第22話 生きるための婚姻契約を解いたら、彼女が初めて自分の意思で俺の隣を選んだ
「核を分ければ、私とレオンを繋いでいた婚姻契約も消える」
アステラの言葉に。
居間が静まり返った。
セレス。
ミレイユ。
リリス。
エリナ。
アウラ。
クロエ。
ノア。
七人全員が。
驚いたように、アステラを見ている。
「確認します」
最初に口を開いたのはクロエだった。
「婚姻契約が消失するとは、法的、魔法的、魂的、どの意味でしょうか」
「全部」
「再契約は?」
「できるわ」
アステラは答える。
「でも、今までと同じ契約はできない」
「なぜですか」
「以前は」
アステラが俺を見る。
「私の核がなければ、レオンは世界から忘れられた」
「ああ」
「レオンの魂がなければ、私は虚無へ溶けた」
「ああ」
「だから、二人で一つの存在として契約した」
「それを婚姻と呼んだのか」
「虚無では、核と魂を交換して一つになることが婚姻よ」
「俺は文化を知らずに血を渡した」
「でも、名前もくれた」
「生きるためだった」
「分かってる」
アステラの声は静かだった。
以前の彼女なら。
虚無の文化では婚姻だ。
契約は成立している。
レオンは夫だ。
そう言い切っていただろう。
「今は」
アステラが続ける。
「私がレオンから離れても、存在できる」
「旅に出たから?」
「それだけではないわ」
「では」
「自分の望みを見つけたから」
光世界の空。
水世界への興味。
影国へ行く約束。
俺の隣にいること以外にも。
アステラは。
少しずつ、自分が見たいものを見つけている。
「私は、虚無の一部ではなくなり始めている」
「人になった?」
リタが尋ねる。
「まだ分からない」
アステラは、自分の手を見る。
「でも、私という形ができた」
「では」
ミレイユが慎重に尋ねる。
「核を分けても、アステラさんは消えないのですね?」
「たぶん」
「たぶん?」
七人の声が重なった。
「アステラ」
俺は彼女を見る。
「危険があるのか」
「少し」
「どの程度だ」
「私が再び虚無へ溶ける可能性は、一パーセント以下」
「一パーセントもあるじゃないか」
「レオンが世界から忘れられる可能性も、一パーセント以下」
「そちらのほうが問題だ!」
「先生」
セレスが俺の腕を掴む。
「契約を解除する必要はございません」
「まだ決めていない」
「危険を冒してまで解除する理由が」
「ある」
アステラが答えた。
セレスが彼女を見る。
「私は」
アステラは。
自分の胸へ手を置く。
「契約があるから、レオンの隣にいるのか」
「ああ」
「契約がなくても、隣にいたいのか」
一度、目を閉じる。
「自分で知りたい」
「答えは分かっているのでは?」
ミレイユが尋ねる。
「私は、レオンが好き」
「では」
「でも」
アステラは首を振った。
「好きだと思うことまで、核に決められているかもしれない」
「核が?」
「レオンの魂と繋がっているから」
俺の痛み。
感情。
生存本能。
魂の揺れ。
すべてをアステラは感じている。
「私が寂しいのは」
「ああ」
「本当に私が寂しいのか」
「ああ」
「レオンが離れることを、核が危険だと判断しているだけなのか」
「ああ」
「分からない」
アステラの声が。
僅かに震えた。
「私は、自分の気持ちだと思いたい」
「だから契約を消す?」
「ええ」
「消した後」
ノアが小さく尋ねる。
「先生を好きじゃなくなったら?」
アステラは。
少しだけ悲しそうに笑った。
「それも、私の答えよ」
誰も言葉を返せなかった。
◇
「反対です」
セレスがはっきり言った。
「どうして?」
アステラが尋ねる。
「先生の存在が失われる危険がございます」
「一パーセント以下」
「ゼロではありません」
「でも、今のままなら」
アステラは俺を見る。
「レオンは、私を捨てられない」
「捨てるつもりは」
「なくても」
彼女は首を振る。
「私が離れれば死ぬから、隣に置く」
「……」
「それは、レオンが選んだことにならない」
俺は。
