第31話 勇者が水着で「かわいいと言って」と迫ってきたので、剣より先に俺が負けた
翌朝。
居間へ下りた俺は。
最初に。
昨日までなかった大量の袋を見つけた。
「……何だ、これ」
七つ。
いや。
八つある。
布製の袋。
大きさは。
どれも服が一着入るくらい。
「先生」
クロエが。
何事もないように朝食を食べながら答えた。
「衣料品です」
「それは見れば分かる」
「では問題ありません」
「ある」
袋の一つへ。
小さな札。
『水辺用衣装』
「水着だろう!」
居間にいた全員が。
僅かに動きを止めた。
「昨日」
俺は。
一人ずつ見る。
「エリナのデートが水泳だと決まった後」
「ああ」
「地下都市の女性用水着が大量に売れたと聞いた」
セレスが。
静かに茶を飲む。
「偶然でしょう」
「その袋は?」
「私物です」
「水着か?」
「……」
「セレス」
「水辺へ行く可能性に備えた一般的な衣類です」
「買ったんだな」
「はい」
ミレイユ。
「私は、水難救護時のために」
「今日は救護員ではない」
「今後のためです」
「買ったんだな」
「はい」
リリス。
「魔界の水棲植物調査用だ」
「昨日買う必要は?」
「偶然だ」
「買ったんだな」
「……うむ」
アウラ。
「泳ぐと、お腹が減る」
「理由になっていない」
「水着を買った」
「正直だな」
クロエ。
「水辺市場の需要調査を」
「自分で着る必要は?」
「着用感は重要な商品情報です」
「買ったんだな」
「はい」
ノア。
「影は、水の中で形が変わる」
「だから?」
「水着」
「説明を諦めたな」
「うん」
アステラ。
「私は前から持ってる」
「ああ」
水世界へ行った時の。
透明な眼鏡と。
泳ぐための服。
「では」
七袋。
「最後の一つは?」
全員の視線が。
廊下へ向いた。
「……」
「……」
誰も答えない。
「エリナ?」
返事がない。
「いるんだろう?」
「……いる」
「出てこい」
「まだ無理」
「何が」
「心の準備」
「昨日も同じことを言っていたな」
「昨日より無理」
「どうして」
廊下の角から。
顔だけ。
エリナが出る。
真っ赤だった。
「先生」
「何だ」
「約束」
「ああ」
「かわいかったら」
「ああ」
「言う」
「ああ」
「絶対?」
「言う」
「かわいくなかったら?」
「正直に」
エリナが。
完全に引っ込んだ。
「先生!」
「嘘を言ってほしいのか!」
「それも嫌!」
「では出てこい!」
◇
三分後。
エリナは。
出てきた。
「……」
「……」
普段。
勇者として。
動きやすさを最優先した服しか着ない女。
鎧。
訓練着。
簡素なシャツ。
そういう姿を。
俺はずっと見てきた。
今日は。
違う。
淡い青を基調にした水着。
肌を見せすぎない形だが。
肩。
腕。
脚。
普段より。
ずっと女性らしい輪郭が見える。
腰には。
薄い白の布。
髪も。
いつもの戦闘用の結び方ではなく。
少し低い位置でまとめている。
そして。
何より。
本人が。
ものすごく緊張していた。
「先生」
「ああ」
「どう?」
全員が。
俺を見る。
「かわいい」
言った。
エリナの顔から。
表情が消えた。
「……」
「エリナ?」
「……」
「聞こえた?」
「聞こえた」
「では」
「もう一回」
「またか!」
「先生!」
「かわいい」
「……」
しゃがみ込んだ。
「エリナ!」
「無理」
「何が!」
「先生が本当に言った」
「言うと約束しただろう!」
「想像より嬉しかった」
耳まで。
真っ赤。
「立てる?」
「少し待って」
背後。
「先生」
セレスが。
非常に静かな声で尋ねる。
「私の水着も」
「今日は着るな」
「まだ何も」
「顔に書いてある」
「一度だけ」
「お前の番ではない!」
ミレイユも。
「では、私も次回の」
「水着デートを増やすな!」
リリス。
