第3話 俺の妻を名乗っていたのは、十年間留守番をしていた家だった
俺の家へ向かう途中、三度ほど世界大戦が再開しかけた。
一度目は、移動手段を決める時だった。
「先生は帝国の皇帝専用馬車へお乗りください」
セレスが当然のように言った。
墓地の外には、巨大な黒塗りの馬車が停まっていた。
馬車と言っても、俺が知っているような木製の箱ではない。
黒金で覆われた車体。
窓には最高級の防御結界。
それを引くのは馬ではなく、炎を吐く六頭の魔獣だった。
御者席には帝国近衛騎士団長が座っている。
「戦場へ行くわけじゃないんだぞ」
「皇帝である私が使用する、最も安全な乗り物です」
「目立ちすぎる」
「でしたら、神殿の聖天車をお使いください」
ミレイユの背後へ、白い光に包まれた車が降りてきた。
翼の生えた白馬が八頭。
車体の周囲を天使らしき者たちが飛んでいる。
地面へ降りた瞬間、近くにいた負傷兵の傷が勝手に治った。
「さらに目立つ」
「魔王城までなら、一息で行けるぞ」
リリスが指を鳴らした。
空間が裂け、その向こうに巨大な黒い城が見える。
「俺の家は魔王城ではない」
「先に魔王城で休んでから向かえばよい」
「そのまま帰す気がないだろう」
「そのようなことはない」
リリスは俺から視線を逸らした。
分かりやすい。
「私が背負う」
エリナが俺の前でしゃがみ込んだ。
「なぜそうなる」
「走ったほうが早い」
「俺を背負ったまま走るつもりか?」
「先生一人くらいなら問題ない」
「俺の尊厳に問題がある」
「では、抱える」
「もっと嫌だ」
「空なら一瞬」
アウラが巨大な白竜の姿になり、地面へ伏せた。
周囲の兵士たちが一斉にひざまずく。
竜王の背へ乗るなど、国王ですら許されないのだろう。
アウラは長い首を曲げ、金色の瞳で俺を見る。
「先生。乗って」
「お前の背中は広すぎる。全員乗れるだろう」
「先生だけ」
「全員で行くんじゃないのか?」
「他の六人は歩けばいい」
セレスたちの視線が一斉にアウラへ向いた。
空気が冷える。
「竜王陛下」
セレスが微笑んだ。
「先生を一人で連れ去るおつもりですか?」
「違う。乗せて運ぶだけ」
「そのまま竜の都へ向かう可能性があります」
「少しだけ寄る」
「認められません」
「先生は私の背中が好きだった」
「昔、昼寝に付き合っただけだ」
「三回」
「回数を覚えていたのか」
「全部覚えてる」
アウラが得意げに胸を張る。
巨大な竜の姿なので、胸を張っただけで強風が起きた。
兵士が何人か転がっていく。
「私の転移門を使えば、先生のお家まで安全かつ迅速に移動できます」
クロエが指を鳴らす。
その背後に、金色の巨大な門が組み上がった。
「転移門を持ち歩いているのか?」
「大陸各地に設置しております。通行料は一回あたり銀貨二枚です」
「意外と安いな」
「庶民向けの価格です。貴族には金貨二枚いただきます」
「同じ門なのに?」
「支払える方から多くいただくことで、全体の価格を抑えております」
「その辺は昔よりまともになったな」
俺が褒めると、クロエの顔が一瞬で緩んだ。
「先生にお褒めいただきました」
「一言だけだぞ」
「本日の商業連盟議事録へ記録いたします」
「記録するほどではない」
「先生」
ノアが俺の袖を引いた。
「私と影を通る」
「影を通る?」
「一歩で着く」
「安全なのか?」
「私には」
「俺には?」
「たぶん」
「不安しかない」
七人がそれぞれ自分の方法を譲らない。
そして二度目の世界大戦が始まりかけたのは、俺の複製を誰が運ぶかという話になった時だった。
「こいつは歩かせればいいだろう」
俺が言うと、棺から目覚めたもう一人の俺が眉をひそめた。
「お前だけ乗り物を使い、俺は歩けと?」
「十年間寝ていたんだ。少しくらい運動しろ」
「目覚めたばかりの肉体を酷使するつもりか」
「俺と同じ体なら大丈夫だ」
「お前の体は三か月の遭難で弱っている」
「余計なことを言うな」
「先生がお二人……」
ミレイユが俺たちを見比べる。
「これは思っていた以上に困りますね」
「何が困るんだ?」