何も言えなかった。
アステラを放り出す気はない。
大切に思っている。
女性としても、意識している。
だが。
彼女の核が俺の魂にある限り。
俺は彼女へ。
「離れてくれ」
とは言えない。
言えば。
彼女が死ぬかもしれないからだ。
「先生」
セレスが俺を見る。
「契約を残したままでも、先生のお気持ちは変わらないのでは?」
「変わらないと思う」
「でしたら」
「だが」
俺は続けた。
「断れない相手へ、結婚するかもしれないとは言えない」
七人が静かになる。
「アステラが俺を必要とする理由が、生きるためなら」
「ああ」
「俺は、それを恋愛感情として受け取れない」
「先生」
ミレイユが小さく呼ぶ。
「お前たちにも同じだ」
七人を見る。
「国が滅びるから」
「世界大戦が起きるから」
「俺以外では生きられないから」
「そんな理由で、誰か一人を選ぶ気はない」
七人は。
不安そうにしながらも。
俺の話を遮らなかった。
「結婚するなら」
俺は言った。
「俺が選び」
「ああ」
「相手も、自分の人生を持った上で俺を選ぶ」
「ああ」
「そうしたい」
アステラの銀と黒の瞳が。
僅かに潤む。
「レオン」
「何だ」
「契約を消してくれる?」
「安全な方法があるなら」
「ある」
「本当に?」
「七人がいれば」
全員がアステラを見る。
「私たちが?」
エリナが尋ねた。
「レオンの存在を、世界へ繋ぎ止める」
「どうやって」
「覚えていることを、言葉にする」
「思い出?」
「ええ」
アステラは七人を順番に見る。
「レオンが誰なのか」
「ああ」
「何をして」
「ああ」
「どんな声で」
「ああ」
「何を好きで」
「ああ」
「どうやって、あなたたちを見つけたか」
「ああ」
「七人が覚えている限り、レオンは世界から消えない」
「俺自身は?」
俺が尋ねる。
「自分の名前を言い続ける」
「それだけ?」
「簡単に聞こえる?」
「少し」
「虚無では」
アステラの表情が真剣になる。
「自分が誰かを忘れた瞬間、存在がなくなる」
◇
『虚無訪問への参加者を確認します』
家の声が響いた。
「俺とアステラ」
『はい』
「七人」
『存在固定役として必要です』
「レオ」
『旦那様と同一の記憶を持つため、補助固定役』
「リタ」
『旦那様とレオ様を別々の存在として認識できるため、個体識別役』
「フィオナは?」
『人格記録であるため、虚無への長時間滞在は危険です』
「私は留守番ね」
フィオナが壁際で肩をすくめた。
「でも、あなたを忘れたりしないわ」
「ああ」
「帰ってきたら、全部教えて」
「分かった」
『参加者十一名』
「多いな」
「先生が消えるよりよいです」
セレスが即答する。
「誰も先生を忘れません」
ミレイユ。
「世界が忘れても、私が覚えている」
リリス。
「名前を呼び続ける」
エリナ。
「お腹が減っても忘れない」
アウラ。
「食事はしてから行くぞ」
「うん」
「先生の存在価値を、全世界へ証明します」
クロエ。
「価格はつけるなよ」
「今回はつけません」
「先生が見えなくなっても、影から見つける」
ノア。
「頼む」
俺は七人を見る。
「だが」
「はい」
「危険だと判断したら、契約分離は中止する」
アステラの顔が僅かに曇る。
「レオン」
「お前が消える危険もある」
「私は」
「お前の意思を尊重することと」
俺は彼女を見る。
「お前の命を軽く扱うことは違う」
「……」
「生きて戻ることが条件だ」
「分かった」
「本当に?」
「レオンも生きて戻るなら」
「ああ」
アステラが小指を出す。
「約束」
俺も小指を絡める。
「約束だ」
◇
虚無へ繋がる門は。
地下都市の最深部にあった。
黒い扉。
枠だけが存在し。
向こう側には、何も見えない。
「先生」
ノアが俺の袖を掴む。
「怖い?」
「少し」
「私も」
「影国と違うのか?」
「何もない」
ノアは、扉の向こうを見る。
「影は、光がある」
「ああ」
「虚無は、本当にない」
アステラが扉の前へ立つ。
「以前は」
静かに言う。