「私の翼は水を弾く」
「知らない!」
アウラ。
「私は浮く」
「何で?」
「いっぱい食べるから」
「浮力の話ではない!」
クロエ。
「水辺デート需要は」
「市場分析するな!」
ノア。
「先生」
「何だ」
「水の中なら影から」
「覗くなよ」
「……分かった」
アステラだけは。
エリナへ近づいた。
「似合ってる」
「本当?」
「ええ」
「かわいい?」
「レオンが言ったでしょう」
「ああ」
「だから」
少し笑う。
「今日は、それで十分じゃない?」
エリナは。
しばらく。
自分の水着を見る。
「うん」
ゆっくり立った。
「先生」
「何だ」
「行こう」
「ああ」
「今日は」
深呼吸。
「強いって言われるより」
「ああ」
「かわいいって思われたい」
「分かった」
「でも」
「何だ」
「泳ぎは負けない」
「勝負に戻るな!」
◇
今日の場所は。
地下都市の外縁。
『水鏡庭園』
と呼ばれる。
巨大な水上施設だった。
競泳場ではない。
訓練所でもない。
浅い水路。
広い湖。
小さな滝。
水中を見られる透明な回廊。
人工砂浜。
子供用の浅瀬。
泳がなくても楽しめる場所らしい。
「先生」
入口。
エリナが。
周囲を見る。
「戦う場所がない」
「遊ぶ場所だからな」
「的もない」
「ああ」
「時間計測板も」
「ああ」
「ゴールは?」
「ない」
「……」
「不安か?」
「少し」
「前に浮いただろう」
「あれは課題だった」
「ああ」
「今日はデート」
「ああ」
「何をすれば勝ち?」
「勝たなくていい!」
「分かってる!」
「なら聞くな!」
「でも!」
エリナは。
本当に困っている。
「デートは」
「ああ」
「成功とか失敗とか」
「ああ」
「ある?」
「二人が楽しかったら成功では?」
「先生は楽しい?」
「まだ入ってもいない」
「では」
俺を見る。
「楽しくする」
「俺だけじゃないぞ」
「私も?」
「ああ」
「二人?」
「ああ」
エリナが。
少し考える。
「難しい」
「勇者にはな」
「世界を救うほうが簡単」
「俺も昨日から似たようなことを思っている」
◇
更衣区画。
俺も。
普通の水着へ着替える。
上半身。
特に飾りもない。
動きやすいだけのもの。
出口。
エリナが待っていた。
「先生」
「ああ」
「……」
「どうした」
「先生も」
「ああ」
「水着」
「泳ぎに来たからな」
「……」
「エリナ?」
「見てもいい?」
「今見ている」
「ちゃんと」
「ちゃんとの意味が怖い」
エリナは。
顔を赤くしながら。
俺を見る。
肩。
腕。
胸元。
腹。
「先生」
「何だ」
「傷」
「ああ」
昔の傷。
戦場。
旅。
七人を育てていた頃。
残っているものも多い。
「たくさん」
「ああ」
「私も」
エリナは。
自分の肩を見る。
水着になると。
普段は隠れている傷跡が見える。
腕。
脇腹。
脚。
「先生」
「何だ」
「これ」
脇腹。
古い。
深い傷。
「かわいくない?」
声が。
少し小さい。
「傷が?」
「ああ」
「かわいいかどうかで考えたことはない」
エリナの顔が。
曇りかける。
「でも」
続ける。
「傷があるから、お前がかわいくなくなるとは思わない」
「……」
「むしろ」
「ああ」
「さっき」
髪。
水着。
緊張して。
俺の言葉を待っていた姿。
「剣を持たずに」
「ああ」
「俺に、どう見えるか気にしていたお前を」
「ああ」
「かわいいと思った」
「……」
また。
しゃがみそうになる。
「耐えろ」
「無理」
「まだ泳いでいないぞ」
「先生」
「何だ」
「今日」
「ああ」
「何回かわいいって言う?」
「回数を決めるな」
「いっぱい?」
「思ったら言う」
「……」
「今度は何だ」
「それが一番怖い」
「どうして!」
「いつ来るか分からない!」
◇
水へ入る。
最初。
浅瀬。
「先生」
