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月待町の恋時計 2 ~本のあいだで、5年前のきみと文通する~  作者: 草風緑


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第4話 届かなかった返事

本のあいだで、5年前のきみと文通する


第4話 届かなかった返事


 月待町では、恋をすると少しだけ不思議なことが起きる。


 告白する前の手紙が、朝になると白紙に戻ったり。


 片思いをしている子の髪に、小さな星が咲いたり。


 失恋した人の頭の上にだけ、雨雲がついたり。


 町の人たちは、それを大事件のようには言わない。


「ああ、恋時計が動いたんだね」


 そんなふうに、商店街のおばあちゃんが、揚げたてのコロッケを紙袋に入れるくらいの温度で言う。


 けれど。


 本当に大事なものが止まりかけているときも、町の人は同じ温度でそう言えるのだろうか。


 雨宮律は、その夜、何度も本を開いた。


 閉じて。


 開いて。


 また閉じて。


 また開いた。


 『夜明け前の庭で』の三章。


 青い花のしおり。


 その隣に、律が書いた手紙が挟まっている。



 

 花守さんへ。


 行かないでください。


 今すぐ止まってください。


 美咲さんと一緒に先生を呼んでください。


 あなたが先に行く必要はありません。


 春樹くんを止めるのは、あなた一人の役目ではありません。


 短剣があるなら、近づいてはいけません。


 見えるところにいるだけでも、危ないです。


 花守さん。


 お願いです。


 戻ってください。


 あなたが傷ついたら、本の続きは読めません。


 僕は、あなたの感想をまだ聞いていません。


 青いインクをまた買いに行く話も、まだ聞いていません。


 だから。


 どうか、戻ってください。


 

 雨宮律

 