「ここが、私の全部だった」
「今は?」
「帰る場所の一つ」
「一つ?」
「光世界も」
「ああ」
「水世界も」
「ああ」
「影国も」
「ああ」
「まだ行っていない場所も」
アステラは振り返る。
「私が行きたいと思えば、私の世界になる」
「よい考えだ」
「レオンが教えたのではないわ」
「ああ」
「私が考えた」
「立派だ」
アステラが。
少し嬉しそうに笑う。
「行きましょう」
黒い扉が開いた。
◇
音が消える。
光も。
風も。
上下も。
自分が立っているのか。
落ちているのかさえ分からない。
「レオン・アルヴェイン」
俺は自分の名前を言った。
声は聞こえない。
だが。
言葉だけが。
白い文字となって、目の前へ浮かぶ。
『レオン・アルヴェイン』
七人と。
レオ。
リタ。
アステラ。
全員の姿は見えていた。
ただし。
体の輪郭が。
僅かに透けている。
「先生」
セレスの声も文字になる。
『先生』
「大丈夫か?」
『はい』
ミレイユが自分の胸へ触れる。
『奇跡が使えません』
「使わなくていい」
『神の声も聞こえません』
「不安か?」
『少し』
「俺たちの声は?」
『聞こえます』
「なら大丈夫だ」
リリスが翼を広げようとする。
何も起こらない。
『翼がない』
「見えているぞ」
『重さがない』
「少し楽では?」
『落ち着かぬ』
アウラは、自分の腹を押さえる。
『お腹が減らない』
「虚無だからか」
『怖い』
「そこを怖がるのか」
『食べられない場所』
「帰ったら食べよう」
『うん』
クロエは周囲を見る。
『価値を測れません』
「何もないから?」
『距離も、時間も、量も存在しません』
「商人には困る場所だな」
『ですが』
「何だ」
『値段をつけなくても、ここにいる全員が大切だと分かります』
「成長したな」
ノアは。
俺のすぐ隣にいる。
『影がない』
「ああ」
『隠れられない』
「俺の後ろは?」
ノアが俺の後ろへ回る。
『少し落ち着く』
「なら、そこにいろ」
『うん』
アステラだけが。
虚無の中でも。
はっきりした姿を保っていた。
銀と黒の髪。
二色の瞳。
白い肌。
以前は。
この空間と同じ。
境界のない存在だった。
「アステラ」
『何?』
「今のお前は、虚無の中でも人に見える」
アステラが自分の手を見る。
『本当ね』
「前は違った?」
『レオンが見たい形へ、合わせていただけ』
「今は?」
『私が、この姿でいたい』
「なら、それがお前だ」
アステラは。
少しだけ笑った。
◇
『こちらです』
アステラが歩き始める。
道はない。
だが。
彼女が一歩進むたび。
足元へ星のような光が生まれる。
「これは?」
『私が旅先から持ち帰った色』
白。
光世界の空。
青。
水世界の湖。
黒。
影国の暗闇。
赤。
魔界の雨。
金。
竜の都の鱗。
緑。
薬草園の芽。
虚無の中へ。
アステラが見つけた色が。
小さな道を作っている。
「きれいだな」
『虚無なのに?』
「ああ」
『レオンがいない時に、私が作った』
「そうか」
『私だけで』
「ああ」
『すごい?』
「すごい」
アステラの足元へ。
新しい色が生まれる。
薄い桃色。
「今の色は?」
『分からない』
「嬉しい時の色では?」
『では、嬉色』
「名前は自由につけていい」
『私が決めた名前』
「ああ」
虚無の奥。
巨大な黒い球体が浮かんでいた。
半分は銀。
半分は青白い光。
「核か」
『私とレオンの核』
「どちらが俺だ」
『分からない』
「混ざっている?」
『ええ』
アステラが球体へ手を触れる。
俺の胸が。
強く脈打った。
「痛くはない」
『これから分ける』
「方法は?」
『レオンは、自分の名前を』
「ああ」
『私は、自分の名前を呼ぶ』
「ああ」
『七人は、レオンの記憶を』
「ああ」
『レオは』
アステラがレオを見る。
『レオンではない自分を、言葉にする』
「俺も?」
レオが僅かに目を見開く。
『同じ記憶が二つ存在すると、核が間違えるかもしれない』
「どちらが本物か?」
『ええ』
レオは。
俺と同じ顔で。
