第17話 ありのままの魔族でいいと言ったら、全員が普段より怖くなっていた
『魔界の民よ! 導師レオン様は、我らの角も翼も愛してくださる!』
「愛しているとは言っていない!」
『ありのままの魔族を御覧になりたいとのこと!』
「見るとは言った!」
『なお、魔王陛下の十二枚の翼については、特に美しいと!』
「それも言っていない!」
通信具から響く魔界宰相の声へ、俺は必死に訂正を続けた。
だが。
遅かった。
通信の向こうでは、大歓声が上がっている。
『導師様は角を恐れぬ!』
『翼も愛してくださる!』
『瘴気も我らの個性!』
『明日は普段以上の姿でお迎えするぞ!』
「普段以上にするな!」
通信が切れた。
俺は、ゆっくりリリスを見る。
十二枚の黒い翼を持つ魔王は、少し得意そうな顔をしていた。
「先生」
「何だ」
「私の翼は、きれいなのだな」
「今は魔界全体の話をしている」
「もう一度言ってくれ」
「言わない」
「なぜだ」
「お前が調子に乗るからだ」
「私は冷静だ」
リリスの十二枚の翼が、食堂いっぱいに広がる。
机の上の皿が落ちる。
椅子が倒れる。
アウラが翼に押され、壁へ挟まった。
「狭い」
「すまぬ」
「冷静な者は、翼で食堂を埋めない」
「先生に褒められたのは初めてだ」
「前にも言ったことがあるだろう」
「十年前、魔界の花はきれいだと言った」
「翼は?」
「大きくて便利だと」
「褒めたつもりだった」
「便利と美しいは違う」
リリスは翼を畳む。
少しだけ不満そうだ。
「分かった」
「何がだ」
「今の翼は、きれいだと思う」
「今だけ?」
「十年前より大きくなったからな」
「女性として?」
「翼に女性も男性もあるのか?」
「私の翼だ」
「なら、一人の女性としても、よく似合っている」
リリスの翼が再び広がる。
「だから広げるな!」
◇
魔界訪問前日。
俺は、リリスと共に規則を作っていた。
「一つ」
紙へ書く。
「魔族は普段の姿で迎える」
「当然だ」
「ただし、普段より角を大きくしたり、翼を増やしたりしない」
「先生」
「何だ」
「魔族の中には、歓迎や求愛の際に角を大きく見せる種族がいる」
「求愛はさせるな」
「歓迎だけなら?」
「普段の姿でいい」
「角の艶を磨く程度は?」
「本人が普段からしているなら」
「血を塗る者もいる」
「絶対にやめさせろ」
「魔界では、魔獣の血は化粧品だ」
「では、道へ垂らさない範囲で」
「難しい注文だ」
「どうして化粧品で道が汚れる」
「量が多い」
「少量にしろ」
俺は次の項目を書く。
「二つ。瘴気を普段より濃くしない」
「薄くもしない?」
「ああ。俺に合わせて生活環境を変える必要はない」
「人間には苦しいかもしれない」
「防護具を使う」
「私が結界を」
「魔法は禁止だ」
「先生だけ守るのも?」
「個人として使うなら、今回は訪問中だけ認めてもいい」
リリスの顔が明るくなる。
「では、私の翼の中に先生を」
「防護具を使う」
「翼で包むほうが安全だ」
「歩けない」
「私が抱えて運ぶ」
「もっと嫌だ」
「駄目か?」
「駄目だ」
リリスは黙る。
少しして。
「理由は?」
「普通に魔界を歩きたい」
「……分かった」
昨日までなら。
先生を守るためだ。
魔王の翼は瘴気を防ぐ。
安全が最優先だ。
そう言って、押し通そうとしたはずだ。
「成長したな」
「褒めた?」
「ああ」
「では翼を」
「広げるな」
リリスの翼が途中で止まった。
「三つ。俺の姿を見て、全員でひれ伏さない」
「魔族は強者へ敬意を示す」
「俺は強くない」
「私を育てた」
「それと戦闘力は別だ」
「世界最強の七人を従えている」
「従えていない」
「七人全員が先生の命令を聞く」
「最近ようやくだ」
「強い」
「普通に挨拶してくれればいい」
「魔族の普通の挨拶は、相手の強さによる」
「どんなものがある」
「弱者には、軽く見る」
「挨拶ではない」
「同格には、牙を見せる」
「威嚇だ」
「尊敬する者には、首を差し出す」
「怖い」
「愛する者には、心臓を渡す」
「絶対に持ってくるな!」
「比喩の場合もある」
「実物の場合は?」
「ある」
「すべて普通の会釈にしろ」
「魔界文化が消える」
「では、心臓以外なら文化へ合わせる」
「先生」
「何だ」
「私が先生へ心臓を渡すのは?」
「断る」
「比喩だ」
「それなら、気持ちだけ受け取る」
