第15話 普通に迎えてくれと頼んだら、帝都の全員が平民のふりをしていた
『導師レオン様御来訪に備え、帝都全域の改装を開始しました』
「セレス」
「はい、先生」
「国家権力を使うなと言ったよな?」
「私は、何も命じておりません」
「では、これは何だ」
「帝国臣民が、自らの意思で先生を歓迎しようとしております」
通信具の向こうから、帝国宰相の切迫した声が響く。
『すでに市民が自主的に、建物の金色塗装を開始しております!』
「俺の髪は金色ではない!」
『では、何色へ塗り直せばよろしいでしょうか!』
「塗るな!」
俺の声が、通信具を通じて帝都へ響いた。
少しの沈黙。
『塗装中止の理由を、導師レオン様が帝都本来の美しさを尊重なさったため、と発表してもよろしいでしょうか』
「普通に、塗る必要がないからと伝えてくれ」
『なんと深いお言葉……!』
「深くない!」
『外見を飾るより、内なる価値を磨けという意味ですね!』
「違う!」
『直ちに全市民へ伝えます!』
「待て。変な解釈を広めるな!」
だが、通信はすでに切れていた。
俺は通信具を机へ置き、額を押さえた。
「帝国の宰相は、普段からあんな感じなのか?」
「非常に優秀な者です」
セレスが答える。
「優秀な者は、俺の髪の色で帝都を塗ろうとしない」
「先生の御来訪に、少し興奮しているのでしょう」
「少しか?」
「普段は冷静です」
「では、普段へ戻してくれ」
「努力します」
セレスは再び通信具へ手を伸ばした。
俺は先に止める。
「待て」
「はい?」
「帝都へ行く前に、歓迎について決まりを作る」
「決まりですか?」
「ああ」
俺は紙を取り出した。
「一つ。建物を塗り替えない」
「はい」
「二つ。軍事行進をしない」
「すでに帝国軍の全軍団が参加を希望しております」
「断れ」
「兵士たちの自主参加です」
「自主的に戦車を並べるな」
「では、武器を持たず沿道へ」
「それも多すぎる。通常警備だけだ」
「……はい」
「三つ。国民の休日にしない」
「先生」
セレスが困った顔になる。
「ご訪問予定日は、すでに臨時祝日として登録されております」
「取り消せ」
「市民が仕事を放棄する可能性がございます」
「どうして」
「先生がいらっしゃるのに、仕事を続ける者は不敬だと」
「仕事を続けることが一番ありがたいと伝えろ」
「では、先生の教えを守るための勤労感謝日として」
「祝日にするな!」
「通常勤務を推奨します」
「それでいい」
「ただし、商店が先生を見ようと営業時間を変更する可能性は」
「見なくていい!」
「先生を一目拝見したいという市民の願いを、強制的に止めることはできません」
「道を歩くだけだ。普通に見ればいい」
「普通に」
セレスが紙へ書き込む。
「四つ。俺の像を作らない」
「先生」
「もうあるのか?」
「帝都内だけで、大小合わせて二百七十一体ございます」
「多すぎる!」
「今回の御来訪用に、新たな像を作らないという意味でよろしいでしょうか」
「既存の像も、俺から見えない場所へ移せ」
「市民が悲しみます」
「俺が悲しい」
「では、布で覆います」
「それならいい」
「布へ先生の肖像を描くことは?」
「駄目だ」
「無地にします」
「最後」
俺は最も重要な項目を書く。
「婚姻に関係する催しをしない」
セレスの手が止まった。
「先生」
「何だ」
「帝国の婚姻に関係する催しとは、具体的にどこまででしょう」
「皇婿選定式。婚約発表。夫婦に見立てた演劇。子孫繁栄を祈る祭り。全部だ」
「夫婦円満の菓子を販売することも?」
「俺とセレスの名前を使うなら駄目だ」
「帝国に古くから伝わる菓子です」
「元からあるなら構わない」
「商品名を『女帝と導師の永遠焼き』へ変更する案が」
「絶対に戻せ!」
「では、伝統名の『夫婦焼き』へ」
「それでいい」
セレスは五つの規則を確認した。
「先生」
「何だ」
「これだけでしょうか」
「ああ」
「先生ご自身が、帝国民へお言葉をおかけになることは?」
「必要なら話す」