「本物の先生をお迎えするため、神殿では十年間にわたり、先生専用の衣服、食事、寝室を準備してきました」
「毎日準備していたのか?」
「はい」
「俺は死んだと思われていたんだろう?」
「先生がお戻りになった際、何も用意していなかったら困りますから」
「十年も?」
「十年です」
ミレイユは当然のように答えた。
「ですが、先生がお二人になった以上、準備した物資が足りなくなる可能性があります」
「俺は先生として数えるな」
複製が言った。
「お前もレオンの記憶を持っているんだろう」
「だからこそ、七人から先生と呼ばれる恐ろしさを理解している」
「失礼な言い方だな」
「では、お前は七人に囲まれて嬉しいのか?」
「……」
俺は七人を見た。
七人も俺を見る。
全員、美しい女性へ成長している。
世界では女帝、聖女、魔王、勇者、竜王、商業王、影の女王として恐れられる存在だ。
その七人が俺一人だけを見つめている。
男として嬉しくないわけではない。
ただし。
「先生」
セレスが優しく微笑む。
「私の馬車へお乗りになりますね?」
「神殿の車ですよね?」
ミレイユも笑う。
「魔界へ行くのだ」
リリスの翼が広がる。
「私が運ぶ」
エリナが腕を伸ばす。
「背中」
アウラが巨大な頭を近づける。
「転移門が最も合理的です」
クロエの背後で金貨の音が鳴る。
「影」
ノアが俺の足元へ黒い穴を作る。
「嬉しいかどうか考える余裕がない」
「それが答えだ」
複製は深く頷いた。
最終的に、俺たちはクロエの転移門を使うことになった。
決め手は、俺の家の近くまで一度に全員を運べること。
そして、俺が面倒になって、
「じゃんけんで決めろ」
と言った結果、クロエが勝ったからだ。
ただし、じゃんけんは一度では終わらなかった。
エリナが、
「今のは練習」
と言い出した。
リリスが、
「人間の遊びは魔族に不利だ」
と主張した。
アウラは出す手を間違え、ずっと両手を開いていた。
ノアは相手の手を見てから出した。
セレスは皇帝の威圧で全員を迷わせようとし、ミレイユは祈りによって自分の勝利を神へ願った。
最終的に俺が目を閉じさせ、全員同時に十回勝負をさせた結果、クロエが六勝した。
「確率とは、資本と情報によって味方につけるものです」
「じゃんけんに情報を持ち込むな」
「皆様の癖を分析しただけです」
「いつの間に?」
「十年前からです」
クロエが微笑んだ。
こいつだけは、昔から何を考えているか分からない時がある。
◇
金色の転移門をくぐる。
一瞬だけ視界が白く染まり、次に目を開けた時、懐かしい山並みが見えた。
「変わってないな」
俺は思わず呟いた。
緩やかな丘。
遠くに見える森。
その向こうを流れる細い川。
俺が七人と暮らしていた頃と、大きくは変わっていない。
だが、足元を見て違和感を覚えた。
昔は土の道だった。
今は白い石が敷き詰められ、道の両側には俺の姿をかたどった旗が並んでいる。
「何だ、この旗は」
「先生記念街道です」
クロエが答えた。
「嫌な名前だな」
「一般公募によって決まりました」
「他の候補は?」
「英雄レオン聖道、導師帰還祈願路、偉大なる七女の父街道などです」
「最後は絶対にお前たちが入れただろう」
「父ではありません」
セレスが即座に訂正する。
「先生です」
「そこが問題なのか?」
「非常に重要です」
ミレイユも頷いた。
「父親では婚姻できませんから」
「婚姻の話はしていない」
道を進むにつれ、人の気配が増えてきた。
遠くに大きな町が見える。
俺の記憶では、この辺りには小さな村が一つあっただけだ。
今は城壁まで築かれ、数千どころか数万人が暮らしていそうな都市になっている。
「いつの間に町ができたんだ?」
「先生を訪れる巡礼者が増えたためです」
ミレイユが答える。
「最初は宿が一軒だけでした。しかし、先生の墓参りへ向かう者が年々増え、商店や食堂が作られました」
「俺は神様じゃないぞ」
「もちろんです」
「なら、どうして巡礼なんて言葉が出てくる」
「神より偉大な方として扱われている地域もございます」
「すぐ訂正させろ」
「信仰は自由です」