「何だ」
「泳げる?」
「ああ」
「どのくらい」
「普通に」
「百メートル」
「測らない」
「千?」
「測らない」
「潜水は」
「測らない」
「先生」
「今日は何だ」
「分かってる」
エリナは。
自分へ言い聞かせる。
「遊ぶ」
「ああ」
「遊ぶ」
「ああ」
「……」
「どうした」
「遊び方が分からない」
「俺も探す」
「先生も?」
「ああ」
「では」
水の中。
エリナが。
少しだけ笑う。
「一緒に探す」
◇
最初に見つけたのは。
水へ浮かぶ。
大きな球。
「乗る?」
「エリナが?」
「うん」
「落ちるぞ」
「落ちたら水」
「そうだな」
二人用。
大きな。
空気を入れた球状の浮き具。
エリナが。
先に乗る。
「簡単」
一秒後。
「わっ!」
落ちた。
「早いな」
「今のは」
「ああ」
「球が悪い」
「道具のせいにするな」
「先生も!」
「分かった」
俺も乗る。
一歩。
揺れる。
二歩。
「おっと」
水へ。
落ちた。
エリナが。
大笑いした。
「先生!」
「何だ!」
「下手!」
「お前も落ちた!」
「私のほうが二歩多い!」
「数えているじゃないか!」
「あ」
エリナが止まる。
「勝負した」
「ああ」
「駄目?」
「笑えたなら」
一度考える。
「少しくらい勝負してもいいだろう」
「本当?」
「ああ」
「ただし」
「何?」
「負けても機嫌を悪くしない」
「しない」
「勝っても百回やらない」
「十回」
「三回」
「五回」
「交渉するな」
「三回」
「よし」
三回。
二人とも。
全部落ちた。
「引き分け」
エリナが言う。
「ああ」
「もう一回」
「約束は三回」
「……」
「嫌?」
「もうやりたい」
「ああ」
「でも」
浮き具を見る。
「次にする」
「我慢できるようになったな」
「褒めた?」
「ああ」
「かわいい?」
「それは別」
「……」
「そんな顔をするな」
◇
次。
水中回廊。
透明な壁。
外側を。
魚が泳いでいる。
人の体ほどの。
大きな魚。
光る魚。
水そのものに溶けるような魚。
「すごい」
エリナが。
壁へ顔を近づける。
「こういう魚、見たことある?」
「戦場の川で」
「食べた?」
「食べた」
「今日は見るだけ」
「うん」
大きな魚。
俺たちの前で。
口を開く。
「先生」
「何だ」
「今」
「ああ」
「私を食べようとした」
「ガラスがある」
「戦う?」
「戦うな」
「冗談」
「お前が言うと分からない」
エリナが。
笑う。
「先生」
「何だ」
「私」
魚を見る。
「前だったら」
「ああ」
「大きい魚を見ると」
「ああ」
「倒せるか考えてた」
「ああ」
「今は」
光る尾を。
目で追う。
「きれいって思った」
「いいじゃないか」
「弱くなった?」
「なぜ」
「戦うことを先に考えなくなった」
「それは」
俺も。
魚を見る。
「戦わなくていい時に戦わない強さだろう」
「……」
「何だ」
「先生」
「ああ」
「今、強いって言った」
「ああ」
「今日はかわいいがいい」
「注文が多いな」
少し笑う。
「でも」
エリナの横顔。
子供みたいに。
魚を追っている。
「今の顔は」
「ああ」
「かわいい」
「……」
「エリナ?」
「壁」
「何が」
「冷たい」
赤くなった顔を。
透明な壁へ押しつけている。
「冷やすな」
「無理」
◇
回廊の先。
水中観察用の。
浅い潜水区画。
魔法ではなく。
空気を溜める透明な呼吸具を使う。
「先生」
「何だ」
「潜る?」
「ああ」
「競争は」
「しない」
「どっちが先に魚へ」
「しない」
「先生」
「何だ」
「私、何も言ってない」
「顔に書いてあった」
「……」
呼吸具を着ける。
水へ。
二人で潜る。
静かだ。
音が。
遠い。
魚が。
すぐ横を通る。
エリナは。
いつもの泳ぎとは違う。
速くない。
俺へ合わせている?