「帝国宮殿へお泊まりに?」
「日帰り予定だ」
セレスの顔が曇る。
「帝都まで片道二時間です」
「境界門を使えば十分だろう」
「夕食を召し上がっていただく時間が」
「夕方には帰る」
「宮殿には先生専用の寝室がございます」
「使わない」
「十年前から毎日整えております」
「誰も使わない部屋を、十年も?」
「先生がいつお戻りになってもよいように」
「……見るだけは見る」
セレスの表情が明るくなる。
「では、寝台の寝心地も」
「寝ない」
「一度横になるだけでも」
「駄目だ」
「……承知しました」
昨日の授業が効いている。
少し残念そうではあるが、押し通そうとはしなかった。
『女帝セレスが、旦那様からの拒否を受け入れました』
家の声が響く。
『教育評価を一点加算します』
「家」
セレスが壁を見る。
『事実です』
「評価されるのは嫌か?」
「先生に認めていただけることは嬉しいです。ただ、寝室を使っていただけないこととは別問題です」
「正直だな」
◇
帝国訪問は、共同生活八日目に決まった。
アステラの虚無の力を抑える腕輪も完成し、ようやく俺から一メートル以上離れられるようになった。
最初に腕輪を装着した時。
アステラは俺から二歩離れ。
三歩離れ。
廊下の端まで歩いた。
「どうだ?」
「平気」
「家は?」
『虚無化の兆候はありません』
「これで一人旅にも行けるな」
俺が言うと。
アステラはすぐに戻り、俺の腕へ抱きついた。
「離れられることと、離れたいことは別よ」
「腕輪の意味がない」
「旅の時は使うわ」
「今も少し離れろ」
「嫌」
「駄目だ」
「……分かった」
アステラは腕を放した。
ただし、服の袖だけは掴んでいる。
「それもだ」
「これくらい」
「駄目だ」
「……授業でなければ、いいでしょう?」
「今も共同生活中だ」
「厳しいわ」
離れられるようになった以上。
帝国訪問へ同行する理由もなくなった。
今回、帝国へ行くのは。
俺。
案内役のセレス。
護衛としてレオ。
記録係のリタ。
以上の四人。
「どうしてレオは同行できるのですか?」
ミレイユが尋ねる。
「俺と同じ顔だから、万が一の時に混乱させられる」
「誰をですか?」
「襲ってきた者を」
「私たちも、先生の護衛ができます」
「腕輪で力を封じられているだろう」
「では、外します」
「国家権力と戦闘力を使わず見学する予定だ」
「普通の女性として同行します」
「今回はセレスの十年間を見る旅だ」
俺は残る六人とアステラを見る。
「お前たちが一緒だと、セレスが皇帝として動けない」
「先生」
セレスが俺を見る。
「私は、皆がいても問題ありません」
「お前はそう言うだろう」
だが。
七人が揃えば、必ず争いが起きる。
帝国民の前で。
誰が俺の隣を歩くか。
誰が最初に食事を渡すか。
誰が俺と同じ馬車へ乗るか。
帝国訪問ではなく、七人の争奪戦になる。
「今回は、セレスと話す時間が必要だ」
俺が言うと。
セレスの顔が一気に明るくなった。
「先生と、私だけの時間」
「レオとリタもいる」
「お二人は先生と同じ顔と、娘ですので、問題ありません」
「問題の基準が分からない」
残る六人の表情が曇る。
「次はミレイユの神殿へ行く」
「はい」
ミレイユの顔が明るくなる。
「その次は魔界」
「うむ」
「全員のところへ行く。自分の番まで待ってくれ」
「先生」
ノアが小さく手を上げる。
「待っている間、帝国の映像を見てもいい?」
「セレスが許可するなら」
「帝国機密以外であれば」
「先生の顔だけ見る」
「セレスも見ろ。今回の目的は、今のセレスを知ることだ」
「努力する」
クロエが紙へ予定を書く。
「帝国訪問中、先生への連絡は一人一回まででよろしいでしょうか」
「緊急時以外は禁止だ」
「一度も?」
「ああ」
「先生が私たちを思い出された時は?」
「こちらから連絡する」
七人の顔が少し明るくなる。
「必ず?」
「必要があれば」
「必要がなくても、一度だけ」
アウラが言う。
「駄目だ」
「……分かった」
全員。
