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月待町の恋時計 2 ~本のあいだで、5年前のきみと文通する~  作者: 草風緑


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第3話 時計の針のかたちをした短剣

本のあいだで、5年前のきみと文通する


第3話 時計の針のかたちをした短剣



 月待町では、恋をすると少しだけ不思議なことが起きる。


 告白する前の手紙が、朝になると白紙に戻ったり。


 片思いをしている子の髪に、小さな星が咲いたり。


 失恋した人の頭の上にだけ、雨雲がついたり。


 町の人たちは、それを大事件のようには言わない。


「ああ、恋時計が動いたんだね」


 そんなふうに、商店街のおばあちゃんが、コロッケの油を切るくらいの温度で言う。


 恋時計は見えない。


 どこにあるのかも、誰も知らない。


 それでも、好きになると針が進む。


 言えなかった気持ちが、どこかで音を立てる。


 止めようとしても止められないもの。


 止めてしまったら、たぶん、大切な何かまで一緒に止まってしまうもの。


 雨宮律は、朝の机の前で、閉じた本に手を置いていた。


 『夜明け前の庭で』。


 その三章には、青い花のしおりが挟まっている。


 しおりの隣には、昨夜、律が書いた手紙がある。



 

 花守さんへ。


 よくありません。


 見ているだけでも、近づけば危ないことがあります。


 時計塔の近く、針、黒い封筒。


 その三つがつながっているなら、なおさらです。


 春樹くんを一人で追わないでください。


 菜月さんにも、できれば近づかないよう伝えてください。


 先生に言うのが難しければ、友達でもいいです。


 とにかく、一人で見に行かないでください。


 お願いします。



 雨宮律

 



 何度思い返しても、最後の「お願いします」だけが、少し強すぎた気がした。


 けれど、強く書かずにはいられなかった。


 詩織の最後の手紙には、こう書かれていた。


 見ているだけなら、いいですよね。


 それは、危ない場所へ近づく人の言葉だった。


 自分はまだ大丈夫。


 自分はまだ離れている。


 自分はただ見ているだけ。


 そう思っている人ほど、気づいたときには、もう戻れないところまで来ている。


 律は、それが怖かった。


 朝の光が、カーテンのすき間から机に落ちている。


 青い花のしおりは、その光の中で静かだった。


 昨日の夜、ページを閉じた瞬間、花が淡く光った。


 まるで遠くから誰かが小さなランプを灯したみたいに。


 だから律は、届いたと思った。


 届いていてほしいと思った。


 けれど、本を開く指先は、少し冷たかった。


 律はゆっくりと本を開いた。


 三章。


 青い花のしおり。


 その隣に、便箋が挟まっていた。


 律は息を止める。


 返事は、届いていた。


 少なくとも、何かは返ってきていた。


 便箋を開く。


 文字は、いつもよりずっと小さかった。


 まるで、誰かに見つからないように、息をひそめて書いたみたいだった。

 



 雨宮さんへ。


 お返事、読みました。


 「よくありません」って、最初に書いてあったので、少しびっくりしました。


 でも、怒られたとは思いませんでした。


 止めてもらったんだと思いました。


 ありがとうございます。


 わたし、昨日は少し変でした。


 見ているだけならいい、なんて、本当はよくないって、自分でもどこかでわかっていました。


 でも、誰かが見ていないと、春樹くんが本当に何かをしてしまう気がして。


 そう思うと、足が勝手にそっちへ向いてしまいそうでした。


 雨宮さんの手紙を読んで、今日は追いかけないようにしました。


 でも、何も見ないでいるのは、やっぱり怖いです。

 



 律は、そこで少し息を吐いた。


 詩織は、追いかけなかった。


 少なくとも、昨日は。


 それだけで、胸の奥に張っていた糸が、ほんの少しだけゆるんだ。


 けれど、手紙はまだ続いている。



 

 今日は、友達に少しだけ話しました。


 同じクラスの美咲ちゃんです。


 黒い封筒のことを、全部ではないけれど、少しだけ。


 美咲ちゃんは、最初は「なにそれ、こわ」と笑いました。


 でも、わたしの顔を見て、笑うのをやめました。


 「詩織がそんな顔するなら、ほんとに怖いやつじゃん」って言ってくれました。


 それだけで、少し楽になりました。


 でも、春樹くんの名前は言えませんでした。


 言ったら、春樹くんが本当に悪い人になってしまう気がして。


 変ですね。


 春樹くんがしようとしていることは怖いのに、春樹くんのことを悪い人だと決めてしまうのも、少し怖いです。



 

