第30話 魔王と二人で料理をしたら、俺の好物を一つも入れない夕食になった
「先生が好きな料理ではなく」
リリスは。
少しだけ。
恥ずかしそうに言った。
「私が食べたい料理も、選んでみたい」
「いいな」
「一緒に?」
「ああ」
「失敗しても?」
「二鍋目よりは大丈夫だろう」
「先生」
「冗談だ」
「三鍋目は、少しうまい」
「期待している」
リリスは。
嬉しそうに翼を揺らした。
◇
翌朝。
台所へ行くと。
リリスがいた。
「早いな」
「眠れなかった」
「デートが楽しみで?」
「……」
「冗談だったんだが」
「半分は、それだ」
認めるのか。
リリスの前には。
大量の紙。
「嫌な予感がする」
「料理候補だ」
「何品ある」
「三百七十二」
「多すぎる!」
「先生の好きな料理を除外したら、かなり減った」
「減ってそれか!」
「人間料理」
「ああ」
「魔族料理」
「ああ」
「竜族料理」
「ああ」
「帝国料理」
「ああ」
「聖都料理」
「ああ」
「八百四十二世界から取り寄せ可能な料理」
「一回の夕食だぞ!」
「先生と二人で作る」
「二人でも胃袋は二人分だ!」
「アウラなら」
「今日はアウラではない」
「うむ」
リリスは。
紙を眺める。
「先生」
「何だ」
「選べない」
「自分が食べたいものだろう?」
「だから難しい」
「いつもは?」
「先生が好きか」
「ああ」
「体にいいか」
「ああ」
「魔力回復に効くか」
「ああ」
「私が作れるか」
「ああ」
「その順に決める」
「自分が食べたいかは?」
「……」
「何番目?」
「入っていなかった」
「そこからか」
俺は椅子へ座る。
「今まで食べた中で、一番好きだったものは?」
「先生が作った――」
「俺以外」
「……」
リリスが黙る。
「昔。魔王になる前でもいい」
「ああ」
「一人だった頃でも」
「……」
長い沈黙。
「焼いた芋」
「芋?」
「魔界の」
「どんな」
「紫色で」
「ああ」
「火へ入れて」
「ああ」
「皮が黒くなるまで焼く」
「ああ」
「中は甘い」
「ああ」
「それだけ?」
「それだけ」
「好きだった?」
「……うむ」
「では、それを作ろう」
「先生」
「何だ」
「そんな簡単な料理でいいのか?」
「お前が食べたいんだろう」
「でも、デートだ」
「ああ」
「もっと特別な料理を」
「誰に見せる」
「先生に」
「俺は焼き芋でもいい」
「……」
リリスは。
少し困った顔をした。
「嫌?」
「違う」
「ああ」
「嬉しい」
「なら決まりだ」
「だが」
「まだあるのか」
「焼き芋だけでは、先生の栄養が」
「今日は俺の栄養管理をやめろ」
「しかし」
「俺も食べたいものを一つ選ぶ」
「先生が?」
「ああ」
「何を」
俺は。
三百七十二枚の紙を見る。
「知らない料理がいい」
「知らない?」
「俺が食べたことのない魔族料理」
リリスの瞳が。
少し大きくなる。
「俺からの提案だ」
「ああ」
「お前が好きな魔族料理を、一つ教えてほしい」
「私が好きな」
「ああ」
「先生が好きそうなものではなく?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「辛くても?」
「限度はある」
「臭くても?」
「食べられる程度なら」
「動いていても?」
「動くのはやめよう」
「先生」
「何だ」
「今、一つ候補が消えた」
「最初から消してくれ」
◇
出発前。
玄関。
リリスは。
魔王の黒衣ではなく。
濃い紫のワンピース。
その上から。
短い黒の上着。
十二枚の翼は。
腕輪の制限下でも出せる。
ただし。
今日は。
小さく畳んでいる。
「どうだ」
「何が?」
「……」