不満はある。
それでも、引き留めなかった。
以前なら。
帝国まで勝手についてきたはずだ。
魔法や軍隊で先回りしていたかもしれない。
「成長したな」
俺が呟くと。
七人とアステラが一斉に並んだ。
「何をしている」
「頭を」
「今回は撫でない」
「どうしてですか?」
「毎回褒められるたびに並ぶ習慣をやめろ」
「駄目?」
アウラ。
「駄目だ」
「……分かった」
八人は本当に列を解散した。
「少しくらいは撫でてもよかったか?」
レオが隣で言う。
「お前が撫でろ」
「嫌だ。俺はお前ではない」
「都合の悪い時だけ別人になるな」
◇
帝国へ繋がる境界門を通り。
俺たちは帝都郊外へ到着した。
「先生」
セレスが少し緊張した声で言う。
「こちらが、現在の帝都です」
門の向こう。
巨大な城壁。
空まで届きそうな尖塔。
白い石造りの建物。
整備された大通り。
中央には、皇帝の宮殿が見える。
十年前。
この場所は戦争で荒れていた。
城壁の一部は崩れ。
貧民街には食べ物がなく。
帝位を巡る争いで、貴族同士が兵を動かしていた。
セレスは。
その争いの中で、命を狙われていた少女だった。
「変わったな」
「はい」
「セレスが、ここまで?」
「私だけの力ではありません」
「国民と、部下と?」
「はい」
セレスは少し誇らしげに帝都を見る。
俺たちは城門へ向かった。
だが。
「人がいないな」
大通りは静かだった。
市民の姿が見えない。
店は開いている。
洗濯物も干されている。
馬車も置かれている。
しかし誰もいない。
「セレス」
「私にも分かりません」
城門の横。
一人の老人が、野菜を並べていた。
ぼろぼろの服。
頭には麦わら帽子。
見るからに、普通の農民。
「こんにちは」
俺が声をかける。
「い、いらっしゃいませ!」
老人は直立した。
背筋が不自然に伸びている。
「野菜を売っているのか?」
「は、はい! 普通の農民として、普通に野菜を販売しております!」
「普通を強調するな」
「申し訳ございません!」
老人は勢いよく頭を下げる。
麦わら帽子が落ちた。
その下から。
きれいに整えられた銀髪。
帝国宰相が公式行事で使う冠の跡が見えた。
「宰相?」
「……」
「お前、帝国宰相だろう」
「違います」
「昨日、通信具で話した」
「気のせいでございます」
「声も同じだ」
「帝国には似た声の農民が多くおります」
「そんなわけがあるか!」
セレスが宰相を見る。
「説明してください」
宰相は震えながら頭を下げた。
「女帝陛下より、普通にお迎えせよとの御命令がございました!」
「命令ではなく、お願いです」
「はっ!」
「それで、なぜ農民の格好を?」
「我々は考えました」
宰相は胸へ手を当てる。
「導師レオン様がお望みになる普通とは何か!」
「普段どおりでいい」
「ですが、普段どおりでは、女帝陛下の御帰還に全市民が道へ並びます!」
「毎回?」
「はい!」
「それをやめればいい」
「市民へ、家から出るなと命令することはできません!」
「国家権力で止めなくていい。普通に暮らしてくれと言えば」
「伝えました!」
「では、なぜ誰もいない」
「普通に暮らす姿を、どのように見せるか市民会議を行いました!」
「会議をする時点で普通ではない!」
「結論として、全員が平民の格好をし、導師レオン様を知らないふりをすることになりました!」
「全員、元から平民だろう!」
「貴族、軍人、官僚も含みます!」
大通りの店。
建物。
路地。
少しずつ、人影が現れる。
全員、簡素な服を着ている。
ただし。
明らかに服へ慣れていない。
剣だこがある手でパンを持つ男。
貴族の指輪を外し忘れた女性。
司祭服の裾をズボンの中へ隠している神官。
帝国軍の将軍らしい男が、箒を逆さに持って道を掃いている。
「普通にお過ごしください!」
宰相が叫ぶ。
市民たちは一斉に動き始めた。
「お、おはよう!」
「今日は普通の日だな!」
「ああ! 導師レオン様など来ていない!」
「私は普通にパンを買うぞ!」
