


「紙の花を保管するため、湿度管理費も発生します」


「ああ」


「そして、先生と何時間も過ごしました」


「最後は損なのか?」


「いいえ」


 クロエは笑った。


「だから困っているのです」


「何が?」


「これほど損をしたのに」


 一度、青い器を見る。


「今日を売り戻したいとは、まったく思いません」


「……」


「先生」


「何だ」


「損をしても、幸せな日はあるのですね」


「あるんじゃないか」


「はい」


 俺は青い器の中へ入れた紙を思い出す。


『またクロエと出かける』


 次も。


 たぶん同じように。


 利益にはならない。


 世界も救わない。


 何かを生産するわけでもない。


 それでも。


「次も損する?」


 聞くと。


 クロエは少し考えた。


「先生とでしたら」


 柔らかく笑う。


「喜んで」


     ◇


 その夜遅く。


 寝ようとした俺は、枕元に小さな黒い紙が置かれていることに気づいた。


 いつ入った。


 いや。


 誰が入れた。


 考えるまでもない。


 黒い紙には、短く一行だけ書かれていた。


『先生。明日、三十分だけ一緒に何もしない?』


「……ノア」


 返事を書こうとして。


 手を止める。


 第26話で俺から頼んだことだ。


 三十分。


 監視も。


 警戒も。


 影を伸ばすこともせず。


 ただ隣で何もしない。


 その時はまだ、恋人ではなかった。


「今やったら、どうなるんだろうな」


 部屋の隅の影が。


 ほんの少しだけ。


 嬉しそうに揺れた。


「いるだろ!」


「……いない」


「返事した!」


 次はどうやら。


 世界で最も隠れるのが上手い恋人と。


 何もしない時間を過ごすことになりそうだった。


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