第18話 戦闘禁止で勇者の国へ行ったら、三千人が全力で何もしない大会を開いていた
『決闘禁止の御意向、承知いたしました』
勇者連合から届いた通信は、そこまではよかった。
『代わりに、全勇者による筋力測定大会を開催します』
「戦いと同じだ!」
『剣を振ることは禁止とのことですので、素手で巨大岩を持ち上げます』
「もっと危ない!」
『なお、導師レオン様用の岩は、初心者向け五トンをご用意します』
「持てるわけがない!」
俺は通信具へ向かって叫んだ。
向こうから、戸惑った男の声が返ってくる。
『五トンでは、軽すぎましたでしょうか』
「重すぎる!」
『では、一トンへ』
「重さを減らせという意味ではない! 岩を持ち上げる行事そのものを中止しろ!」
『しかし、決闘も剣技披露も禁止となりますと、勇者らしい歓迎ができません』
「普通に挨拶して、街を案内してくれればいい」
『普通に』
「ああ」
『勇者の普通とは、朝の鍛錬から始まります』
「見学するだけなら」
『朝五時より百キロ走』
「しない」
『続いて、崖登り』
「しない」
『滝へ打たれながら精神統一』
「しない」
『魔物の巣を素手で――』
「絶対にしない!」
通信の向こうが静かになる。
『では、導師様は何をなさりたいのでしょう』
「勇者連合の普段の暮らしを見たい」
『普段の暮らし』
「会議。訓練。食事。勇者が戦い以外に何をしているのか。それで十分だ」
『戦い以外に、ですか』
返事が遅い。
通信の向こうでは、複数の者が相談しているらしい。
『申し訳ございません』
「何だ」
『戦い以外の勇者らしい活動について、緊急会議を行います』
「今まで何をしてきたんだ!」
通信が切れた。
俺は隣に立つエリナを見る。
「勇者連合は大丈夫なのか?」
「強い」
「強さ以外を聞いている」
「みんな、いい人」
「それは分かる」
「困っている人がいれば、助ける」
「具体的にどうやって?」
「魔物を倒す」
「魔物がいない時は?」
「出るまで鍛える」
「戦いから離れろ!」
エリナは困ったように黙った。
彼女には、家から宿題が出されている。
『戦闘を行わず、旦那様へ現在の自分を知っていただく』
剣を振らない。
拳を使わない。
岩も持ち上げない。
ただ、今のエリナを見せる。
「先生」
「何だ」
「勇者は戦う人」
「それだけか?」
「敵を倒して、人を守る」
「敵がいなければ、人を守れないのか?」
「……分からない」
エリナは腰の木剣へ触れる。
抜くことは禁止されている。
触れるだけなら認められていた。
「三日考えたんだろう」
「うん」
「何を考えた?」
「剣を抜かずに、剣の説明をする」
「結局剣だな」
「今まで倒した敵の話」
「戦いだ」
「勇者連合の強い人を紹介する」
「強さだ」
「先生に、私の勲章を見せる」
「何の勲章だ?」
「倒した魔王軍の数」
「全部同じじゃないか」
エリナの肩が落ちる。
「ごめん」
「叱っているわけではない」
「でも、見つからなかった」
「なら、一緒に探す約束だったな」
「うん」
「勇者連合へ行ってから考えよう」
「先生」
「何だ?」
「戦う私が嫌い?」
「嫌いではない」
「剣を振る私は?」
「昔からよく知っている」
「では、どうして戦わない私を見たいの?」
「お前が勇者として生きた十年は、戦いだけではないと思うからだ」
「戦ってばかりだった」
「本当に?」
「たぶん」
「自分でも分かっていないんだろう」
エリナは少し考える。
「先生が、見つける?」
「一緒にな」
「約束」
「ああ」
◇
勇者連合訪問前日。
俺は規則をまとめた。
「一つ。決闘をしない」
「はい」
エリナが答える。
「二つ。模範試合をしない」
「はい」
「三つ。岩を持ち上げない」
「先生」
「何だ」
「岩を動かさないと、道が塞がっている場所がある」
「作業なら構わない。歓迎行事として持ち上げるな」
「分かった」
「四つ。俺を戦闘へ参加させない」
「逃走戦も?」
「駄目だ」
「鬼ごっこは?」
「普通の遊びならいい」
「勇者三千人で先生を追う」
「それを逃走戦と言うんだ!」
「子供だけ?」
「子供と遊ぶ程度なら」
「現役勇者にも、心は子供の人がいる」
「参加人数は十人までだ」
「分かった」
「五つ。婚姻を賭けた勝負をしない」
エリナの手が止まる。
「先生」
「何だ」