 律は、その文章を何度も読んだ。


 詩織らしいと思った。


 怖がっている。


 でも、誰かを簡単に悪い人にしない。


 そういうところが、危うい。


 優しさは、ときどき、刃物の近くに人を立たせてしまう。


 律は便箋を持つ手に少し力を入れた。



 

 それから、もうひとつ。


 今日、見てしまいました。


 春樹くんの黒い封筒の中身です。


 わたしが見ようとしたわけではありません。


 放課後、教室に忘れ物を取りに戻ったら、春樹くんがひとりで机に向かっていました。


 黒い封筒が、机の上にありました。


 春樹くんは、封筒の中から黒い紙を出していました。


 それから、銀色のものも。


 細くて、短くて、時計の針みたいな形をしていました。


 最初は、ペーパーナイフかなと思いました。


 でも、違う気がしました。


 刃物でした。


 小さな短剣みたいなもの。


 銀色で、持ち手のところに、黒い糸が巻いてありました。


 春樹くんは、その短剣を見ながら、黒い紙を読んでいました。


 声はとても小さかったです。


 でも、教室には春樹くんしかいなくて、わたしは入口のところにいたので、聞こえてしまいました。


 春樹くんは、まるで自分に言い聞かせるみたいに、ゆっくり読んでいました。


「胸の奥にある見えない針を折れば、恋時計は止まる」



 

 律は、思わず手紙から顔を上げた。


 部屋は静かだった。


 机の上には朝の光。


 窓の外には、いつもと変わらない町。


 どこかで犬が吠えている。


 誰かが自転車で通り過ぎる音がした。


 それなのに、律の机の上だけが、薄く冷えていく。


 胸の奥にある見えない針を折れば、恋時計は止まる。


 恋時計は見えない。


 見えないはずなのに。


 どうして、そんなものを折る方法があるのか。


 そして、見えない針を折るために、どうして目に見える刃物が必要なのか。


 律は、便箋に視線を戻した。



 

 雨宮さん。


 恋時計は見えないはずですよね。


 でも、黒い封筒には、恋時計を止める方法が書いてあります。


 それを信じてしまう人がいたら、どうなるんでしょう。


 春樹くんは、短剣を手に持って、何度も小さく言っていました。


 「あいつは自由になる」


 「あいつは楽になる」


 「これは、あいつのためだ」


 でも、わたしには、春樹くんが自分に言い聞かせているように見えました。


 誰かのためだって言わないと、持っていられない刃物みたいでした。


 怖かったです。


 でも、それ以上に、悲しかったです。


 好きって、そんなふうに、人に刃物を持たせるものなんでしょうか。



 花守詩織

 



 手紙は、そこで終わっていた。


 律は、しばらく何もできなかった。


 手紙を机の上に置く。


 指先が少し震えている。


 青い花のしおりが、本の間で静かに見えていた。


 銀色の短剣。


 胸の奥にある見えない針。


 時計塔の近くなら、針が届く。


 昨日まで、ばらばらだった言葉が、少しずつ同じ方向を向きはじめている。


 律は椅子から立ち上がった。


 朝食の時間まで、まだ少しあった。


 けれど、じっとしていられなかった。


 机の引き出しから便箋を取り出す。


 ペンを持つ。


 すぐに書き始めようとして、止まる。


 何を書けばいい。


 見なかったことにしてください。


 逃げてください。


 先生に言ってください。


 春樹くんから離れてください。


 どれも正しい。


 でも、どれも足りない。


 詩織はもう見てしまった。


 黒い封筒の中身を。


 銀色の短剣を。


 春樹くんの泣きそうな声を。


 もう、ただ怖がらせるだけでは届かない気がした。


 律は、深く息を吸った。


 そして書いた。



 

