第21話 誰もいない影の国へ行ったら、国民全員が俺の寝室に隠れていた
「影国一同」
「導師様の御来訪を」
「心より歓迎します」
俺の寝室。
壁。
床。
天井。
寝台の下。
机の裏。
衣装棚の隙間。
部屋中の影から、小さな声が響いていた。
暗闇の中。
何百もの目が。
一斉に瞬く。
「もう全員、家に来ているじゃないか!」
「全員ではない」
俺の後ろに立つノアが答えた。
「何人いる」
「三百二十七人」
「十分多い!」
「影国の人口は、もっと多い」
「訪問前日に三百人も寝室へ入れるな!」
「先生」
「何だ」
「みんな、自分の意思で来た」
「自主的なら何をしてもいいわけではない!」
天井の影から、申し訳なさそうな声がした。
「導師様のお部屋へ無断で侵入したこと、深くお詫びします」
「分かってくれればいい」
「退出すべきでしょうか」
「ああ」
「承知しました」
次の瞬間。
部屋中の目が消えた。
気配もなくなる。
「素直だな」
「先生の命令だから」
ノアが、少し誇らしげに言う。
「ノアの命令なら?」
「三割くらい残る」
「女王として問題があるぞ」
「私は、帰れと言わない」
「どうして」
「来たい人を追い返したくない」
「俺の寝室だ」
「……」
「ノア」
「分かった」
ノアは部屋の暗がりへ向かって言った。
「次から、先生の部屋へ入る前に聞いて」
壁から、小さな返事。
「承知しました、女王陛下」
「まだいたのか!」
「三割」
「全員帰れ!」
今度こそ。
影の気配が完全に消えた。
「先生」
「何だ」
「みんな、会いたかった」
「それはありがたい」
「でも、姿を見せるのは怖い」
「ああ」
「だから、影から」
「声をかけるだけなら構わない」
「目も?」
「見られ続けるのは落ち着かない」
「一人三秒」
「順番に覗くな」
「……分かった」
◇
影国訪問の前日。
俺はノアと規則を決めることにした。
「一つ」
紙へ書く。
「俺の後を、無断で尾行しない」
ノアの手が止まる。
「先生」
「何だ」
「影国では、護衛と尾行の区別が難しい」
「本人へ知らせていれば護衛だ」
「知らせると、見つかる」
「見つからない位置から守る場合も、先に言ってくれ」
「敵にも?」
「俺にだ」
「先生へ、今から見張ると?」
「見守る、と言え」
「見守る」
「何人で?」
「影国全員」
「多すぎる!」
「一人なら?」
「案内役のお前と、必要な護衛だけだ」
「護衛はいらない」
「どうして」
「私がいる」
「腕輪で普通の女性と同じだろう」
「影国の地形を知ってる」
「迷子防止にはなるな」
「先生の手を引く」
「普通に隣を歩け」
ノアの顔が少し曇る。
「手は?」
「暗くて危ない場所だけだ」
「ずっと暗い」
「わざと照明を消すなよ」
「……分かった」
「二つ」
次を書く。
「影国の秘密を、俺のために無理に公開しない」
ノアが顔を上げる。
「見てほしい」
「ああ」
「全部」
「国民が嫌がるものまで見せる必要はない」
「でも、先生は今の私を知りたい」
「ノアの話を聞けば分かることもある」
「姿を見せない人は?」
「見せなくていい」
「名前を言わない人は?」
「言わなくていい」
「過去を話さない人は?」
「話さなくていい」
「先生」
「何だ」
「それでは、何も分からない」
「姿や名前を知らなくても、今どう暮らしているかは聞ける」
ノアは少し考える。
「無理に光へ出さない?」
「ああ」
「先生も?」
「俺もだ」
「分かった」
「三つ。誰かの秘密を、本人の許可なく俺へ教えない」
「国の機密も?」
「もちろんだ」
「先生になら、全部知ってほしい」
「俺が知りたいか確認したか?」
ノアの動きが止まる。
「……してない」
