第38話 女帝がキスのために毎日頬を汚すので、諦めた日に俺からしたくなった
「全員!」
夕方。
俺は。
ついに叫んだ。
「自然にしろと言っただろう!」
八人は。
揃って答えた。
「自然に、したくなるよう努力しています」
「それを不自然と言うんだ!」
◇
翌朝。
庭。
「セレス」
「はい」
「頬」
「何か?」
「土」
「あら」
「今日で四日連続だぞ」
「偶然です」
「昨日は右頬」
「ああ」
「一昨日は左」
「ああ」
「その前は両方」
「ああ」
「今日は」
俺は。
セレスの顔を見る。
右頬へ。
完璧な位置に。
小さく土。
「指でつけただろう」
「……」
「セレス」
「先生」
「何だ」
「証拠は?」
「女帝がそこで争うな!」
後ろ。
名前のない花。
新しい芽が。
また一つ。
増えている。
「先生」
セレスが。
少しだけ。
顔を近づける。
「取っていただけますか?」
「自分で取れ」
「……」
「何だ、その顔」
「恋人なのに」
「恋人でも自分で取れる土は取れ!」
「では」
ハンカチ。
自分で。
拭く。
「先生」
「何だ」
「残念です」
「正直だな」
「はい」
「キスを期待していた?」
「非常に」
「もっと正直だな!」
セレスは。
少しだけ。
頬を赤くして。
花へ水をやる。
「ですが」
「ああ」
「先生がしたい時、と決めましたので」
「ああ」
「今日は、これ以上はしません」
「本当に?」
「はい」
じょうろ。
置く。
俺を見る。
「……」
「何だ」
「少しだけ見つめるのも?」
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
「許可するほどのことではない」
◇
朝食。
妙に。
静かだった。
「……」
「……」
「……」
俺が。
パンを取る。
セレス。
普通。
ミレイユ。
普通。
リリス。
普通。
エリナ。
普通。
アウラ。
肉。
クロエ。
新聞。
ノア。
静か。
アステラ。
色紙。
「気持ち悪いな」
「先生」
ミレイユが。
悲しそうな顔。
「静かに朝食をいただいているだけです」
「昨日までと違いすぎる」
「自然にするよう」
クロエ。
「先生からご指示がございましたので」
「自然を命令として実行するな」
「難しいです」
リリスが。
真剣に答える。
「先生」
「何だ」
「私は今」
「ああ」
「キスのことを考えないよう」
「ああ」
「茸の種類を頭の中で数えている」
「それも不自然だ!」
「十二種類目だ」
「知らない!」
エリナ。
「私は」
「ああ」
「昨日から先生の顔を見ないように」
「ああ」
「三秒以上見たら負けって」
「誰と勝負している!」
「自分」
「やめろ!」
アウラ。
「私は普通」
「本当に?」
「うん」
「何を考えている」
「朝ごはん」
「ああ」
「先生」
「ああ」
「キス」
「混ざってるぞ!」
「あと肉」
「そちらを中心にしろ!」
ノアが。
俺を見る。
「先生」
「何だ」
「自然って」
「ああ」
「難しい」
「そうだな」
「五分隠れたら?」
「好きなら普通にやれ」
「戻ったら」
「ああ」
「お帰り言って?」
「それは言う」
「分かった」
ノア。
席を立つ。
「朝食中に隠れるな!」
「自然にした」
「パンを食ってからにしろ!」
◇
アステラは。
一人。
妙に落ち着いていた。
「アステラ」
「何?」
「余裕あるな」
「したから」
「言うな」
「キス」
「具体的に言わなくていい」
残り七人の。
視線。
一斉に。
アステラへ。
「……」
「……」
「……」
アステラ。
少し。
嬉色。
「今」
セレス。
「優越感を?」
「少し」
「アステラさん」
「何?」
「正直なのは美徳ですが」
「ああ」
「本日は少々腹立たしいです」
「ごめん」
「謝られると、もっと複雑です」
それでも。
誰も。