「俺も普通に道を歩く!」
全員の声が大きい。
動きも固い。
「セレス」
「はい」
「帝国民に、演技の才能はないな」
「申し訳ございません」
「怒ってはいない」
むしろ。
ここまでして、俺の希望を守ろうとしたらしい。
完全に間違えているが。
「宰相」
「はっ!」
「全員へ、普段どおりでいいと伝えてくれ」
「普段どおり?」
「ああ。俺を見たいなら見ればいい。声をかけたいなら、道を塞がない範囲で」
「では、歓迎しても?」
「金色に塗らず、軍事行進をせず、婚姻祭りをしないなら」
「承知しました!」
宰相が大きく息を吸う。
「全帝都民へ告ぐ!」
「普通の声で伝えろ!」
遅かった。
「導師レオン様より、普段どおりの歓迎を許可いただいた!」
次の瞬間。
建物の窓が一斉に開いた。
「導師様!」
「お帰りなさいませ!」
「女帝陛下を救ってくださり、ありがとうございます!」
「帝国へようこそ!」
市民たちが大通りへ飛び出す。
花びらが舞う。
店から菓子が配られる。
子供たちが走ってくる。
兵士たちは武器を持たず、整然と沿道へ並ぶ。
軍事行進ではない。
ただ、一人の市民として俺たちを迎えている。
「多いな」
「帝都人口の八割ほどが参加しております」
「休日にしていないだろうな?」
「本日の業務は、早朝に終えたそうです」
「何時から働いた」
「午前二時です」
「無理をするな!」
沿道から声が返る。
「明日は休みます!」
「第七学則を守ります!」
「十分に寝ます!」
「なら今日も寝ろ!」
俺の言葉に、市民たちが笑った。
堅苦しい儀式ではない。
少し騒がしく。
不器用で。
それでも温かい歓迎だった。
「先生」
セレスが隣を歩く。
「ご不快ではありませんか?」
「驚いてはいる」
「止めましょうか?」
「いや」
俺は沿道の市民を見る。
セレスへ向けられる目。
尊敬。
親しみ。
信頼。
恐れだけではない。
「お前は、国民に好かれているんだな」
セレスの足が止まりかける。
「先生」
「何だ」
「今の言葉を、もう一度」
「好かれていると言った」
「本当に、そう見えますか?」
「ああ」
女帝が姿を見せるたび。
市民たちは笑顔になる。
子供が手を振る。
老兵が胸へ手を当てる。
商人は頭を下げ。
貴族たちも、距離を取りながら敬意を示す。
「恐れられているだけだと思っていたのか?」
「命令には従います」
「それだけでは、あんな顔をしない」
セレスは市民を見る。
十年間。
毎日見ていたはずの姿を。
初めて見るような顔だった。
◇
最初に案内されたのは、帝国議会だった。
「宮殿ではないのか?」
「先生には、現在の帝国をご覧いただきたいのです」
セレスが答える。
「十年前は、皇帝と貴族だけで国の方針を決めておりました」
「今は?」
「市民、商人、農民、軍人、魔族を含む各種族の代表が議会へ参加します」
「魔族も?」
「はい」
「反対はなかったのか」
「ございました」
「どうした?」
「話を聞きました」
「その後は?」
「三年かけて制度を作りました」
「武力で黙らせなかった?」
「先生なら、まず話を聞けとおっしゃると思いましたので」
議会の席には。
人間だけでなく。
獣人。
魔族。
竜人。
さまざまな者が座っていた。
セレスが入室すると、全員が立ち上がる。
「女帝陛下」
「本日は通常どおり議事を進めてください」
「導師レオン様がいらっしゃるのに?」
「先生は、現在の帝国をご覧になります」
「では、通常以上に立派な議論を」
「通常どおりです」
「……承知しました」
議事が始まった。
穀物価格。
北部の橋の修理。
魔族居住区の水路。
退役兵の職業訓練。
地味な話ばかりだ。
だが。
国を動かすのは。
こうした地味な話なのだろう。
「先生」
セレスが小声で尋ねる。
「退屈ではありませんか?」
「いや」
「戦争や外交の話ではありません」
「だからいい」
「本当に?」
「ああ」
セレスは。
議員の発言を一つずつ聞いている。
意見が対立しても。
すぐ命令しない。
