第25話 誰も俺を知らない街へ一人で行ったら、初めて「何もしなくていい」と言われた
『旦那様の個人課題』
『誰も伴わず、一人で地下都市の外へ出かけてください』
朝。
俺が居間へ下りると。
机の上には、山のような荷物が積まれていた。
「何だ、これは」
「必要最低限の旅装です」
セレスが答える。
「どこが最低限だ」
食料。
水。
薬。
防具。
地図。
金貨。
魔界の解毒薬。
竜族の保存肉。
携帯寝台。
着替え十日分。
緊急連絡用の通信具。
そして。
「この小さな建物は何だ」
「携帯式休憩所です」
セレスが平然と答えた。
「一日出かけるだけだぞ!」
「万が一、先生が野宿を望まれた場合に」
「夕食までに帰る約束だ」
「帰路が塞がれた場合は?」
「地下都市の中だろう!」
「境界災害の発生確率は、ゼロではございません」
「セレス」
「はい」
「家」
『個人課題へ不要な物品を確認しました』
机の上の荷物が。
一瞬で消えた。
残ったのは。
小さな財布。
銀貨一枚。
水筒。
通常の短剣。
家の紋章が入った緊急連絡札。
それだけだった。
「少ないです」
ミレイユが不安そうに言う。
「一日なら十分だ」
「薬がございません」
「体調が悪くなったら帰る」
「帰る途中で倒れた場合は?」
「緊急連絡札を使う」
「先生」
「駄目だ」
「まだ何も」
「薬箱を渡そうとしただろう」
「小さなものだけでも」
「自分で必要だと思えば、現地で買う」
「……はい」
ミレイユは。
手にしていた小さな薬瓶を。
自分の服へ戻した。
リリスは。
黒い外套を持っていた。
「先生」
「防具もいらない」
「まだ何も言っていない」
「手に持っている」
「日除けだ」
「地下都市に太陽はない」
「雨除け」
「雨も降らない」
「寒い時に」
「普通の上着を着ている」
「……分かった」
リリスも外套を下ろす。
エリナは。
俺の短剣を確認していた。
「刃が短い」
「護身用だからな」
「魔物が出たら?」
「出ない区画だと聞いている」
「悪い人が出たら?」
「逃げる」
「先生が?」
「ああ」
「勝てるのに?」
「今日の目的は戦うことではない」
「……うん」
エリナも。
自分の木剣を差し出さなかった。
アウラは。
何かを口の中へ隠している。
「アウラ」
「何?」
「口を開けろ」
「嫌」
「何を隠している」
「何も」
「頬が膨らんでいるぞ」
アウラが。
ゆっくり口を開く。
中から。
拳ほどの肉の塊が出てきた。
「俺の荷物へ入れる気だったな」
「お腹が減った時のため」
「現地で食べたい物を選ぶ課題だ」
「でも、先生が嫌いな食べ物しかなかったら」
「その時は別の店を探す」
「一日食べられなかったら?」
「そんなことにはならない」
「……分かった」
アウラは。
肉を自分で食べた。
「朝食後だろう」
「もったいない」
クロエは。
机の下へ金貨袋を隠そうとしていた。
「クロエ」
「はい」
「その袋は?」
「非常時の資金です」
「銀貨一枚で過ごす」
「商業自治領の外では、物価が不明です」
「足りなければ、買わない」
「先生」
「何だ」
「お金が足りないことを理由に、必要なものまで我慢なさる可能性があります」
「今日くらいは我慢する」
「その我慢が、先生ご自身の望みを妨げるのでは?」
少しだけ。
正しいような気もした。
「家」
『本日の訪問区画では、銀貨一枚で十分に食事と買い物が可能です』
「では、問題ない」
「……承知しました」
クロエは金貨袋を引っ込めた。
ノアは。
何も持っていない。
ただ。
俺の足元の影を見ていた。
「ノア」
「何?」
「影を入れるなよ」
「入れてない」
「本当に?」
「……少しだけ、入りたかった」
「駄目だ」
「緊急時だけ出る」
「緊急かどうかを知るために、監視することになるだろう」
「うん」
「今日は一人だ」
「……分かった」
俺の影が。
一瞬だけ揺れ。
元へ戻る。
アステラは。
少し離れた場所へ立っていた。
虚無の核を分けた今。