 届いていなければならない手紙だった。


 届かなければ、何の意味もない手紙だった。


 なのに、その手紙は、本の中に残っていた。


 青い花のしおりの隣に、きちんと挟まったまま。


 まるで、何も起きなかったみたいに。


 律は本を閉じた。


 手のひらで、表紙を押さえる。


「もう一回」


 声に出した。


 それから、もう一度本を開く。


 手紙は、あった。


 また閉じる。


 開く。


 あった。


 何度繰り返しても、律の手紙は五年前へ行かなかった。


 青い花のしおりは、静かにそこにあるだけだった。


 昨日まで、あんなに淡く光っていたのに。


 ページの向こうに小さな灯りをともすみたいに、詩織のいる時間へつながっていたのに。


 今は、ただの押し花だった。


 薄い紙の中で眠る、青い花。


 律は椅子に座ったまま、長いあいだ動けなかった。


 時計の音が聞こえる。


 部屋の壁にかかった時計の音だ。


 ちく、たく。


 ちく、たく。


 いつもなら気にもとめない音が、今夜は妙に大きい。


 五年前の詩織の時間も、今、どこかで鳴っているのだろうか。


 それとも、もう。


 律は、そこから先を考えられなかった。


 考えたら、本当に何かが終わってしまう気がした。


 窓の外には、月待町の夜が広がっている。


 遠くの家の明かり。


 街灯。


 坂道の影。


 いつも通りの夜。


 誰かが五年前で走っているかもしれないのに。


 誰かが刃物を持っているかもしれないのに。


 誰かが、誰かをかばおうとしているかもしれないのに。


 現在の月待町は、何も知らない顔をして眠っている。


 律は、机の上に置いた便箋を見た。


 もし、この手紙が届かなかったのなら。


 自分にできることは、もうないのだろうか。


 そう思った瞬間、胸の奥が、冷たく濡れた。


 雨の匂いがした。


 もう、頭の上に雨雲はない。


 けれど、心の中だけに、静かな雨が降り始めていた。




 翌朝、律はほとんど眠れないまま学校へ向かった。


 鞄の中には、『夜明け前の庭で』が入っている。


 青い花のしおり。


 届かなかった手紙。


 その両方を挟んだまま。


 駅前のパン屋から、焼きたての匂いがした。


 商店街では、魚屋がケースに氷を敷いている。


 小学生たちが、ランドセルを揺らしながら横断歩道を渡っていく。


 月待町は、朝になると本当に普通の顔をする。


 その普通さが、今日は少し怖かった。


 律は北通りへ曲がった。


 星野文具店の前で、足が止まる。


 シャッターは今日も下りている。


 青い屋根は、朝の光の中で少し白っぽい。


 昨日と同じように、古い張り紙が端で揺れていた。


 青インク入荷しました。


 五年前、詩織はここで青いインクを買った。


 手紙を書くときに、少しだけ勇気が出る気がする、と書いていた。


 その青いインクで、詩織は何通も手紙を書いた。


 怖いと書いた。


 見ているだけならいいですか、と書いた。


 今日が終わったら、本の続きを読むと書いた。


 律は、シャッターに手を伸ばしかけて、止めた。


 触れたところで、何も変わらない。


 五年前のシャッターではない。


 今のシャッターだ。


 それでも、同じ場所に立つことだけはできる。


「花守さん」


 小さく呼んだ。


 返事はなかった。


 当然だった。


 けれど、呼ばずにはいられなかった。


「雨宮先輩」


 後ろから声がした。


 振り向くと、こよみが立っていた。


 昨日と同じように制服の鞄を肩にかけている。


 けれど、その顔はいつもより少し硬かった。


「おはようございます」


「おはよう」


「寝てませんね」


「少しは寝たよ」


「少しは、という顔じゃないです」


 こよみは、律の鞄を見た。


「返事、来ましたか」


 律は、首を横に振った。


 それだけで、こよみの表情が変わった。


「来なかったんですか」


「僕の手紙が、残ってた」


「残ってた?」


「挟んだまま。届かなかった」


 こよみは、口を閉じた。


 朝の北通りを、自転車に乗った学生が一人、通り過ぎていく。


 ベルが小さく鳴った。


 あまりにも普通の音だった。


「じゃあ」


 こよみが言った。


「五年前では、もう何かが起きたのかもしれない、ってことですか」


 律は、すぐには答えられなかった。


 言葉にすると、本当になってしまいそうだった。


「わからない」


 ようやくそう言った。


「わからないけど、調べる」


「現在の花守さんを?」


「うん」


 律は、星野文具店の張り紙を見た。


「五年前に何が起きたのか。花守さんが今どうしているのか。ちゃんと調べる」


 こよみはうなずいた。


「わたしも手伝います」


「ありがとう」


「図書委員なので」


 いつもの言葉だった。


 でも、今日は少しだけ、祈りみたいに聞こえた。




 その日の図書室は、いつもより静かに感じた。


 実際には、いつもと変わらない。


 昼休みになれば、本を借りる生徒が来る。


 放課後になれば、窓際の席に勉強する生徒が座る。


 返却された本は積まれるし、貸出カードには日付を書かなければならない。


 でも、律の中では、すべての音が少し遠かった。


 ページをめくる音も。


 椅子を引く音も。


 誰かが小声で笑う声も。


 全部、水の中から聞こえているようだった。


 放課後、律とこよみは郷土資料の棚の前に座った。


 机の上には、五年前の地域新聞のコピー。


 町内会の広報誌。


 月待中学の記念誌。


 古い地図。


 学校のパソコンで検索した印刷資料。


 すべてを並べると、まるで紙の迷路みたいだった。


 こよみが新聞のコピーをめくる。


「前に見つけた記事は、これですよね」


 律はうなずいた。


 

 時計塔付近で女子中学生が倒れる


 昨日夕方、月待町北地区の時計塔付近で、町内の女子中学生が倒れているのが見つかった。


 女子生徒は病院に搬送されたが、詳しい容体は不明。


 警察は当時の状況を確認している。


 