 花守さんへ。


 手紙を読みました。


 まず、昨日追いかけなかったこと、友達に少しでも話したことは、よかったと思います。


 一人で抱えなかったことは、とても大事です。


 銀色の短剣のことは、すぐに大人に話してください。


 黒い封筒の噂だけなら信じてもらえないかもしれません。


 でも、刃物を持っているなら話は別です。


 恋時計が見えるかどうかは関係ありません。


 見える刃物を持っているなら、それは危ないことです。


 春樹くんが本気かどうかも、関係ありません。


 本気ではなくても、人は人を傷つけることがあります。


 優しさのふりをした言葉が、刃物を正しいものみたいに見せることがあります。


 だから、どうか、一人で止めようとしないでください。



 

 律は、そこでペンを止めた。


 机の上に手を置き、少しだけ目を閉じる。


 詩織の最後の問いが、頭の中に残っていた。


 好きって、そんなふうに、人に刃物を持たせるものなんでしょうか。


 律は、雨のことを思い出した。


 失恋したとき、自分の頭上に降っていた雨。


 言えなかった気持ち。


 届かなかった言葉。


 心の中が濡れていく感覚。


 でも、そのとき律は、誰かの恋時計を止めたいとは思わなかった。


 思わなかっただけで、それは律が特別に正しかったからではない。


 たまたま、雨が降ったから。


 たまたま、本を濡らしてしまう痛みが、自分の内側に向いたから。


 もしあのとき、誰かが黒い封筒を差し出していたら。


 失恋が苦しいなら、この方法で相手の心を変えられる、と囁いていたら。


 律は絶対に手を伸ばさなかったと言えるだろうか。


 言えなかった。


 だから、春樹くんをただ怪物みたいに思うこともできなかった。


 でも。


 それでも。


 刃物を持った時点で、止めなければいけない。


 律は続きを書いた。



 

 花守さん。


 好きという気持ちは、人に刃物を持たせるものではないと思います。


 でも、好きがうまく行き場を見つけられないと、痛みになります。


 その痛みに、誰かが悪い言葉を渡すと、刃物を持ってしまう人もいるのだと思います。


 だからこそ、黒い封筒を渡した人たちが怖いです。


 春樹くんの痛みを利用しているからです。


 春樹くんを責めるより先に、春樹くんから短剣を遠ざける必要があります。


 でも、それを花守さん一人でしてはいけません。


 お願いします。


 先生に話してください。


 美咲さんにも、もう少し話してください。


 菜月さんにも、危ないかもしれないと伝えてください。


 あなたが一人で前に出る必要はありません。


 

 雨宮律

 