俺の感情は伝わらない。
体調も。
居場所も。
分からない。
「レオン」
「何だ」
「不安?」
「少しは」
「私も」
「ああ」
「でも」
アステラは。
俺へ手を伸ばしかけ。
途中で止めた。
「いってらっしゃい」
「ああ」
「帰ったら、何を見たか聞いていい?」
「もちろんだ」
「全部?」
「話したい範囲で」
「……分かった」
「成長したな」
「頭を撫でる?」
「帰ってからだ」
レオは。
深緑色の上着を着て。
壁へ寄りかかっていた。
「兄」
「何だ、弟」
「一人で出かけるだけなのに、大変だな」
「お前の時も全員心配していただろう」
「ここまでではなかった」
「同じ顔だから、お前が出かけても俺を見て安心できたんだろう」
「便利な弟だな」
「そう思うなら、代わりに」
「行かない」
「即答か」
「お前の課題だ」
レオは。
俺へ小さな紙を渡す。
「何だ?」
「昨日行った店の場所」
「記憶具の?」
「ああ」
「そこへ行けと?」
「違う」
紙には。
店の場所だけではなく。
広場。
食堂。
服屋。
水路。
いくつかの場所が書かれている。
「俺が行った場所は、すべて印をつけた」
「ああ」
「そこを避ければ」
「お前の一日をなぞらずに済む?」
「ああ」
「気が利くな」
「褒めた?」
「ああ」
「ありがとう」
「本当に素直だな」
「兄も練習したらどうだ」
「余計なお世話だ」
フィオナは。
銀色の花飾りへ触れながら。
俺を見る。
「レオン」
「何だ」
「誰にも必要とされない時間を、楽しめそう?」
「どういう意味だ」
「あなたは」
一度、言葉を選ぶ。
「誰かに頼られると、安心するでしょう?」
「そうか?」
「ええ」
「先生として」
「ああ」
「保護者として」
「ああ」
「王として」
「ああ」
「何かを求められている間は、自分がここにいていいと分かる」
「……」
「今日は」
フィオナは静かに言う。
「誰も、あなたが何者か知らない場所なのでしょう?」
「ああ」
「役に立たなくても」
「ああ」
「帰ってきていいのよ」
「分かっている」
「本当に?」
「……行ってくる」
「答えを避けたわね」
フィオナが少し笑った。
◇
家が用意した境界門を通る。
最初に見えたのは。
青い空だった。
「地下都市では?」
振り返る。
門は消えている。
代わりに。
石造りの小さな門があった。
空は。
本物ではないらしい。
巨大な天井へ、別世界の空を投影している。
それでも。
太陽のような光。
白い雲。
風。
これまで見た地下都市の区画とは。
まるで違っていた。
道には。
見たことのない種族が歩いている。
耳の長い者。
体が小さな者。
肌が石のような者。
頭に透明な水球をかぶった者。
八百四十二世界から集まった者たち。
だが。
誰一人。
俺を見ても立ち止まらない。
頭を下げない。
名前を呼ばない。
「おじさん、邪魔」
「おじさん?」
荷車を引いた子供が。
俺の横を通ろうとしていた。
「道の真ん中で止まらないで」
「悪かった」
一歩、道を空ける。
子供は荷車を引いていく。
振り返りもしない。
「おじさんか」
三十代ではある。
子供から見れば。
おじさんでもおかしくない。
「導師様でも、先生でもないんだな」
少し。
変な感じだった。
大通りへ出る。
店。
食堂。
宿。
公園。
誰も俺を知らない。
目が合っても。
すぐに逸らされる。
「楽だな」
思わず。
口から出た。
その直後。
胸の奥が少し痛んだ。
「楽だと思っていいのか?」
七人が嫌なわけではない。
アステラも。
レオも。
リタも。
フィオナも。
家も。
大切だ。
だが。
俺が何かを言うたび。
国が動き。
神が聞き。
市場が値段をつけ。
影が記録し。
全員が俺の表情を読む。
それがない。
「今日は」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「何をしても、世界は変わらない」
少しだけ。
肩の力が抜けた。
◇