少し考えた。
「分かった」
「無理なら中止する」
「いや」
レオが俺を見る。
「俺も知りたい」
「何を」
「俺が、お前ではない理由を」
リタがレオの手を握る。
「レオお父さんは、レオお父さんです」
「それだけで分かれば苦労しない」
「私は分かります」
「どう違う」
「お父さん一号は」
リタが俺を見る。
「困ると、最初に自分で全部やろうとします」
「否定できないな」
「レオお父さんは」
レオを見る。
「困ると、お父さん一号へ押しつけようとします」
「リタ」
「違いますか?」
「……違わない」
「では、別人です」
「判断基準が少し嫌だな」
七人が。
小さく笑った。
虚無の中で。
初めて笑いの色が生まれた。
◇
『始めます』
アステラが核の片側へ立つ。
俺は反対側。
七人と。
レオ。
リタが。
周囲を囲む。
『核を分けた後』
アステラが俺を見る。
『私たちの契約は消える』
「ああ」
『魂の痛みも、感情も、分からなくなる』
「ああ」
『レオンが離れても、私は死なない』
「ああ」
『私が離れても、レオンは世界に残る』
「ああ」
『夫婦ではなくなる』
「元から俺は同意していない」
『最後まで、それを言うのね』
「大切なことだ」
『ええ』
アステラは。
少しだけ笑った。
『それが、レオンだもの』
黒い球体が。
ゆっくり回転を始める。
銀と青白い光が。
引き離されていく。
胸の奥に。
強い痛み。
「レオン・アルヴェイン」
自分の名前を言う。
『私は、レオン・アルヴェイン』
輪郭が。
僅かに薄くなる。
『女帝セレス』
セレスが前へ出る。
『先生は、私の命令を聞かなかった人です』
「最初からそれか」
『皇女だった私へ頭を下げず』
「ああ」
『泣いても、怒っても、食事を抜いても』
「ああ」
『嫌なことは嫌だと言った』
「ああ」
『私の話を、最後まで聞いてくれました』
セレスの赤い瞳が。
俺を見つめる。
『先生は、弱い者の声を聞けと教えた』
「ああ」
『そして』
少し頬を赤くする。
『今の私を、美しいと言ってくださった』
「そこも言うのか」
『大切な記憶です』
俺の輪郭へ。
赤い光が戻る。
『聖女ミレイユ』
ミレイユが続く。
『先生は、暗い神殿の地下で、私の手を取った人です』
「ああ」
『神の声ではなく』
「ああ」
『私自身の声を、最初に聞いてくれました』
「ああ」
『死ぬまで人を救おうとした私へ』
白い光。
『死んだ聖女は誰も救えないと、眠らせた人です』
「嫌がったな」
『三日間、口を利きませんでした』
「覚えている」
『それでも毎日、食事を置いてくれました』
「ああ」
『先生は、奇跡がなくても私を強いと言ってくれました』
白い光が。
俺の手へ戻る。
『魔王リリス』
リリスが前へ。
『先生は、私の焦げたスープを食べた』
「まずかった」
『全部食べた』
「腹が減っていた」
『嘘だ』
「少しは」
『泣きそうな私を見て、残さなかった』
「ああ」
『魔族だからと怖がらず』
「ああ」
『翼を便利だと言った』
「今は美しいとも言った」
リリスの翼が広がりかける。
虚無では動かない。
『今、言った』
「記憶を補強した」
『先生は』
黒い光。
『帰る場所がなかった私へ、喧嘩しても戻れる家をくれた』
黒い光が。
俺の胸へ入る。
『勇者エリナ』
『先生は、勝てばいいと思っていた私へ』
「ああ」
『全員で帰らなければ、勝ちではないと言った』
「ああ」
『最後の一人を助けるため、敵が残る戦場へ戻った』
「あったな」
『私は、先生が死ぬと思って怒った』
「お前も戻ってきた」
『先生を連れて帰るため』
銀色の光。
『今は、戦えない人も帰す』
「ああ」
『先生は、剣を使わない私も強いと言ってくれた』
光が。
俺の足元を支える。
『竜王アウラ』
『先生は、最後のパンを半分くれた』
「ああ」
『私は全部食べた』
「俺の分までな」
『先生は怒った』
「当たり前だ」
『でも、次の日も半分くれた』
「ああ」
『私は、食べ物をもらうことが家族だと思った』