リリスが胸へ手を当てた。
「もう受け取った?」
「ああ」
「返さないでくれ」
「返す物ではないだろう」
リリスは少し笑った。
「四つ。婚姻儀式をしない」
「魔界に婚姻儀式はない」
「本当に?」
「強者同士が、互いの喉元へ牙を立て、血を交換する」
「それを婚姻儀式と言うんだ!」
「儀式ではない。契約だ」
「もっと駄目だ」
「先生の血を一滴だけ」
「絶対に駄目だ」
「理由を」
「婚姻へ同意していない」
「……分かった」
「素直だな」
「私は卒業したい」
「婚姻申請を再開するためか?」
「それもある」
リリスは少しだけ視線を逸らす。
「先生が嫌がることをして、嫌われたくない」
「そうか」
「だから我慢する」
「それで十分だ」
「褒めて」
「よく我慢している」
「女性として?」
「今のリリスは、素直で可愛いと思う」
リリスの翼が、今度こそ部屋中へ広がった。
「我慢はどこへ行った!」
◇
魔界へ同行するのは。
俺。
案内役のリリス。
護衛のレオ。
記録係のリタ。
いつもの四人。
出発前。
残る六人とアステラが境界門の前に集まる。
セレスとミレイユは、一週間の休暇中。
それでも、朝から制服を着ていた。
「休暇なのに、どうして制服なんだ?」
「先生をお見送りする時の服装として、最も適切かと」
セレスが答える。
「帝国の礼服では?」
「休暇中ですので、女帝ではありません」
「なら普段着でいい」
「先生の生徒です」
「そこは休まないのか」
「休めません」
「休め」
「……努力します」
ミレイユは小さな箱を俺へ渡す。
「瘴気による体調不良を和らげる薬です」
「奇跡では?」
「共同医療院で作られた通常の薬です」
「ありがとう」
「一時間に一度、お飲みください」
「症状が出た時だけでいいだろう」
「予防が大切です」
「説明書には、一日二回と書いてあるぞ」
「先生用に多めに」
「説明書どおりにする」
「……はい」
休暇中の聖女は、少し不満そうに頷いた。
エリナは泳ぎの練習へ使う布を持っていた。
最近は、木剣より先に水泳用具を持つようになっている。
「先生」
「何だ」
「魔界に強い人がいたら、教えて」
「戦いたいのか?」
「今は泳ぎの練習がある」
「珍しいな」
「でも、後で戦う」
「本人の同意を取れよ」
「分かった」
アウラは菓子を渡してくる。
「魔族の子供へ」
「俺ではなく?」
「先生の分は別」
大きな包みもある。
「量が違いすぎないか?」
「先生は大きい」
「子供十人分より多いぞ」
「食べて」
「帰りまで残す」
「約束」
クロエは財布ではなく、小さな帳簿を持っていた。
「魔界との交易記録です」
「俺が使うのか?」
「リリスへ渡してください」
「自分で渡せばいい」
「先生が魔界をご覧になった後、必要な交易について相談したいのです」
「仕事では?」
「私自身が、魔界の植物図鑑へ投資することに興味を持ちました」
クロエ自身の望み。
戦争後の市場だけでなく。
少しずつ、興味を広げている。
「分かった。渡す」
「利益率は」
「普通に話し合え」
「はい」
ノアは俺へ近づく。
「先生」
「何だ」
「魔界は暗い?」
「たぶんな」
「怖くない?」
「ノアの部屋より明るいと思う」
「私の部屋は落ち着く」
「ああ」
「帰ったら、魔界の暗い場所の話を聞きたい」
「分かった」
「泣いている人がいた?」
「それも見てくる」
「私が見つけられる人かも」
「そうだな」
アステラは。
今日。
光世界へ向かう予定だった。
旅支度を整えている。
「同じ日に出発だな」
「ええ」
「不安は?」
「少し」
「やめてもいいんだぞ」
「嫌」
アステラは首を振る。
「自分で見たいと思った」
「ああ」
「レオンも、魔界で私の知らない色を見つけて」
「虚無よりは色が多いだろう」
「帰ったら交換しましょう」
「何を?」
「お互いに見つけたものを話すの」
「いいな」
アステラは嬉しそうに笑う。
以前なら。
必ず俺についてきた。
離れることを嫌がった。
今は。
自分で選んだ世界へ向かう。
「気をつけてな」
「あなたも」
手をつなぐことも。
抱きつくこともなく。
互いに一歩ずつ。
別の境界門へ進んだ。
◇
魔界へ足を踏み入れた瞬間。
赤い雨が降ってきた。
「血か!?」
「赤雨だ」
リリスが答える。
「血ではないのか?」
「鉄分を多く含む水だ」