最初に見つけたのは。
小さな食堂だった。
看板には。
『朝から夕方まで、好きな時に朝食』
と書いてある。
「変な店だな」
「入るのか、入らないのか」
店の中から。
低い声がした。
入り口には。
大きな女性が立っている。
腕が四本。
頭には小さな角。
「道を塞ぐな」
「今日、二回目だ」
「何が」
「邪魔だと言われた」
「なら学べ」
「入る」
「空いている席へ」
店内。
客は少ない。
窓際。
奥。
入り口近く。
普段なら。
出口が見え。
周囲を確認しやすい席を選ぶ。
「今日は」
光が差す。
窓際へ座った。
「注文は」
四本腕の女性が。
紙を置く。
料理名が並んでいる。
『甘い木の実パン』
『塩魚のスープ』
『赤根菜の焼き物』
『朝眠り鳥の卵』
『本日のよく分からない煮込み』
「最後は何だ」
「作った者にも分からない」
「売るな」
「食べた者の半分は、また頼む」
「残り半分は?」
「二度と頼まない」
「評価が極端だな」
「何にする」
普段なら。
栄養。
量。
値段。
安全性。
それで選ぶ。
「甘い木の実パン」
「それだけ?」
「ああ」
「飲み物は」
「何がある」
「苦い葉茶。甘い実茶。水」
「甘い実茶」
女性が。
少しだけ俺を見る。
「甘いものが好きなのか」
「分からない」
「自分で頼んだだろう」
「今日、試す」
「変な客だ」
「よく言われる」
「初対面だ」
女性は厨房へ戻る。
誰も。
俺が何を好むか知らない。
俺自身も。
知らない。
甘い木の実パンが運ばれる。
焼きたて。
表面には蜜。
一口。
「甘いな」
「嫌か?」
店主が遠くから聞く。
「いや」
二口目。
柔らかい。
木の実の香り。
甘すぎる気もする。
だが。
もう一口食べたい。
「好きかもしれない」
「なら食え」
「簡単に言うな」
「食事だぞ」
女性は。
それ以上。
俺の反応を気にしなかった。
七人なら。
好きか。
どのくらい好きか。
次も食べたいか。
誰が作るか。
どの国の材料がいいか。
話が広がっていただろう。
「自分だけで決めていいのか」
「何をぶつぶつ言っている」
「何でもない」
甘い実茶を飲む。
こちらは。
甘すぎた。
「これは苦手だ」
「残すなら水を入れろ」
「薄めてもいいのか?」
「お前が飲むんだろう」
「ああ」
「好きにしろ」
水を入れる。
ちょうどよい甘さになる。
「好きにしろ、か」
朝食代。
銅貨三枚。
銀貨を渡す。
「釣り」
小さな銅貨が返ってくる。
無料でも。
特別価格でもない。
「ありがとう」
「また来たければ来い」
「名前は聞かないのか?」
「客の名前を全部覚えられるか」
「それもそうだ」
「名前を言いたいのか?」
「いや」
「なら、行ってこい」
店を出る。
俺の名前を知らない者に。
名前を言わず。
食べたい物だけを選んだ。
それだけなのに。
少し。
新しいことをしたような気分だった。
◇
大通りを歩く。
服屋。
武器屋。
花屋。
玩具屋。
俺へ声をかける者はいない。
呼び込みはある。
「見ていかないか」
「今だけ安いよ」
「旅人さん、靴が傷んでいる」
すべて。
俺が英雄だからではない。
普通の客として。
「靴か」
自分の足を見る。
確かに。
長く使っている。
だが。
まだ履ける。
靴屋へ入りかけ。
止まる。
「必要だから買う?」
今日の目的は。
必要なものを揃えることではない。
欲しいものを探すこと。
隣。
小さな雑貨店。
色の違う器が並んでいる。
白。
黒。
青。
緑。
赤。
実用性は。
どれも同じに見える。
「何を探している」
店主の老人が尋ねる。
「分からない」
「うちには、分からないものは売っていない」
「器を見ている」
「見れば分かる」
「何に使う」
「飲む。食べる。物を入れる。頭に乗せる」
「最後は使わない」
「なら三つだ」
一つ。
青い器が目に入る。
少し歪んでいる。
縁も完全な円ではない。
「これは安い?」
「ああ」
「失敗作?」
「作った者は成功と言った」
「では、どうして」