いや。
自分も。
ゆっくり見ている。
指をさす。
青い魚。
俺も頷く。
次。
小さな群れ。
エリナが。
手を伸ばす。
触れない。
ただ。
通り過ぎるのを待つ。
しばらく後。
水上へ戻る。
「先生!」
「何だ」
「楽しい!」
「ああ」
「速く泳がなくても!」
「ああ」
「何も取らなくても!」
「ああ」
「勝たなくても!」
「ああ」
「魚見てるだけ!」
「よかったな」
「もう一回!」
「俺も行きたい」
エリナの動きが止まる。
「先生も?」
「ああ」
「私に合わせて?」
「違う」
「ああ」
「俺が」
水面を見る。
「もう少し、あの青い魚を見たい」
「……」
「俺からの提案」
「ああ」
「もう一度」
「ああ」
「二人で潜りたい」
エリナが。
水中でも分かるほど。
顔を赤くした。
「先生」
「何だ」
「今」
「ああ」
「私の好きなことを」
「ああ」
「先生もしたいって」
「ああ」
「……」
「潜るぞ」
「待って!」
「何だ」
「嬉しい!」
「水へ入ってから言え!」
◇
二度目。
青い魚を探す。
見つけた。
二人の間。
ゆっくり泳ぐ。
エリナが。
俺を見る。
笑う。
声は。
水の中だから聞こえない。
だが。
十分だった。
その顔を。
俺は。
覚えておきたいと思った。
◇
水から上がる。
砂浜。
二人で。
飲み物を買う。
「何にする」
「先生は?」
「自分で選べ」
「あ」
エリナが。
止まる。
「私」
「ああ」
「甘いやつ」
「何味」
「赤い実」
「では俺は青い実」
「違う」
「ああ」
「違ってもいい」
「リリスの時も、それを学んだ」
「では」
二人。
違う飲み物。
同じ椅子。
「先生」
「何だ」
「一口交換する?」
「したい?」
「うん」
「俺も気になる」
杯を。
交換。
一口。
「甘いな」
「先生のは酸っぱい」
「好き?」
「少し」
「俺も赤いのは嫌いではない」
「では」
自分の杯を戻す。
「次も別々」
「ああ」
「一口だけ交換」
「ああ」
「これ」
エリナが笑う。
「好き」
「飲み物?」
「違う」
「何が」
「二人で違うの選んで」
「ああ」
「ちょっとずつ交換するの」
「ああ」
「戦利品交換みたい」
「最後だけ勇者だな」
◇
休んでいると。
近く。
「できない!」
子供の声。
浅瀬。
小さな女の子。
水へ浮こうとして。
何度も沈む。
父親らしい男が。
「ゆっくりでいい」
と言っている。
エリナの目が。
そちらへ向く。
「行きたい?」
俺が尋ねる。
「……」
「助けたい?」
「少し」
「ああ」
「でも」
父親がいる。
子供は。
また挑戦する。
「私が行く必要はない」
「ああ」
「けど」
「何だ」
「教えたい」
「なら」
俺は言う。
「聞いてみれば?」
「邪魔だったら?」
「断られる」
「……」
「嫌?」
「少し怖い」
「勇者が?」
「戦いより」
エリナは。
苦笑する。
「普通の人に、いらないって言われるほうが」
「ああ」
「怖い」
「それでも聞く?」
一度。
考え。
「うん」
◇
「すみません」
エリナが。
父親へ声をかける。
「はい?」
「私」
勇者とは名乗らない。
「泳ぐのが好きで」
「ああ」
「もしよければ」
子供を見る。
「少しだけ、一緒に浮く練習してもいいですか?」
父親は。
娘を見る。
「どうする?」
子供。
エリナを見る。
「お姉ちゃん、泳げる?」
「うん」
「すごく?」
エリナが。
答えかけ。
止まる。
「好き」
「好き?」
「うん」
「では」
子供が手を伸ばす。
「教えて」
「うん」
エリナは。
水へ入る。
「まず」
言いかけ。
「力を抜く」
「できない」
「私も最初は」
止まる。
「できた?」
「……すぐできた」
「お姉ちゃん、嘘つけないね」
「うん」
子供が笑う。
「でも」
エリナは。
考える。
「怖かったら」
「ああ」
「お父さんの手、借りていい」
「お姉ちゃんじゃなく?」
「私でもいいけど」
父親を見る。
「お父さんのほうが安心する?」
「うん」
「では」
エリナは。
一歩下がる。
「私は横で見る」
父親。
娘の背中へ手。
浮く。