地面へ落ちた雨から。
金属の匂いがする。
「飲める?」
リタが手を伸ばす。
「飲むな」
俺とリリスの声が重なった。
「毒なのですか?」
「魔族なら平気だ」
「人間が飲むと、三日ほど声が低くなる」
「それだけ?」
「その後、一週間、角が生える」
「飲まないでくれ」
「はい」
空は暗い紫色。
遠くには黒い山。
溶岩の流れる谷。
巨大な茸の森。
空を飛ぶ魔獣。
人間世界とは、まるで違う。
門の前には。
魔族たちが並んでいた。
角。
翼。
牙。
鱗。
複数の腕。
巨大な目。
頭のない騎士。
半透明の幽霊。
「普段の姿か?」
俺が尋ねる。
リリスは魔族たちを見る。
「違う」
「やはり?」
「角が平均一・四倍」
「分かるのか」
「翼も一人あたり二枚ほど増えている」
「戻させろ」
「普通の女として頼む」
リリスが前へ出る。
「皆」
魔族たちが一斉に首を差し出した。
「やめろ!」
「先生」
「これは敬意だとしても怖い」
「普通に会釈しろ」
リリスが魔族たちへ言う。
「先生は首を差し出す挨拶を望んでいない」
魔族たちは困ったように顔を見合わせる。
一人の巨大な角を持つ男が尋ねた。
「では、どの程度の敬意を?」
「人間の会釈だ」
「腰を九十度?」
「軽くでいい」
「三十度?」
「十五度」
「敬意が少なすぎませんか?」
俺が答える。
「会ってくれただけで十分だ」
魔族たちが驚く。
「我々の姿を見ても?」
「ああ」
「恐ろしくないのですか?」
「見慣れてはいない」
正直に答える。
「でも、怖いから姿を変えろとは思わない」
角の男が、自分の角へ触れた。
「この角も?」
「ああ」
「昨日、普段の倍まで伸ばしました」
「戻せるのか?」
「はい」
「普段に戻してくれ」
「承知しました!」
角が小さくなる。
周囲の魔族たちも。
増やした翼を減らし。
牙を普段の長さへ戻し。
瘴気を弱める。
「最初からそれでよかった」
「導師様」
頭のない騎士が、胸の辺りから声を出した。
「私には、会釈する頭がありません」
「上半身を少し傾ければいい」
騎士が倒れそうなほど傾く。
「少しだ!」
「申し訳ありません!」
「謝らなくていい」
半透明の幽霊が、俺の前へ来る。
「触れることができないため、握手ができません」
「言葉だけで十分だ」
「では」
幽霊は。
微笑んだように形を揺らした。
「ようこそ、魔界へ」
「ああ。案内を頼む」
その一言を合図に。
魔族たちは。
今度こそ、普通に頭を下げた。
少し角度は深かったが。
◇
魔王城までの道。
両側には、多くの魔族が集まっていた。
歓声は大きい。
だが。
帝国や神聖教都とは違う。
「食え!」
肉が飛んでくる。
「受け取れ!」
黒い果物。
「我が家の宝だ!」
巨大な骨。
「投げるな!」
俺は肉を避けた。
レオが受け止める。
「なぜ俺が」
「同じ顔だから、俺への贈り物だと思われた」
「返せ」
「食べられる肉か?」
「魔獣の肝臓だ」
リリスが答える。
「生だぞ」
「新鮮な証拠」
「後で焼いてもらう」
次に黒い果物。
リタが拾う。
「食べていい?」
「舐めると夢を一つ忘れる」
「駄目です」
自分で袋へ入れた。
「捨てないのか?」
「研究用にします」
「家へ持ち込む前に確認しろよ」
「はい」
巨大な骨は。
「これは何だ」
「魔竜の肋骨」
「アウラへ見せたら食べるか?」
「骨は食べないと思う」
「持ち帰る」
「先生」
リリスが少し嬉しそうに俺を見る。
「魔界の品を持ち帰るのか?」
「ああ」
「嫌ではない?」
「珍しいからな」
「では、城にある私の角の抜け殻も」
「それはお前の体の一部だろう」
「毎年生え変わる」
「本人が渡したいなら」
「寝室へ飾れ」
「倉庫だ」
「枕元」
「倉庫」
「机」
「倉庫」
「……分かった」
沿道には。
子供の魔族もいた。
角の小さな子。
翼をうまく畳めない子。
下半身が蜘蛛の子。
火を吐く子。
「先生!」
一人の小さな魔族が駆け寄る。
周囲の大人が止めようとする。
リリスが手を上げ、制した。
「何だ?」
少年は。
俺を見る。
隣のリリスを見る。
「本当に、魔王様のお父さん?」
俺は咳き込んだ。
「誰が言った!」
「みんな」
「父親ではない」
「でも、育てた?」
「ああ」
「ご飯を作った?」
「ああ」
「泣いたら抱いた?」
「小さい頃は」