珍しく。
リリスから聞かない。
「服」
「ああ」
「似合っている」
翼が。
ばさっと広がった。
「抑えろ!」
「すまぬ!」
家の壁へ。
『壁面損傷なし』
「危なかったな」
「先生」
「何だ」
「もう一度」
「全員同じことを言うのか?」
「セレスとミレイユは二回だった」
「本当に共有しているな!」
「私は三回でもいい」
「一回追加だけだ」
俺は。
改めてリリスを見る。
「一人の女性として、似合っている」
翼が。
震える。
「開くなよ」
「我慢している」
「偉い」
「褒めた?」
「ああ」
「頭を」
「出発前から増やすな」
背後。
セレスとミレイユは。
妙に落ち着いている。
二人とも。
自分の番を終えたからだろう。
残る五人とアステラは。
落ち着いていない。
「リリス」
アウラが尋ねる。
「何作る?」
「秘密だ」
「私にも?」
「先生と決める」
「一口」
「残ったら」
「残す予定?」
「ない」
「……」
アウラの顔が。
目に見えて曇った。
「アウラ」
「何?」
「お前の番では、俺たちが口を出さない」
「うん」
「だから今日は我慢だ」
「分かった」
「偉い」
今度はアウラが頭を出す。
「今日は撫でる日ではない」
「……分かった」
クロエは。
小さな財布を見る。
「予算は?」
「銀貨三枚」
リリスが答える。
「足りますか?」
「魔界食材は安い」
「希少食材を使えば」
「使わない」
「本当に?」
「先生との料理へ」
リリスは。
胸を張る。
「金貨の山は必要ない」
クロエが。
少し感心したように頷く。
「よい判断です」
「褒めた?」
「はい」
「頭は」
「今日は私ではない!」
全員。
頭を撫でてもらうことに慣れすぎている。
ノアは。
リリスの翼を見る。
「先生を包む?」
「料理中は危険だ」
「食後?」
「……」
リリスが俺を見る。
「聞いてからにしろ」
「うむ」
アステラは。
リリスへ言う。
「楽しんできて」
「ああ」
「嫉妬は?」
「してる」
「私も、お前の番ではする」
「知ってる」
二人が。
少し笑う。
「では」
俺は扉を開く。
「行こう」
「先生」
「何だ」
「今日は」
リリスが。
俺の隣へ立つ。
「魔王ではなく」
「ああ」
「料理が下手な女として行く」
「自覚があったんだな」
「二鍋目を一緒に食べたから分かった」
「十年前に気づいてほしかった」
◇
向かったのは。
地下都市の。
魔族系住民が多く暮らす市場。
以前。
リリスの魔界へ行った時とは違う。
ここにいるのは。
八百四十二世界から来た。
さまざまな魔族。
「魔族にも種類が多いな」
「先生の世界の魔族だけでも多い」
「ああ」
「八百四十二世界なら」
「ああ」
「私でも全部は知らぬ」
「怖くない?」
「楽しい」
即答だった。
「知らない魔族が?」
「うむ」
「以前なら」
「ああ」
「魔王として、どちらが上か考えた」
「ああ」
「今は」
リリスが。
市場を見る。
「何を食べているか知りたい」
「図鑑の影響か?」
「たぶん」
店。
角のある魚。
光る茸。
泣き声を出す果物。
黒い穀物。
「これは?」
俺が指す。
黒い丸。
「食べると一時間、舌が二つになる」
「買わない」
「味はいい」
「買わない」
「先生」
「何だ」
「二つの舌なら、二倍味わえる」
「その理屈は嫌だ」
次。
紫色の芋。
「これ?」
リリスが。
止まった。
「ああ」
「昔食べたもの?」
「同じ種類だ」
「買おう」
「……」
「どうした」
「先生」
「何だ」
「私が子供の頃に食べていたものだ」
「ああ」
「貧しい魔族が食べる食べ物だった」
「ああ」
「魔王になってから」
少しだけ視線を落とす。