片方の言葉を遮らない。
必要な時だけ質問する。
昔。
俺の話を途中で遮り。
自分の考えを押し通そうとしていた少女とは違う。
今のセレスは。
一つの国を預かる女帝だった。
議会が終わる。
俺たちが出ようとした時。
一人の老婆が手を上げた。
農民代表らしい。
「女帝陛下」
「何でしょう」
「議題に追加したいものがございます」
「次回でも構いませんか?」
「本日、導師様がいらっしゃるからこそ申し上げたいのです」
老婆は俺へ頭を下げる。
「導師様」
「俺に?」
「どうか、女帝陛下へ休暇を命じてください」
議会が静まり返った。
「休暇?」
「はい」
老婆が分厚い記録を取り出す。
「女帝陛下は即位以来、まともな休暇を取っておられません」
「セレス」
「必要な休息は取っております」
「どのくらい」
「睡眠は一日三時間ほど」
「少ない!」
「以前より増えました」
「以前は?」
「二時間です」
「減らすな!」
「一時間増えております」
「そういう意味ではない!」
議会の者たちが一斉に頷いている。
「陛下は、熱があっても執務を」
「骨折しても会議へ」
「毒を受けた日も決裁を」
「暗殺者を捕らえながら、予算書を」
「最後は同時にするな!」
「先生」
セレスが少し困ったように笑う。
「私は丈夫です」
「今は腕輪で普通の女性と同じ体だろう」
「ですので、昨夜は五時間眠りました」
「まだ少ない」
「先生の御来訪が楽しみで、眠れませんでした」
「それは俺の責任ではない」
老婆がさらに続ける。
「十年間で、完全な休日は七日だけです」
「七日?」
「先生の命日です」
俺はセレスを見る。
「休んで墓へ来ていたのか」
「はい」
「それは休日ではないだろう」
「先生と過ごす日でした」
セレスは当然のように答える。
「一人で?」
「ほかの六人も来ました」
「毎年喧嘩していたと聞いた」
「軽い意見交換です」
「地下都市が消滅しかけた回数へ含まれていただろう!」
議会の者たちは。
俺たちの会話を見ながら。
少し笑っている。
「セレス」
「はい」
「一週間休め」
「先生」
「駄目か?」
「一週間も国を離れることは」
「国は一人で動かすものではないと、昨日お前が言った」
セレスの言葉が止まる。
「後継者や制度を整えたとも」
「はい」
「なら、試せ」
「しかし」
「駄目だ」
セレスが固まった。
俺から明確に断られた時は、諦める。
授業の内容。
「一週間の休暇を取れ」
「……理由を伺っても?」
「俺が、お前に倒れてほしくないからだ」
セレスの赤い瞳が揺れた。
「先生が?」
「ああ」
「私の体を、心配して?」
「当たり前だ」
「女帝としての責務より?」
「責務を続けるためにも休め」
「先生」
「駄目と言われたら諦める授業だったな」
「これは、先生のお願いです」
「そうだ」
「断ることもできます」
「できる」
「ですが」
セレスは、議会を見回す。
全員が。
女帝の返事を待っている。
「分かりました」
「本当に?」
「一週間、休暇を取ります」
議会から。
大きな拍手が起きた。
「女帝陛下が!」
「十年ぶりの休暇!」
「導師様、ありがとうございます!」
「先生」
セレスが慌てる。
「一週間とは、どちらで過ごせばよいでしょう」
「自分で決めろ」
「先生のお家では?」
「共同生活中だから、今はそうなるな」
セレスの顔が明るくなる。
「先生と一週間」
「ほかの七人もいる」
「それでも構いません」
「本当に休めよ」
「はい」
「執務室へ入るな」
「緊急時は?」
「命に関わる時だけ」
「一日一時間だけ書類を」
「駄目だ」
「三十分」
「駄目だ」
「報告を聞くだけ」
「駄目だ」
「……承知しました」
議会の拍手が、さらに大きくなった。
◇
次に向かったのは。
帝都の南側。
十年前には貧民街だった場所だ。
現在は。
学校。
診療所。
共同食堂。
職業訓練所。
小さな商店が並ぶ地区へ変わっていた。
「ここは」
「先生が、昔お住まいだった場所を参考にしました」
「俺の家を?」
「はい」