リリスの翼が、ぴくりと動く。
「先生」
「今は抱かないぞ」
「まだ何も言っていない」
「顔に書いてある」
少年はさらに尋ねる。
「魔王様は、昔から怖かった?」
「いや」
俺は即答した。
「寂しがり屋で、強がりで、よく泣いた」
「先生!」
「事実だ」
沿道の魔族たちが、リリスを見る。
魔王の顔が赤い。
「魔王様が泣く?」
「泣かぬ!」
「夜、一人で寝られず、俺の部屋へ来たことも」
「先生!」
「何歳まで?」
少年は楽しそうだ。
「十――」
リリスが俺の口を翼で塞いだ。
「それ以上言うな!」
「話を聞く授業はどうした」
「先生が、余計な話をしている!」
「国民は今のお前だけでなく、昔のお前も知りたいだろう」
「知らなくてよい!」
少年は笑う。
「魔王様も、子供だったんだ」
「当たり前だ」
「最初から魔王だと思ってた」
リリスの翼が、少しずつ下がる。
「私は」
少年へ向き直る。
「昔から魔王ではない」
「弱かった?」
「お前より弱かった」
「本当?」
「うむ」
リリスは少年の前へしゃがむ。
腕輪で力を封じられ。
威圧も。
魔力もない。
ただの一人の女性として。
「怖い時は、怖いと言ってよい」
「魔族なのに?」
「魔族でもだ」
「魔王様も言う?」
「……先生には」
「リリス」
「何だ」
「俺以外にも言え」
「努力する」
少年は満足そうに頷き。
小さな角飾りをリリスへ渡した。
「魔王様へ」
「私に?」
「先生じゃなくて、魔王様に」
リリスは驚いたように受け取った。
「ありがとう」
少年が走って戻る。
リリスは、小さな角飾りを大切そうに握っていた。
「珍しいな」
「何がだ」
「お前への贈り物だ」
「私は魔王だ。贈り物くらい」
「いつもは恐れられているのかと思った」
リリスは少し黙る。
「魔族は、弱い王へ従わない」
「ああ」
「私は、誰より強く見せ続けた」
「無理をした?」
「必要だった」
「今も?」
「少し」
角飾りを見る。
「先生の前では、弱くてもよい」
「俺以外の前でも、少しくらいはいい」
「王が弱さを見せれば、国が乱れる」
「今の少年は、昔のお前を知って嬉しそうだった」
「……」
「強さだけで従わせなくてもいいんじゃないか」
リリスは沿道を見る。
魔族たちは。
怖がっているだけではない。
少年との会話を。
少し驚き。
少し嬉しそうに見ていた。
「考える」
「それでいい」
◇
魔王城へ着く前に。
リリスが案内したのは。
巨大な石壁に囲まれた街だった。
「ここは?」
「旧人間収容区」
空気が少し重くなる。
「人間の?」
「十年前まで、魔界で捕らえられた人間を入れていた」
門の先。
今は。
人間と魔族が共に暮らしている。
商店。
工房。
学校。
広場では、人間の子供と魔族の子供が遊んでいた。
「収容区には見えないな」
「解放した」
「即位してすぐ?」
「三年後」
「どうして三年かかった」
リリスは答える前に、少し黙った。
「反対が多かった」
「魔族から?」
「人間からも」
「人間も?」
「外へ出れば殺されると思っていた」
魔界で生まれた人間。
何代も収容区で暮らした者。
人間世界を知らない。
「無理に出さなかった?」
「最初は出そうとした」
「どうなった」
「逃げた」
「どこへ?」
「収容区へ戻った」
リリスは門を見る。
「私は怒った」
「自分たちを閉じ込めた場所へ戻ったから?」
「自由にしたのに、なぜ戻るのか分からなかった」
「ああ」
「先生なら、話を聞くと思った」
「それで?」
「一人ずつ聞いた」
「何人?」
「二万七千人」
「多い!」
「一日に五十人」
「一年半かかるぞ」
「うむ」
「魔王の仕事をしながら?」
「夜に聞いた」
「眠っていなかっただろう」
「少しは寝た」
「何時間」
「二時間」
「またか!」
「今は五時間」
「少ない」
「先生がいるから、少し増えた」
「一週間休暇にするぞ」
リリスの翼が止まる。
「私も?」
「お前も倒れるまで働く気か?」
「魔族は丈夫だ」
「俺が心配だ」
「先生が?」
「ああ」
「一人の女性として?」
「そうだ」
「休む」
「早いな!」
「一週間、先生の家で」
「全員いるぞ」
「構わぬ」
リリスの足取りが少し軽くなる。
「それで、人間たちは何と言った」
「外へ出ても、住む場所がない」
「仕事もない」
「魔族にも、人間にも嫌われる」