「一度も食べていない」
「どうして」
「周囲が出さなくなった」
「魔王には粗末だと?」
「うむ」
「自分で買えば?」
「……」
「思いつかなかった?」
「先生へ作る料理のことばかり考えていた」
「では今日食べよう」
「ああ」
店主。
角の曲がった老婆が。
俺たちを見る。
「何個だい」
「二つ」
リリスが答える。
「二つ?」
「ああ」
「そっちの男は食べないのかい」
「二人で食べる」
「なら四つくらい買いな」
「なぜ」
「うまいから」
リリスが。
俺を見る。
「どうする?」
「二人で決めるんだろう」
「先生は?」
「二つでいい」
「私は」
紫の芋を見る。
「三つ食べたい」
「では四つ買う?」
「先生は一つ?」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
「では四つ」
老婆が笑う。
「そっちの姉ちゃんのほうが食うんだな」
「うむ」
「よく食べる女はいい」
リリスの顔が。
少しだけ嬉しそうになる。
魔王だからでも。
俺の教え子だからでもない。
ただ。
よく食べる女。
「先生」
「何だ」
「今」
「ああ」
「普通の女みたいだった」
「普通の女だろう」
「魔王だ」
「今日は違うと言った」
「……そうだった」
◇
「もう一つ」
俺が提案した。
「お前の好きな魔族料理」
「ああ」
「どれだ?」
リリスが。
市場を歩く。
一軒。
二軒。
三軒。
どこも見て。
通り過ぎる。
「ない?」
「ある」
「どれ」
「……恥ずかしい」
「料理で?」
「ああ」
「何だ」
「先生は」
一度。
真剣な顔になる。
「笑わない?」
「内容による」
「先生」
「笑わない努力はする」
リリスは。
路地の奥。
小さな店を指した。
看板。
『魔界風・子供粥』
「粥?」
「うむ」
「子供用?」
「うむ」
「好きなのか?」
「……」
顔が赤い。
「好き」
「いいだろう」
「魔王が」
「ああ」
「子供粥だぞ」
「俺は甘い木の実パンが好きだった」
「それと同じ?」
「ああ」
「本当に?」
「食べたいものに年齢制限はないだろう」
店へ入る。
店主。
大きな角の男性が。
リリスを見る。
「二人?」
「ああ」
「子供粥?」
「材料を買いたい」
「自分で作るのか?」
「うむ」
「恋人へ?」
リリスの翼が。
一気に開きかける。
「待て」
「……」
止まった。
偉い。
「今日はデート中だ」
俺が答える。
リリスが。
今度こそ固まる。
「先生」
「事実だろう」
「もう一度」
「店でやるな」
店主は。
にやにやしている。
「姉ちゃんが好きなのか?」
「うむ」
「男のほうではなく?」
「私が」
リリスは。
少し恥ずかしそうに。
しかし。
はっきり答えた。
「これが食べたい」
「いいな」
店主は。
小さな袋へ。
黒い穀物。
甘い根。
香草。
乾燥肉。
少量ずつ入れる。
「子供用だから、辛味はほとんどない」
「先生」
「何だ」
「辛いものを足しても?」
「お前が食べたいなら」
「先生は?」
「少しなら」
「では別皿にする」
「分ける?」
「ああ」
リリスが。
自分から違う味を選んだ。
俺へ合わせず。
俺にも押しつけず。
「いいな」
「褒めた?」
「ああ」
「先生」
「頭は帰ってからだ」
◇
食材を買い終え。
借りられる共同調理室へ向かう。
途中。
小さな露店。
『二人用前掛け』
「何だ、二人用とは」
一枚の布から。
首穴が二つ。
「料理中、離れられない」
店主が説明する。
「危ない!」
「仲良し用」
「料理に向かない!」
リリスが。
じっと見ている。
「買わないぞ」
「まだ何も」
「顔に出ている」
「先生」
「駄目だ」