 何度見ても、短い記事だった。


 短すぎる。


 名前もない。


 続報も見つからない。


 不自然なほど、すぐに紙面から消えている。


「これだけなんですよね」


 こよみが眉を寄せた。


「普通、続きの記事がありそうです」


「うん」


「怪我だったのか、事故だったのか、事件だったのか。何も書いてない」


「書けなかったのかもしれない」


 律が言うと、こよみは手を止めた。


「誰かが、書かせなかった?」


「わからない。でも、短剣と黒い封筒のことは、どこにも出てこない」


「春樹くんも菜月ちゃんも?」


「仮名だから、名前では調べられない」


「でも、花守詩織さんは本名ですよね」


「たぶん」


 律は、パソコンで検索画面を開いた。


 花守詩織。


 月待町。


 時計塔。


 五年前。


 何度も入れ替えて調べた言葉を、もう一度打ち込む。


 検索結果は、ほとんど変わらない。


 個人名は出てこない。


 古い学校行事のページ。


 図書館のイベントのお知らせ。


 関係のない店の名前。


 律は小さく息を吐いた。


「出てこない」


「ネットに残ってないだけかもしれません」


 こよみが言った。


「病院の記録とか、学校の詳しい名簿とか、普通は調べられないですし」


「うん」


 わかっている。


 けれど、焦りは消えない。


 こよみはしばらく考え、それから言った。


「月待中学の卒業アルバムって、図書室にありませんか」


「卒業アルバム?」


「学校の資料室なら、古いものがあるかもしれません」


「でも、月待高校に月待中学のアルバムは」


「ないかもしれません。でも、記念誌ならあります」


 こよみは積まれた資料の中から、月待中学の記念誌を取り出した。


 廃校や統合の記念ではなく、創立何十周年かの冊子だった。


 紙は厚く、表紙は少しざらざらしている。


 二人でページをめくる。


 校舎の写真。


 部活動の記録。


 先生たちの寄稿。


 生徒会の活動。


 図書委員会のページ。


 そこで、律の手が止まった。


 図書委員会の活動報告。


 そこに、小さな集合写真が載っていた。


 白黒ではなく、少し色あせたカラー写真。


 図書室の前に並ぶ生徒たち。


 その端に、ひとりの女子生徒が写っていた。


 まっすぐカメラを見るのが苦手なのか、少しだけ視線が横にずれている。


 胸元の名札に、小さく文字が見えた。


 花守。


 律は、息を止めた。


「こよみさん」


「はい」


「これ」


 こよみが身を乗り出す。


 二人で、同じ写真を見る。


「花守」


 こよみが小さく言った。


「花守さん、ですね」


 律は、写真から目が離せなかった。


 そこにいるのは、手紙の向こうの人だった。


 青いインクを買った人。


 こわいのに本の続きを読もうとした人。


 春樹くんを悪い人だと決めきれなかった人。


 見ているだけならいいですよね、と書いた人。


 そして。


 届かなかった返事の向こうで、時計塔へ向かった人。


 写真の中の花守詩織は、こちらを見ていない。


 それなのに、律は初めて、彼女と目が合ったような気がした。


「いた」


 声が、かすれた。


「本当に、いた」


 こよみは、そっとページの端を押さえた。


「雨宮先輩」


「うん」


「この記念誌、いつのですか」


 律は表紙の日付を確認した。


 五年前。


 詩織の手紙の年。


「同じ年だ」


「じゃあ、花守さんは、本当にその年の月待中学にいたんですね」


「うん」


 手紙だけの存在ではない。


 夢ではない。


 誰かのいたずらでもない。


 五年前の月待町に、花守詩織はいた。


 その事実が、うれしいのか、怖いのか、律にはわからなかった。


 ただ、胸の奥が強く痛んだ。


 こよみがページをめくる。


 図書委員会の活動報告の下に、小さな文章があった。


 

 今年度の図書委員会では、昼休みの貸出当番のほか、読書週間のおすすめ本展示を行いました。


 花守詩織さんの作成した「夜に読みたい物語」コーナーは、生徒から好評でした。

 