アステラへ。
何かをするわけではない。
少し前なら。
恋愛戦争が。
本当に始まっていた。
「先生」
アステラが。
俺を見る。
「何だ」
「今日」
「ああ」
「私とはしなくていい」
「……」
全員。
止まる。
「どうして」
「一回した」
「ああ」
「またしたい」
「ああ」
「でも」
七人を見る。
「私が毎日レオンの隣を取ったら」
「ああ」
「私も嫌な女になる」
「……」
「だから」
色紙へ。
新しい。
薄い黄色。
「今日は」
「ああ」
「レオンとキスしなくても、嬉しい日を探す」
「いいな」
「褒めた?」
「ああ」
「頭」
「そこは残るのか」
◇
午後。
俺は。
一人で。
街へ出るつもりだった。
「先生」
玄関。
セレス。
「何だ」
「どちらへ?」
「散歩」
「予定は?」
「ない」
セレスの顔が。
少し。
明るくなる。
「……」
「何だ」
「偶然ですね」
「何が」
「私も」
小さな籠。
「散歩へ行こうと」
「一人で?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「尾行では?」
「違います!」
「では」
一度。
俺は考える。
「一緒に行く?」
セレスが。
完全に止まった。
「先生」
「何だ」
「今」
「ああ」
「先生から?」
「ああ」
「私を?」
「ああ」
「散歩へ?」
「ああ」
「デート?」
「そこまで決めていない」
「恋人同士の二人きりの散歩です」
「ではデートでもいい」
「……」
「セレス?」
「心の準備を」
「またか」
「三十秒」
「短くなったな」
◇
行き先。
なし。
予定。
なし。
護衛。
なし。
女帝権限。
なし。
二人。
普通に。
歩く。
「先生」
「何だ」
「今日」
「ああ」
「キスのためではないのですか?」
「何が」
「この散歩」
「違う」
「……はい」
「残念?」
「少し」
「でも?」
「嬉しいです」
「ああ」
「先生から」
小さく笑う。
「私と歩こうと、思ってくださったので」
◇
右。
左。
「どちら」
俺が聞く。
セレスは。
以前なら。
地図。
人通り。
安全。
目的。
全部考えた。
今日は。
「左」
「理由は?」
「赤い屋根が見えるので」
「それだけ?」
「はい」
「行こう」
左。
進む。
赤い屋根。
店だった。
『壊れた植木鉢屋』
「何だ、これは」
店先。
ひび。
欠け。
割れて。
修復された。
植木鉢。
「全部壊れている」
セレス。
「でも」
近づく。
「金で継いであります」
ひび。
細い。
金色。
「きれいですね」
「ああ」
店主。
老女。
「二人で花でも育ててるの?」
「はい」
セレス。
即答。
「名前のない花を」
「ああ」
「一緒に」
少し。
誇らしげ。
「育てています」
「なら」
老女。
一つ。
小さな鉢。
「これ、どう?」
青い。
ひび。
真ん中。
金。
「先生」
「何だ」
「好きです」
「買う?」
「でも」
値札。
銅貨五枚。
「今の鉢があります」
「ああ」
「必要では」
「欲しい?」
セレス。
止まる。
「……」
「どうだ」
「欲しいです」
「では買えば」
「先生は?」
「俺も」
一度。
鉢を見る。
「好きだ」
「では」
財布。
セレスが出す。
「半分ずつ?」
俺が言う。
手。
止まる。
「先生も?」
「ああ」
「二人の花に使うなら」
「ああ」
「二人で買う?」
「嫌?」
「……」
セレスの顔。
ゆっくり赤くなる。
「いいえ」
二人。
銅貨。
半分ずつ。
「足りない端数は?」
「俺が一枚多く」
「では次回は私が」
「次回?」
「何かを一緒に買う時」
当然のように。
言った。
「……」
俺も。
少し。
嬉しい。
「分かった」
◇
店を出る。
セレス。
鉢を。
大切そうに抱えている。
「先生」
「何だ」
「壊れた鉢を」
「ああ」