「秘密は、持っている者のものだ」
「でも、秘密を知れば助けられる」
「知られたくないこともある」
「先生にも?」
「ああ」
「私に隠してる?」
「普通にある」
ノアの目が細くなる。
「何を」
「聞くな」
「気になる」
「駄目だ」
「……分かった」
少し不満そうだが。
それ以上は追及しなかった。
「四つ。俺の持ち物を盗まない」
「盗まない」
即答だった。
「本当に?」
「先生の物は、先生の部屋にある」
「以前、上着が消えた」
「洗濯」
「枕も」
「匂いの確認」
「髪を結ぶ紐も」
「保管」
「全部盗んでいるじゃないか!」
「後で返した」
「無断で持ち出すな」
「……はい」
「影国の歓迎で、俺の物を記念品として持っていくのも禁止だ」
「もう抽選が」
「中止しろ!」
「先生が十年前に使っていた匙」
「家の倉庫にあった物か?」
「うん」
「誰が持っている」
「影国博物館」
「返せとは言わないが、勝手に国宝へするな」
「先生がいいと言えば?」
「匙一つなら」
ノアの顔が明るくなる。
「国宝にする」
「普通に展示しろ」
「一番暗い部屋へ」
「見えないだろう!」
「影国では見える」
「訪問者にも見えるようにしろ」
「努力する」
「最後」
俺は最も重要な項目を書く。
「婚姻に関係する影の儀式をしない」
ノアの視線が紙から逸れた。
「あるんだな?」
「少し」
「どんな儀式だ」
「互いの本当の名前を交換する」
「普通に聞こえる」
「魂へ刻む」
「やめろ!」
「名前が消えても、相手だけは覚えている」
「重いな」
「先生の名前は知ってる」
「儀式として刻むな」
「私の本当の名前は?」
「ノアではないのか?」
ノアは答えない。
「違うのか」
「忘れた」
「自分で?」
「消した」
「どうして」
「影の女王になる時に、以前の名前を捨てた」
「戻したい?」
「分からない」
「では、無理に聞かない」
ノアが俺を見る。
「先生は、知りたくない?」
「お前が話したい時に聞く」
「ずっと話さなかったら?」
「ノアと呼ぶ」
「それでいい?」
「ああ」
ノアは。
少しだけ笑った。
「婚姻の儀式はしない」
「本当に?」
「先生が望んでない」
「ああ」
「でも」
「何だ」
「いつか望んだら、最初に私」
「順番は決めない」
「……分かった」
◇
影国へ同行するのは。
俺。
案内役のノア。
護衛役のレオ。
記録係のリタ。
いつもの四人。
境界門の前。
残る六人とアステラが見送りに来ていた。
セレス、ミレイユ、リリスは休暇中。
休暇中でありながら。
三人とも朝から俺の周囲へいた。
「先生」
セレスが小さな灯りを渡してくる。
「影国は暗いと聞いております」
「ノアが案内する」
「先生がお一人になった時のためです」
「一人になる予定はない」
「万が一」
「受け取っておく」
灯りは小さな石。
魔法を使わずとも、一日ほど光るらしい。
「ノア」
セレスが影の女王を見る。
「先生が転ばれないように」
「転ばせない」
「手を引く名目で、ずっと握ることは?」
「しない」
「本当ですか?」
「必要な時だけ」
ノアは。
俺と決めた規則を、きちんと答えた。
「成長しましたね」
「先生が教えた」
「私も先生の生徒です」
「競うな」
ミレイユは小さな薬箱。
「暗所での目眩や、湿気による冷えへ」
「ありがとう」
「一時間に一度、体調を」
「自分で確認する」
「ノアさん」
「何?」
「先生がお疲れになった場合は、すぐ休ませてください」
「分かった」
「無理に歩かせず?」
「分かった」
「先生が大丈夫とおっしゃっても?」
「本人の言葉を聞く」
ノアはミレイユを見る。
「勝手に決めない」
「……はい」
ミレイユが少し気まずそうに頷いた。