黄金の光。
『今は、私が作った物を食べて喜ぶ人を見るのも好き』
「ああ」
『先生は、私が全部抱えなくてもいいと教えた』
黄金の光が。
俺の腹の辺りへ入る。
『商業王クロエ』
『先生は、金貨一枚にもならない物を、大切にした人です』
「ああ」
『私が捨てようとした、子供の壊れた玩具を直しました』
「持ち主が泣いていたから」
『修理費のほうが高いと申し上げました』
「価値は金額だけではないと言った」
『私は理解できませんでした』
「ああ」
『十年かかりました』
「ああ」
『先生は、今の私にしか作れない市場があると言ってくれた』
緑色の光。
『私の失敗も』
「ああ」
『利益にならない時間も』
「ああ」
『価値があると認めてくれました』
光が。
俺の頭へ入る。
『影の女王ノア』
ノアは。
俺のすぐ前へ立った。
『先生は、暗い場所にいた私を見つけた』
「ああ」
『何も聞かず、引っ張り出さなかった』
「ああ」
『隣に座った』
「ああ」
『三日間』
「長かったな」
『先生が帰らなかったから、私が出た』
「ああ」
『名前を言いたくない私へ、ノアと呼んでいいか聞いた』
「ああ」
『勝手につけなかった』
「ああ」
『先生は』
影ではない。
淡い青色の光。
『今も、私を見失っていない』
「見失っていない」
青い光が。
俺の目へ入る。
輪郭が。
はっきり戻っていく。
「レオン・アルヴェイン」
もう一度。
自分の名前を言う。
『私は、七人を育てた』
「ああ」
『七人に育てられた』
「ああ」
『完全ではない』
「ああ」
『間違える』
「ああ」
『それでも』
俺は。
七人を見る。
『話を聞き続ける』
核の青白い部分が。
俺へ向かって動き始める。
◇
『アステラ』
彼女が。
自分の名前を言った。
『私は、虚無ではない』
銀色の光が。
黒い球体から離れる。
『境界でもない』
一人の女性の形へ集まる。
『レオンの核でもない』
彼女の体が。
僅かに揺らぐ。
「アステラ!」
『続けて』
「危険では?」
『止めないで』
輪郭が。
薄くなる。
『私は』
アステラが、自分の胸へ手を置く。
『光世界の空を見たいと思った』
白い色。
『水世界へ潜りたいと思った』
青い色。
『影国へ行きたいと思った』
黒い色。
『魔界の花を見たい』
紫。
『飛べない竜の谷も』
金。
『自分で選んだ』
色が。
アステラの周囲へ集まる。
『私は』
声が震える。
『レオンがいない場所でも、嬉しいと思った』
アステラの目から。
涙が浮かぶ。
『寂しいとも思った』
「ああ」
『帰って話したいと思った』
「ああ」
『命令ではなく』
「ああ」
『契約でもなく』
「ああ」
『私が、そうしたいと思った』
「ああ」
『だから』
アステラは。
俺を見る。
『私は、アステラ』
銀色の核が。
彼女の胸へ入った。
黒い球体が。
二つに分かれる。
一つは。
俺の胸へ。
一つは。
アステラの胸へ。
その瞬間。
彼女の姿が。
完全に消えた。
「アステラ!」
何もない。
銀色も。
黒色も。
声も。
「中止だ!」
『まだ』
どこからか。
僅かな文字。
『名前を』
「アステラ!」
呼ぶ。
「アステラ!」
七人も。
声を重ねる。
「アステラ!」
「光世界へ行った!」
セレス。
「機械では測れない感情を持つ女性です!」
ミレイユ。
「虚無より、魔界の花を見たいと言った!」
リリス。
「水泳では、私より下手!」
エリナ。
「お菓子を一個しか食べない!」
アウラ。
「旅行費用を自分で管理し始めました!」
クロエ。
「影は、虚無と違うと知りたがった!」
ノア。
「アステラ!」
俺は呼び続ける。
「俺の妻を名乗り続けた!」
『過去形にしないで』
声。
銀と黒の光が。
一点へ集まる。
『私は、まだ妻になりたい』
アステラの姿が。
再び現れた。
「アステラ!」
『レオン』
体は透けていない。
足元には。
彼女自身の影がある。
「大丈夫か?」
『ええ』
「核は?」
『私の中』
「俺は?」
『レオンの中』