 最後まで書いて、律は便箋を見つめた。


 お願いします。


 また書いてしまった。


 けれど、ほかに言葉がなかった。


 律は便箋を折り、本に挟んだ。


 青い花のしおりの隣。


 ページを閉じると、しおりの中の青い花が、ほんの少しだけ熱を持った気がした。


 律は、そっと本に手を置いた。


「届いてください」


 今度は、声に出した。




 学校へ向かう途中、律は北通りを通った。


 星野文具店の前を通るためだった。


 朝の北通りは、商店街ほどにぎやかではない。


 古い家と小さな店が並び、シャッターの下りた店先に、昨日の風で飛ばされた葉が集まっている。


 星野文具店の看板は、朝の光の中で少し白っぽく見えた。


 青い屋根。


 重たいガラス戸。


 色あせた張り紙。


 青インク入荷しました。


 昨日見つけたその文字は、まだそこにあった。


 律は、店の前で少し立ち止まった。


 五年前、詩織はここで青いインクを買った。


 今、律は同じ場所に立っている。


 けれど、時間は重ならない。


 手紙だけが重なっている。


 同じ本。


 同じしおり。


 同じ青。


 それでも、律の足元には今の朝しかない。


 律は、鞄の中の本に手を触れた。


 まだ返事は来ていない。


 当たり前だ。


 返事はいつも、翌朝か、夜に届く。


 それでも、待ってしまう。


 ページの向こうの時間は、律の知らない速さで進んでいる。


 律が一時間歩いているあいだに、詩織の五年前では、何かが変わっているかもしれない。


 そのことが、怖かった。


「雨宮先輩?」


 背後から声をかけられた。


 振り向くと、こよみが立っていた。


 制服の鞄を肩にかけ、少し不思議そうに律を見ている。


「おはよう」


「おはようございます。星野文具店、気になりますか」


「うん」


 律は看板を見上げた。


「花守さんが、五年前にここで青いインクを買ったって」


「青いインク」


「手紙を書くときに、少し勇気が出る気がするって言ってた」


 こよみは、シャッターの張り紙を見た。


 それから、小さく言った。


「青いものが多いですね」


「うん」


「青い花、青いしおり、青いインク」


「それから、五年前の手紙」


「手紙も青いんですか」


「端に、青い花の模様がある」


 こよみは少し考えるように、看板を見つめた。


「つながってますね」


「そう思う?」


「はい。月待町の不思議って、だいたい変なところだけ几帳面なので」


「変なところだけ几帳面」


「たとえば、雨宮先輩の雨も、本を濡らすところまでちゃんと雨でした」


「それは、だいぶ困った几帳面さだね」


「はい。でも、だから手がかりにもなります」


 こよみは律を見た。


「青が、手がかりなのかもしれません」


 律は、もう一度張り紙を見た。


 青インク入荷しました。


 色あせた文字なのに、不思議とそこだけ目に残る。


「昨日の夜、手紙が来た」


 律は言った。


「花守さんからですか」


「うん。黒い封筒の中身を見たって」


 こよみの顔が、少しこわばった。


「中身って」


「紙と、銀色の短剣」


「短剣?」


「時計の針みたいな形をしていたらしい」


 こよみは何も言わなかった。


 朝の通りを、自転車が一台通り過ぎる。


 ベルの音が、妙に普通で、余計に不安になった。


「恋時計は見えないんですよね」


 こよみが言った。


「うん」


「でも、見えない恋時計を壊すために、見える刃物を使う」


「そうらしい」


「それって」


 こよみは眉を寄せた。


「とても悪いです」


「悪い」


「はい。だって、周りから見たら、ただ人に刃物を向けているようにしか見えません」


「うん」


「でも本人は、恋時計を壊すだけだと思っている」


「たぶん」


「そう思わせた人たちがいるんですね」


 律はうなずいた。


「黒い封筒を渡した誰か」


 こよみは、少しだけ唇を引き結んだ。


「それは、春樹くんだけの問題じゃないですね」


「うん」


「でも、今は春樹くんを止めないといけない」


 その言葉に、律の胸が少し沈んだ。


 止める。


 五年前の誰かを。


 手紙で。


「僕にできるのは、書くことだけだ」


 律が言うと、こよみはしばらく黙っていた。


 それから、静かに言った。


「だけ、ではないと思います」


「え?」


「書くことって、けっこう大きいです」


 こよみは、シャッターの張り紙を見た。


「五年前の張り紙だって、まだここに残ってます。字って、残るんです」


 律は、こよみを見た。


「手紙も、残ります」


 こよみの声は、いつもより少しだけ強かった。


「だから、書いてください。雨宮先輩が書かないと、花守さんは一人になっちゃう気がします」


 律は、鞄に手を置いた。


 本の形が、布越しにわかる。


 花守さんが何かを書いてくれるなら、僕は読みます。


 昨夜、自分でそう書いた。