リリスは黒い外套。
「暗闇に紛れる」
「俺まで隠れる必要はない」
「影国の者が落ち着く」
「普通の服でいい」
「では、寒い時に」
「借りる」
エリナは木剣を差し出さなかった。
代わりに。
帰還院の柔らかなパンを渡す。
「暗い場所に隠れている人へ」
「食事が足りない者がいればな」
「ノア」
「何?」
「先生だけに全部あげないで」
「しない」
「本当?」
「先生には、別のパンがある」
「あるのか?」
ノアが自分の制服の中から、小さな包みを出す。
「先生用」
「いつ用意した」
「朝」
「自分で?」
「カイルに教えてもらった」
「焼いたのか?」
「少し焦げた」
「帰ったら食べる」
ノアの顔が明るくなる。
アウラは、大きな肉の包み。
「影の人は、痩せてるかもしれない」
「偏見だ」
「暗いと食べ物が見つからない」
「目は慣れているだろう」
「お肉は大事」
「全員で分けるなら」
「先生の分は別」
「またか」
「小さい」
人間一人分。
アウラにしては本当に小さい。
「成長したな」
「褒めた?」
「ああ」
アウラが頭を差し出す。
「今日は撫でない」
「駄目?」
「駄目だ」
「……分かった」
クロエはノアへ一冊の資料を渡す。
「影国内の無登録居住者支援案です」
「私の国のこと、知ってる?」
「市場から姿を消した方々を追うと、影国へ辿り着くことがございます」
「追った?」
「以前は、債権回収のために」
「今は?」
「困っている方が、なぜ市場から消えるのか知るためです」
ノアは資料を開く。
「先生」
「何だ」
「クロエと一緒に、影国の暗い場所を見る約束」
「ああ」
「今日、先に見てもいい?」
「俺へ聞く必要はない」
「クロエ」
「はい」
「今度、来る?」
「ノアが許可してくださるのであれば」
「うん」
「先生抜きで?」
「うん」
ノアは迷わず答えた。
以前なら。
俺がいない場所へ誰かを案内することも。
自分から誰かを誘うこともなかった。
「楽しんでこい」
「仕事」
「それでも、少しくらい楽しめ」
「努力する」
アステラは。
水世界での練習用に、透明な眼鏡を持っていた。
「水の中で目を開けられたか?」
「これを使えば」
「自分の目では?」
「まだ怖い」
「急がなくていい」
「レオン」
「何だ」
「影の国は、虚無と似ていると思う?」
「行ってみないと分からない」
「暗いだけなら、同じじゃない?」
「ノアは違うと言うだろう」
ノアが頷く。
「影は、光があるからできる」
アステラが驚いたようにノアを見る。
「私が光世界で知ったこと」
「聞いた」
「誰から?」
「先生」
「レオンから?」
「うん」
「私が話したことを、ノアへ?」
「悪いか?」
「……悪くない」
アステラは少し考える。
「私も影国へ行きたい」
「今度、ノアへ頼め」
「ノア」
「何?」
「レオンなしでも案内してくれる?」
ノアは。
少しだけ迷った。
「うん」
「本当に?」
「暗い場所の違いを、教える」
「約束ね」
「うん」
七人とアステラの間にも。
俺を通さない道が。
少しずつ増えている。
◇
影国へ続く境界門は。
地下都市の奥。
何もない壁に隠されていた。
「ここか?」
「うん」
「扉がない」
「ある」
ノアが壁の一部へ手を置く。
石が動く。
その奥。
狭い階段。
「影へ潜るのではないんだな」
「腕輪があるから」
「普段は?」
「影を通る」
「今日は普通に歩く?」
「先生と」
ノアが少し嬉しそうに答えた。
階段を下りる。
十段。
二十段。
五十段。
灯りは少ない。
「手」
ノアが差し出す。
「まだ見える」
「次から暗い」
「必要なら」
階段を曲がる。
本当に。
完全な暗闇になった。
「ノア」