「勇者連合には、勝者が望む相手へ求婚できる大会がある」
「俺を賞品にするな」
「私が優勝する」
「そういう問題ではない」
「先生は参加しなくていい」
「お前が勝手に求婚権を取るんだろう」
「うん」
「駄目だ」
「理由は?」
「勝負で婚姻相手を決める気はない」
「私が勝っても?」
「勝ってもだ」
「……分かった」
本当に諦めた。
少し寂しそうではある。
「代わりに」
俺は続ける。
「今のエリナを、ちゃんと見せてくれ」
「戦わずに」
「ああ」
「まだ分からない」
「分からないままでいい」
「先生が探してくれる?」
「お前と一緒にだ」
エリナの顔が少し明るくなる。
「最後」
「うん」
「俺への歓迎で、勇者連合全員が無理をしない」
「無理?」
「徹夜で訓練したり、怪我を隠したり、腹が減っているのに食べなかったりするな」
「勇者なら平気」
「第七学則を忘れたか?」
「飯を食って寝ろ」
「そうだ」
「先生」
「何だ」
「勇者連合の食堂は量が多い」
「アウラを連れていくなよ」
食堂の外から声がした。
「呼んだ?」
「呼んでいない!」
扉の隙間からアウラの顔が出ている。
「量が多い食堂?」
「今回は留守番だ」
「普通の女として見学する」
「次はお前の竜の都だ」
「勇者のご飯も気になる」
「帰ったら話す」
「持って帰る?」
「残った物があれば」
「約束」
「食べ残しを期待するな」
◇
出発当日。
境界門の前には。
残る六人とアステラが並んでいた。
セレス、ミレイユ、リリスは一週間の休暇中。
三人とも、休暇中とは思えないほど朝から俺の支度を手伝おうとした。
家によって全員止められた。
「先生」
セレスが布の袋を差し出す。
「昼食です」
「勇者連合で用意されている」
「万が一、筋力を優先し味を考えていない料理だった場合に」
「偏見だろう」
「勇者連合の保存食を食べたことがございます」
「どうだった」
「石に近いものでした」
「食べ物なのか?」
「栄養価は高いそうです」
袋だけ受け取る。
「使わなかったら返す」
「先生が召し上がらなくても、レオさんが」
「俺を処理係にするな」
レオが嫌そうに答えた。
ミレイユは薬箱。
「筋肉痛、打撲、骨折、裂傷、火傷、毒、呪い、石化へ対応できます」
「戦わないと言っている」
「勇者連合ですので」
「偏見だ」
「昨日の時点で、歓迎準備中に三十二名が骨折したそうです」
「何を準備した!」
「五トンの岩を運ぶ途中に」
「中止させたはずだろう!」
「現在は治療済みです」
「最初から運ぶな!」
リリスは黒い外套を渡す。
「防具だ」
「魔界の物?」
「勇者は人間への加減が苦手だ」
「戦わない」
「握手だけで骨が折れる可能性がある」
「そんな強く握るのか?」
「勇者式の挨拶は、力比べ」
「普通に握るよう伝えてくれ、エリナ」
「分かった」
クロエは勇者連合の財政資料。
「なぜ持っている」
「勇者連合は、魔物討伐報酬へ依存した経済構造です」
「魔物が減ったら困るのか?」
「はい」
「戦争世界と似ているな」
「戦いがなくなった後の仕事を考える上でも、興味深い事例です」
「エリナの国を商売の材料としてだけ見るなよ」
「先生」
「何だ」
「私は利益だけを見ておりません」
クロエは少し真剣な顔になる。
「戦う必要がなくなった者が、どう生きるか」
「ああ」
「それを考えることは、私の望む市場と繋がっています」
「分かった。帰ったら話そう」
「はい」
ノアは小さな鍵を渡してきた。
「何の鍵だ」
「影の避難所」
「勇者連合にあるのか?」
「昔作った」
「国家権力では?」
「十年前」
「何のために?」
「エリナが怪我をしても、誰にも言わず戦いへ行くから閉じ込めるため」
「避難所ではないな」
「休憩所」
エリナが鍵を見る。
「まだあったの?」
「ある」
「何回閉じ込めた」
「二十七回」
「全部出た」
「壁を壊して」
「お前たち、何をしていたんだ」
「先生がいなかったから」
「俺がいても壁を壊すな」
アステラは、今日は旅へ出ない。
光世界の次に行く水世界について、ミレアと相談する日だった。
「レオン」
「何だ」
「勇者の国には、どんな色があると思う?」
「剣の銀色と、血の赤色と言いたいところだが」
エリナを見る。
「それ以外を探してくる」
「帰ったら教えて」
「ああ」
「私は、水の中の色を聞いてくる」