 律は、その一文を見つめた。


 夜に読みたい物語。


 『夜明け前の庭で』。


 詩織は、夜に読む物語が好きだったのだろうか。


 怖がりなのに。


 怖いのに、ページをめくりたい人だったのだろうか。


 律は、机の下で拳を握った。


「もっと調べる」


「はい」


 こよみはうなずいた。


「この写真だけじゃ、今どうしているかはわかりません」


「うん」


「でも、手がかりは増えました」


 律は、写真の中の詩織を見る。


 増えた。


 確かに、増えた。


 けれど、それは同時に、逃げられなくなることでもあった。


 花守詩織は、実在する。


 ならば、今もどこかにいるはずだ。


 生きているのか。


 眠っているのか。


 それとも。


 律は、そこから先を考えないようにした。




 その日の夜、律は本を開くのが怖かった。


 机の上には『夜明け前の庭で』。


 青い花のしおり。


 届かなかった手紙。


 そして、月待中学の記念誌をコピーした一枚。


 図書委員会の集合写真。


 写真の端に写る、花守詩織。


 律は、写真を机の横に置いた。


 それから、本を開く。


 三章。


 青い花のしおり。


 届かなかった律の手紙。


 その隣に、新しい便箋はなかった。


 何も。


 ない。


 律は、ゆっくり息を吐いた。


 わかっていた。


 返事が来るなら、もう来ている。


 そう思っていた。


 それでも、どこかで期待していた。


 詩織が、何事もなかったように手紙を書いてくることを。


 怒らないでください、と続きが来ることを。


 ちゃんと戻りました、と書いてくれることを。


 でも、本には何も挟まっていなかった。


 律は、届かなかった手紙を取り出した。


 何度も読み返したせいで、便箋の折り目が少し柔らかくなっている。


 戻ってください。


 お願いです。


 その言葉は、今も紙の上にある。


 でも、届かなかった。


 律は手紙を机の上に置き、新しい便箋を出した。


 何を書けばいいのか、わからなかった。


 もう五年前には届かないかもしれない。


 でも、書かなければ、本当に終わってしまう気がした。



 

 花守さんへ。


 今日は、あなたの写真を見つけました。


 月待中学の記念誌に載っていました。


 図書委員会の集合写真です。


 花守さんは、写真の端にいました。


 こちらをまっすぐ見ていなくて、少しだけ横を見ていました。


 それが、あなたらしい気がしました。


 僕は、あなたに会ったことがありません。


 でも、あなたの字を知っています。


 あなたが怖がりなのに、怖い場所から目をそらせない人だということも知っています。


 あなたが、春樹くんを簡単に悪い人にしなかったことも知っています。


 それから、青いインクで手紙を書くと、少し勇気が出ると思っていることも。


 花守さん。


 返事がなくても、僕は書きます。


 もしこの手紙が五年前に届かないとしても。


 もし、もうあなたが読めないとしても。


 僕は、あなたを探します。


 

 雨宮律

 