「ここ」
声は近い。
だが姿が見えない。
「手を借りる」
「うん」
小さな手が。
俺の手を握る。
力は弱い。
腕輪で普通の女性と同じ。
「ゆっくり歩けよ」
「分かった」
「レオとリタは?」
「後ろにいます」
リタの声。
「私は壁を触っています」
「俺はリタの肩を掴んでいる」
レオ。
「護衛が最後尾でいいのか?」
「見えない場所から来られたら、俺にも分からない」
「ノア」
「大丈夫」
「どうして」
「影国の人は、先生を傷つけない」
「全員を信じている?」
「全員ではない」
正直だった。
「でも、先生を傷つける人がいたら」
「どうする」
「先に理由を聞く」
「その後は?」
「止める」
「殺さず?」
「必要ないなら」
「成長したな」
握る手が。
少し強くなる。
「褒めた?」
「ああ」
「頭は?」
「歩いている途中だ」
「帰ってから」
「その時にな」
しばらく歩く。
やがて。
遠くに、小さな灯りが見えた。
一つ。
二つ。
何百。
暗闇の中へ。
星のように灯りが浮かぶ。
「着いた」
ノアが言った。
「影国」
◇
国。
というより。
巨大な地下都市だった。
天井は見えない。
建物は黒い石。
道には淡い灯り。
窓は少ない。
人の姿も見えない。
「誰もいないな」
「いる」
「何人?」
「今、この道だけで百二十一人」
「まったく見えない」
「みんな、隠れてる」
店らしい建物。
棚には商品がある。
だが店主はいない。
銅貨を置くと。
商品だけが机の上へ動く。
「普通に商売できているのか?」
「顔を見せたくない人もいる」
「声だけで?」
「うん」
路地の奥から。
小さな声。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
俺が返す。
しばらく沈黙。
「導師様ですか?」
「ああ」
「本当に?」
「たぶん」
「先生」
「冗談だ」
声の主が。
少し笑った。
「怖くないのですか?」
「何が」
「姿が見えない者と話すことが」
「ノアで慣れている」
「先生」
「褒めている」
路地の影から。
小さな手だけが出る。
黒い果物を一つ差し出した。
「贈り物です」
「値段は?」
「いりません」
「無料提供は禁止していないが」
「受け取ってもらいたいだけです」
「では、ありがとう」
果物を受け取る。
手はすぐに消えた。
「食べられる?」
リタが尋ねる。
「影梨」
ノア。
「食べると、三時間だけ足音が消える」
「便利だな」
「でも、くしゃみは大きくなる」
「どうして」
「分からない」
「帰ってから食べる」
道を進む。
建物の壁には。
名前のない札が並んでいた。
「これは?」
「住民登録」
「名前が書いていない」
「番号もない」
「どうやって管理する」
「本人が、登録証を持つ」
「国側は?」
「住んでいる人数だけ知る」
「名前を知らずに?」
「名前を知られたくない人が多い」
「犯罪者もいる?」
「いる」
「罪から逃げた者?」
「いる」
「それも守るのか?」
ノアは。
すぐには答えなかった。
「最初は、全部守った」
「今は?」
「したことを聞く」
「理由も?」
「うん」
「被害を受けた者は?」
「話を聞く」
「必要なら、元の国へ返す?」
「うん」
「逃げたいからと、すべて隠すわけではないんだな」
「前は、隠した」
ノアは自分の手を見る。
「見つからなければ、誰も傷つかないと思った」
「ああ」
「でも、見つからないことで傷つく人もいた」
◇
ノアが最初に案内したのは。
『名前を置く部屋』
と書かれた建物だった。
「名前を置く?」
「自分の名前を使いたくない人が来る」
中には。
何も書かれていない紙。
黒い箱。
小さな机。