「楽しみにしている」
アステラは一歩だけ近づく。
抱きつかない。
手も握らない。
「いってらっしゃい」
「行ってくる」
七人とアステラが。
少しずつ。
送り出すことへ慣れ始めている。
◇
勇者連合の本拠地。
境界門を抜けた瞬間。
「動くな!」
大声が響いた。
俺は足を止める。
「何だ!」
「歓迎行事です!」
目の前。
三千人を超える勇者が、広大な広場へ並んでいた。
全員。
直立不動。
剣を抜かず。
拳も握らず。
岩も持ち上げず。
呼吸さえ浅い。
「何をしている」
「導師様より、戦うな、動くな、無理をするなとの御命令を受けました!」
「動くなとは言っていない!」
「では、動いても?」
「普通にしてくれ!」
「普通に!」
先頭の男が振り返る。
「全員、勇者の普通を開始!」
三千人が一斉に動いた。
剣へ手を伸ばす。
「抜くな!」
一斉に止まる。
腕立て伏せを始めようとする。
「鍛錬も今はするな!」
止まる。
互いへ向き合い、組み手の姿勢。
「戦うな!」
止まる。
最後。
三千人全員が。
その場へ座った。
「どうして座る」
「戦わず、鍛えず、岩も持ち上げない場合、我々には座ることしかできません!」
「ほかにすることがあるだろう!」
「食事ですか!」
「食事以外にも!」
「睡眠!」
「第七学則だけに寄りすぎだ!」
三千人の勇者が、困った顔で俺を見ている。
本当に。
戦い以外の過ごし方が分からないらしい。
「エリナ」
「何?」
「お前も昔はこうだったのか」
「私は、もっと戦ってた」
「悪化しているじゃないか」
先頭の男が一歩前へ出た。
年齢は五十ほど。
片目に傷。
大きな体。
背中には、巨大な剣。
「勇者連合総長、バルガスと申します」
「レオンだ」
「握手を!」
「普通の強さでな」
「承知しました!」
手を握る。
骨が鳴った。
「痛い!」
「申し訳ございません! 一割まで抑えました!」
「一分以下にしろ!」
「これ以上弱く握った経験がありません!」
「では、触れるだけでいい!」
もう一度。
今度は手のひらが軽く触れるだけ。
「これで挨拶になるのですか?」
「なる」
「力を確認せず?」
「ああ」
「相手が敵かもしれなくても?」
「初対面で全員を敵扱いするな」
バルガスは感動したように自分の手を見る。
「なんと高度な技術」
「普通の握手だ!」
エリナが俺たちの隣へ立つ。
「バルガス」
「エリナ様!」
「今日は戦わない」
「承知しております!」
「先生に、勇者連合を見せる」
「全勇者の筋肉は隠しております!」
「筋肉は服の下にあるだろう」
「上半身を脱ぐことを禁止しました!」
「当然だ」
広場にいる勇者全員が。
鎧の下へ、妙に厚い服を着ていた。
筋肉を見せないためらしい。
「服が窮屈で、何名か呼吸困難へ」
「無理をするなと言っただろう!」
「直ちに脱衣を!」
「鎧だけ外せ! 全部脱ぐな!」
訪問開始から。
何一つ普通ではなかった。
◇
勇者連合の街は。
巨大な訓練場を中心に作られていた。
武器屋。
防具屋。
治療院。
宿屋。
酒場。
討伐依頼所。
戦いへ必要な施設は揃っている。
「普通の商店は?」
「武器屋の隣に少し」
エリナが指さす。
小さな八百屋。
ただし。
売っている野菜は、握力訓練用の硬い根菜ばかりだ。
「柔らかい野菜は?」
「食べ応えがない」
「食事まで鍛錬か」
「顎が強くなる」
「胃を休ませろ」
パン屋へ入る。
パンを持ち上げる。
重い。
「中に何が入っている」
「鉄粉です!」
店主が胸を張る。
「食べるな!」
「貧血予防です!」
「量が多すぎる!」
「勇者は血を失いますので!」
「戦わない日に食べるパンを作れ!」
店主が固まる。
「戦わない日に?」
「ああ」
「何のためにパンを?」
「腹を満たすためだ!」
街全体が。
戦うために作られている。
休むことさえ。
次の戦いへ備えるため。
「エリナ」
「何?」
「お前が泳ぎを楽しいと思った理由が分かってきた」
「どうして?」
「勝つためではないことを、今までほとんどしてこなかったんだな」
エリナは街を見る。
「勇者だから」
「勇者になる前は?」
「剣を振ってた」
「もっと前」
「先生に拾われた」
「拾われる前だ」
エリナは黙った。
「覚えていないのか?」
「毎日、戦わされた」
幼い頃。
勇者の素質があると分かり。
国の訓練所へ入れられた。