「自由という名で、捨てられるのが怖い」
「それで、街を作った?」
「うむ」
「収容区の壁を残したまま?」
「壊そうとした」
「反対された?」
「中の者に」
リリスが壁へ触れる。
「この壁は、閉じ込めた証でもある」
「ああ」
「同時に、何百年も自分たちを外の魔獣から守った壁でもあると」
「だから残したのか」
「門だけ開けた」
大きな門。
今は閉じられていない。
誰でも。
内から外へ。
外から内へ通れる。
「街の名前は?」
「開門街」
「そのままだな」
「分かりやすい」
一人の人間の女性が、俺たちへ近づいた。
年は四十ほど。
腕には魔族の子供を抱いている。
「魔王陛下」
「今日は魔王ではなく、案内役だ」
「では、リリス様」
女性は俺へ頭を下げる。
「あなたが、リリス様の先生ですね」
「ああ」
「お礼を申し上げます」
「俺は何もしていない」
「リリス様へ、まず話を聞くことを教えてくださいました」
「実際に聞いたのはリリスだ」
「はい」
女性は笑う。
「最初の一年は、話を聞きながら何度も怒っておられました」
「余計なことを言うな」
「机を七十二枚壊しました」
「多いな」
「翼で壁を三回」
「壊した壁は直した」
「ご自分で?」
「部下が」
「国家権力を使ったな」
「十年前の話だ!」
「今なら自分で直す?」
「先生が手伝うなら」
「まず自分でやれ」
女性は楽しそうに笑った。
「ですが、途中で帰られませんでした」
「リリスが?」
「はい」
「私たちが同じ話を何度繰り返しても、最後まで聞いてくださいました」
女性は開門街を見る。
「今は、外へ出たい者は出られます」
「残りたい者は?」
「残れます」
「人間世界へ帰った者も?」
「います」
「魔界へ戻った者もいます」
「どうして戻った」
「ここが故郷だからです」
リリスは。
何も言わず、街を見る。
魔族と人間。
どちらか一方へ合わせるのではなく。
自分で選べる場所。
「リリス」
「何だ」
「立派なことをしたな」
「先生なら、同じことをした」
「俺なら一年半、二万七千人の話を聞けたか分からない」
「先生なら聞く」
「お前がしたことだ」
俺は、はっきり言った。
「俺の教えではない」
リリスが俺を見る。
「お前が考え」
「ああ」
「お前が我慢し」
「ああ」
「お前が、この街を作った」
黒い瞳が、僅かに揺れた。
「魔王としてのリリスを、俺は誇りに思う」
リリスの翼が広がりかける。
途中で止まった。
街の者たちがいる。
誰かを倒すかもしれない。
ゆっくり畳み直す。
「先生」
「何だ」
「今、我慢した」
「ああ」
「褒めて」
「そこも立派だ」
リリスは。
少し泣きそうな顔で笑った。
「先生」
「何だ」
「私を、女性としても好きになれそうか?」
「魔王としてのお前を知って、前より強く意識している」
「好き?」
「まだ決められない」
「でも、前より?」
「ああ」
「十分だ」
リリスは俺へ抱きつこうとした。
途中で止まる。
「駄目か?」
「聞けたな」
「抱きついてよいか?」
「今は人が多い」
「では、帰ってから」
「その時に聞け」
「……分かった」
我慢できている。
たぶん。
◇
魔王城。
黒い石で造られた巨大な城。
空には雷。
城壁には魔獣。
正面門には。
巨大な文字が掲げられていた。
『ありのままの先生を、ありのままの魔界が歓迎します』
「俺までありのままなのか」
「悪くない」
「まあ、金色に塗られてはいないな」
城内へ入る。
魔王の間。
巨大な玉座。
その横に。
もう一つの椅子が置かれていた。
「リリス」
「私ではない」
「何も聞いていない」
「先生の椅子ではない」
「では、誰の?」
「偶然、同じ大きさの椅子が置かれているだけ」
「背もたれに俺の名前がある」
『導師レオン専用』
「偶然ではないな」
「部下が勝手に作った」
「撤去しろ」
「先生」
「駄目だ」
「理由を」
「魔界の共同統治者と誤解される」
「共同統治者では駄目か?」
「俺は魔界を知らない」
「今日知った」
「一日で国を統治できるか」
「では、先生専用見学席」
「名前を変えただけだ」
「座るだけ」
「普通の椅子へ替えろ」
リリスは椅子を見る。
俺を見る。
「……分かった」
自分で椅子を持ち上げようとする。
腕輪で力を封じられているため、動かない。
「重い」
「部下へ頼め」
「国家権力になる」