姿の見えない案内役の声。
「いらっしゃいませ」
「何をする場所だ?」
「過去の名前を使わず、影国で暮らすための手続きを行います」
「新しい名前をつける?」
「希望する方には」
「名前を持たないことも?」
「選べます」
ノアが。
一つの黒い箱へ触れる。
「私も、ここへ名前を置いた」
「昔の名前を?」
「うん」
「取り出せる?」
「鍵がない」
「誰が持っている」
「昔の私」
「なくしたのか」
「たぶん」
俺は。
箱へ触れない。
「先生」
「何だ」
「開けたい?」
「ノアが開けたいなら」
「私は」
少し考える。
「まだ、分からない」
「では、そのままでいい」
「本当に?」
「ああ」
「昔の名前を知らなくても?」
「今のお前はノアだ」
「先生がつけた名前じゃない」
「誰がつけた」
「私」
「なら、お前が選んだ名前だ」
ノアの瞳が。
少し揺れた。
「自分で選んだ」
「ああ」
「先生は、それでいい?」
「いい」
ノアは。
黒い箱から手を離した。
「先生」
「何だ」
「少し、嬉しい」
「そうか」
◇
次に向かったのは。
影国の中心。
大きな広場だった。
ただし。
誰もいない。
「ここで何をする」
「困っている人の声を聞く」
「広場で?」
「うん」
中央には。
巨大な黒い箱。
四方に穴。
『言えないことを、ここへ』
と書かれている。
「相談箱?」
「名前はいらない」
「誰が読む」
「影国の聞き手」
「ノアも?」
「前は全部」
「何件くらい」
「一日、五千」
「多すぎる!」
「全部読んだ」
「いつ寝ていた」
「二時間」
「お前も一週間休暇だ!」
ノアの目が少し大きくなる。
「私も?」
「当然だ」
「影国の相談は?」
「お前以外の聞き手がいるだろう」
「いる」
「なら任せろ」
「でも」
「一週間だ」
「理由は?」
「倒れてほしくない」
ノアは。
俺を見る。
「先生が、心配?」
「当たり前だ」
「女性として?」
「また、その確認か」
「大事」
「一人の大切な女性としてだ」
ノアの顔が。
ゆっくり赤くなる。
「一週間」
「ああ」
「先生の家で?」
「共同生活中だからな」
「天井裏?」
「自分の部屋」
「先生の隣の部屋」
「今の部屋がそうだろう」
「……分かった」
「本当に休めるか?」
「先生が望むなら」
「お前自身も休みたいと思ってくれ」
ノアは相談箱を見る。
「分からない」
「なら、一週間で考えろ」
「何を?」
「休んで何をしたいか」
「先生を見る」
「俺以外だ」
「難しい」
「宿題だな」
ノアは少し考え。
頷いた。
「先生」
「何だ」
「相談箱の最初の手紙、見る?」
「本人の許可は?」
「ない」
「なら見ない」
「昔のものでも?」
「見ない」
「先生なら、助け方が分かるかもしれない」
「ノアはどうした」
「最初の手紙は」
声が小さくなる。
「助けられなかった」
◇
広場の奥。
小さな部屋。
壁には。
何も書かれていない紙が一枚だけ飾られていた。
「白紙?」
「消えた」
「何が」
「最初の相談」
ノアは。
十年前。
俺がいなくなった後。
自分の影の力を使い。
世界中の秘密を集め始めた。
「先生を探すため?」
「うん」
「それで」
「助けてほしい声も、たくさん聞こえた」
ある夜。
名前のない相談が届いた。
『ここから消えたい』
ノアは。
その者を。
影へ連れ去った。
「助けたと思った」
「ああ」
「でも、その人は」
家族へ別れを言いたかった。
自分を苦しめた者の罪を明らかにしたかった。
消えたかったのではなく。
苦しみから逃れたかった。
「私は、全部消した」
「何を」
「名前」
「記録」
「住んでいた証拠」
「その人を傷つけた者の記憶も」
「そこまで?」