食事。
睡眠。
遊び。
すべてが。
強い勇者を作るために管理されていた。
「遊んだことは?」
「剣の試合」
「趣味は?」
「剣の手入れ」
「好きな食べ物は?」
「体にいい物」
「味では?」
「分からない」
「服は?」
「動きやすい物」
「音楽は?」
「行軍曲」
「本当に戦いしかないな」
「悪い?」
「悪くはない」
俺は答えた。
「だが、お前が何を好きなのか、もっと知りたい」
「泳ぐこと」
「ああ」
「ほかは?」
「……探す」
「今日、見つかるかもしれない」
エリナは小さく頷いた。
◇
最初に案内されたのは。
巨大な訓練場ではなかった。
「ここは?」
街の外れ。
白い建物。
入口には、剣ではなく。
靴の印が描かれている。
「帰還院」
エリナが答えた。
「帰還?」
「戦えなくなった勇者が来る場所」
建物の中。
腕を失った者。
足を失った者。
魔力を失った者。
傷は治っていても、剣を握ると震える者。
多くの元勇者がいた。
「治療院ではないのか?」
「体の治療が終わった後に来る」
「何をする」
「帰る練習」
「どこへ?」
「普通の生活へ」
エリナが廊下を歩く。
部屋の中では。
片腕の男が料理をしている。
足を失った女性が、義足で階段を上っている。
元勇者たちが。
文字。
農業。
工芸。
子供の世話。
戦い以外の仕事を学んでいた。
「エリナが作ったのか?」
「うん」
「どうして」
「戦えなくなった勇者が、たくさん死んだから」
声が少し低くなる。
「戦場で?」
「違う」
「では」
「帰った後」
勇者として称えられ。
力を失った途端。
何者でもなくなる。
戦うことしか知らない。
普通の暮らし方が分からない。
「自分で死んだ者もいる」
「……そうか」
「最初は怒った」
「なぜ?」
「魔物に負けなかったのに、どうして死ぬのか分からなかった」
エリナは自分の手を見る。
「弱いと思った」
「ああ」
「一人の勇者が、生きたくないと言った」
「話を聞いた?」
「最初は怒鳴った」
「何と言った」
「生きろ。勇者だろう、と」
「相手は?」
「自分はもう勇者ではない、と」
エリナは足を止めた。
「先生なら、話を聞くと思った」
「それで?」
「三日間、隣にいた」
「何を話した」
「何も」
「話を聞いたんじゃないのか?」
「話さなかった」
「では、どうした」
「待った」
話すまで。
食事を置き。
水を渡し。
ただ隣へ座った。
「三日目に、何がしたいか聞いた」
「答えは?」
「パンを焼いてみたい」
エリナが一つの部屋を開く。
中には。
大きな窯。
柔らかなパンの匂い。
一人の男が、片腕で生地をこねていた。
「エリナ様」
「久しぶり」
「そちらが先生ですか?」
「ああ」
男は俺へ頭を下げる。
「カイルと申します」
「パンを焼きたいと言った勇者?」
「はい」
「今も?」
「今は、この帰還院の食事を作っています」
焼きたてのパンを渡される。
柔らかい。
鉄粉も入っていない。
「うまい」
「ありがとうございます」
「勇者へ戻りたいとは?」
「思いません」
カイルは迷わず答えた。
「剣を握れなくなった自分には価値がないと思っていました」
「ああ」
「エリナ様は、最初は毎日剣を持ってきました」
「どうして」
「もう一度握らせるため」
「エリナ」
「間違えた」
「その後は?」
「パンの材料を持ってきた」
「毎日、小麦粉の袋を十個」
「多すぎる!」
「重さが分からなかった」
「戦場の補給量で考えた」
カイルが笑う。
「最初に焼いたパンは、石のようでした」
「この街の普通じゃないか」
「私は柔らかい物が作りたかったのです」
「今はうまい」
「はい」
カイルはエリナを見る。
「エリナ様が、勇者ではなくなった私を、見捨てずにいてくださいました」
「私が作った場所じゃない」
エリナが答える。
「最初に作ったのはカイル」
「どういう意味だ」
「私には、何が必要か分からなかった」
エリナは帰還院を見る。
「カイルがパンを焼きたいと言った」
「別の人が畑をやりたいと言った」
「子供へ剣以外のことを教えたい人がいた」
「一人ずつ聞いて、場所を増やした」
「では、エリナが命令して作った施設ではない?」
「みんなで作った」
「お前が最初に話を聞いた」
「うん」
「立派な仕事だ」
エリナは少し困った顔をする。
「敵を倒していない」