「直して」
「ああ」
「また使う」
「ああ」
「少し」
金のひび。
「好きです」
「お前らしい?」
「どうでしょう」
「帝国も」
「ああ」
「一度壊れかけて」
「ああ」
「お前が直した」
セレスが。
少し。
驚く。
「でも」
俺は続ける。
「元に戻したわけではない」
「ああ」
「前より」
議会。
学校。
診療所。
選択。
「違う国になった」
「……」
「その鉢みたいだ」
セレスが。
長く。
鉢を見る。
「先生」
「何だ」
「今」
「ああ」
「この鉢」
「ああ」
「もっと好きになりました」
「そうか」
「でも」
俺を見る。
「先生がそう言ってくださったから?」
「それもいいだろう」
「宿題に反しませんか」
「好きになる理由は一つでなくていい」
「……はい」
◇
さらに。
歩く。
小さな広場。
子供。
老人。
噴水。
「休む?」
俺が聞く。
「はい」
ベンチ。
二人。
座る。
「静かだな」
「はい」
「セレス」
「何でしょう」
「女帝の仕事」
「ああ」
「今日は?」
「副官へ任せております」
「連絡は?」
「緊急時のみ」
「不安?」
「少し」
「戻りたい?」
「いいえ」
即答。
「どうして」
「今は」
鉢。
隣の俺。
「ここにいたいです」
「ああ」
「先生は?」
「俺も」
セレスの目が。
少し。
大きくなる。
「本当に?」
「ああ」
「今」
一度。
自分の気持ちを。
確かめる。
「このまま少し座っていたい」
セレス。
何も言わない。
ただ。
嬉しそう。
◇
五分。
十分。
セレスが。
突然。
笑った。
「何だ」
「先生」
「ああ」
「私」
「何だ」
「今日」
頬。
触る。
「土をつけておりません」
「朝はつけていた」
「あれは」
「ああ」
「……つけました」
「認めたな」
「ですが」
笑う。
「今は」
「ああ」
「何もしていません」
「ああ」
「先生を」
一度。
少し。
恥ずかしそうに。
「キスしたくなるようにしようとも」
「ああ」
「しておりません」
「本当?」
「はい」
「では」
「何です?」
「今」
俺は。
セレスを見る。
頬。
土。
ない。
髪。
少し。
風で乱れている。
女帝の顔ではない。
ただ。
恋人と。
予定のない散歩をして。
壊れた鉢を。
二人で買って。
ベンチへ座っている女。
「俺が」
「ああ」
心臓。
少し。
速くなる。
「したくなった」
セレスが。
完全に。
止まった。
「……」
「……」
「セレス?」
「先生」
「何だ」
「何を?」
「分かっているだろう」
「言葉で」
「……」
これ。
八人から。
何度も言われた。
今度は。
俺の番。
「キス」
「ああ」
「したい」
セレスの瞳。
揺れる。
「私と?」
「ああ」
「今?」
「ああ」
「土は?」
「ついていない」
「予定は?」
「ない」
「理由は?」
「したいから」
セレスが。
口元を。
両手で隠す。
「先生」
「何だ」
「少し」
「ああ」
「待ってください」
「嫌?」
「絶対に違います」
「では」
「嬉しすぎて」
息。
整える。
「女帝として」
「ああ」
「ではなく」
一度。
目を閉じ。
開く。
「セレスとして」
俺を見る。
「ちゃんと、受けたいです」
「分かった」
◇
三十秒。
「先生」
「もういい?」
「はい」
「確認する」
「ああ」
「キスしていい?」
セレス。
小さく。
でも。
はっきり。
「はい」
俺が。
少し近づく。
セレスも。
逃げない。
「触る?」
頬へ。
手を。
上げかける。
「はい」
頬。
温かい。
「先生」
「何だ」
「目」
「ああ」
「閉じます」
「俺も」
距離。
なくなる。
唇。
触れる。
ほんの。
一瞬。
アステラの時と。
同じくらい。
短い。
でも。
違う。
セレス。
その人との。
初めて。
◇
離れる。
「……」
「……」