一秒。
二秒。
沈む。
「もう一回!」
三回目。
五秒。
「できた!」
女の子が。
笑う。
エリナも。
自分のことのように笑う。
「やった!」
「お姉ちゃん何もしてない」
「見てた!」
「それだけ?」
「うん!」
その返事。
以前のエリナなら。
言えなかっただろう。
何もしていなくても。
誰かが。
自分でできたことを。
喜べる。
竜の谷で。
アウラが覚えたことにも。
少し似ている。
「ありがとう」
父親がエリナへ言う。
「私は」
何もしていない。
そう言いかけた。
だが。
「どういたしまして」
と。
受け取った。
◇
「先生」
戻ってきたエリナが。
隣へ座る。
「何だ」
「私」
「ああ」
「教えなかった」
「ああ」
「でも」
「ああ」
「楽しかった」
「よかったな」
「帰還院でも」
「ああ」
「私が何か教えなくても」
「ああ」
「その人同士で、できることある?」
「たくさんあるだろうな」
「では」
少し考える。
「もっと」
「ああ」
「私がいなくても回る場所にしたい」
「ああ」
「でも、時々行く」
「ああ」
「一緒に喜ぶ」
「いいじゃないか」
「先生」
「何だ」
「今日」
俺を見る。
「私」
「ああ」
「勇者だった?」
「少しは」
「女だった?」
「かなり」
エリナが。
完全に固まった。
「……」
「どうした」
「先生」
「何だ」
「今の」
「ああ」
「もう一回」
「かなり女性として見ていた」
「……」
「エリナ?」
「水」
「何が」
「入ってくる」
「目から出ている!」
「分かってる!」
◇
半日の終わり。
帰る前。
水辺。
エリナが。
珍しく。
静かだった。
「疲れた?」
「少し」
「泳ぎすぎたか」
「違う」
「では?」
「考えてる」
「何を」
「私のお願い」
「ああ」
「もう一つしていい?」
「聞く」
エリナは。
水面を見る。
「私」
「ああ」
「先生に」
頬が。
少し赤くなる。
「髪」
「髪?」
「結び直してほしい」
「俺が?」
「うん」
「どうして」
泳いで。
髪をまとめていた紐が。
少し緩んでいる。
「自分でできるだろう」
「できる」
「ああ」
「だから」
こちらを見る。
「してほしいだけ」
「……」
純粋に。
自分のための願い。
「下手でも?」
「先生がやったならいい」
「それは少し重い」
「嫌?」
「嫌ではない」
「では」
エリナが。
俺へ背中を向ける。
髪。
戦いの時は。
いつも適当に束ねていた。
触れる前。
「触っていい?」
尋ねる。
エリナが。
少しだけ笑う。
「うん」
濡れた髪を。
手ですくう。
思ったより。
柔らかい。
「先生」
「何だ」
「変?」
「いや」
「髪」
「ああ」
「傷んでる?」
「少し」
「戦ってたから」
「ああ」
「かわいくない?」
「またそこか」
髪をまとめる。
「髪が完璧だから」
「ああ」
「かわいいと思うわけではない」
「ああ」
「では?」
「今日」
一緒に泳ぎ。
魚を見て。
失敗して笑い。
子供が浮けたことを。
自分のことのように喜んでいた。
「楽しそうに笑っているお前が」
紐を結ぶ。
「一番かわいかった」
エリナの肩が。
大きく揺れる。
「先生」
「動くな」
「無理」
「結べない」
「でも今」
「分かったから」
「一番って」
「今日の中でだ!」
「一番!」
「意味を増やすな!」
何とか。
結び終える。
「できた」
エリナが。
振り返る。
少し。
左右が違う。
「変?」
「少し」
「先生!」
「下手でもいいと言っただろう!」
エリナは。
自分の髪へ触れる。
鏡を見る。
左右。
少しずれている。
「……」
「直す?」
「直さない」
「本当に?」
「うん」
「なぜ」
「先生がやった」
「だからといって」
「今日だけ」
「ああ」
「このまま帰る」
嬉しそうだ。
「では」
エリナは。
今度は。
俺を見る。
「先生からのお願いは?」
「もう一度潜ることを頼んだだろう」
「それ以外」
「欲張るな」
「でも」
少しだけ。
寂しそう。
俺自身も。
考える。
今日。
俺が。
エリナと。
もう一つしたいこと。