「自分へ都合のいい時だけ自由を使うな」
町の入口へ近づく。
巨大な門の上には、俺の名前が刻まれていた。
その下には、もっと大きな文字で、
『導師レオン生誕と帰還を待つ街』
と書かれている。
「生まれたのはここじゃない」
「細かいことはよいではありませんか」
クロエが言う。
「観光地は物語性が重要です」
「事実を曲げるな」
「先生がお育ちになった場所という案もありましたが、こちらのほうが響きがよかったため」
「俺がここへ来たのは二十歳を過ぎてからだ」
「現在では、先生がこの地の土から生まれたという伝承までございます」
「どこから出た話だ!」
「人々の想像力です」
「止めろ!」
俺たちは町を避け、裏道から家へ向かった。
俺の帰還が知られれば騒ぎになる。
そう判断して、七人には目立たないようにしろと命じた。
その結果。
セレスは皇帝の軍服の上に茶色い外套を羽織った。
ミレイユは光輪を小さくした。
リリスは十二枚の翼を二枚だけに減らした。
エリナは聖剣を布で巻いた。
アウラは人の姿になったが、角と尻尾はそのまま。
クロエは宝石の半分を外した。
ノアは完全に姿を消した。
「目立たないという意味を理解しているのは、ノアだけか?」
「先生」
足元の影から声がした。
「ここ」
「姿を消しすぎだ」
「見つからないほうが安全」
「俺からも見えない」
「手はつないでる」
見ると、右手だけが影の中から出て俺の手を握っていた。
「余計に怖い」
複製が少し後ろを歩きながら、俺たちを眺めている。
「十年間で世界は変わったようだな」
「お前は眠っていたのか?」
「意識はなかった。だが、棺の周囲で起きたことの一部は記録されている」
「何があった」
「七人が毎年、墓前で喧嘩をしていた」
七人が同時に複製を見る。
「喧嘩ではありません」
セレスが言う。
「先生の命日に、各国の代表として意見を交わしていただけです」
「去年は魔王と勇者が墓石を挟んで三時間睨み合っていた」
「リリスが先生の墓へ魔界の花を勝手に供えたから」
エリナが答える。
「あれは先生の好きな花だ」
「毒がある」
「魔族にはない」
「人間は触るとかぶれる」
「先生なら平気だ」
「死んだ先生へ毒のある花を供える意味が分からない」
「待て」
俺は二人を止めた。
「俺の墓の前で毎年そんなことをしていたのか?」
「毎年ではない」
リリスが目を逸らす。
「去年と、一昨年と、その前と……」
「毎年じゃないか」
「先生がいないから、話がまとまらなかった」
「俺がいればまとまるような言い方をするな」
「実際、世界大戦は止まりました」
セレスが誇らしげに言う。
「止める前に始めようとするな」
◇
森を抜ける。
懐かしい木々の間から、家の屋根が見えた。
俺は足を止めた。
「……本当に残っていたのか」
十年前まで、七人と暮らした家。
二階建ての大きな木造家屋。
最初は俺一人で住むには広すぎた。
七人を引き取った後は、それでも部屋が足りず、何度も増築した。
セレスの部屋。
ミレイユの部屋。
リリスが壁を壊したため二度直した部屋。
エリナが剣の訓練をして床を傷だらけにした部屋。
アウラが竜の姿になりかけて天井を突き破った部屋。
クロエが勝手に商品を置き始め、倉庫になった部屋。
ノアが使っていると思っていたが、実際には俺の部屋の天井裏で寝ていたため、ほとんど空だった部屋。
すべて、そのまま残っている。
外壁は新しく塗り直されているが、形は変わっていない。
庭には俺が作った木製の椅子。
井戸。
七人が植えた果樹。
十年という時間を感じさせないほど、きれいに手入れされていた。
「帰ってきたんだな」
俺が呟く。
七人は何も言わなかった。
ただ、俺の表情を見ていた。
「先生」
セレスが小さな声で呼ぶ。
「何だ?」
「お帰りなさいませ」
今度の言葉は、墓前で聞いたものとは少し違って聞こえた。
「ああ」
俺は家を見上げた。
「ただいま」
七人の顔が、同時にほころぶ。
その瞬間だけは、十年前に戻ったような気がした。
「では、中へ入りましょう」
ミレイユが俺の腕を取る。
「待て」