セレス。
目を開かない。
「セレス?」
「少し」
「ああ」
「まだ」
「心の準備?」
「違います」
「では」
「覚えています」
「今?」
「はい」
「後でも覚えているだろう」
「今のうちに」
やっと。
目を開く。
顔。
真っ赤。
「先生」
「何だ」
「私」
「ああ」
「今日」
鉢。
見る。
「キスをするために」
「ああ」
「何もしていなかったのに」
「ああ」
「先生から」
「ああ」
「したいと」
「ああ」
「言っていただきました」
「そうだな」
「……」
「泣く?」
「少し」
目。
潤む。
「どうして」
「私は」
十年前。
全部。
決めようとした。
国も。
俺の居場所も。
迎え方も。
未来も。
「先生に選んでいただくことが」
「ああ」
「こんなに」
涙。
「嬉しいとは」
「ああ」
「知りませんでした」
「今は知った?」
「はい」
◇
「先生」
「何だ」
「もう一回」
「今日は一回」
「……」
「不満?」
「非常に」
「正直だな」
「ですが」
セレス。
少し笑う。
「次があります」
「ああ」
「それに」
鉢を。
持ち上げる。
「今日は」
「ああ」
「これもあります」
「鉢?」
「二人で買った」
「ああ」
「予定になかった」
「ああ」
「先生から誘っていただいた散歩で」
「ああ」
「見つけた」
「ああ」
「だから」
胸へ。
抱える。
「キスだけの日にしたくありません」
「……」
「今日」
笑う。
「全部、覚えていたいです」
俺も。
少し。
嬉しくなった。
「では」
「ああ」
「帰ろう」
「手は?」
「セレスから?」
「……」
一度。
考える。
「いいえ」
「何だ」
「今日は」
少し。
意地悪そうに。
「先生から来る日でしたので」
「欲張るな」
「待ちます」
三歩。
歩く。
五歩。
俺。
少し。
笑う。
「セレス」
「はい」
手。
差し出す。
「帰りも」
「ああ」
「つなぐか」
セレスの顔が。
また。
赤くなる。
「先生」
「何だ」
「今日」
「ああ」
「私」
「ああ」
「たぶん」
手を握る。
「女帝に戻れません」
「明日は戻れ」
◇
帰宅。
玄関。
「ただいま」
「お帰りなさい」
七人。
レオ。
リタ。
フィオナ。
いつものように。
待ち構えてはいない。
だが。
セレスが。
持っている鉢。
「それ」
アウラ。
「食べ物?」
「違います」
「鉢」
ミレイユ。
「二人で購入しました」
空気。
少し動く。
「二人で?」
クロエ。
「はい」
「支払い比率は?」
「半分ずつ」
「端数は先生」
「次回は私が」
「……」
クロエ。
少し悔しそう。
「共同購入」
「競争にするな」
アステラは。
俺と。
セレスを見る。
少し。
目を細める。
「レオン」
「何だ」
「した?」
直球。
「……」
全員。
止まる。
セレスの顔。
一気に赤い。
「先生」
「隠す必要ある?」
「ありませんが!」
俺は。
正直に。
「した」
静寂。
「……」
「……」
「……」
「セレスと?」
ノア。
「ああ」
「先生から?」
エリナ。
「ああ」
セレスが。
小さく。
でも。
誇らしそうに追加する。
「先生が、したいと」
「セレス!」
「事実です!」
七人。
一斉に。
俺を見る。
「先生から?」
ミレイユ。
「ああ」
「セレスが誘導せず?」
リリス。
「……」
セレス。
視線。
逸らす。
「何かしたのか?」
俺が聞く。
「朝」
ノア。
「頬に土」
「やっぱり故意だったんだな!」
「ですが!」
セレス。
「キスの時は何もしておりません!」
「それは本当だ」
「では」
アステラが。
少し。
嫉妬した顔。
「自然?」
「ああ」
「レオンが?」
「ああ」
「したくなった?」
「ああ」
「……」
嬉色ではない。
少し。
青。
「嫉妬」
「ああ」
「でも」
セレスを見る。
「おめでとう」