「誰にも見つからなければ、安全だと思った」
「本人は?」
「泣いた」
ノアの声が震える。
「自分が生きていたことまで、なくなったと言った」
「……」
「私は」
ノアは。
両手を握る。
「助けたのに、どうして泣くのか分からなかった」
「話を聞いた?」
「最初は、聞けなかった」
「自分が間違えたと思いたくなかった?」
「うん」
正直だった。
「先生なら、助けられた」
「俺でも間違えたかもしれない」
「先生は聞く」
「今のお前も聞ける」
「その人は、影国を出た」
「元の場所へ?」
「うん」
「危険では?」
「証拠を集めた」
「名前を戻した」
「裁判に出た」
「ノアが手伝った?」
「見つからない場所から」
「本人の許可を得て?」
「うん」
「結果は?」
「勝った」
相談を送った者は。
自分を傷つけた者の罪を明らかにし。
家族へ戻り。
今は影国の外で暮らしている。
「では、助けられたんだな」
「最初は傷つけた」
「ああ」
「先生」
「何だ」
「私は、守るためなら、消していいと思ってた」
「ああ」
「名前も」
「場所も」
「悪い人も」
「嫌な記憶も」
「ああ」
「でも」
ノアは白紙を見る。
「その人の大切なものまで、私が決めて消していた」
「気づいた?」
「うん」
「それから?」
「影国に、出口を作った」
「出口?」
「隠れるだけじゃなく」
ノアは扉を開く。
その先。
いくつもの窓口。
『帰りたい』
『訴えたい』
『名前を戻したい』
『新しい場所へ行きたい』
『まだ隠れていたい』
さまざまな札が並ぶ。
「自分で選ぶための場所か」
「うん」
「ノアが決めず?」
「うん」
「時間がかかる者は?」
「待つ」
「何年でも?」
「うん」
「立派な国になったな」
ノアが俺を見る。
「本当?」
「ああ」
「暗いだけの国じゃない?」
「姿を隠すための国でもある」
「ああ」
「だが」
俺は窓口を見る。
「自分で、いつ姿を見せるか選べる国だ」
ノアの目が。
僅かに潤む。
「先生」
「何だ」
「私は、影の女王として」
「ああ」
「立派?」
「立派だ」
「本当?」
「自分の間違いを認め」
「ああ」
「隠すことしか知らなかった者たちへ、選ぶ道を作った」
「ああ」
「俺は、今のノアを誇りに思う」
ノアの唇が震えた。
「先生」
「何だ」
「女性としても?」
「誰にも見つけてもらえない者を見つけ」
「ああ」
「自分の答えを押しつけず、待てるようになったお前を」
俺は答える。
「一人の女性として、前よりずっと好きになれそうだと思う」
ノアは。
動かなかった。
「ノア?」
「……」
「聞こえたか?」
「うん」
「大丈夫か?」
「動けない」
「どうして」
「嬉しすぎる」
目から。
静かに涙が落ちる。
「先生」
「何だ」
「抱きついていい?」
「少しだけなら」
ノアは。
一歩。
また一歩。
ゆっくり俺へ近づく。
そして。
腕を回す前に。
「本当にいい?」
「聞き直さなくていい」
「嫌になったら言って」
「ああ」
「すぐ離れる」
「ああ」
ようやく。
ノアが俺へ抱きついた。
腕輪によって。
力は普通の女性と同じ。
影へ消えることもない。
ただ。
小さな体で。
俺の胸へ顔を埋めている。
「先生」
「何だ」
「見つけてくれて、ありがとう」
「昔の話か?」
「今も」
「俺は、お前を見失っていない」
「うん」
「これからも、何も言わず影へ消えるなよ」
「先生も」
「ああ」
「約束」
「約束だ」
◇
影国の奥。
ノアが最後に案内したのは。
小さな学校だった。
「子供の?」
「うん」
「姿が見えないな」
「隠れてる」
教室の机。
椅子。
教本。
だが。
生徒の姿はない。
黒板へ。
白い文字だけが浮かぶ。
『こんにちは』