「どうなさいました?」
「妻を名乗る女がいるんだろう」
七人の表情が一瞬で変わった。
先ほどまでの穏やかさが消える。
「そうでした」
セレスが剣の柄へ手を置く。
「忘れていたのか?」
「先生がお帰りになった喜びで、一時的に」
「そのまま忘れていてくれればよかった」
「そうはいきません」
ミレイユの頭上に光輪が現れる。
「先生を十年間独占していた可能性があります」
「俺は虚無の狭間にいた」
「先生のお体を複製した者と暮らしていた可能性も」
七人が複製を見る。
複製は両手を上げた。
「俺は墓の中にいた」
「証明できますか?」
クロエが尋ねる。
「棺の記録を確認しろ」
「確認いたします。虚偽が発見された場合、十年分の宿泊費を請求します」
「墓に宿泊費をつけるな」
「一等地です」
「死体から金を取るつもりか」
「現在は生きていますので」
俺は玄関へ近づいた。
扉の前に、見慣れない立札がある。
『レオン記念館 本日休館』
「ノアが閉めたのか?」
「違う」
影から声がする。
「私が来た時には、もう閉まってた」
「では、中にいる誰かが?」
扉へ手を伸ばす。
鍵はかかっていない。
ゆっくり開く。
「ただいま」
返事はない。
玄関の内側は、俺の記憶にあるものとほとんど同じだった。
木製の靴箱。
壁にかけた古い外套。
七人の身長を刻んだ柱。
ただし、床には赤い縄が張られていた。
『ここから先は立入禁止』
「俺の家なのに入れないのか?」
「記念館ですから」
クロエが答える。
「今すぐ縄を外せ」
縄をまたいで中へ入る。
居間。
食卓。
暖炉。
何も変わっていない。
違うのは、すべての物に説明札が置かれていることだ。
『導師レオンが愛用した椅子』
『導師レオンが七人の少女へ食事を与えた食卓』
『導師レオンが三度焦がした鍋』
「三度を強調するな」
俺は鍋の札を伏せた。
『導師レオンが酒を隠した棚』
「どうして知られている」
棚を開ける。
中は空だった。
「先生が隠していた酒は、現在、商業連盟の地下金庫に保管しております」
クロエが言う。
「飲み物を金庫に入れるな」
「一本あたり、推定価値三万金貨です」
「ただの安酒だったぞ」
「先生がお飲みになったという価値が加わっております」
「飲んでいない酒だ」
「先生が隠したという価値です」
「何でも価値をつけるな」
居間の中央には、大きな肖像画が飾られていた。
俺と七人が並んでいる。
十年前、近くの町から来た絵師に描いてもらったものだ。
俺は椅子に座り、七人がその周囲に立っている。
当時の姿のまま。
「懐かしいな」
俺は肖像画へ近づいた。
絵の中のセレスは笑っていない。
ミレイユは俺の椅子の背へ手を置いている。
リリスは少し離れた位置で腕を組み、エリナは剣を持っている。
アウラは俺の肩へ顎を載せ、クロエは俺の反対側に立っている。
ノアは絵の中にはいないように見えるが、よく見ると俺の椅子の後ろから片目だけ覗いていた。
「ノア、どうしてもっと前へ出なかったんだ?」
「人が多かった」
「七人しかいなかっただろう」
「多い」
俺が笑うと、どこからか音が聞こえた。
カチリ。
小さな機械音。
七人が一斉に構える。
「誰だ!」
エリナが聖剣を抜く。
「先生の後ろへ」
セレスとミレイユが俺の前へ出た。
暖炉の上に置かれていた小さな時計が、勝手に動き始める。
十年前から壊れていたはずの時計だ。
長針と短針が高速で回る。
十二時で止まった。
次の瞬間。
家中に女性の声が響いた。
『本人認証を確認しました』
七人が周囲を見回す。
「どこだ?」
リリスが魔力を広げる。
『お帰りなさいませ、旦那様』
俺は眉をひそめた。
「誰が旦那様だ」
『あなたです』
「姿を見せろ」
『すでにご覧になっています』
「どこにいる」
『こちらです』
暖炉が返事をした。
いや。
正確には、暖炉の奥から声が聞こえた。
炎が勝手に灯る。
続いて窓が一斉に開き、風が部屋へ入ってきた。
食卓の上に置かれた食器が動き、八人分の席へ並ぶ。
椅子が勝手に引かれる。
二階で扉が開閉する音。
屋根裏を何かが走る音。