 書き終えたあと、律はしばらく便箋を見つめていた。


 最後の一文だけが、胸の中で何度も鳴った。


 僕は、あなたを探します。


 手紙ではなく、現在で。


 ページの向こうではなく、月待町のどこかで。


 律は便箋を本に挟んだ。


 青い花のしおりの隣。


 届かなかった手紙の隣。


 ページを閉じる。


 青い花は光らなかった。


 けれど、律の手のひらには、ほんの少しだけ温度が残った。


 光ではない。


 返事でもない。


 でも、完全に閉じたわけではない。


 そんな気がした。




 翌日、律は朝から図書室へ向かった。


 こよみは、すでに来ていた。


 カウンターの上には、昨日の記念誌と、古い地域新聞のコピーが並んでいる。


「早いね」


「気になってしまって」


「僕も」


 律は鞄を置いた。


「昨日、本に手紙を挟んだ」


「返事は?」


「来なかった」


 こよみは、少しだけ目を伏せた。


「そうですか」


「でも、書いた」


「はい」


「探すって」


 こよみは、顔を上げた。


「現在の花守さんを」


「うん」


 こよみは、しばらく黙っていた。


 それから、机の上の新聞コピーを指さした。


「記事には、病院に搬送された、とあります」


「うん」


「月待町で大きい病院は、北地区だと月待総合病院です」


「月待総合」


「ただ、個人情報なので、聞いても教えてもらえないと思います」


「わかってる」


 律は言った。


「でも、行ってみる」


「今日ですか」


「うん」


「学校は」


「放課後に」


 こよみは少し考えた。


「わたしも行きます」


「こよみさんまで巻き込むわけには」


「もう巻き込まれてます」


 即答だった。


 律は、言葉に詰まった。


「図書委員の管轄です」


「病院まで?」


「本に挟まった手紙の差出人を探すところまで、管轄にしました」


「また規則が増えたね」


「必要に応じて」


 こよみは、少しだけ笑った。


 でも、その目は真剣だった。


「それに、雨宮先輩、一人で行ったら、受付で全部正直に言いそうです」


「言わないよ」


「『五年前の花守詩織さんと文通しているんですが』って」


「……言わないようにする」


「少し危ないですね」


 こよみは小さく息を吐いた。


「病院では、正直すぎないほうがいいと思います」


「どう言えばいいかな」


「昔の知り合いを探している、くらいでしょうか」


「知り合いではないけど」


「手紙を何通ももらっているなら、知り合いです」


 律は、少しだけ視線を落とした。


 知り合い。


 そう呼んでいいのだろうか。


 会ったことはない。


 同じ時間に言葉を交わしたこともない。


 それでも、律は詩織のことを、もう知らない人だとは思えなかった。


「そうだね」


 律は言った。


「知り合いだ」




 放課後、月待総合病院へ向かう道は、学校から少し遠かった。


駅の反対側へ出て、時計塔の丘へ向かう坂道の手前を、病院のある通りへ曲がる。


 病院は、白い建物だった。


 大きな窓が並び、入口には自動ドアがある。


 花壇には、白や黄色の花が植えられていた。


 あまりにも普通の病院だった。


 だからこそ、律は少し怖くなった。


 ここに、五年前から眠っているかもしれない誰かがいる。


 そう思っても、建物は何も答えない。


 こよみが隣で小さく言った。


「大丈夫ですか」


「大丈夫」


 言ってから、律は自分で苦笑した。


「今のは、あまり信用できない大丈夫だった」


「はい。少し雨の音がしました」


「やっぱりわかるんだ」


「わかります」


 こよみは、病院の入口を見た。


「でも、行きましょう」


「うん」


 二人は自動ドアをくぐった。


 中は、消毒液の匂いがした。


 受付の前には、何人かの人が座っている。


 待合室のテレビから、低い音でニュースが流れていた。


 律は受付へ向かった。


 心臓がやけに大きく鳴る。


「あの」


 受付の女性が顔を上げた。


「はい」


「花守詩織さんという方が、こちらに入院しているか、知りたいんですが」


 言ってから、やはり直接すぎただろうかと思った。


 受付の女性は、少し困ったように眉を下げた。


「申し訳ありません。入院されている方の情報は、お答えできないことになっています」


「そうですよね」


 わかっていた。


 それでも、胸が沈む。


 こよみが一歩前に出た。