胸へ手を当てる。
アステラの感情が。
分からない。
以前なら。
触れなくても。
彼女が不安か。
嬉しいか。
すぐに伝わってきた。
「本当に、分からなくなった」
『何が?』
「お前の気持ち」
アステラが。
少し寂しそうに笑う。
『聞けばいいわ』
「そうだな」
『レオン』
「何だ」
『私は今、嬉しい』
「ああ」
『怖い』
「ああ」
『少し寂しい』
「ああ」
『でも』
アステラは一歩。
俺から離れる。
二歩。
三歩。
十歩。
輪郭は消えない。
苦しそうでもない。
そのまま。
自分の足で俺へ戻ってくる。
『帰りたいと思った』
「ああ」
『契約がなくても』
「ああ」
『レオンの隣へ』
アステラは。
俺の前へ立った。
『これは、私の気持ち?』
「ああ」
『核の命令ではない?』
「ああ」
『では』
涙を流しながら。
笑った。
『私は、レオンが好き』
◇
「契約は?」
セレスが尋ねる。
虚無から帰還した後。
家の居間。
全員が集まっていた。
『虚無婚姻契約の消失を確認しました』
家の声が答える。
七人の表情が。
ほんの少しだけ明るくなる。
「喜ぶな」
アステラが七人を見る。
「これで、アステラさんの婚姻上の優位性は消えました」
クロエが冷静に答える。
「優位性?」
「すでに婚姻済み、という主張ができません」
「でも、レオンの魂と一つになった経験は残るわ」
「過去です」
「レオンと三か月、二人きりだった」
「過去です」
「レオンが、帰りたい場所になった」
「それは現在も?」
セレスが俺を見る。
「俺へ聞くな」
「先生」
ミレイユが静かに尋ねる。
「契約がなくなった今」
「ああ」
「アステラさんを、どのような関係としてお考えですか?」
全員が。
俺を見る。
アステラも。
先ほどまでなら。
生存契約者。
核の共有者。
虚無文化上の妻。
そうした答えがあった。
今は。
何もない。
「共同生活参加者」
アステラの顔が曇る。
「女性として意識している相手」
顔が少し明るくなる。
「俺が、もっと知りたいと思っている女性」
さらに明るくなる。
「そして」
「そして?」
「生きるためではなく、自分の意思で俺の隣へ戻ってきた人」
アステラの瞳から。
また涙が落ちる。
「レオン」
「何だ」
「それは、好き?」
「好意はある」
「結婚したい?」
「まだ分からない」
「では、婚約者候補?」
「七人と同じ、婚姻審査の参加者だ」
七人が僅かに不満そうな顔をする。
アステラは。
ゆっくり頷いた。
「同じ場所から」
「ああ」
「今度は、自分で?」
「ああ」
「分かった」
アステラは俺へ手を差し出す。
「レオン」
「何だ」
「手をつないでいい?」
「今はいい」
手を取る。
以前のように。
生命を維持するためではない。
離れれば死ぬからでもない。
ただ。
互いが望んだから。
つないでいる。
「どうだ?」
「前と違う」
「何が」
「レオンの気持ちが分からない」
「ああ」
「不安」
「ああ」
「でも」
アステラは手を見る。
「握り返してくれたことが、前より嬉しい」
「そうか」
「聞かなければ分からないから」
「ああ」
「これから、たくさん聞く」
「一度に聞きすぎるなよ」
「努力する」
◇
『教育評価を更新します』
家の声が響く。
『アステラ様は、存在依存および強制婚姻契約から卒業しました』
「卒業?」
アステラが尋ねる。
『一部課程の卒業です』
「婚姻申請は?」
『共同生活終了後まで保留です』
「家」
『規則です』
「でも」
アステラは。
以前ほど不満そうではなかった。
「待つわ」
「珍しいな」
「待っても、私は消えない」
「ああ」
「レオンが選ばなくても?」
俺は少し言葉に詰まる。
「それは、つらいと思う」
「ああ」
「でも、生きる」
アステラは七人を見る。
「旅をする」
「ああ」
「光を見て」
「ああ」
「水へ潜って」
「ああ」
「影国へ行って」
「ああ」
「帰ってくる」
「ああ」
「それでも、レオンを好きでいるか確かめる」
「立派だ」
「女性として?」