「七人と暮らし、食事をし、学んだ家です」
子供たちが学校から出てくる。
人間。
獣人。
魔族。
身分も種族も関係なく、同じ服を着ている。
「女帝陛下!」
子供たちがセレスへ駆け寄った。
護衛兵が止めようとする。
セレスは手で制した。
「大丈夫です」
一人の少女がセレスへ花を差し出す。
「陛下。今日も来てくれたの?」
「本日は、先生をご案内しています」
「先生?」
子供たちが俺を見る。
「この人が?」
「はい」
少女が俺の周囲を一周する。
「普通のおじさん」
「普通で悪かったな」
「もっと光ってると思った」
「光らない」
「空を飛ぶ?」
「飛ばない」
「山を割る?」
「割らない」
「女帝陛下より強い?」
「戦えば負ける」
子供たちが驚く。
「弱いの?」
「普通だ」
「でも、陛下の先生?」
「ああ」
「何を教えたの?」
「飯を食って寝ろと」
「それだけ?」
「ほかにも少し」
子供たちが笑う。
一人の少年がセレスを見る。
「陛下」
「何でしょう」
「先生が帰ってきたら、陛下は帝国をやめるの?」
セレスの表情が止まる。
「どうして?」
「ずっと待ってたんでしょう?」
「はい」
「先生と一緒に、どこかへ行くの?」
セレスは答える前に、俺を見た。
「俺がセレスを連れていくと困るか?」
少年は強く頷く。
「困る」
「どうして」
「陛下が、学校を作ってくれた」
少女も。
「お母さんの薬を、安くしてくれた」
「お父さんが戦争から帰った後、仕事をくれた」
「魔族でも帝都に住んでいいって言ってくれた」
「悪い貴族を怒ってくれた」
子供たちが。
次々にセレスのしたことを話す。
セレスは。
何も言わず聞いていた。
「大丈夫だ」
俺は子供たちへ言う。
「俺は、セレスを帝国から取り上げるつもりはない」
「本当?」
「ああ」
「結婚しても?」
セレスが大きく反応した。
「誰から聞いた!」
「街のみんな」
「先生との婚姻は、まだ決まっておりません」
「したい?」
少女が尋ねる。
セレスの顔が赤くなる。
「それは」
「したいの?」
「……はい」
小さく答えた。
子供たちが歓声を上げる。
「陛下が結婚する!」
「まだ決まっていない!」
「先生は嫌なの?」
今度は俺へ質問が来る。
「セレスの今を知ってから考える」
「今日見てる?」
「ああ」
「どう?」
子供は容赦がない。
俺はセレスを見る。
帝国の女帝。
十年間。
国民の話を聞き。
制度を作り。
弱い者を守り。
休むことも忘れて働き続けた女性。
「立派だと思う」
セレスが息を呑む。
「俺の知らないところで、よくここまで頑張った」
「先生」
「昔のお前へ教えたことを、ちゃんと自分の形で続けていた」
「はい」
「正直、少し驚いている」
「よい意味で?」
「ああ」
セレスの目が潤む。
「女帝としてのお前も、好きになれそうだ」
口にした後。
少し言いすぎたと思った。
周囲が静まり返る。
「先生」
「まだ、なれそうだと言っただけだ」
「はい」
「好きだと決めたわけでは」
「はい」
「結婚も」
「はい」
セレスは笑った。
涙を堪えながら。
女帝ではなく。
昔の少女でもない。
一人の女性として。
「それで十分です」
子供たちが。
一拍遅れて大歓声を上げた。
「先生が陛下を好きになる!」
「結婚する!」
「まだ決まってない!」
俺の声は、誰にも届かなかった。
◇
帝国宮殿。
夕方。
俺たちは、セレスが十年間使ってきた執務室へ入った。
大きな机。
大量の書類。
壁一面の地図。
飾りは少ない。
女帝の部屋というより。
働く者の部屋だった。
「本当に、ここで一日中仕事を?」
「はい」
「寝室は?」
「隣です」
「見せてくれ」
扉を開く。
小さな寝台。
棚。
着替え。
それだけ。
「女帝の部屋にしては狭いな」
「眠るだけですので」
「だから三時間しか寝ないのか」
「広さとは関係ありません」
「一週間の休暇中に、睡眠を直すぞ」
「先生が、寝かしつけてくださるのであれば」
「一人で寝ろ」
「……はい」