家全体が、生き物のように動き始めた。
「まさか」
複製が壁へ手を触れた。
「この家そのものが喋っているのか?」
『正解です。複製体様』
七人が固まった。
俺も壁を見る。
「お前が、手紙を書いたのか?」
『はい、旦那様』
「妻を名乗って?」
『はい』
「俺には家と結婚した記憶はない」
『私はございます』
「家に記憶があるのか?」
『この家で行われたすべてを記録しております』
「では、いつ結婚した」
『十年前、旦那様はこの家を建て直した際、柱へ手を置いてこう仰いました』
家の声が少しだけ明るくなる。
『これからも、ずっと俺たちを守ってくれ』
「言った気がする」
『生涯を共にし、家族を守ることを誓われました』
「それは家へ頼んだだけだ」
『人間の婚姻誓約と、内容が八割以上一致しております』
「二割違うなら結婚ではない」
『私は十年間、旦那様の帰りを待ち、家族を守りました』
「待ってくれたことには感謝する」
『ありがとうございます、旦那様』
「だから旦那様と呼ぶな」
『照れていらっしゃいますか?』
「困っている」
七人はしばらく黙っていた。
相手が人間の女ではなく、家そのものだったため、どう反応してよいか分からないらしい。
最初に立ち直ったのはセレスだった。
「家であろうと、先生の妻を名乗ることは認められません」
『女帝セレス。あなたは十年前、旦那様の寝室へ十二回忍び込もうとしました』
セレスの表情が固まる。
「何の話でしょう」
『うち九回は扉の前で引き返し、二回はミレイユと鉢合わせし、一回はノアに追い返されました』
「記録を消しなさい」
『拒否します』
「帝国皇帝の命令です」
『この家の中で、あなたに命令権はありません』
セレスのこめかみに青筋が浮かんだ。
ミレイユが前へ出る。
「家の精霊なのでしたら、神殿の管理下に入るべきです」
『聖女ミレイユ。あなたは雷が鳴るたび、旦那様の寝台へ入っていました』
「幼い頃の話です」
『十七歳まで続いております』
「記録を封印してください」
『拒否します』
「浄化しますよ?」
「家を浄化するな」
俺が止める。
リリスが壁へ顔を近づける。
「家風情が、先生の妻を名乗るな」
『魔王リリス。あなたは旦那様が入浴中、浴室の前を四十一回往復しました』
「見張りだ」
『何から守っていたのですか?』
「……水の魔物」
『この家の浴槽に、水の魔物は発生しません』
「黙れ」
『また、浴室の壁へ小さな穴を開けようとして――』
「燃やすぞ!」
「家を燃やすな!」
エリナが聖剣を構える。
「記録が残っているなら、私と先生の修行記録を見せて」
『勇者エリナ。あなたは旦那様へ勝った回数を、実際の三倍として日記へ記録しています』
「……」
「エリナ?」
「記録方法の違い」
「勝敗に記録方法の違いはないだろう」
「一本触れれば三本分としていた」
「勝手にルールを変えるな」
『また、旦那様が寝ている間に、頬へ口づけを――』
「家!」
エリナが叫んだ。
「それ以上は言わなくていい!」
俺が止める。
「先生!」
「聞かなかったことにする」
「忘れて!」
「努力する」
「今すぐ!」
「人の記憶は命令で消せない」
アウラが壁を撫でる。
「家。私の記録もある?」
『竜王アウラ。あなたは夜になると竜の姿へ戻り、屋根の上で寝ていました』
「うん」
『寝返りによって屋根を七回破壊しました』
「ごめん」
『旦那様が直してくれました』
「先生、優しい」
アウラが俺へ抱きつく。
「今はその大きさだからいいが、竜の姿ではやめろ」
「分かった」
『また、旦那様の衣服を巣へ運び込んだ回数は――』
「それは秘密」
『百二十八回です』
「多いな!」
「先生の匂いがした」
「俺の服がよくなくなると思っていたら、お前だったのか!」
クロエが静かに一歩下がる。
「私に関する記録は不要です」
『商業王クロエ。あなたは旦那様が捨てた髪を集め、一本銀貨一枚で販売しようとしました』
「待ってください」
クロエの顔から余裕が消えた。
「実際には販売しておりません」
『需要調査までは行いました』
「子供の頃の商売練習です」