「こんにちは」
俺が答える。
次の文字。
『本当に先生?』
「ノアの先生ではある」
『世界の先生?』
「勝手にそう呼ばれている」
教室のあちこちから。
小さな笑い声。
『ノア様は、昔から暗い?』
「昔は今より、よく天井裏にいた」
「先生」
「事実だ」
『ご飯は?』
「俺の皿から勝手に取った」
「少し」
『怒られた?』
「一緒に食べろと言った」
『ノア様、泣いた?』
「泣いた」
「先生!」
「昔の話だ」
笑い声が増える。
一人。
机の下から。
小さな顔が出た。
黒い髪。
片目だけ。
「こんにちは」
俺が言う。
「……こんにちは」
「出てきてくれてありがとう」
「怖くない?」
「少し緊張している」
「導師様でも?」
「ああ」
「ノア様も?」
「人が多いと怖い」
ノアが答える。
「女王なのに?」
「怖いものは、怖い」
「隠れてもいい?」
「うん」
「出たくなったら?」
「出ていい」
「また隠れたくなったら?」
「隠れていい」
子供は。
少しだけ机の下から出る。
「ノア様」
「何?」
「今日だけ、隣に座って」
ノアが近づこうとする。
途中で止まる。
「座っていい?」
「うん」
許可を聞いてから。
ノアは子供の隣へ座った。
教室の影から。
一人。
また一人。
子供たちが姿を見せる。
完全には出ない者もいる。
声だけの者。
手だけの者。
文字だけの者。
それでいい。
「先生」
ノアが俺を見る。
「みんなを見つけた」
「ああ」
「でも」
「何だ」
「先生が、私も見つけた」
「ああ」
「だから」
ノアは。
子供たちを見る。
「私も、待てた」
誰かを。
無理に影から引き出すのではなく。
出てくるまで。
隣で待つ。
影の女王が。
十年かけて覚えたことだった。
◇
帰る前。
影国の広場へ戻る。
最初は誰もいなかった道。
今は。
少しずつ。
人の姿が見えていた。
顔を布で隠す者。
背中だけの者。
遠くの窓から見る者。
影から手を振る者。
「導師様」
一人の老人が、姿を見せた。
「今日は、ありがとうございました」
「俺は見ただけだ」
「それで十分です」
「どうして」
「我々は」
老人は周囲を見る。
「見つけてほしい時と、見つけてほしくない時がございます」
「ああ」
「どちらも、わがままだと思っておりました」
「そんなことはない」
「ノア様は」
老人が微笑む。
「どちらでもよいと言ってくださいました」
姿を消しても。
出てきても。
名前を捨てても。
戻しても。
影国を故郷にしても。
外へ帰っても。
「よい女王だな」
「はい」
老人は迷わず答えた。
「世界で一番」
「世界一」
ノアが小さく呟く。
「競うなよ」
「嬉しい」
「それならいい」
広場の影から。
次々に声が上がる。
「ノア様、ありがとうございます」
「女王陛下」
「ノア様」
ノアは。
俺の後ろへ隠れようとした。
途中で止まる。
「ノア?」
「恥ずかしい」
「隠れてもいいぞ」
「でも」
「今は?」
「少し、見てほしい」
ノアは。
俺の隣へ立った。
完全な光の下ではない。
影の境目。
それでも。
国民から見える場所へ。
「みんな」
声は小さい。
だが。
影国は静かだ。
全員へ届いた。
「私は」
一度、言葉を止める。
「全部、守れない」
以前なら。
世界中の影を支配し。
すべての脅威を消すと宣言しただろう。
「でも」
ノアは続ける。
「話を聞く」
「隠れたい人も」
「出たい人も」
「帰りたい人も」
「ここにいたい人も」
「全部」
影の中。
何人もの目が。
静かに瞬く。
「一緒に、考える」
大きな歓声はない。
拍手も少ない。
影国らしく。
小さな音。
壁を指で叩く音。
机を軽く叩く音。
窓を開閉する音。