「それでも人を救っている」
「勇者?」
「ああ」
「剣を使わなくても?」
「今の話を聞く限り、お前は勇者だ」
エリナの目が、僅かに揺れた。
「先生」
「何だ」
「これが、戦わない私?」
「一つはな」
エリナは帰還院を見回す。
初めて見るように。
「私は」
小さな声で呟く。
「戦えない人を、もう勇者じゃないと思ってた」
「ああ」
「でも、見捨てたくなかった」
「ああ」
「先生なら見捨てないから、最初は真似した」
「その後は?」
「カイルがパンを焼けた時、嬉しかった」
「俺のためではなく?」
「うん」
「なら、お前自身のしたことだ」
エリナはしばらく黙った。
「先生」
「何だ」
「少し分かった」
「何が?」
「私は、勝つことだけが好きじゃない」
「ああ」
「できなかった人が、できるようになるところを見るのが好き」
「泳ぎと同じだな」
「昨日の自分に勝つ」
「全員が剣で勝つ必要はない」
「うん」
エリナの表情が。
少しずつ明るくなる。
「帰還院」
「何だ」
「もっと大きくしたい」
「それが、お前の望みか?」
「戦えなくなった人だけじゃなく」
エリナは柔らかなパンを持つ。
「戦う前から、ほかの道を知れる場所にしたい」
「いいと思う」
「先生」
「何だ」
「手伝って」
「俺が決めるのではなく、必要な者へ話を聞くなら」
「一緒に聞いて」
「ああ」
「約束」
「約束だ」
◇
次に向かったのは。
勇者連合の記録塔。
壁一面に。
名前が刻まれている。
「戦死者か?」
「帰れなかった人」
エリナが答える。
「戦死者と違うのか?」
「戦場で死んだ人だけじゃない」
行方不明。
異世界へ取り残された者。
魔法によって存在を失った者。
遺体のない者。
帰る場所を失い、自分から姿を消した者。
「全員の名前を?」
「分かる人だけ」
塔の中央。
大きな机。
大量の地図。
捜索記録。
手紙。
「エリナ様」
記録官たちが頭を下げる。
「本日は案内役」
「承知しました」
「普段どおり続けて」
「はい」
エリナは一枚の地図を広げる。
「十年間、探した」
「全員を?」
「うん」
「見つかった者は?」
「三百二十一人」
「生きて?」
「百八十人」
「残りは」
「遺体や、持ち物だけ」
「それでも、家族へ帰したのか」
「うん」
エリナは。
一人で敵地へ乗り込み。
魔物を倒し。
仲間を連れ帰った。
それだけではない。
戦いが終わった後も。
誰かが帰っていないと聞けば。
何年かかっても探し続けた。
「どうして、ここまで」
「先生が、私たちを全員家へ連れて帰ったから」
最初の理由には、俺がいる。
「でも」
エリナが続ける。
「途中から、名前だけでも帰したかった」
「お前自身が?」
「うん」
「家族が待っている顔を見ると、やめられなかった」
「戦いではないな」
「探す途中で戦う」
「目的は戦いではない」
「帰すこと」
「ああ」
エリナは塔の壁を見上げる。
「勇者は、最後まで残る」
「よく聞く言葉だな」
「前は、最後に死ぬという意味だと思ってた」
「今は?」
「全員を帰してから、自分も帰る」
「必ず?」
「必ず」
「それを教えているのか?」
「うん」
勇者連合の新しい規則。
『勇者は最後に帰る。だが、必ず帰る』
以前は。
勇者は命を惜しむな。
最後まで戦え。
仲間のために死ね。
それが誇りとされていた。
「誰が変えた」
「私」
「反対は?」
「多かった」
「どうした」
「全員と戦った」
「話を聞け!」
「十年前」
「それでも多すぎる」
「勝った後、話を聞いた」
「順番が逆だ!」
「今なら先に聞く」
「本当か?」
「努力する」
記録官の一人が、少し笑った。
「エリナ様は、最初の三年ほど、反対者全員を訓練場へ呼んでおられました」
「やはり」
「ですが四年目から、会議室へ」
「成長したんだな」
「椅子を三十脚ほど壊しましたが」
「座るだけで?」
「反対意見を聞くたび、腕に力が入ったそうです」
「今なら壊さない」
エリナが言う。
「腕輪があるから?」
「なくても」
「本当に?」
「たぶん」
「不安だな」
記録塔の奥。
一枚だけ。
名前のない石板があった。
「これは?」
「先生」
「俺?」
「十年間、名前を書かなかった」
「どうして」
「死んだと認めたくなかった」
エリナは石板へ触れる。
「でも、帰ってきた」
「ああ」
「だから空白のまま」