「一度だけ」
「包丁を使うんだぞ」
「火もある」
「もっと駄目だ」
「……分かった」
リリスは。
素直に諦める。
「代わりに」
「何だ」
「普通の前掛けを」
「ああ」
「色違いで買いたい」
「それくらいなら」
黒。
深紫。
俺が黒。
リリスが紫。
「先生」
「何だ」
「おそろい」
「色違いだ」
「同じ型」
「ああ」
「嬉しい」
「そうか」
「先生も?」
俺は。
少し考える。
「少しな」
リリスの翼が。
ぶわっと膨らむ。
「開くな!」
「開いていない!」
「膨らんでいる!」
◇
共同調理室。
二人。
前掛けをつける。
「何から?」
リリスが尋ねる。
「焼き芋は時間がかかる」
「ああ」
「先に火へ入れる」
「先生」
「何だ」
「私がやる」
「二人で作る約束だろう」
「では」
一つ。
二つ。
芋を。
二人で火へ入れる。
「それだけ?」
「ああ」
「料理?」
「焼き芋だ」
「十年間、複雑にしすぎたかもしれぬ」
「気づいたか」
次。
子供粥。
「米に似ているな」
「魔穀だ」
「水は?」
「このくらい」
「適当?」
「うむ」
「レシピは?」
「見ない」
「大丈夫か?」
「子供の頃、何度も作った」
「覚えている?」
「ああ」
リリスの手が。
迷わず動く。
黒い穀物。
水。
甘い根。
刻んだ肉。
「手際いいな」
「先生」
「何だ」
「意外?」
「かなり」
「ひどい」
「二鍋目を見た後では」
「昔の私は、これしか作れなかった」
「ああ」
「先生へ料理を作ろうと思って」
「ああ」
「大人の料理にしたくて」
「ああ」
「色々入れた」
「茸百二十本とか」
「うむ」
「それで壊したのか」
「……」
リリスが。
鍋を見る。
「私は」
「ああ」
「先生へ立派な料理を作らなければと思っていた」
「ああ」
「私が昔好きだったものは」
鍋を混ぜる。
「子供っぽい」
「ああ」
「貧しい」
「ああ」
「魔王らしくない」
「ああ」
「だから」
少し笑う。
「自分で捨てた」
「今日拾ったな」
「うむ」
「どうだ」
「少し怖い」
「なぜ」
「先生が」
俺を見る。
「まずいと思ったら」
「正直に言う」
「先生」
「だが」
続ける。
「お前が好きなものを、俺も知りたい」
リリスの手が。
止まる。
「俺が好きになるかどうかとは別に」
「ああ」
「リリスは、これが好きなんだなって知りたい」
「……」
「駄目か?」
「駄目ではない」
「では混ぜろ。焦げる」
「先生!」
「鍋だ!」
慌てて。
木匙を動かす。
◇
「先生」
「何だ」
「味見」
「どちらが?」
「私」
「どうぞ」
リリスが。
小皿へ取る。
一口。
「……」
「どうだ」
「懐かしい」
「ああ」
「甘い」
「ああ」
「少し塩が足りない」
「ああ」
「でも」
目を閉じる。
「好きだ」
自分で。
そう言った。
「よかったな」
「先生も」
「ああ」
別の匙。
俺も一口。
「どう?」
「優しい味だな」
「好き?」
「嫌いではない」
「……」
「正直にと言っただろう」
「うむ」
「少し甘い」
「ああ」
「俺なら、塩をもう少し」
「ああ」
「辛味も少し欲しい」
「では」
リリスが。
鍋へ辛味を入れようとする。
「待て」
「先生が」
「俺の分だけだ」
動きが止まる。
「リリスは、そのままが好きなんだろう」
「うむ」
「なら、鍋はそのまま」
「ああ」
「俺の皿だけ変える」
リリスが。
しばらく。
鍋を見る。
「先生」
「何だ」
「同じ料理なのに」
「ああ」
「違う味で食べてもいい?」
「当たり前だ」
「夫婦なら」
「まだ夫婦ではない」
「……」
「仮に夫婦でも」
「ああ」
「全部同じでなくていい」
リリスが。