「家具を運ばせるのは普通の仕事だ」
「では」
近くにいた魔族へ。
「申し訳ないが、普通の椅子へ替えてくれ」
「はっ!」
魔族が玉座を持ち上げる。
「導師様の玉座を撤去!」
「普通に運べ!」
魔王の間へ、木製の椅子が置かれた。
少し固い。
だが、玉座よりは落ち着く。
「先生」
「何だ」
「私の隣へ座ること自体は認める?」
「話を聞くためなら」
リリスが玉座へ座る。
俺は隣の木椅子。
魔族の代表者たちが並ぶ。
議題は。
人間世界との交易。
開門街の水不足。
瘴気が弱い地域に住む子供の病気。
魔獣被害。
帝国議会と同じ。
地味で。
大切な話。
「魔王陛下」
一人の魔族が訴える。
「人間世界からの薬は高すぎます」
「クロエへ相談する」
「魔王陛下の権限で、価格を下げさせることは」
「できる」
「では」
「だが、今日は使わない」
リリスは俺を見る。
そして、魔族へ戻す。
「なぜ高いか聞く」
「輸送に危険が」
「では、危険を減らす方法を考える」
「価格を命令で下げるのでは?」
「命令すれば、商人が来なくなる」
リリスは。
以前よりも。
相手の先を聞いている。
「必要な量は?」
「一月に三百箱」
「現状は?」
「百二十箱です」
「不足分を、魔界で作れないか」
「材料が」
「魔界の植物図鑑を作っている」
リリスが少し誇らしげに言う。
「同じ効能の植物があるか調べる」
議会の者たちが驚く。
「魔王陛下が、図鑑を?」
「私の望みだ」
「導師様のためではなく?」
「私が、魔界を怖いだけの場所と思われたくない」
リリスは。
迷わず言えた。
俺に関係しない。
自分自身の望み。
「よい望みだな」
俺が言うと。
リリスの翼が少し揺れた。
だが広げなかった。
本当に成長している。
◇
魔王城の最上階。
リリスの部屋。
広いが。
飾りは少ない。
巨大な寝台。
翼を休めるための支柱。
壁には地図。
机には書類。
「魔王の部屋らしくないな」
「どういう部屋を想像していた」
「骸骨や血の池」
「骸骨は地下」
「あるのか」
「歴代魔王の骨」
「飾るなよ」
「本人たちの希望だ」
「それなら文化か」
机の横。
小さな棚がある。
その中に。
古い食器。
欠けた木の匙。
黒く焦げた鍋の一部。
「これは」
「先生の家で使っていた物だ」
「どうして魔界へ」
「墓へ持っていかなかった物を、少しだけ」
「勝手に?」
「家に聞いた」
『許可しました』
壁から家の声がした。
「魔界まで繋がっているのか?」
『旦那様が訪問中のため、一時接続しております』
「範囲を広げるな」
「先生」
リリスが木の匙を手に取る。
「覚えているか?」
「お前が初めてスープを作った時の匙だ」
「鍋を溶かした」
「魔界の火を使ったからな」
「先生は、焦げたスープを食べた」
「お前が泣きそうだったから」
「まずいと言った」
「まずかった」
「でも全部食べた」
「腹が減っていた」
「私は嬉しかった」
リリスは匙を見る。
「先生がいなくなった後」
「ああ」
「毎年、一度だけ同じスープを作った」
「上達したか?」
「鍋は溶けなくなった」
「味は?」
「分からない」
「食べなかったのか」
「先生が帰った時、最初に食べてもらうと決めた」
リリスが俺を見る。
「十年分、ある」
「十年分?」
壁の扉が開く。
地下へ続く階段。
「待て」
「保存庫だ」
「スープを十年保存したのか?」
「時間停止してある」
「魔法は禁止だろう」
「作ったのは昔だ」
「理屈は合っているが」
「食べてくれるか?」
「十杯?」
「十鍋」
「多すぎる!」
「一日一鍋」
「十日かかる!」
「先生が魔界へ十日泊まる」
「そういう計画か!」
「駄目?」
「一杯ずつ持ち帰る」
「全部?」
「一日一杯なら」
「では、十日間、先生の夕食は私のスープ」
「ほかの七人が怒る」
「私の十年だ」
「……一日だけなら」
「一日?」
「まず最初の一鍋を食べる」
リリスの顔が明るくなる。
「今?」
「ああ」
「すぐ用意する!」
リリスは階段を駆け下りようとして。
腕輪のせいで翼の重さへ耐えられず。
足を滑らせた。
「危ない!」
俺が腕を掴む。
そのまま支える。
リリスの体が、俺の胸へ当たる。
「大丈夫か?」
「……」
「リリス?」
「先生」
「何だ」
「今、抱いた」
「落ちそうだったから支えただけだ」
「それでも」
「怪我は?」