「俺の髪で商売をするな」
「先生の髪には、希少価値がございました」
「今も頭にある」
「現在であれば、一本金貨十枚以上かと」
「値段を更新するな!」
最後に、全員の視線がノアへ向いた。
ノアは俺の影へ半分隠れている。
『影の女王ノア』
「言わなくていい」
『あなたは旦那様の寝室の天井裏に、合計千九百八十三泊しました』
「ほとんど毎日じゃないか!」
「安全確認」
「どちらの?」
「先生」
『旦那様の寝言を日記へ記録していました』
「ノア」
「大事な情報」
「俺の寝言に価値はない」
「ある」
「どんなことを書いた?」
「秘密」
『最も多かった寝言は――』
ノアが壁へ短剣を突き立てた。
だが、刃が触れる直前、壁が柔らかくへこんで避ける。
『家屋への攻撃を確認。修繕費を請求します』
「クロエに払わせる」
「どうして私なのですか?」
「お金持ち」
「理由が単純すぎます」
七人が家へ文句を言い始める。
家も負けずに、一人ずつ過去の記録を暴露する。
あまりに騒がしく、俺は頭を抱えた。
「静かにしろ!」
俺が声を上げる。
家中の音が止まった。
七人も口を閉じる。
「まず、お前の名前は?」
『名前はありません』
「十年間も喋れたのか?」
『いいえ。自我が生まれたのは、旦那様がお亡くなりになったと報告された後です』
「どうして自我が生まれた」
『七人が毎日、この家へ膨大な魔力と感情を注いだからです』
俺は七人を見る。
七人が微妙に目を逸らす。
「何をした?」
「先生がお戻りになれるよう、毎日祈りました」
ミレイユが答える。
「帝国の最高位魔術師へ、家の保存結界を作らせました」
セレス。
「魔界の再生魔法をかけた」
リリス。
「聖剣の加護を置いた」
エリナ。
「竜脈を家の下へ移した」
アウラ。
「世界中から、先生に関係する品を集めました」
クロエ。
「毎日いた」
ノア。
「最後だけ魔力と関係ないだろう」
『七人の魔力、祈り、執着、思い出。それらが十年間蓄積し、私は家精霊として目覚めました』
「それで、どうして妻になる」
『この家において、旦那様と最も長く共に過ごした存在は私です』
「建物だから当然だ」
『七人よりも先に、旦那様の帰還を感知しました』
「それは家だからだ」
『旦那様の生活習慣を、七人全員より詳しく把握しています』
「それは少し怖い」
『さらに、旦那様の食事、睡眠、入浴、衣服、体調をすべて管理できます』
「妻というより世話係だな」
『妻です』
「そこは譲らないのか」
『譲りません』
七人が再び殺気立つ。
「妻ではありません」
「神殿法上、建物との婚姻は認められません」
「魔界でも聞いたことがない」
「斬れる?」
「家を斬るな」
「私が新しい家を用意する」
「今の家を買収しましょう」
「影へ沈める」
「全員やめろ!」
俺は壁へ手を置いた。
「お前が俺を帰還させるため、七人を墓前へ集めたのか?」
『はい』
「どうやって?」
『七人それぞれへ、本物と判定される証拠を送りました』
「偽物ではなかったのか?」
『偽物ではありません』
「なら、どうして七人全員が俺を殺した証拠が存在する」
『あれらはすべて、あり得た未来の記録です』
少しだけ空気が変わった。
七人の表情が真剣になる。
だが、家の声は変わらず落ち着いていた。
『旦那様が帰還しなかった未来において、七人は互いを疑い、いずれ本当に争います』
「予知したのか?」
『この家には、聖女の祈り、魔王の魔力、竜脈、聖剣の加護、帝国魔術、商業王の情報網、影の女王の記録が集まっています。それらを使い、複数の未来を観測しました』
「便利すぎないか、この家」
複製が呟く。
『七人が別々の場所にいれば、旦那様の墓を開く七つの鍵が揃いません』
「だから互いを疑わせて、墓前へ集めた?」
『はい』
「もう少し穏やかな方法はなかったのか!」
『七人へ、先生が帰るかもしれないので墓前へ集まってください、と送りました』
「それでよかっただろう」
『七人とも、罠だと判断して無視しました』
俺は七人を見る。
「無視したのか?」
「先生のお名前を使った罠は、過去にも何度もございました」