「壊すのか?」
「残す」
「なぜ?」
「帰る人の場所」
まだ名前が刻まれていない。
行方不明者。
失われた者。
戻る可能性を諦めないための空白。
「よい場所だな」
「先生が帰ったから作った」
「俺以外にも帰る者がいるかもしれない」
「うん」
「それなら残せ」
「先生」
「何だ」
「私、戦わずに今の私を見せられた?」
エリナは不安そうだった。
剣を振っている時より。
巨大な敵を前にした時より。
ずっと。
「見せられた」
「本当?」
「ああ」
「強かった?」
「強かった」
「剣を使わず?」
「戦うことしか知らなかった自分を変えた」
「ああ」
「戦えなくなった者の話を聞いた」
「ああ」
「帰れない者を探し続けた」
「ああ」
「勇者を死なせない規則を作った」
「ああ」
俺はエリナを見る。
「今のお前は、昔よりずっと強い」
エリナの目から。
一筋だけ涙が落ちた。
「先生」
「何だ」
「戦って勝った時より、嬉しい」
「そうか」
「これも、私の好きなこと?」
「ああ」
「褒められること?」
「違う」
「では?」
「自分が変わったと、分かってもらえたことだ」
エリナは少し考える。
「先生にだけ?」
「俺に分かってほしかったのは事実だろう」
「うん」
「だが、この場所を作ったのは、ここにいる者のためだ」
「うん」
「それがお前自身の望みだ」
エリナは涙を拭う。
「先生」
「何だ」
「今の私を、女性としても見られる?」
「勇者としてのお前だけではなく」
俺は答えた。
「人の弱さを待てる女性として、前より強く意識している」
エリナの顔が赤くなる。
「好き?」
「まだ決められない」
「でも、前より?」
「ああ」
「分かった」
エリナは一歩近づく。
俺へ抱きつこうとする。
途中で止まった。
「先生」
「何だ」
「今、抱きついていい?」
聞けた。
「今は記録官が見ている」
「では、帰ってから」
「その時に聞け」
「分かった」
本当に。
少しずつ。
◇
昼食は。
勇者連合の大食堂だった。
長い机。
三千人分の料理。
巨大な鍋。
山のようなパン。
肉。
魚。
野菜。
「アウラが喜びそうだな」
「持って帰る?」
「残った物だけだ」
「残らない」
「三千人もいるからな」
「違う」
食堂の奥。
勇者たちが座っている。
誰も食べ始めない。
「どうして待っている」
「導師様が最初の一口を食べるまで!」
「普通に食べてくれ!」
「歓迎行事です!」
「俺を待たせるな!」
「承知しました!」
三千人が一斉に食べ始める。
速い。
数分で。
山のような料理が消えていく。
「本当に残らないな」
「勇者は食べる」
「アウラを連れてきたら、競争になっていた」
「勝つのは?」
「考えるな」
俺の前には。
セレスが持たせた弁当。
勇者連合の食事。
二つ並んでいる。
「先生」
エリナが見る。
「どちらを食べる?」
「両方少しずつ」
「私の国の料理だけでは?」
「セレスが作った物も無駄にしたくない」
「……分かった」
以前なら。
勇者連合の料理だけを食べてほしい。
自分の国を選んでほしい。
そう言っていたかもしれない。
「エリナ」
「何?」
「おすすめは?」
エリナは料理を見渡す。
肉。
硬いパン。
大量の豆。
「分からない」
「好きな味は?」
「栄養で選んでた」
「では、今日は味で選べ」
「味」
エリナは一つずつ食べる。
肉。
「普通」
豆。
「体にいい」
「味を聞いている」
魚。
「骨が多い」
「好きか嫌いか」
最後。
小さな皿に乗った、柔らかい甘いパン。
帰還院のカイルが焼いたものだった。
エリナが一口食べる。
「甘い」
「好きか?」
「……好きかもしれない」
「もう一つ食べる?」
「うん」
エリナは。
同じパンを二つ取った。
栄養でも。
戦うためでもなく。
自分がおいしいと思ったから。
「これも宿題の答えだな」
「望み?」
「好きな食べ物を見つける」
「小さすぎる」
「望みに大きさは関係ない」
「では」
エリナは三つ目を取る。
「もっと食べたい」
「それはアウラに近づいているぞ」
「四つ目」
「食べすぎるな」
◇
午後。
勇者連合の会議へ参加した。
議題は。
魔物討伐件数の減少。
勇者の仕事不足。
負傷者の再就職。
若い勇者たちの教育。
クロエが気にしていた内容と同じだ。
「魔物が減るのはよいことでは?」