無数の小さな音が。
広場へ響いた。
「何の音だ?」
「影国の拍手」
ノアが答える。
「静かだな」
「みんな、音が苦手」
「でも、聞こえた」
「うん」
ノアは。
少しだけ胸を張った。
◇
地下都市へ戻る。
境界門の前。
残る六人とアステラが待っていた。
「お帰りなさいませ、先生」
「ただいま」
「影国はいかがでしたか?」
セレスが尋ねる。
「最初は誰もいなかった」
「最後は?」
「姿を見せたい者だけ、出てきた」
「ノアは?」
「立派な影の女王だった」
ノアが。
俺の後ろから顔を出す。
「先生に、誇りに思うって言われた」
残る六人の表情が固まる。
「女性としても?」
ミレイユが尋ねた。
「前よりずっと、好きになれそうだって」
「ノア!」
「大事」
「全員、そこを報告する決まりなのか?」
「共有」
クロエが答える。
「都合のよい時だけ情報共有するな」
アウラがノアへ近づく。
「影国、暗かった?」
「うん」
「飛べない竜も、暗い場所へ隠れる」
「今度、行く」
「先生なしで?」
「うん」
「約束」
二人が手をつなぐ。
アステラも近づく。
「私も影国へ行きたい」
「案内する」
「虚無との違いを教えて」
「うん」
「レオンなしでも?」
「うん」
三人の間で。
俺のいない予定が決まっていく。
「先生」
ノアが俺を見る。
「少し寂しい?」
「少しは」
ノアの顔が明るくなる。
「でも、行ってこい」
「うん」
「楽しんで」
「努力する」
『影の女王ノア様の一週間休暇を登録しました』
家の声が響く。
「ノアも?」
クロエが尋ねる。
「一日五千件の相談を、一人で読んでいた」
「それは非効率です」
「クロエ」
ノアが少し警戒する。
「仕事を取らないで」
「取りません」
「では?」
「分担する仕組みを、一緒に考えます」
「私が頼んだら?」
「はい」
「今度、影国で」
「承知しました」
ノアは。
少しずつ。
ほかの六人へ頼ることも覚え始めている。
「これで」
俺は七人を見る。
「七人全員の国を見たな」
「まだです」
アステラが言った。
「何が?」
「私の虚無」
「そうだったな」
七人。
女帝。
聖女。
魔王。
勇者。
竜王。
商業王。
影の女王。
そのすべての十年間を。
俺は、少しずつ知った。
次は。
俺が三か月を過ごし。
アステラが永い時間を一人で守ってきた。
虚無の世界。
「レオン」
「何だ」
「虚無へ行く前に、一つ伝えることがあるわ」
アステラの表情は。
いつもの明るいものではなかった。
「どうした」
「私が旅へ出たことで」
「ああ」
「境界核が、少し変わった」
「危険なのか?」
「今すぐではない」
「では、何が」
アステラは。
自分の胸へ手を置く。
「私がレオンから離れても生きられるようになった代わりに」
静かに続ける。
「レオンも、私の核なしで存在できる可能性が生まれた」
七人が息を呑む。
「それは、よいことでは?」
セレスが尋ねる。
「ええ」
アステラは頷く。
「でも」
俺を見る。
「核を分ければ、私とレオンを繋いでいた婚姻契約も消える」
教室も。
国巡りも。
共同生活も。
すべてで。
少しずつ自分の望みを見つけてきたアステラ。
その結果。
彼女は。
俺へ依存しなければ存在できない状態から。
初めて。
自分の意思で。
俺と離れられるようになろうとしていた。
「レオン」
「何だ」
「虚無で、選んでほしい」
アステラは。
少し寂しそうに笑った。
「私を生かすための契約ではなく」
一人の女性として。
まっすぐ俺を見る。
「それでも、私と繋がっていたいと思うかを」
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