ゆっくり頷く。
「先生」
「何だ」
「今の言葉」
「ああ」
「覚えておく」
◇
焼き芋。
完成。
皮は。
ほぼ炭。
「大丈夫か?」
「これでいい」
割る。
中。
鮮やかな紫。
湯気。
甘い匂い。
リリスの顔が。
子供のように明るくなる。
「食べていい?」
「もちろん」
一口。
「……」
「どうだ」
「同じ」
「ああ」
「昔と」
もう一口。
「先生」
「何だ」
「私」
「ああ」
「これが好きだ」
「知っている」
「違う」
リリスが。
少し笑う。
「今、自分で言った」
「ああ」
「先生が好きだからではなく」
「ああ」
「先生に食べてほしいからでもなく」
「ああ」
「私が」
一口。
「食べたい」
「ああ」
「好き」
「それでいい」
リリスは。
三つの芋を見る。
「全部食べる」
「三つ?」
「私の分」
「食べすぎでは?」
「先生」
「何だ」
「今日は、私が食べたいもの」
「そうだった」
「でも」
一つ。
俺へ差し出す。
「一口、交換する?」
「俺にも一個ある」
「私のほうが」
少し考える。
「甘そう」
「それはお前が食べたいだろう」
「うむ」
「では、食べろ」
「……」
「どうした」
「先生なら昔」
「ああ」
「一番いいものを、私へくれた」
「ああ」
「今は?」
「自分が食べたいなら、自分で食べろ」
「先生は?」
「俺のも十分うまい」
リリスは。
一番甘そうな芋を。
自分で食べた。
「うまい?」
「うむ!」
翼が。
嬉しそうに広がる。
「今日は火から離れているから許す」
「本当に?」
「ああ」
「では」
十二枚。
大きく広がった。
「広すぎる!」
「少しだけ!」
◇
食卓。
焼き芋。
子供粥。
俺の皿だけ。
少し辛味。
リリスの皿は。
そのまま。
「いただきます」
「うむ」
二人で食べる。
誰かに出すためではない。
評価されるためでもない。
ただ。
二人が食べたいもの。
「先生」
「何だ」
「楽しい?」
「ああ」
「料理が?」
「料理も」
「ああ」
「お前が」
俺は。
焼き芋を頬張るリリスを見る。
「普通に、自分の好きなものを食べているのを見るのも」
リリスの動きが止まる。
「先生」
「何だ」
「今」
「ああ」
「私を見ていた?」
「ああ」
「女性として?」
「今日はデートだ」
「……」
顔。
耳。
首。
一気に赤くなる。
「先生」
「何だ」
「翼で」
「駄目だ」
「まだ最後まで」
「包むだろう」
「うむ」
「食事中は駄目だ」
「食後なら?」
「その時に聞け」
「……分かった」
リリスは。
珍しく。
すぐ食事へ戻った。
◇
食後。
片づけ。
リリスが。
全部洗おうとする。
「半分やる」
「先生は座って」
「二人で作った」
「ああ」
「片づけも二人」
「でも」
「嫌?」
「……」
リリスは。
洗い物を見る。
「私は」
「ああ」
「先生に休んでほしい」
「ああ」
「でも」
少し考える。
「一緒にやるのも、少し嬉しい」
「では半分」
「うむ」
俺。
洗う。
リリス。
拭く。
途中。
皿が滑る。
「あっ」
リリスが取る。
間に合わない。
床。
ぱりん。
「……」
「……」
割れた。
「先生」
「何だ」
「ごめんなさい」
「借り物だな」
「弁償する」
「ああ」
「魔王の宝物庫から」
「普通の皿代だ!」
「では自分のお金から」
「それでいい」
「怒らない?」
「皿一枚だ」
「先生が洗った皿」
「意味をつけるな」
リリスが。
割れた破片を見る。
「先生」
「何だ」
「これ」
「ああ」
「持って帰っても」
「駄目だ」
「……」
「借り物の皿だぞ」
「分かった」
素直だ。
◇
調理室を出る。
まだ。
半日には少し時間がある。
「先生」