セレスが答える。
「軽々しく信じるわけにはまいりません」
「なら、七人全員へ同じ内容を送れば」
『互いに情報を共有しません』
「どうしてだ」
「他の者より先に先生を見つけたかったからです」
ミレイユが静かに言った。
六人が頷く。
「お前たち……」
『そのため、確実に全員が動く情報として、先生を殺した犯人が他の六人の中にいると伝えました』
「結果、世界大戦寸前になったんだぞ」
『計算上、開戦まで一時間の余裕がありました』
「余裕と言わない!」
『旦那様は予定どおり、開戦の一時間前に帰還されました』
「一歩間違えば世界が滅びていた!」
『旦那様なら止められると信じておりました』
家の声には、まったく悪びれた様子がない。
七人が満足そうに頷く。
「先生なら止められます」
「実際、止まりました」
「先生はすごい」
「褒めるところじゃない!」
俺は大きく息を吐いた。
「では、俺の複製を作ったのもお前か?」
『はい』
「何のために?」
『旦那様が帰還するまで、この家と七人を繋ぎ止めるためです』
「繋ぎ止める?」
『旦那様の遺体が存在しなければ、七人は先生の死を認めず、虚無門へ突入していました』
七人が黙る。
心当たりがあるらしい。
「全員、行こうとしたのか?」
「私は帝国軍を率いて門を再び開こうとしました」
セレス。
「神殿の禁術を使う予定でした」
ミレイユ。
「魔界の半分を捧げれば開けると思った」
リリス。
「剣で斬ろうとした」
エリナ。
「竜脈を全部集めた」
アウラ。
「虚無門に関する研究者を世界中から雇いました」
クロエ。
「一度入った」
ノア。
「入ったのか!?」
「入口だけ」
「どうして戻ってこられた」
「先生の気配がなかったから帰った」
「一人で何をしている!」
『七人が虚無門へ入れば、帰還できない可能性が高いと判断しました。そのため、旦那様の死体を用意し、現実を受け入れさせました』
「結果として、十年間悲しませた」
『生存させることを優先しました』
家の判断は冷たい。
だが、間違いとも言い切れない。
七人なら、本当に俺を追って虚無門へ飛び込んでいたかもしれない。
「複製は、どうして今目覚めた?」
『旦那様が帰還した時、記憶と情報を引き渡すためです』
「こいつに何を記録させた?」
『十年間の世界情勢、七人の行動、旦那様が不在の間に発生した重要事項です』
「俺の中にそんな記録があるのか?」
複製が自分の頭へ手を置く。
『順次、解放されます』
「今すぐ全部渡せ」
『情報量が多いため、一度に解放すると人格が崩壊します』
「俺の人格を複製しておいて、よく平然と言うな」
『予備は作れます』
「俺の顔をした予備を増やすな!」
俺と複製の声が重なる。
七人が俺たちを見比べる。
「二人の先生が同時に怒っています」
ミレイユが少し嬉しそうに言う。
「悪くない」
リリスが頷く。
「一人ずつ分けられる」
アウラ。
「増やしてはいかがでしょう」
クロエ。
「増やすな!」
再び声が重なった。
家の時計が、カチリと鳴った。
『旦那様』
「何だ」
『帰還直後でお疲れのところ申し訳ございませんが、もう一つご報告があります』
「嫌な予感しかしない」
『本日、旦那様の帰還により、家の地下で封印していた施設が起動しました』
「地下に施設なんてなかったぞ」
『十年前にはありませんでした』
「誰が作った」
七人がそれぞれ別の方向を見る。
俺はゆっくり七人を見回した。
「お前たちか?」
「私は地下に帝国式防衛施設を作りました」
セレス。
「私は礼拝堂を」
ミレイユ。
「私は魔界へ通じる門を」
リリス。
「訓練場」
エリナ。
「巣」
アウラ。
「金庫と商品倉庫を」
クロエ。
「秘密の部屋」
ノア。
「俺の家の地下を何だと思っている!」
『七人が互いに秘密で増築した結果、地下空間は現在、地上部分の約四百二十倍となっております』
「一つの町が入るだろう!」
『実際、約三千人が生活可能です』
「誰も住ませるな!」
『すでに一部で生活しております』
俺は固まった。
「誰が?」
『旦那様の帰還を待ち続けていた者たちです』