俺が尋ねる。
バルガスが頷く。
「はい」
「だが?」
「討伐を生業とする者が多すぎます」
「帰還院の仕事を増やせないか」
「戦える者は、戦いたがります」
「戦わなければ勇者ではないと思っている?」
「はい」
会議室の者たちが。
エリナを見る。
「エリナ」
「何?」
「お前はどう思う」
エリナは。
すぐ答えなかった。
昔なら。
勇者は戦う者だ。
魔物がいなければ鍛えろ。
そう言っていただろう。
「戦わなくても」
ゆっくり言う。
「人を帰す仕事がある」
「帰す?」
「災害で家を失った人」
「迷子」
「異世界へ流された人」
「戦争から逃げる人」
「勇者は、道を作れる」
会議室が静かになる。
「剣で道を切り開くのでは?」
誰かが尋ねる。
「剣を使わなくても」
エリナが答える。
「橋を作る」
「食べ物を運ぶ」
「安全な場所を探す」
「話を聞く」
一つずつ。
慣れない言葉を並べる。
「勇者は、敵を倒すだけじゃない」
「では、何ですか?」
エリナは俺を見る。
助けを求めるのではない。
自分の言葉を確認するように。
「最後まで残って」
「ああ」
「全員を帰して」
「ああ」
「自分も帰る人」
会議室に。
静かな拍手が起きた。
最初は一人。
次に二人。
やがて全員。
「勇者連合の仕事を変える」
エリナが言う。
「魔物がいなくても、困っている人を帰す」
「具体的には?」
「分からない」
正直に答える。
「だから、話を聞く」
バルガスが大きく頷いた。
「全勇者へ、戦い以外で助けを求めている者の調査を命じます!」
「待て」
俺が止める。
「なぜですか?」
「命じる前に、勇者本人へ聞け」
「戦い以外の仕事を望むか?」
「ああ」
「では、全勇者へ希望調査を!」
「それならいい」
エリナも手を上げる。
「帰還院の人にも聞く」
「ああ」
「クロエにも相談する」
「自分で連絡するのか?」
「うん」
「俺を通さず?」
「私の国のことだから」
「成長したな」
「褒めた?」
「ああ」
エリナの顔が明るくなる。
◇
勇者連合訪問の最後。
広場へ戻ると。
三千人の勇者が待っていた。
「今度は何だ」
「歓迎行事の最後です!」
バルガスが答える。
「戦いではないな?」
「はい!」
「岩も?」
「使用しません!」
「何をする」
「全勇者による、何もしない大会です!」
「何だ、それは」
三千人の勇者が。
広場へ座る。
剣を抜かず。
鍛錬もせず。
話もしない。
「一時間、何もせず休みます!」
「大会にする必要があるか?」
「最も長く何もせずにいられた勇者が優勝です!」
「競争へするな!」
開始の鐘。
十秒。
一人の勇者が立ち上がる。
「体が勝手に鍛錬を!」
「失格!」
二十秒。
別の者が腕立て伏せを始める。
「じっとしていられない!」
「失格!」
一分。
百人以上が脱落。
「休むことが下手すぎる!」
五分。
半分が脱落。
十分。
残っているのは三百人。
二十分。
三十人。
三十分。
最後まで残ったのは。
エリナだった。
広場の中央。
剣を膝へ置き。
目を閉じている。
「眠っているのか?」
近づく。
小さな寝息。
本当に寝ていた。
「エリナ」
「……先生?」
「終わったぞ」
「勝った?」
「休むことへ勝ち負けをつけるな」
「でも、一番休んだ」
「そうだな」
「勇者として?」
「普通の人としてだ」
エリナは少し笑う。
「それも、悪くない」
『何もしない大会優勝、勇者エリナ様!』
大歓声が上がる。
「大会として定着させるなよ!」
『次回は二時間部門を!』
「普通に昼寝しろ!」
◇
地下都市へ戻る。
境界門の前。
残る六人とアステラが待っていた。
「お帰りなさいませ、先生」
「ただいま」
「勇者連合はいかがでしたか?」
セレスが尋ねる。
「思った以上に、何もしないことが苦手な国だった」
「エリナは?」
「立派な勇者だった」
エリナが胸を張る。
「戦わずに、先生へ今の私を見せられた」
「具体的には?」
リリスが尋ねる。
「帰還院」
「何だ、それは」
「戦えなくなった人が、別の道へ帰る場所」
エリナは。
自分の言葉で説明する。
帰還院。
記録塔。
帰れなかった者を探す仕事。
勇者は最後に帰る。
だが、必ず帰る。
皆が静かに聞いていた。
「エリナ」
ミレイユが微笑む。
「素晴らしい活動ですね」
「神殿の治療が終わった人にも、来てもらえる?」