「同じ形が二つない」
「商品として揃わないから?」
「買う側が嫌がる」
手に取る。
青い表面。
光が当たると。
水のように色が変わる。
「何に使う」
「好きにしろ」
「また、その言葉か」
「器へ使い道を聞くな」
「値段は」
「銅貨五枚」
買える。
だが。
必要ではない。
家には器がある。
もっと質のよい物も。
いくらでも。
「欲しいのか?」
老人が尋ねる。
「分からない」
「置いて帰れ」
「簡単だな」
「欲しければ戻る」
「売れていたら?」
「縁がなかった」
「商売する気があるのか?」
「あるから値段をつけている」
器を戻す。
店を出る。
十歩。
二十歩。
振り返る。
「気になる」
もう一度、店へ戻る。
「戻ったな」
「ああ」
「欲しかったか」
「たぶん」
「では買え」
銅貨五枚。
青い器を受け取る。
「包むか」
「手で持つ」
「落とすぞ」
「では、包んでくれ」
老人が。
古い布で器を包む。
「何に使うか、決めたか?」
「まだ」
「決めなくてもいい」
「売った後は適当だな」
「買った者の物だ」
青い器。
誰かのためでもない。
家に必要だからでもない。
ただ。
光に当たった色を。
もう一度見たいと思った。
「俺が欲しいと思った物」
胸の奥が。
少しだけ温かくなった。
◇
昼前。
広場へ着いた。
中央には噴水。
周囲には椅子。
仕事の合間に休む者。
食事をする者。
眠る者。
子供と遊ぶ者。
「何をしよう」
誰も答えない。
予定はない。
七人の授業も。
国の視察も。
相談も。
決裁も。
ない。
「座るか」
空いている椅子へ向かう。
先に。
老人が座った。
「悪いな」
「いや」
別の椅子。
若い男女が並んでいる。
次。
子供が寝ている。
噴水の反対側。
誰も座っていない椅子を見つけた。
そこへ座る。
一分。
二分。
何も起きない。
噴水の音。
話し声。
足音。
風。
「何をすればいい」
隣に座っていた男が。
こちらを見る。
「俺に聞いたのか?」
「口に出ていたか」
「ああ」
「すまない」
「何か待っているのか」
「いや」
「では、何もしなければいい」
「何もしない?」
「ああ」
男は。
帽子を顔へ乗せる。
「椅子は、そのためにある」
「休むためでは?」
「何もしないのも休みだ」
「次に何をするか考える時間では?」
「考えたければ考えろ」
「ああ」
「考えたくなければ、考えるな」
「難しいな」
「変な男だな」
帽子の下から。
小さな笑い声。
「俺は」
自分の手を見る。
「何かしていないと、落ち着かないらしい」
「忙しいのか」
「たぶん」
「誰かに怒られる?」
「いや」
「金に困る?」
「今は違う」
「人が死ぬ?」
「今日は死なないと思う」
「なら、何もしなくていい」
その言葉。
フィオナも。
似たことを言った。
誰にも必要とされなくても。
帰っていい。
「何もしなくていい」
背もたれへ体を預ける。
空を見る。
作られた空。
それでも。
雲は動いている。
鳥に似た生き物が飛んでいる。
一分。
五分。
十分。
落ち着かない。
七人は今、何をしている。
アステラは。
レオは。
リタは。
フィオナは。
「俺がいなくても」
全員。
自分の望みを見つけている。
国も。
それぞれの者が動かしている。
「俺が何もしなくても」
今日一日くらい。
世界は終わらない。
目を閉じる。
噴水の音だけが聞こえる。
いつの間にか。
眠っていた。
◇
目を開ける。
空の光が。
少し傾いている。
「寝たのか」
「よく寝ていたな」
隣の男は。
まだいた。
「どのくらい」
「一時間ほど」
「そんなに?」
「急いでいたのか」
「いや」
「なら問題ない」
頭が。
少し軽い。
「何もしないのも、悪くないな」
「だろう」
「お前は、ずっとここに?」
「昼から仕事だ」
「仕事があるのか」
「椅子職人」
「この椅子も?」
「ああ」
「何もしないための椅子を作っている?」
「座る者が勝手に何かする」
「では」