 なら、自分も書かなければいけない。


 どれほど届くかわからなくても。


 どれほど間に合うかわからなくても。


「ありがとう」


 律が言うと、こよみは少しだけ笑った。


「図書委員なので」


「本に挟まった謎は、管轄?」


「はい。あと、手紙も追加で管轄にしました」


「規則が増えてる」


「必要に応じて改定されます」


 律は、少しだけ笑った。


 笑えることが、ありがたかった。


 星野文具店の前で、青い張り紙が小さく揺れた。


 風が通り過ぎる。


 その風は、五年前から吹いてきたわけではない。


 けれど、律には少しだけ、紙とインクの匂いがした気がした。




 その日の図書室は、いつも通りだった。


 昼休みに一年生が本を借りに来る。


 放課後には、受験勉強のために三年生が数人、窓際の席に座る。


 こよみは返却された本を分類し、律はカウンターで貸出カードを書いた。


 手は動いている。


 けれど、意識は何度も鞄の中の本へ行ってしまう。


 詩織から返事は来ているだろうか。


 春樹くんは短剣をどうしただろうか。


 菜月ちゃんは何も知らないままなのだろうか。


 美咲ちゃんは、詩織の話をどこまで聞いてくれただろうか。


「雨宮先輩」


 こよみが本を抱えてカウンターへ戻ってきた。


「これ、さっき郷土資料の棚で見つけました」


 差し出されたのは、薄い冊子だった。


 『月待町の民間伝承 第三集』


 表紙の端が少し折れている。


「恋時計のこと、載ってるかもしれないと思って」


「ありがとう」


 律は冊子を開いた。


 目次には、月待町の古い言い伝えが並んでいる。


 月見坂の狐火。


 雨の日だけ鳴る井戸。


 忘れものを返す猫。


 そして。


 恋時計の噂。


 律は、そのページを開いた。


 そこには、短い文章が載っていた。

 

 月待町では、恋をすると胸の奥で時計が動くという。


 これを恋時計と呼ぶ。


 恋時計は目に見えない。


 ただし、動いたとき、周囲に小さな異変が現れることがある。


 古くは、恋文の文字が消える、髪に光るものが咲く、本人の周囲にのみ雨が降る等の記録がある。


 恋時計は本人の心に結びつくものとされ、他者がこれに触れることはできない。

 

 律は最後の一文で手を止めた。


 他者がこれに触れることはできない。


 では、黒い封筒は何なのか。


 見えない恋時計を止める方法。


 胸の奥にある見えない針を折る短剣。


 それは、町の古い言い伝えとは違う。


 誰かが、外から無理やり入り込む方法を作ったのかもしれない。


 あるいは。


 恋時計そのものではなく、恋時計の持ち主を傷つけることで、結果として針を止めようとしているのかもしれない。


 律は、背筋が冷えるのを感じた。


「何かありました?」


 こよみが聞いた。


「恋時計は、他人が触れられないって書いてある」


「じゃあ、黒い封筒は嘘?」


「わからない」


 律は冊子を見つめた。


「嘘だったとしても、短剣は本物なんだ」


 こよみは、口を閉じた。


 図書室の窓の外には、薄い夕方の光が差している。


 校庭では、部活の声が遠くに聞こえた。


 日常は、何も知らずに流れていく。


 そのことが、急に心細かった。




 その夜、律は自分の部屋で本を開いた。


 青い花のしおりは、三章の終わりに挟まっていた。


 その隣に、手紙がある。


 便箋を見た瞬間、律は嫌な予感がした。


 紙の角が少し折れていた。


 文字が、いつもより乱れている。



 

 雨宮さんへ。


 手紙、読みました。


 先生に言うこと、美咲ちゃんにもう少し話すこと、菜月ちゃんにも伝えること。


 全部、やろうと思いました。


 思ったんです。


 でも、うまくできませんでした。


 ごめんなさい。



 

 律は、その三行だけで、胸が苦しくなった。


 続きを読みたくない。


 でも、読まなければならない。


 律は、便箋を持ち直した。



 

 美咲ちゃんには、話しました。


 春樹くんが黒い封筒を持っていること。


 変な短剣みたいなものを持っていたこと。


 時計塔の近くで何かしようとしているかもしれないこと。


 美咲ちゃんは、真剣に聞いてくれました。


 「それ、先生に言おう」と言ってくれました。


 だから、二人で先生のところへ行こうとしました。


 でも、その前に、春樹くんが教室からいなくなりました。


 菜月ちゃんも、いませんでした。


 菜月ちゃんの友達に聞いたら、先に帰ったと言われました。


 春樹くんが、時計塔のほうへ向かったのを見た子がいました。


 その瞬間、頭の中が真っ白になりました。


 わたしは、美咲ちゃんと先生のところへ行くべきでした。


 でも、足が勝手に動いていました。


 ごめんなさい。


 雨宮さんが、一人で行かないでって何度も書いてくれたのに。


 でも、わたし、一人ではありません。


 美咲ちゃんも来てくれています。


 だから、大丈夫です。



 