「もちろんです」
「機械の義手や義足も」
「A―七七一九さんへ相談しましょう」
「クロエ」
「はい」
「戦わない勇者の仕事を、一緒に考えて」
クロエが少し驚く。
「先生を通さず、私へ?」
「私の国のこと」
「承知しました」
クロエは嬉しそうに頷く。
「先生」
エリナが俺を見る。
「私、自分でできた」
「ああ」
「剣を振らずに」
「ああ」
「先生」
「何だ」
「抱きついていい?」
帰還前の約束を覚えていた。
周囲には七人とアステラ。
だが。
彼女は先に聞いた。
「今日だけな」
「うん」
エリナが俺へ抱きつく。
腕輪によって力は普通の女性と同じ。
昔のように肋骨が折れそうな強さではない。
ただ。
嬉しそうに。
俺の胸へ顔を埋めている。
「先生」
「何だ」
「戦って勝つより嬉しかった」
「そうか」
「今の私を見つけてくれて、ありがとう」
「見つけたのはお前だ」
「先生と一緒に」
「ああ」
数秒後。
「そろそろ離れろ」
「まだ」
「約束は今日だけで、時間無制限ではない」
「あと三秒」
「三」
「早い」
「二」
「待って」
「一」
エリナは素直に離れた。
少し不満そうだが。
笑っている。
「先生」
セレスが手を上げる。
「何だ」
「私も、本日の休暇中に空待花の新しい芽を見つけました」
「よかったな」
「抱きついても?」
「駄目だ」
「理由は?」
「全員が続くからだ」
「……承知しました」
「先生」
ミレイユ。
「機械の歯車を二つ修理しました」
「頭を撫でるだけなら」
「抱擁は?」
「駄目だ」
「……はい」
「先生」
リリス。
「図鑑の最初のページが完成した」
「後で見せてくれ」
「抱くのは?」
「駄目だ」
「エリナだけ」
「今日はエリナの国を見た日だ」
残る六人とアステラの目が変わる。
「では」
アウラが尻尾を振る。
「次は私」
「そうだな」
「竜の都へ行く」
「ああ」
「私も抱きつく」
「先に、今のお前を見せてくれ」
「分かった」
『次回、竜王アウラ様による竜都御案内について』
家の壁へ。
竜族からの通信が表示された。
「来たな」
アウラが胸を張る。
『導師レオン様より、過剰歓迎禁止との御意向を承りました』
「話が早い」
『よって、竜族は空を飛ばず、炎も吐かず、財宝も見せず、普通の生活を御覧いただきます』
「今度こそ普通か?」
『当日は、全竜族が地上で静かに待機します』
「よし」
『ただし、導師様を背へお乗せする名誉を公平に決めるため、竜一万二千頭による抽選を行います』
「乗らない!」
『抽選方法は、空から巨大な岩を落とし、最も近くで受け止めた竜を勝者とします』
「危険すぎる!」
「竜族では普通」
アウラが答えた。
「普通を見直せ!」
『なお、竜王アウラ様は抽選へ参加せず、導師様を直接背へお乗せする権利を主張しております』
「アウラ!」
「私が一番安全」
「乗るとは言っていない!」
「先生」
アウラは真剣な顔で俺を見る。
「竜の国は、空から見ないと分からない」
「本当か?」
「うん」
「飛ぶ必要があるなら、考える」
アウラの顔が明るくなる。
「私に乗る?」
「安全を確認してからだ」
「落とさない」
「急に回転しない?」
「しない」
「火を吐かない?」
「先生が寒ければ少し」
「吐くな」
「分かった」
「ただし」
俺はアウラを見る。
「竜王としてのお前を見せるために、速さや強さを競う必要はない」
「戦わない?」
「エリナと同じだ」
「では、何を見せる?」
「お前が十年間、何を守ってきたか」
アウラは少し考える。
「卵」
「卵?」
「竜の卵」
「それだけか?」
「たくさんある」
「数の話ではない」
「先生」
アウラの表情が。
今までより少し真剣になる。
「私が見せたい場所がある」
「どこだ」
「飛べない竜が暮らす谷」
竜は飛ぶもの。
強く。
大きく。
空を支配するもの。
俺は、そう思っていた。
「飛べない竜?」
「うん」
「アウラが作った場所か?」
「みんなで作った」
アウラは自分の尻尾を抱く。
「先生に、見てほしい」
「ああ」
「私が竜王になった理由も」
いつもの食べ物の話ではない。
俺へ甘える少女の顔でもない。
「次は」
竜王アウラが、静かに言った。
「私の十年間」
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