立ち上がる。
「よい椅子だった」
「そうか」
「ありがとう」
「また何もしに来い」
「ああ」
名前は聞かなかった。
向こうも。
俺の名前を知らない。
だが。
もう一度。
この椅子へ座りたいと思った。
◇
広場を出たところで。
大きな音がした。
荷車の車輪が外れ。
積まれていた木箱が道へ落ちる。
「危ない!」
近くにいた者たちが避ける。
荷車を引いていた女性が。
慌てて箱を拾おうとする。
俺の体は。
考える前に動いていた。
木箱を持ち上げる。
「手伝う」
「助かる!」
周囲の二人も加わる。
箱を道の端へ。
荷車の車輪を見る。
「軸が曲がっている」
「直せる?」
女性が尋ねる。
「応急処置なら」
「お願いできる?」
「ああ」
頼まれた。
それを聞いてから。
短剣と木片を使い。
軸を固定する。
「これで、ゆっくりなら工房まで行ける」
「ありがとう」
「礼はいらない」
言いかけ。
止まる。
「いや」
「何?」
「どういたしまして」
女性は。
少し笑った。
「代金は?」
「いらない」
「では、これを」
落ちた木箱から。
小さな赤い果物を一つ渡される。
「受け取れない」
「商品にならない傷物」
見る。
少し潰れている。
「捨てる?」
「自分で食べる」
「なら、半分」
「どうして半分だ」
「手伝ってもらったから」
「では」
受け取る。
一口。
少し酸っぱい。
その後。
強い甘さ。
「うまいな」
「だろう?」
女性は荷車を引く。
「名前を聞いても?」
「レオン」
「私はマルサ」
一度きりの相手。
覚える必要もないかもしれない。
「ありがとう、レオン」
「ああ」
荷車が去っていく。
俺は。
助ける必要があったから動いた。
だが。
誰かに認められるためではない。
先生だからでも。
王だからでも。
「俺が、手伝いたいと思った」
それでよかった。
◇
午後。
水路沿いの道を歩く。
店の前。
一人の少女が。
壊れた木の船を持って泣いていた。
いつもの俺なら。
すぐ声をかける。
一歩近づき。
止まる。
「話しかけていいか?」
少女が顔を上げる。
「何?」
「船が壊れた?」
「うん」
「直してほしい?」
少女は。
船を見る。
「お父さんが直すって言った」
「では、待つ?」
「でも、お父さんは夜まで仕事」
「ああ」
「今、遊びたい」
「俺が直してもいい?」
少女は少し考え。
頷いた。
「うん」
木の船。
帆柱が折れている。
糸も切れている。
近くの店で。
細い木の棒。
糸。
接着剤を買う。
銅貨二枚。
「お金」
少女が小さな財布を出す。
「半分だけ」
「どうして」
「お前の船だから」
「おじさんは?」
「俺は、直ったところを見たい」
「変なの」
「今日、三回目だ」
二人で。
帆柱を立てる。
糸を結ぶ。
帆を張る。
「できた」
「浮かべる?」
「ああ」
水路へ。
木の船を置く。
ゆっくり流れる。
風を受け。
少し速くなる。
少女が走って追う。
「動いた!」
「ああ」
「おじさんも来て!」
「俺も?」
「直ったところ、見たいんでしょう!」
そのとおりだ。
水路沿いを走る。
子供の速度に合わせて。
船は。
小さな橋をくぐり。
水車の前を通り。
次の岸へ着いた。
「おじさん」
「何だ」
「ありがとう」
「ああ」
「おじさんは、船が好き?」
「分からない」
「また分からない?」
「ああ」
「では、もう一個作れば分かる」
「簡単に言うな」
「私は好き」
「そうか」
「おじさんは?」
水の上。
小さな船が揺れている。
「直った物が動くのを見るのは、好きかもしれない」
「レオお父さんと同じですね」
リタの声が。
頭に浮かんだ。
だが。
少し違う。
レオは。
中身がどう動くか知りたい。
俺は。
直った物を使って、誰かが喜ぶ姿を見るのが好きなのかもしれない。
「それは」
俺自身の望みなのか。
誰かを助ける役目なのか。
まだ分からない。
「また考えればいいか」
「何を?」
「何でもない」
◇
日が傾く。
帰る時間が近づいている。