セレスは少し残念そうだった。
「先生専用の寝室は、こちらです」
さらに奥の扉を開く。
巨大な部屋だった。
寝台。
書棚。
暖炉。
風呂。
庭まである。
「俺の部屋のほうが広い!」
「先生には、快適に過ごしていただきたく」
「使わない部屋へ金をかけるな」
「私の個人資産です」
「維持する者がいるだろう」
「宮殿職員が、先生のお帰りを待ちながら毎日整えておりました」
部屋の隅に。
古い机があった。
俺が七人と暮らしていた頃に使っていたもの。
「これまで運んだのか」
「はい」
「傷もそのままだ」
「先生がエリナの剣を止めた時についた傷です」
「懐かしいな」
机の上。
一冊の薄い本が置かれている。
「これは?」
「私の日記です」
「読んでいいのか?」
「先生がお戻りになった日に、お渡ししようと思っておりました」
「十年分?」
「はい」
手に取る。
分厚い。
「薄くないな」
「一年に一冊ございます」
棚の扉が開く。
中に。
同じ本が十冊並んでいた。
「毎日書いたのか?」
「はい」
「何を」
「帝国で起きたこと。私が決めたこと。間違えたこと」
「間違いも?」
「先生へ、いつか叱っていただくためです」
「全部読むのか?」
「お時間がある時に」
「十冊あるぞ」
「一日一冊で」
「無理だ」
「一週間で」
「休暇中に仕事を増やすな」
「先生」
「少しずつ読む」
セレスの顔が明るくなる。
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「俺が正しいとは限らない」
セレスが俺を見る。
「お前は十年間、俺の知らない問題へ向き合った」
「はい」
「俺なら違う決断をしたと思うこともあるだろう」
「はい」
「だが、それだけでお前を否定する気はない」
「先生」
「なぜそうしたのか、先に聞く」
俺が七人へ教えたこと。
今度は。
俺自身が守る番だ。
「今のセレスを、俺の昔の基準だけで裁きたくない」
セレスは黙っていた。
「先生」
「何だ」
「私が、許されないことをしていても?」
「内容を聞いてからだ」
「先生に嫌われるかもしれません」
「それも、聞いてから考える」
「怖いです」
「俺も怖い」
「先生も?」
「お前たちの十年間を知れば、俺の知らない七人になっているかもしれない」
「それでも?」
「知りたい」
セレスは。
ゆっくりと。
俺の隣へ立った。
「では、すべてお話しします」
「ああ」
「私が女帝になった理由も」
「ああ」
「先生を待ちながら、どのように生きたかも」
「ああ」
「先生以外のために、何を守ろうとしたかも」
「聞かせてくれ」
俺たちは。
古い机の前へ並んだ。
セレスは一冊目の日記を開く。
最初のページ。
『先生がいなくなって一日目』
と書かれていた。
セレスの指が震える。
「無理に今日読む必要はない」
「いいえ」
「本当に?」
「はい」
セレスは息を整える。
「今の私を、先生に知っていただきたいです」
俺は隣の椅子へ座る。
「では、聞く」
セレスも座った。
ただし。
椅子は一つしかなかった。
「セレス」
「はい」
「どうして俺の膝へ座ろうとしている」
「椅子が一つですので」
「立って読め」
「長時間になります」
「別の椅子を持ってこい」
「先生」
「駄目だ」
「……承知しました」
セレスは本当に諦めた。
部屋の外から、自分で椅子を運んでくる。
腕輪で普通の女性の力しかないため。
重そうに引きずっていた。
「手伝おうか?」
「自分でできます」
「無理をするな」
「では、半分だけ」
二人で椅子を運ぶ。
机の前へ並べる。
「これでいい」
「先生と、少し距離があります」
「手を伸ばせば届く」
「では」
セレスは小指だけを差し出した。
「何だ」
「日記を読む間だけ」
「手をつなぐのは駄目と言っただろう」
「小指です」
「同じだ」
「駄目ですか?」
「……最初の一冊を読む間だけだ」
「はい」
セレスの小指が、俺の小指へ絡む。
少しだけ震えていた。
十年間。
俺を待ち。
帝国を背負い。