「ない」
「なら離れるぞ」
「少し待て」
「なぜ」
「十年前は、私が落ちるとすぐ抱えてくれた」
「子供だったからな」
「今は?」
「大人の女性だ」
「だから?」
「抱き上げるには、本人へ聞く」
リリスの黒い瞳が。
大きく見開かれた。
「では、聞いて」
「抱き上げてもいいか?」
「はい」
「どうして抱き上げる必要がある」
「聞いたのに!」
「階段を下りるだけだろう」
「先生」
「自分で歩けるな?」
「……歩ける」
リリスは俺から離れる。
少し不満そうだが。
すぐに翼を整えた。
「先生」
「何だ」
「抱き上げる必要がある時は、必ず私から先に」
「七人へ順番はない」
「では、抱き上げる必要を作る」
「わざと転ぶなよ」
「しない」
「本当に?」
「努力する」
◇
十年前のスープ。
一杯目。
見た目は黒い。
匂いは強い。
「食べられるのか?」
「十年前の私が作った」
「質問への答えになっていない」
レオが先に一口飲む。
「なぜ俺が毒見を」
「同じ体だからだ」
「便利に使うな」
「どうだ?」
レオは黙った。
「危険か?」
「死にはしない」
「味は?」
「言葉にしにくい」
「不安になる言い方をするな」
俺も一口飲む。
辛い。
苦い。
酸っぱい。
最後に、妙な甘さ。
「……まずい」
リリスの翼が下がる。
「だが」
「何だ」
「十年前より、少しだけうまい」
「本当か?」
「ああ」
「先生」
リリスが笑う。
「二鍋目は、もっとよい」
「明日な」
「三鍋目は?」
「その次の日」
「十日間」
「地下都市へ持ち帰る」
「魔界で一緒に食べたい」
「今回は日帰りだ」
「……分かった」
本当に諦めた。
「リリス」
「何だ」
「十年間、毎年作ってくれてありがとう」
「先生が帰ると思っていた」
「ああ」
「誰にも食べさせなかった」
「もったいないな」
「先生のためだから」
リリスは。
少しして。
首を振った。
「違う」
「何が」
「最初は先生のためだった」
「ああ」
「でも、途中から」
黒いスープを見る。
「今年は去年よりうまく作りたいと思った」
「自分のため?」
「たぶん」
「なら、その料理も、お前の望みだ」
「魔界の植物図鑑と、料理」
「二つできたな」
「先生が食べる」
「俺だけでなく、食べたい者に食べさせろ」
「この味を?」
「まず改善しろ」
「先生」
「何だ」
「次は、うまいと言わせる」
「期待している」
リリスは。
魔王ではなく。
一人の女性として。
嬉しそうに笑った。
◇
夕方。
地下都市へ帰還する。
境界門の前には。
残る六人。
そして。
光世界への初めての一人旅から帰ってきたアステラがいた。
「お帰り、レオン」
「ただいま」
「魔界はどうだった?」
「色が多かった」
「何色?」
「空は紫。雨は赤。花は黒。火は青」
「きれい?」
「ああ」
「私も見たい」
「今度、リリスへ頼め」
「うむ」
リリスが頷く。
「案内する」
「レオンなしでも?」
「先生も来る」
「自分たちだけで行ってみろ」
二人が固まる。
「私とリリスで?」
「興味があるんだろう」
「……考えるわ」
「私も考える」
以前なら。
俺と一緒でなければ即座に断った。
今は。
少しだけ考えようとしている。
「光世界は?」
俺が尋ねる。
アステラの顔が明るくなる。
「本当に夜がなかった」
「空は?」
「ずっと白と金色」
「眩しくなかった?」
「最初は」
「何を見つけた?」
「影」
「影?」
「夜のない世界にも、物の下には影があった」
アステラは自分の足元を見る。
「私は、虚無と同じ暗闇だと思っていた」
「違った?」
「影は、光があるからできる」
「ああ」
「暗いものが、全部虚無ではなかった」
「よい発見だな」
「レオン」
「何だ」
「一人で行ってよかった」
「ああ」
「少し寂しかった」
「俺も少しな」
「でも、帰る時は楽しみだった」
「話したいことがあったから?」
「ええ」
アステラは。
抱きつかず。
俺の隣へ立った。
「次は、水世界へ行きたい」
「一人で?」
「ミレアに案内を頼む」
「泳げるのか?」
「虚無に水はなかった」
「エリナに教えてもらえ」
「勇者に?」
「あいつも練習中だ」
「それなら、一緒に学ぶ」
自分から。
俺以外の誰かと何かをする。
アステラも変わっている。
「先生」
セレスがリリスを見る。
「魔界はいかがでしたか?」