残った金。
銅貨が少し。
青い器。
赤い果物の残り。
そして。
何もしない椅子で眠った記憶。
「このまま帰るか」
帰れば。
全員が待っている。
質問されるだろう。
何を食べた。
何を買った。
何を見た。
寂しかったか。
また行きたいか。
それを想像する。
少し。
笑っていた。
「帰りたいんだな」
一人の時間は。
楽だった。
誰も俺を知らない街も。
また来たい。
だが。
見たことを。
誰かに話したい。
青い器を。
アステラへ見せたい。
何もしない椅子を。
セレスやミレイユたちへ勧めたい。
甘い木の実パンを。
アウラが気に入るか知りたい。
壊れた船の話を。
レオとフィオナへしたい。
「一人でいたいことと」
誰かのいる場所へ帰りたいことは。
反対ではない。
通りの端。
小さな文具店。
窓に。
薄いノートが並んでいる。
「旅の記録?」
店主が尋ねる。
「まだ旅へ出ていない」
「では予定帳」
「予定もない」
「日記」
「毎日書く気はない」
「何に使う」
「分からない」
「今日は、分からない客が多いな」
「俺以外にも?」
「一人だけだ」
「俺じゃないか」
薄いノート。
表紙には何もない。
「値段は」
「残っている銅貨で買える」
「どうして分かる」
「財布を何度も見ている」
「商人だな」
ノートを買う。
店の外。
最初のページを開く。
何を書く。
少し考える。
『一人で知らない場所を旅し、自分が何を望むか考えたい』
以前の宿題。
その下へ。
今日見つけたことを書く。
『甘い木の実パンは、また食べたい』
『青い器を買った』
『何もしないで眠る時間が欲しい』
『頼まれた時だけでなく、自分が手伝いたい時に手伝いたい』
『誰にも知られない場所は、少し楽だった』
最後。
少し手が止まる。
『それでも、帰って話したい相手がいる』
ノートを閉じる。
「これが」
今の俺の望み。
誰かを守るだけではない。
役に立ち続けることでもない。
一人で歩き。
自分で選び。
何もしない時間を持ち。
また帰る。
「一か月の旅も」
以前より。
少し楽しみになった。
◇
夕食の少し前。
境界門を通る。
家の玄関。
扉の前には。
誰もいなかった。
「あれ?」
居間へ入る。
七人とアステラ。
レオ。
リタ。
フィオナ。
全員。
食卓へ座っていた。
俺を見ても。
走り寄らない。
一斉に話しかけない。
「お帰りなさいませ、先生」
セレスが言う。
「ただいま」
「お怪我は?」
ミレイユ。
「ない」
「食事は?」
アウラ。
「食べた」
「お金は?」
クロエ。
「少し残った」
「危険は?」
エリナ。
「なかった」
「寂しかった?」
ノア。
「少しだけ」
「私たちを思い出した?」
リリス。
「何度かな」
「帰りたいと思った?」
アステラ。
「ああ」
全員の顔が。
少しずつ明るくなる。
「質問は一人一つ」
セレスが説明した。
「家から言われたのか?」
「私たちで決めました」
「本当に?」
「はい」
「もっと聞きたいことはございますが」
「ああ」
「先生から話してくださるまで待ちます」
「成長したな」
八人の頭が。
一斉に動きかけ。
止まった。
「今日は先生の課題」
ノアが言う。
「ああ」
「撫でてほしいけど、待つ」
「後でな」
全員の顔が明るくなる。
「結局、撫でるんだな」
レオが笑う。
「成果報酬だ」
「事業ではないだろう」
「クロエみたいなことを言うな」
フィオナが。
俺の手にある包みを見る。
「それは?」
「買った」
「必要なもの?」
「いや」
「何?」
布を開く。
青い器。
光を受け。
水のような色が浮かぶ。
「きれい」
アステラが言う。
「どちらの世界の物ですか?」
セレス。
「店の老人へ聞かなかった」
「用途は?」
クロエ。
「まだ決めていない」
「先生が?」
全員。
少し驚いている。
「必要だからではなく」
「ああ」
「先生ご自身が欲しいと思って?」
ミレイユが確認する。
「ああ」
「どうして?」