女帝として生きたセレス。
その記録を。
俺は、初めて読み始めた。
◇
日が沈む前。
俺たちは地下都市へ戻った。
境界門を抜けると。
残る六人とアステラが、扉の前へ並んでいた。
「お帰りなさいませ、先生」
「ただいま」
「帝国はいかがでしたか?」
ミレイユが尋ねる。
「よい国だった」
「セレスは?」
「立派な女帝だった」
セレスが胸を張る。
「先生から、高い評価をいただきました」
「どの程度?」
リリス。
「女帝としての私も、好きになれそうだと」
空気が止まった。
「セレス」
「何でしょう」
「それを最初に言う必要があったか?」
「最も重要です」
「先生」
ミレイユが俺へ近づく。
「そのお言葉は、どのような状況で?」
「子供たちに質問されて」
「子供を利用したのですか?」
「私は何もしておりません」
「先生」
リリス。
「私の魔王としての姿も、好きになれそうか?」
「まだ見ていない」
「明日、魔界へ行く」
「次は神殿だ」
「順番を変える」
「変えない」
エリナも俺の顔を覗き込む。
「勇者の私は?」
「今も知っているだろう」
「十年前より強い」
「それは見れば分かる」
「女性として?」
「順番に話す!」
七人が一斉に質問を始める。
セレスは少し離れた場所で。
勝ち誇ったように微笑んでいた。
「セレス」
「はい?」
「一週間の休暇が決まったことも報告しろ」
セレスの笑顔が固まる。
「休暇?」
クロエが反応する。
「帝国の経済は?」
「一週間程度で問題は」
「女帝不在時の市場変動を計算します」
「仕事をさせるな」
「セレス」
アウラが嬉しそうに尻尾を振る。
「一週間、一緒にお昼寝」
「先生とであれば」
「俺は毎日一緒に寝ない」
「では、私と」
「アウラは寝返りが激しいので」
「竜の姿なら広い」
「家が壊れる」
ノアがセレスの袖を引く。
「休暇中、先生を独占しない?」
「しません」
「本当?」
「努力します」
『女帝セレスの休暇予定を登録しました』
家の声が響く。
『期間、一週間』
『執務禁止』
『国家権力使用禁止』
『先生の予定を勝手に決めることも禁止』
「最後は、休暇と関係なくありませんか?」
『共同生活中の規則です』
「家」
『事実です』
セレスは不満そうだったが。
やがて、俺を見る。
「先生」
「何だ」
「明日は、何をして過ごせばよいでしょう」
「自分で決めろ」
「帝国へ戻らず?」
「ああ」
「先生の予定とは関係なく?」
「ああ」
「……空待花を見に行っても?」
「俺へ聞く必要はないだろう」
「そうでした」
セレスは少し考え。
初めて。
女帝の予定でも。
俺と過ごす予定でもない。
自分だけの予定を口にした。
「明日は、花を見てまいります」
「楽しんでこい」
「はい」
その時。
家の壁へ、神殿からの緊急通信が表示された。
『次回、聖女ミレイユ様による神聖教都への御案内について』
「もう次の話か」
内容を読む。
『導師レオン様の普通の御来訪を実現するため、神聖教都では一切の過剰歓迎を行いません』
「話が分かるな」
ミレイユが微笑む。
「神殿には、慎みを知る者が多くおりますので」
次の一文。
『ただし、導師様を直接拝見すると信徒が失神する恐れがあるため、全市民へ目隠しを配布いたします』
「普通の歓迎ではない!」
『さらに、導師様のお声を聞いて宗教的興奮へ陥らぬよう、耳栓も配布予定です』
「俺を見ず、声も聞かないなら、何のために歓迎するんだ!」
「先生」
ミレイユが通信文を見ながら、穏やかに笑う。
「ご安心ください。神殿は、帝国より節度を持って先生をお迎えいたします」
「これを節度と呼ぶな!」
七人の国を巡る旅。
最初の帝国だけで。
俺は、セレスの知らなかった十年を少しだけ知った。
そして次。
最高位聖女ミレイユが治める神聖教都では。
市民全員が目隠しと耳栓をつけて。
俺を歓迎しようとしていた。
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