「よい国だった」
「リリスは?」
「立派な魔王だった」
リリスの翼が広がる。
周囲の全員が身構える。
だが。
途中で止めた。
「先生から」
リリスは胸を張る。
「魔王として誇りに思うと言われた」
空気が止まった。
「それだけですか?」
ミレイユが俺を見る。
「女性としても、前より強く意識していると」
「リリス」
「重要だ」
「自分で報告するな」
「私も、先生から大切な女性と」
「ミレイユまで競うな」
「私は、好きになれそうだと」
セレス。
「全員黙れ!」
三人が。
自分への評価を並べ始める。
エリナ。
アウラ。
クロエ。
ノア。
残る四人の目が、少しずつ鋭くなる。
「次は私」
エリナが言う。
「勇者連合へ行く」
「まだ日程を決めていない」
「明日」
「俺も休ませろ」
「第七学則」
アウラ。
「飯を食って寝ろ」
「よく覚えていたな」
「明後日」
エリナ。
「日程は、後で決める」
「先生」
クロエが紙を出す。
「勇者連合から、訪問希望日の一覧が届いております」
「早いな」
「最短で明後日。最長で三日後です」
「ほとんど変わらない」
「全勇者が、先生との決闘を希望しているためです」
「どうしてそうなる!」
通信文を見る。
『導師レオン様御来訪歓迎行事』
『第一部――歴代勇者百二十七名による模範試合』
『第二部――現役勇者三千名による一斉挑戦』
『第三部――導師レオン様と勇者エリナ様による最終決戦』
「全部戦いじゃないか!」
「勇者連合では、戦うことが歓迎」
エリナが答える。
「俺は一人も相手にしないぞ」
「では、見るだけ」
「第三部に俺の名前がある」
「先生は逃げてもいい」
「逃走戦に変える気か?」
「捕まえたら勝ち」
「もっと嫌だ!」
「先生」
エリナの目が輝いている。
「今の私を見て」
「戦い以外で見せろ」
エリナが固まる。
「戦い以外?」
「ああ」
「勇者連合で?」
「ああ」
「何がある?」
「俺が知るか」
エリナは。
本当に分からない顔をした。
剣。
戦い。
勝利。
勇者である自分。
泳ぐこと以外。
まだ見つけたばかりだ。
「次の訪問までに考えろ」
「先生へ、勇者の私を見せる方法」
「戦い以外でな」
「難しい」
「だから宿題だ」
『新たな課題を登録しました』
家の声が響く。
『勇者エリナは、戦闘を行わず、旦那様へ現在の自分を知っていただいてください』
エリナの顔色が変わる。
「戦闘なし?」
『はい』
「剣を持つのも?」
『必要であれば認めます』
「振るのは?」
『禁止です』
「抜くだけ?」
『禁止です』
「触るのは?」
『認めます』
エリナは腰の木剣を握り。
しばらく考えた。
「……難しい」
「泳ぎを見せるか?」
「勇者連合に湖はない」
「作るなよ」
「国家権力は禁止」
「覚えているな」
「先生」
エリナは真剣な顔で俺を見る。
「三日ください」
「何のために?」
「剣を振らずに、勇者の私を見せる方法を考える」
「ああ」
「見つからなかったら?」
「一緒に探す」
「約束」
「ただし、先に自分で考えろ」
「分かった」
こうして。
次の国巡りは。
歴代勇者と現役勇者、合わせて三千人以上が。
俺へ戦いを挑むため準備していた勇者連合から。
戦闘行事をすべて取り上げた状態で行われることになった。
そして。
その夜。
勇者連合から新しい通信が届いた。
『決闘禁止の御意向、承知いたしました』
「分かってくれたか」
『代わりに、全勇者による筋力測定大会を開催します』
「戦いと同じだ!」
『剣を振ることは禁止とのことですので、素手で巨大岩を持ち上げます』
「もっと危ない!」
『なお、導師レオン様用の岩は、初心者向け五トンをご用意します』
「持てるわけがない!」
エリナが通信文を見る。
「先生」
「何だ」
「五トンは軽い」
「お前の基準で話すな!」
帝国。
神聖教都。
魔界。
三つの国で。
俺は、知らなかった三人の十年間を見た。
次は勇者連合。
戦うことでしか、自分を表せなかったエリナが。
剣を抜かず。
拳も使わず。
今の自分を、俺へ見せなければならない。
そして俺は。
勇者たちが普通の歓迎と信じて用意した。
五トンの岩を。
どうやって断ればよいのか考えなければならなかった。
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