「一人の女性としてだ」
アステラは。
嬉しそうに笑った。
『次の教育課程を発表します』
「まだあるのか」
『はい』
家の壁へ。
大きな文字が表示される。
『個体独立教育』
「誰の?」
俺が尋ねる。
文字の下へ。
一人の名前。
『レオ』
居間が静かになる。
全員が。
俺と同じ顔を持つ男を見る。
「俺か」
レオは。
少しも驚いていない様子だった。
「知っていたのか?」
「虚無で」
レオが自分の手を見る。
「お前ではない自分を言葉にしろと言われた時から」
「ああ」
「考えていた」
「答えは出た?」
「一つだけ」
「何だ」
「俺は、レオンではない」
「ああ」
「だが」
レオは俺を見る。
「それ以外が、何もない」
俺と同じ記憶。
同じ顔。
同じ声。
同じ癖。
俺の代わりとして作られ。
七人を止めるために現れた存在。
「俺には」
レオは続ける。
「お前が経験した記憶はある」
「ああ」
「だが、自分が経験した人生は、ほとんどない」
リタが。
レオの服を掴む。
「レオお父さん」
「ああ」
「私と一緒にいた時間は、レオお父さんのものです」
「そうだな」
「私を抱いてくれたことも」
「ああ」
「お父さん一号へ仕事を押しつけたことも」
「それは忘れてくれ」
「別人です」
「リタ」
レオが少しだけ笑った。
俺と似た笑い方。
だが。
まったく同じではないように見えた。
「先生」
セレスが俺を見る。
「私たちは、何をすれば?」
『七名とアステラ様には、レオ様をレオン様の代わりとして扱わず』
家の声。
『一人の別人として知っていただきます』
七人の表情が僅かに固くなる。
「私たちは、レオを先生と間違えたことは」
「何回かある」
レオが答える。
「暗い場所では」
ノア。
「同じ匂い」
「少し違う」
アステラ。
「魂は全然違うわ」
「私には、先生の記憶を持つ方として」
ミレイユ。
「それが代わりだ」
レオは、穏やかに言った。
「俺は、レオンの記憶を持っているだけの男ではなくなりたい」
「ああ」
「自分が好きなもの」
「ああ」
「行きたい場所」
「ああ」
「やりたいこと」
「ああ」
「それを見つけたい」
俺は。
レオへ手を差し出した。
「一緒に探すか?」
レオは手を見る。
少し考え。
首を振った。
「最初は、一人で探したい」
「そうか」
「お前がいると」
「ああ」
「お前ならどうするか考えてしまう」
「ああ」
「だから」
レオは。
俺へではなく。
リタへ手を差し出した。
「リタ」
「はい」
「一緒に来るか?」
「どこへ?」
「まだ決めていない」
「行きます」
「即答だな」
「レオお父さんが、どこへ行きたいか見つける旅です」
「ああ」
「私も見つけます」
「何を」
「お父さん二号ではない、レオお父さんを」
レオは。
今度こそ。
俺とは違う顔で笑った。
『レオ様の個体独立課題を登録しました』
家の壁へ。
新しい文字が浮かぶ。
『第一課題』
『レオン様が選ばないものを、一つ選んでください』
レオが文字を見る。
「簡単そうだな」
「俺もそう思う」
『ただし』
「またか」
『嫌いなものを選ぶのではなく、自分が本当に好きなものを選んでください』
レオが黙る。
「難しいな」
「ああ」
「お前の好きなものを聞いても?」
「駄目だ」
「だろうな」
アステラは。
俺とつないでいた手を。
自分からゆっくり離した。
「アステラ?」
「今は、レオの時間」
「離れて平気か?」
「平気」
「寂しくは?」
「少し」
「では」
「でも」
アステラは。
自分の足で一歩下がる。
「離れられることも、私が選んだこと」
「ああ」
「後で、また手をつないでいいか聞く」
「分かった」
生きるための契約は消えた。
それでも。
アステラは、自分の意思で俺の隣へ戻ってきた。
そして次は。
俺の記憶から生まれたレオが。
俺ではない人生を。
自分の手で選び始めようとしていた。
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