「何だ」
「私の提案は」
「ああ」
「料理だった」
「ああ」
「先生からは」
「知らない魔族料理を教えてほしい」
「ああ」
「もう終わった」
「ああ」
「では」
リリスが。
少し緊張した顔になる。
「もう一つ」
「聞く」
「翼で包みたい」
「俺を?」
「うむ」
「どうして」
「十年前」
「ああ」
「先生が眠る時」
「ああ」
「私は翼で包んだ」
「あったな」
「先生が寒そうだったから」
「ああ」
「でも」
「何だ」
「本当は」
リリスの頬が赤くなる。
「私が、そうしたかった」
「ああ」
「先生を囲って」
「ああ」
「私だけの場所へ入れたかった」
「ああ」
「今も」
少しだけ。
声が小さくなる。
「したい」
「……」
「嫌なら断って」
俺は。
リリスの翼を見る。
大きい。
十二枚。
昔は。
俺を守るため。
世界から隠すため。
誰にも触れさせないため。
何度も使われた。
「条件がある」
「何だ」
「全部は駄目だ」
「全部?」
「十二枚で包まれたら、何も見えない」
「では六枚」
「多い」
「四枚」
「まだ多い」
「二枚」
「それなら」
リリスの目が。
明るくなる。
「本当に?」
「ああ」
「嫌になったら?」
「言う」
「すぐ離す」
「ああ」
近く。
小さな休憩所。
二人で。
長椅子へ座る。
リリスが。
先に確認する。
「今?」
「ああ」
二枚の翼。
ゆっくり。
俺の左右へ。
外の視界は残る。
肩へ触れる。
柔らかい。
少し暖かい。
「どう?」
「思ったより落ち着くな」
「先生」
「何だ」
「今」
「ああ」
「もう一度」
「落ち着く」
「……」
リリスの顔が。
ものすごく嬉しそうになる。
「閉じても?」
「少しだけ」
二枚の翼が。
もう少し内側へ。
俺とリリス。
二人を。
半分だけ囲う。
「リリス」
「何だ」
「俺からも一つ頼んでいいか」
「何でも」
「内容を聞いてからだ」
「……うむ」
「次に料理する時」
「ああ」
「俺へ作る料理ではなく」
「ああ」
「また、お前が食べたいものを一つ教えてくれ」
リリスの瞳が。
揺れる。
「次?」
「ああ」
「先生は」
「ああ」
「また私と料理する?」
「俺も楽しかったからな」
「……」
「嫌?」
返事の代わりに。
翼が閉まりかける。
「二枚だけだぞ!」
「分かっている!」
「力を入れるな!」
「嬉しいだけだ!」
笑う。
俺も。
少し笑った。
◇
「先生」
しばらく後。
リリスが尋ねる。
「何だ」
「私は」
「ああ」
「先生に料理を作るのが好きだ」
「ああ」
「それは、やめなくてもいい?」
「もちろんだ」
「先生中心だから」
「ああ」
「宿題に悪い?」
「そんなことはない」
「本当に?」
「ああ」
「俺のために何かしたいことと」
「ああ」
「お前自身の好きなことが」
「ああ」
「両方あっていい」
リリスは。
少し考える。
「先生へ料理を作る私も」
「ああ」
「焼き芋を食べる私も」
「ああ」
「どちらも私?」
「ああ」
「魔王も?」
「ああ」
「植物図鑑を作る私も?」
「ああ」
「料理が下手な私も?」
「ああ」
「それは」
口を尖らせる。
「少し嫌だ」
「事実だろう」
「三鍋目を食べてから決めろ」
「分かった」
「先生」
「何だ」
「私は」
翼の内側。
真っすぐ俺を見る。
「以前より」
「ああ」
「女性に見える?」
また。
その質問。
だが。
逃げない。
「見える」
「……」
「焼き芋をうまそうに食べている時も」
「ああ」
「子供粥が好きだと言うのを恥ずかしがっている時も」
「ああ」
「皿を割って焦っている時も」
「ああ」
「魔王ではなく」
俺は。
目の前のリリスを見る。