「写真みたいなものはあるか?」
「写真?」
「記録画」
水鏡庭園には。
景色を一枚の板へ写す。
簡易記録具がある。
「二人で」
エリナの顔が。
また赤くなる。
「残す?」
「ああ」
「先生と私?」
「ああ」
「水着で?」
「嫌なら着替えてからでも」
「水着!」
「即答だな」
「先生」
「ああ」
「それ」
胸へ手。
「先生がしたい?」
「ああ」
「俺が」
一度。
少し照れながら。
「今日のエリナを、残しておきたい」
勇者は。
しばらく。
何も言わなかった。
「エリナ?」
「先生」
「何だ」
「私」
今度こそ。
泣きながら笑った。
「今日、来てよかった」
◇
記録板。
二人。
水辺。
「もう少し近くへ」
係員が言う。
「このくらい?」
「もう少し」
エリナと。
肩が触れる。
「先生」
「何だ」
「近い」
「係員が」
「嫌じゃない」
「では」
「もっと?」
「増やすな」
係員が笑う。
「恋人さん、笑って」
「まだ」
「先生」
「訂正する?」
一瞬。
考える。
「今日は」
「ああ」
「デート相手だ」
エリナの笑顔が。
大きくなる。
その瞬間。
光。
記録。
完成。
板の中。
俺。
そして。
剣も。
鎧もない。
ただ。
楽しそうに笑うエリナ。
「先生」
「何だ」
「これ」
「ああ」
「一枚?」
「二枚作れるらしい」
「本当?」
「ああ」
「先生も持つ?」
「ああ」
エリナが。
自分の一枚を。
胸へ抱く。
「私も」
「ああ」
「先生も」
「ああ」
「同じ日を持つ」
「そうだな」
◇
家へ帰る。
玄関。
七人。
アステラ。
レオ。
リタ。
フィオナ。
今日も。
待ち伏せはしていない。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「楽しかったですか?」
セレス。
「ああ」
全員。
一瞬だけ止まる。
もはや恒例だ。
「エリナ」
アウラが。
すぐ髪を見る。
「変」
「先生が結んだ」
空気が凍った。
「先生が?」
ミレイユ。
「髪を?」
リリス。
「触れた?」
ノア。
「頼まれたからな」
「自分でできるのに?」
クロエ。
「だから、頼んだ」
エリナが。
胸を張る。
「してほしかったから」
セレスと。
ミレイユと。
リリス。
三人が。
少し驚く。
自分の番を終えたから。
それが。
どういう意味か。
少し分かるのだろう。
「よかったですね」
ミレイユが言った。
「嫉妬は?」
エリナ。
「しております」
「でも?」
「それは、エリナさんのお願いです」
「うん」
エリナは。
嬉しそうに笑った。
「先生」
ノア。
「手は?」
「つないでいない」
残る者が。
少し安心する。
「肩?」
「触れた」
また空気が変わる。
「記録画も撮った」
「何?」
クロエが。
立ち上がる。
「記録画?」
「商品化しません!」
「まだ何も言っていません!」
「顔に書いてある!」
エリナは。
自分の一枚を。
見せる。
「これ」
全員。
覗き込む。
「先生、笑ってる」
ノア。
「ああ」
「エリナも」
アステラ。
「すごく楽しそう」
「うん」
「先生も一枚?」
「ああ」
「どこへ置く?」
「俺の部屋」
空気が。
完全に止まる。
「先生の部屋?」
セレス。
「ああ」
「エリナさんとの記録画を?」
ミレイユ。
「ああ」
「先生がご自身で?」
クロエ。
「残したいと思ったからな」
エリナの顔が。
勝ち誇るでもなく。
ただ。
嬉しそうに。
少し泣きそうになった。
「先生」
「何だ」
「大事にする?」
「ああ」
「私も」
◇
『第四回個別外出を評価します』
家の声。
『エリナ様』
『勝敗を伴わない水遊びへ参加』
『競争欲求を自覚した上で、約束した回数制限を遵守』
「ああ」
『水中生物を、討伐対象ではなく観察対象として楽しみ』
「ああ」
『他者の成功を、自身の介入なしでも喜び』
「ああ」
『身体的外見について、勇者としての強さではなく一人の女性として見てほしいという希望を言語化』
エリナの顔が赤くなる。
「家」
『はい』
「最後、言わなくていい」
『重要な成長です』