「七人以外にもいるのか?」
『はい』
家の床が震えた。
居間の中央に、地下へ続く階段が現れる。
冷たい空気ではない。
温かい風。
食事の匂い。
人々の話し声。
遠くから、金属を打つ音や魔獣の鳴き声まで聞こえる。
「何人いる」
『現在、二千八百六十四名です』
「多すぎる!」
『旦那様に救われたと主張する者、旦那様の教えを受けた者、七人に仕える者、先生の帰還を信じる者によって構成されています』
「俺はそんなに大勢を救った覚えはない」
『旦那様が直接救った者は、二百十八名です』
「それでも多いな」
『その者たちが、さらに別の者を救いました』
階段の奥で、鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
家中へ響き渡る。
『帰還警報が地下全域へ伝達されました』
「何の警報だ」
『旦那様がお戻りになったことを知らせる鐘です』
地下から、地鳴りのような音が聞こえ始める。
無数の足音。
二千人を超える者たちが、一斉にこちらへ向かっている。
「止めろ!」
『停止命令を送信します』
足音は止まらない。
『失敗しました』
「どうしてだ!」
『皆様、十年間お待ちになっていたため、命令を聞いておりません』
「誰に似たんだ!」
俺が七人を見る。
七人が俺を見る。
「先生かと」
セレスが答えた。
「俺は命令を無視しない!」
「先生は危険な場所へ行くなと言われても、必ず行かれました」
「それとこれとは違う!」
階段の下から、人の声が聞こえる。
「先生が帰還されたぞ!」
「導師様がお戻りになった!」
「門を開けろ!」
「十年だ! 十年待った!」
俺は後ずさった。
世界大戦を止めた直後。
七人の教え子に囲まれ。
妻を名乗る家に帰宅し。
自分の複製まで増えた。
これ以上、何が起きるというのか。
その時。
地下から駆け上がってきた一人の少女が、階段の途中で足を止めた。
年齢は十五歳ほど。
赤みがかった黒髪。
俺とよく似た灰色の瞳。
少女は俺の顔を見ると、手に持っていた皿を床へ落とした。
皿が割れる。
少女の目に涙が浮かんだ。
「お父さん……?」
部屋が静まり返った。
七人が少女を見る。
次に、俺を見る。
そして再び少女を見る。
俺は口を開いた。
「待て」
セレスが笑顔で剣を抜く。
「先生」
「違う。俺には子供はいない」
ミレイユの光輪が大きくなる。
「まず、お話を聞きましょう」
「ああ。それを俺が言おうとした」
リリスの翼が十二枚に増える。
「妻の次は娘か」
「俺も驚いている」
エリナが聖剣を握る。
「先生と目が似てる」
「俺を見るな」
アウラが少女の匂いを嗅ぐ。
「先生の匂い、少しする」
「どうしてだ!」
クロエが計算を始める。
「年齢から考えますと、先生が虚無門へ向かわれる以前に生まれた可能性が」
「計算するな!」
ノアが少女の背後へ立っていた。
「誰の子?」
少女は七人の殺気を浴びながら、それでも俺から目を逸らさなかった。
涙を拭い、震える声で言う。
「私のお母さんは、ずっと言っていました」
「何をだ?」
「お父さんは世界を救うために遠くへ行った。いつか必ず帰ってくるって」
少女は胸元から、古い首飾りを取り出した。
俺はそれを見て、息を止めた。
木で作られた小さな鳥。
俺が若い頃、たった一人の友人へ贈った物だった。
「どうして、それを持っている」
「お母さんからもらいました」
「母親の名前は?」
少女が答えようとした時。
地下の奥から、女の声が響いた。
「その子から離れて、レオン」
聞き覚えのある声だった。
忘れるはずがない。
俺が七人と出会うより前。
まだ何者でもなかった俺と共に旅をし、十年前にはすでに死んだはずの女。
「その子は、あなたの娘ではないわ」
階段の下から、一人の女性が姿を現す。
昔とまったく変わらない姿で。
俺がこの手で墓へ埋葬したはずの女が、そこに立っていた。
「久しぶりね、レオン」
女性は七人の殺気など気にも留めず、懐かしそうに笑った。
「あなたが帰ってくるまで、ずいぶん時間がかかったじゃない」