「光へ当たった時の色を、もう一度見たかった」
アステラが。
器を見つめる。
「今日の色ね」
「ああ」
「私の嬉色みたい」
「少し似ているな」
「レオン」
「何だ」
「私へくれる?」
「俺の物だ」
「……」
「貸すことはできる」
「本当に?」
「ああ」
「何に使う?」
「一緒に考えるか」
「ええ」
アステラは。
断られても悲しみすぎず。
俺の物だと認めた上で。
借りる約束をした。
「ほかには?」
リタが尋ねる。
「甘いパンを食べた」
「先生が?」
リリスが驚く。
「甘いものは得意ではなかったはずだ」
「食べてみたら、少し好きだった」
「私が作る」
アウラが言う。
「同じ物は作れないだろう」
「食べに行く」
「今度な」
「みんなで?」
「一度に行くと店が壊れる」
「では、私と先生」
「順番に考える」
アウラが少し不満そうにしながらも。
頷いた。
「何もしない椅子で、一時間寝た」
今度は。
全員が言葉を失った。
「先生が?」
セレス。
「ああ」
「お一人で?」
ミレイユ。
「ああ」
「誰にも起こされず?」
ノア。
「ああ」
「危険では?」
エリナ。
「普通の広場だ」
「その椅子は」
クロエの目が変わる。
「商品化できる可能性が」
「普通の椅子だ!」
「先生が一時間眠れる快適性には価値が」
「作った職人へ相談するなら、勝手にしろ」
「本人の許可を得ます」
「俺の名前は使うな」
「はい」
「先生」
フィオナが静かに尋ねる。
「何もしなくても、平気だった?」
「最初は落ち着かなかった」
「ああ」
「でも」
椅子。
空。
噴水の音。
「世界は終わらなかった」
「そうね」
「俺がいなくても」
「ああ」
「全員、ここにいる」
「ええ」
「帰ってきてもいい?」
自分でも。
なぜ聞いたのか分からない。
居間が静かになる。
セレスが立ち上がりかけ。
止まる。
ミレイユも。
リリスも。
エリナも。
アウラも。
クロエも。
ノアも。
アステラも。
全員。
俺へ抱きつきそうになりながら。
その場で我慢した。
「先生」
セレスが答える。
「何もなさらなくても」
ミレイユ。
「世界を救わなくても」
リリス。
「誰かに勝たなくても」
エリナ。
「ご飯を作らなくても」
アウラ。
「利益を生まなくても」
クロエ。
「誰も見つけなくても」
ノア。
「契約がなくても」
アステラ。
八人の声が。
一つになる。
「お帰りなさい」
胸の奥が。
少し熱くなった。
「ああ」
俺は答える。
「ただいま」
◇
『旦那様の個人課題を評価します』
家の声。
『一人で行動し』
『ご自身で食事を選択』
『必要性のない品を、個人的な好みにより購入』
『休息を受け入れ』
『他者の要望を確認した上で手助けを行い』
『自ら帰宅を選択しました』
「細かく見ていたのか?」
『緊急安全確認のみです』
「監視では?」
『行動結果は、境界門通過時に記録されました』
「ならいい」
『課題の回答をお願いします』
「何を望むか?」
『はい』
俺は。
買ったばかりのノートを開く。
「一つ」
全員が聞く。
「誰も俺を知らない場所で、一人で歩く時間が欲しい」
七人の顔が少し曇る。
「だが」
続ける。
「一人でいることだけが望みではない」
「ああ」
「何もしなくてもいい時間」
「ああ」
「自分で食べたいものや、欲しいものを選ぶ時間」
「ああ」
「助けなければならないからではなく、助けたいから動く時間」
「ああ」
「そして」
全員を見る。
「帰ってきて、見たことを話せる場所が欲しい」
セレスの目が潤む。
「ここを?」
「ああ」
「私たちがいる場所を?」
「ああ」
「先生」
「まだ一か月の旅には行くぞ」
「はい」
「一人で」
「はい」
「だが」
俺は。
青い器へ触れる。
「帰る場所がない旅をしたいわけではない」
アステラが。
涙を拭う。
「帰ってくる?」
「ああ」
「必ず?」
「第七学則を忘れたか?」
「飯を食って寝ろ」
アウラが答える。
「それだけではない」
エリナが言う。