『さらに』
『自力で可能な行為を、単にしてほしいという理由で旦那様へ依頼しました』
「ああ」
『高評価で合格です』
「やった!」
エリナが。
拳を上げる。
俺を見る。
「先生」
「何だ」
「褒めて」
「よくできた」
「頭」
「はいはい」
髪を崩さないよう。
軽く頭を撫でる。
「先生が結んだ髪」
「ああ」
「崩さない?」
「気をつけている」
「……嬉しい」
『旦那様』
「俺もだな」
『ご自身から、再度の潜水を提案』
「ああ」
『ご自身の嗜好として、エリナ様の楽しむ姿を肯定』
「ああ」
『髪へ触れる際も事前確認を実施』
「ああ」
『さらに』
「嫌な予感」
『ご自身から二人の記録画を残すことを提案』
七人とアステラの目が。
また俺へ向く。
『個別外出開始以降』
『旦那様からの主体的な恋愛行動が継続して増加しています』
「分析するな!」
「先生」
クロエ。
「数字は」
「出すな!」
『高評価で合格です』
◇
「先生」
エリナは。
自分の記録画を見る。
「何だ」
「私は」
「ああ」
「剣を持ってない私も」
「ああ」
「好きになれそう?」
以前なら。
たぶん。
すぐに。
結婚の答えではない。
と。
逃げるように付け加えていた。
今は。
一度。
自分の気持ちを考える。
「今日」
「ああ」
「剣を持っていないお前を」
記録画。
笑っている。
「もっと知りたいと思った」
「ああ」
「また一緒に泳ぎたい」
「ああ」
「だから」
エリナを見る。
「前より好きになっていると思う」
静かになった。
「……」
「……」
「……」
エリナ。
口を開く。
閉じる。
「先生」
「何だ」
「それ」
「ああ」
「セレスにも?」
「今日は、お前へ言っている」
「……」
目から。
涙。
「勝った?」
「だから競うな!」
「分かってる!」
泣きながら。
笑う。
「でも!」
「ああ」
「嬉しい!」
「それならいい」
◇
『次回個別外出対象者』
家の壁へ。
名前が浮かぶ。
『アウラ』
「私!」
竜王が。
勢いよく立ち上がる。
「先生!」
「何だ」
「私からの提案!」
「聞く」
「食べる!」
「予想どおりだ」
「違う!」
「何が」
「私が食べたいものじゃない!」
「では」
アウラは。
胸を張る。
「先生と」
「ああ」
「知らない人に」
「ああ」
「お菓子を作ってあげたい!」
俺は。
少し驚く。
「誰に?」
「まだ決めてない!」
「知らない人?」
「うん!」
「どうして」
「飛べない竜の谷で」
「ああ」
「みんなが喜ぶ顔を見るの、好きだって分かった」
「ああ」
「だから」
アウラは。
笑う。
「先生と一緒に」
「ああ」
「誰かが笑うお菓子を作りたい!」
そこで。
一度。
恥ずかしそうになる。
「あと」
「何だ」
「先生にも」
「ああ」
「私が作ったのを、一つ食べてほしい」
「一つ?」
「一つ」
「本当に?」
「……」
「アウラ」
「二つ」
「増えた」
「一つ!」
「どちらだ!」
アウラは。
本気で悩み。
「一つ」
と言った。
「我慢できる?」
「先生が、もっと欲しいって言ったら」
「ああ」
「いっぱいあげる」
「俺から言った時だけ?」
「うん」
「成長したな」
「褒めた?」
「ああ」
アウラが。
すぐ頭を差し出す。
「明日の分まで」
「貯められない」
「……」
「明日、デートで会うだろう」
「あ」
アウラの顔が。
一気に明るくなった。
「二人で?」
「ああ」
「半日?」
「ああ」
「お菓子?」
「ああ」
「先生」
「何だ」
「明日まで寝る」
「今から!?」
「早く明日になる」
「夕食を食べろ!」
「第七学則!」
女帝とは。
予定にない花を育て始め。
聖女とは。
何の役にも立たないガラクタを作り。
魔王とは。
違う好物を違うまま食べ。
勇者とは。
勝たない泳ぎと。
笑った記憶を残した。
次は。
食べることが大好きな竜王と。
誰かのためのお菓子を作る。
ただし。
アウラが。
自分で全部食べずに。
無事。
知らない誰かへ渡せるかどうか。
俺は。
世界大戦の時とは別の意味で。
少しだけ不安だった。