「一人の女性だと思った」
リリスの翼が。
一瞬。
完全に止まる。
「先生」
「何だ」
「抱きついて」
「今は翼で包んでいる」
「では」
「ああ」
「私からではなく」
「ああ」
「先生から」
少しだけ。
声が震える。
「触れてほしい」
俺も。
少し考える。
嫌ではない。
むしろ。
今のリリスを見て。
そうしたいと思った。
「肩でいいか?」
「……うむ」
俺は。
リリスの肩へ。
腕を回す。
強くはない。
短い。
ただ。
俺から。
隣へ少し引き寄せる。
「先生」
「何だ」
「今」
「ああ」
「私」
「ああ」
「たぶん、十年前より幸せだ」
「そうか」
「先生がいるのに?」
「どういう意味だ」
「十年前は」
俺の肩へ。
少しだけ頭を預ける。
「先生がいても」
「ああ」
「失うのが怖かった」
「ああ」
「今は」
「ああ」
「嫌と言われるかもしれなくても」
「ああ」
「次があると思える」
俺が。
また料理しようと。
言ったから。
「それなら」
俺も。
少し肩の力を抜く。
「次も作ろう」
「うむ」
「ただし」
「何だ」
「動く料理はなし」
「先生」
「絶対だ」
◇
帰宅。
玄関。
今日も。
誰も待ち構えていない。
居間へ入る。
「お帰りなさいませ」
セレス。
「ただいま」
「楽しかったですか?」
ミレイユ。
「ああ」
残りの者たち。
ほんの一瞬。
動きが止まる。
いつものことになってきた。
「リリス」
アウラが。
袋を見る。
「何食べた?」
「焼き芋」
「それだけ?」
「子供粥」
「子供?」
「私が好きな料理だ」
「リリスが?」
「ああ」
「知らなかった」
「私も」
リリスは。
少し誇らしげに答えた。
「今日、思い出した」
ノアが。
前掛けを見る。
「おそろい?」
「色違いだ」
リリスの顔が明るくなる。
「同じ型」
「先生が買った?」
クロエ。
「自分の分は自分で」
「ああ」
「リリスさんの分も?」
「本人が払った」
クロエが。
満足そうに頷く。
「健全です」
「何の評価だ」
エリナは。
俺を見る。
「先生」
「何だ」
「手は?」
「つないでいない」
エリナが。
少し安心する。
リリスが。
微笑む。
「翼で包んだ」
空気が凍る。
「翼?」
アウラ。
「何枚?」
ノア。
「二枚」
「二枚」
アステラが繰り返す。
「その後」
「リリス!」
「先生から肩を抱いてもらった」
七人が。
完全に止まる。
「肩?」
ミレイユ。
「先生から?」
セレス。
「自発的?」
クロエ。
「短くだ!」
「先生」
エリナ。
「私の時も」
「同じことを求めるな!」
「まだ何も言ってない」
「顔に出ている!」
アウラが。
自分の腕を広げる。
「私は大きく抱ける」
「大きさを競うな」
ノア。
「私も肩」
「予約するな」
アステラは。
少しだけ。
頬を膨らませる。
「レオン」
「何だ」
「嫉妬してる」
「ああ」
「でも」
「何だ」
「リリス、嬉しかった?」
リリスが。
少し驚く。
「ああ」
「すごく?」
「すごく」
「なら」
アステラは。
少しだけ。
悔しそうに笑う。
「よかった」
「アステラ」
「でも私の時は負けない」
「勝負にするな」
◇
『第三回個別外出を評価します』
家の声。
『リリス様』
『先生へ提供するためではなく、自身が食べたい料理を選択』
『幼少期の個人的嗜好を、魔王として不適切と否定せず受容』
『旦那様と好みが異なる場合、料理を分ける判断を実施』
「ああ」
『さらに』
『身体接触について、希望を言語化し』
『提示された範囲制限を遵守』
「二枚」
ノアが呟く。
「数えるな」
『合格です』
リリスの翼が。
大きく広がる。
「今は家だから許す」
「先生!」