 律は、思わず立ち上がった。


「大丈夫じゃない」


 声が出た。


 部屋の中に、自分の声だけが落ちる。


 大丈夫。


 その言葉は、ときどき一番信用できない。


 雨宮先輩自身も、かつて何度も言った言葉だった。


 大丈夫。


 心は大丈夫だと思っていた。


 そう言いながら、頭の上から雨が降っていた。


 律は、震える指で続きを読んだ。



 

 これを書いているのは、時計塔へ向かう途中です。


 美咲ちゃんが、少しだけ待ってと言ってくれたので、道の端で書いています。


 変ですね。


 こんなときに手紙を書くなんて。


 でも、雨宮さんに書かないと、怖くて足が動かなくなりそうでした。


 美咲ちゃんは、先生を呼びに戻ると言っています。


 わたしは、少しだけ先に行きます。


 すぐ近くです。


 見えるところにいます。


 春樹くんが菜月ちゃんに何かする前に、止めたいです。


 止めるだけです。


 短剣を取ろうとはしません。


 一人で近づきすぎません。


 だから、怒らないでください。



 

 律は、便箋を持つ手が冷たくなるのを感じた。


 詩織は、もう向かっている。


 時計塔へ。


 五年前の事件へ。


 この手紙は、途中で書かれたものだ。


 つまり、律が今から返事を書いても。


 間に合うかどうか、わからない。


 いや。


 間に合わないかもしれない。


 律は最後まで読んだ。



 

 雨宮さん。


 わたし、まだ本の続き、読めていません。


 主人公が温室の奥へ行くところ。


 こわくて閉じたままです。


 帰ったら、読みます。


 だから、次の手紙で、感想を書きます。


 それから、青いインク、少し薄くなってきました。


 また星野文具店に買いに行きたいです。


 今日が終わったら。


 ちゃんと終わったら。



 花守詩織

 



 今日が終わったら。


 ちゃんと終わったら。


 その言葉が、胸に刺さった。


 律はすぐに便箋を取り出した。


 ペンを握る。


 手が震えて、最初の文字が少し歪んだ。

 



 花守さんへ。


 行かないでください。


 今すぐ止まってください。


 美咲さんと一緒に先生を呼んでください。


 あなたが先に行く必要はありません。


 春樹くんを止めるのは、あなた一人の役目ではありません。


 短剣があるなら、近づいてはいけません。


 見えるところにいるだけでも、危ないです。


 花守さん。


 お願いです。


 戻ってください。


 あなたが傷ついたら、本の続きは読めません。


 僕は、あなたの感想をまだ聞いていません。


 青いインクをまた買いに行く話も、まだ聞いていません。


 だから。


 どうか、戻ってください。


 

 雨宮律

 



 律は、書き終えるとすぐに便箋を折った。


 本を開く。


 青い花のしおりの隣に、手紙を挟む。


 ページを閉じる。


 しおりが光る。


 青い花が、今までで一番強く光った。


 深い水底ではない。


 夜明け前の空のような、張りつめた青。


 律は本に手を置いた。


「届け」


 声が震えた。


「届け、届け、届け」


 何度も言った。


 青い光は、しばらくページの間から漏れていた。


 けれど。


 しばらくすると、ふっと消えた。


 律は本を開いた。


 手紙は。


 そこにあった。


 律が書いた手紙は、青い花のしおりの隣に、挟まったままだった。


 届いていない。


 律の呼吸が止まる。


 もう一度、本を閉じる。


 開く。


 手紙はある。


 閉じる。


 開く。


 やっぱり、ある。


 律は便箋を取り出し、もう一度挟んだ。


 青い花のしおりに触れる。


 花はもう光らなかった。


 紙の中で、静かに眠っているだけだった。


「どうして」


 声が、部屋の中に落ちた。


 返事はない。


 窓の外では、月待町の夜がいつも通りに広がっている。


 遠くの道を車が一台通る音がした。


 家のどこかで、食器を片づける音がする。


 普通の夜。


 いつも通りの夜。


 でも、律の本の中では、五年前の時間が、どこかで切れたように止まっていた。


 律は、青い花のしおりを見つめた。


 そこに挟まれたままの手紙。


 届かなかった返事。


 胸の奥で、見えない針が、ひどく嫌な音を立てた気がした。


 その音は、雨の音に似ていた。


 もう降っていないはずの雨が、律の心の中だけで、静かに降り始めていた。



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