「勇者は最後に帰る」
「ああ」
「でも、必ず帰る」
「そうだ」
「先生も?」
「ああ」
全員の表情から。
不安が少しずつ消えていく。
『個人課題、合格です』
家の壁へ。
大きな文字が表示された。
『旦那様は、他者から必要とされること以外の個人的な望みを確認しました』
「合格か」
『はい』
「では、一か月の旅は?」
『共同生活および教育課程終了後に実施可能です』
八人の表情が。
ほんの少し固まる。
「今、止めようと思った者」
俺が尋ねる。
全員が視線を逸らした。
「思っただけ」
ノアが答える。
「言わなかった」
「それでいい」
「褒める?」
「ああ」
ノアの頭を撫でる。
残り七人が。
静かに列を作る。
「今日は並んでいいのか?」
「成果報酬です」
クロエが答えた。
「事業ではないと言っただろう」
◇
全員の頭を撫で終わった後。
『次の教育課程を発表します』
家の声が響いた。
「まだあるのか」
『はい』
壁へ。
新しい文字。
『これまで、八名は旦那様の望みを勝手に決めないことを学びました』
「ああ」
『旦那様は、ご自身の望みを言葉にすることを学びました』
「ああ」
『次は』
七人とアステラが。
壁を見る。
『旦那様が、八名それぞれへ』
『ご自身のためのお願いを一つずつしてください』
「俺が?」
『はい』
「国のためでも」
『不可です』
「教育のためでも」
『不可です』
「本人の成長のためでも?」
『不可です』
「では」
『旦那様ご自身が、してほしいと思うことを頼んでください』
八人の目が。
一斉に輝いた。
「先生」
セレスが一歩前へ出る。
「私へは、帝国の全領土を」
「いらない」
「では、一日中先生の隣へ」
「まだ決めていない」
「先生」
ミレイユ。
「私には、膝枕を」
「自分から提案するな」
「先生」
リリス。
「翼で包んで眠らせる」
「聞け」
「先生」
エリナ。
「一緒に泳ぐ」
「少し興味はあるが待て」
「先生」
アウラ。
「食べさせて」
「俺から頼む課題だ!」
「先生」
クロエ。
「共同事業を」
「先に契約書を出すな」
「先生」
ノア。
「一晩、同じ影で」
「意味が分からない」
「レオン」
アステラ。
「手をつないで旅へ」
「今は一人旅の話ではない」
『公平性を保つため』
家の声が。
全員を止める。
『お願いの順番は、旦那様が決めてください』
八人の空気が変わった。
「最初」
セレスが呟く。
「先生が、一番最初に頼りたい女性」
ミレイユ。
「最初は、特別」
リリス。
「一番?」
エリナ。
「ご飯なら私」
アウラ。
「選択順位には、明確な市場価値が」
クロエ。
「先生」
ノアが俺を見る。
「誰から?」
アステラも。
静かに俺を待っている。
「家」
『はい』
「順番も、俺自身が決めるのか?」
『はい』
「何を頼むかも?」
『はい』
「断られる可能性は?」
『当然ございます』
八人が一斉に首を振った。
「断りません」
「内容を聞いてから決めろ!」
『旦那様が』
家は続ける。
『相手が断る可能性を受け入れた上で』
『ご自身の望みを相手へ伝えるための課題です』
俺は。
八人を見る。
これまで。
頼られることは多かった。
教えることも。
守ることも。
断ることも。
だが。
俺自身が。
自分のためだけに。
彼女たちへ何かを頼んだことは。
ほとんどない。
「先生」
セレスが静かに尋ねる。
「私たちへ、してほしいことはございますか?」
「今、考えている」
「どのようなことでも」
「先に条件をつけるな」
「……はい」
八人は。
今度こそ。
何も提案せず。
俺の言葉を待った。
誰から頼むか。
何を頼むか。
そして。
断られたら、どうするか。
誰も俺を知らない街で。
自分の望みを見つけたばかりの俺へ。
次は。
その望みを。
大切な女性たちへ伝える課題が始まろうとしていた。
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