「何だ」
「褒めて」
「よくできた」
「頭」
「はいはい」
一度。
頭を撫でる。
リリスが。
子供の頃と同じように目を細める。
だが。
今は。
俺にも。
その姿が。
子供だけには見えなかった。
『旦那様』
「俺もか」
『リリス様の個人的嗜好を確認する提案を行い』
『ご自身と相手の好みの差異を、そのまま受容』
「ああ」
『また』
嫌な予感。
『ご自身の意思による身体接触を実施』
「そこを毎回強調するな!」
『個別外出課程における重要な変化です』
「先生」
クロエが。
妙に真剣な顔になる。
「現在」
「ああ」
「三回連続で」
「ああ」
「先生からの恋愛的接触が増加傾向に」
「統計を取るな!」
『高評価で合格です』
◇
「先生」
リリスが。
撫でられた頭へ触れる。
「何だ」
「次に料理する時」
「ああ」
「私は、何を食べたいか考えておく」
「ああ」
「先生も?」
「俺も選ぶ」
「違っても?」
「二つ作ればいい」
「同じものを食べなくても」
「ああ」
「一緒に食事?」
「ああ」
リリスは。
満足そうに笑った。
「先生」
「何だ」
「私は、先生と同じになりたいわけではないらしい」
「ああ」
「先生の隣で」
「ああ」
「私の好きなものを好きだと言いたい」
「いいじゃないか」
「うむ」
◇
『次回個別外出対象者を発表します』
家の壁へ。
新しい名前。
『エリナ』
「来た!」
勇者が立ち上がる。
「座れ」
「先生!」
「何だ」
「私からの提案!」
「聞く」
「泳ぐ!」
「前に一緒に浮いただろう」
「今度はデート!」
「何が違う」
「水着!」
居間が。
静かになる。
「……」
「……」
「……」
「エリナ」
「何?」
「それは」
セレスが。
非常に慎重に尋ねる。
「先生に水着姿を見せたい、という意味でしょうか」
エリナが止まる。
顔。
真っ赤。
「ち、違う!」
「では」
「一緒に泳ぎたいだけ!」
「本当に?」
ミレイユ。
「……」
「エリナ?」
「少し」
「少し?」
「見てほしい」
俺まで。
顔が熱くなる。
「俺の前で会議するな!」
「先生!」
「何だ!」
「先生も水着!」
「泳ぐならな!」
「見たい!」
「正直すぎる!」
エリナは。
真っ赤なまま。
それでも。
逃げずに言った。
「先生」
「ああ」
「私は」
木剣を持たない手を。
自分の胸へ置く。
「強い勇者としてではなく」
「ああ」
「普通の女として」
さらに赤くなる。
「かわいいと思われたい」
セレス。
ミレイユ。
リリス。
三人の顔が変わる。
「先に言った」
ノア。
「強い」
アウラ。
「市場価値が高い発言です」
クロエ。
「レオン」
アステラが俺を見る。
「答えて」
「今?」
「今」
エリナも。
逃げずに。
俺を見る。
「先生」
「分かった」
俺は。
少し考え。
答えた。
「明日」
「ああ」
「自分で選んだ水着で来い」
「ああ」
「かわいいと思ったら」
エリナの目が。
大きくなる。
「ちゃんと言う」
次の瞬間。
勇者エリナが。
その場へしゃがみ込んだ。
「エリナ?」
「無理」
「何が」
「明日まで待てないくらい緊張する」
「さっきまで勢いがあっただろう!」
女帝とのデートでは。
予定のない花を育て始めた。
聖女とは。
何の役にも立たないガラクタを作った。
魔王とは。
互いに違う好物を。
違うまま、一緒に食べた。
次は。
剣を握る以外の自分を探し始めた勇者と。
水着で。
普通のデートをする。
なお。
その夜。
地下都市の衣料区画では。
なぜか。
女性用水着が大量に売れたらしい。
エリナ以外の七人が買った理由については。
俺は。
翌朝まで知らなかった。