「アステラさん」
「悔しいけど」
「ああ」
「私の時も、レオンからだった」
「……」
二人。
視線。
「……」
「……」
「そこで張り合うな」
◇
『確認しました』
家。
「出たな」
『二例目の口づけ成立』
「数えるな」
『セレス様』
「ああ」
『当初は意図的な誘導行動を繰り返しましたが』
セレス。
顔を覆う。
「家」
『事実です』
『本日は途中から誘導を中止』
「ああ」
『旦那様からの自発的希望を待つことを選択』
「ああ」
『また』
『一度の口づけ後、追加要求を拒否されても受容』
「非常に残念でした」
『感情は問題ありません』
「便利な規則ですね」
『合格です』
セレスが。
少し。
胸を張る。
『旦那様』
「はい」
『一日を通じて』
「ああ」
『口づけを目的化せず』
「ああ」
『自然な共同体験の中で』
「ああ」
『ご自身から欲求を認識・言語化』
「ああ」
『実施前に明確な同意確認を行いました』
「ああ」
『高評価です』
「恋愛の採点をするな」
◇
「先生」
ミレイユが。
俺を見る。
「何だ」
「これで」
「ああ」
「二人」
「数えるな」
「残り六人」
「数えるな!」
エリナ。
「先生」
「何だ」
「次は?」
「決めない!」
アウラ。
「今日?」
「もうしない!」
「明日?」
「決めない!」
クロエ。
「確率だけでも」
「計算するな!」
ノア。
「先生」
「何だ」
「私」
「ああ」
「一回未遂」
「未遂扱いするな」
「次」
「ああ」
「来る?」
「分からない」
「でも」
ノア。
小さく笑う。
「待つ」
「ああ」
リリスは。
腕を組む。
「先生」
「何だ」
「三鍋目」
「ああ」
「もう熱くない」
「だから何だ」
「事実を言っただけだ」
「絶対に意識しているだろう!」
ミレイユ。
白いガラクタ。
持ってくる。
「先生」
「何だ」
「こちらも」
「ああ」
「今日完成いたしました」
「だから?」
「特に何も」
「……」
頬。
赤い。
「全員!」
俺は。
頭を抱える。
「自然にしろ!」
「しています!」
「していない!」
◇
その夜。
俺の部屋。
机。
『また明日』
の木札。
今日は。
もう。
休む側。
「二人か」
アステラ。
セレス。
順番。
決めていない。
公平でもない。
同じでもない。
でも。
それでいい。
俺は。
今日買った。
青い。
金継ぎの鉢を見る。
明日。
名前のない花を。
植え替える。
「次は」
誰か。
決めない。
いつか。
決めない。
ただ。
その人と。
何かをして。
笑って。
近づいて。
俺が。
したいと思った時。
ちゃんと。
聞けばいい。
こんこん。
「誰だ」
「ミレイユです」
「どうぞ」
扉。
聖女。
入る。
手に。
例の。
役に立たない白い塊。
「……」
「……」
「ミレイユ」
「はい」
「それを俺の部屋へ増やす気か」
「違います」
「では」
ミレイユは。
少し。
緊張した顔。
「先生」
「何だ」
「眠る前に」
「ああ」
「五分だけ」
「ああ」
「何の役にも立たない話をしませんか」
俺は。
少し笑った。
「いいぞ」
「本当に?」
「ああ」
「キスは?」
俺が。
黙る。
ミレイユ。
慌てる。
「今のは忘れてください!」
「自然に話せ!」
「難しいです!」
結局。
その夜。
俺とミレイユは。
五分どころか。
一時間。
『もし空を飛ぶ魚が、泳げなくなったら魚なのか』
という。
本当に。
何の役にも立たない話をした。
そして。
気づけば。
俺は。
キスのことを。
すっかり忘れていた。
たぶん。
それでいい。
少なくとも。
ミレイユが。
「先生」
「何だ」
「今日」
帰り際。
嬉しそうに笑って。
「キスしなくても、すごく楽しかったです」
と言った時。
俺は。
次に彼女と過ごす時間が。
少し。
楽しみになっていた。