「あの、五年前にこの病院に搬送された方かもしれなくて。月待中学の関係で、どうしても確認したいことがあるんです」


 受付の女性は、やはり困った顔をした。


「ご家族の方ですか?」


「違います」


 律は答えた。


 嘘はつけなかった。


 受付の女性は申し訳なさそうに首を振る。


「それでしたら、こちらからお伝えすることはできません」


「……すみません」


 律は頭を下げた。


 やはり無理だった。


 当然だ。


 名前だけで病室を教えてもらえるはずがない。


 律は、こよみと一緒に受付から離れた。


 待合室の端へ行く。


 どうすればいい。


 律は鞄の中の本に手を伸ばした。


 ここまで来ても、何もわからないのか。


 そのときだった。


「花守さん?」


 背後から、やわらかな声がした。


 律は振り返った。


 白衣を着た年配の女性が、こちらを見ていた。


 医師ではなく、看護師のようだった。


 胸元の名札には、三沢、と書かれている。


「今、花守詩織さんって言った?」


 律は、息をのんだ。


「はい」


 三沢と書かれた看護師は、少しだけ目を細めた。


「あなたたち、花守さんのお知り合い?」


 律はすぐには答えられなかった。


 知り合い。


 こよみが朝、そう言った。


 手紙を何通ももらっているなら、知り合いです。


 律は、鞄の中の本を握った。


「知り合いです」


 声が震えた。


「手紙を、もらいました」


 三沢さんは、少し不思議そうな顔をした。


「手紙?」


「はい」


「花守さんから?」


「はい」


 受付では言えなかったことを、律は言ってしまった。


 でも、三沢さんは笑わなかった。


 月待町の人間は、不思議な話を聞いたとき、まず一度飲み込む。


 三沢さんも、そういう顔をした。


 それから、少しだけ声を落とした。


「……青い花の?」


 律の心臓が、大きく跳ねた。


「え?」


「その手紙、青い花がついていなかった?」


 律は、鞄から本を取り出した。


 『夜明け前の庭で』。


 ページを開き、青い花のしおりを見せる。


 三沢さんの表情が、はっきり変わった。


「それ」


「知ってるんですか」


 三沢さんは、しおりを見つめたまま、しばらく黙っていた。


 それから、小さく言った。


「花守さんの枕元にも、似たような跡があるの」


「跡?」


「本にね。ずっと挟んであったみたいな、青い花の跡」


 律は息を忘れた。


 こよみも隣で固まっている。


 三沢さんは、受付のほうを一度見た。


 それから、律たちに向き直る。


「本当は、勝手に案内するわけにはいかないんだけど」


 そう言って、少し困ったように笑った。


「でも、あなたたちが来る気がしていたの。ずっと」


「僕たちが?」


「誰かが、あの子の本の続きを持ってくるような気がしていた」


 律の手の中で、本が少し重くなった。


 『夜明け前の庭で』。


 詩織が三章で止まっていた本。


 律も、同じところを読んでいた本。


 三沢さんは、静かに言った。


「少しだけなら」




 病院の廊下は、長かった。


 白い壁。


 消毒液の匂い。


 遠くで聞こえるワゴンの音。


 小さな話し声。


 三沢さんの後ろを歩きながら、律は自分の足音を聞いていた。


 こつ。


 こつ。


 いつもより重い。


 こよみは隣にいる。


 何も言わない。


 言わないけれど、そばにいてくれるだけで、律は少しだけ息ができた。


 三沢さんは、廊下の突き当たりに近い個室の前で足を止めた。


 扉の横には、小さな名札があった。


 花守詩織


 その文字を見た瞬間、律の中の時間が止まった。


 手紙の最後に書かれていた名前。


 何度も見た字。


 花守詩織。


 今、その名前が病室の前にある。


 三沢さんが、静かに扉を開けた。


「花守さん」


 中へ声をかける。


 返事はなかった。


 律は、一歩中へ入った。


 病室は、静かだった。


 白いカーテンが、窓辺で少し揺れている。


 ベッド。


 小さな棚。


 花瓶。


 機械の小さな音。


 そして、ベッドの上に、ひとりの少女が眠っていた。


 花守詩織。


 律は、その名前を心の中で呼んだ。


 写真で見た面影があった。


 でも、写真よりもずっと静かだった。


 眠っている。


 深く。


 長く。


 まるで、誰かがページの途中でしおりを挟み、そのまま本を閉じてしまったみたいに。


 律は、足が動かなかった。


 会いたかった。


 見つけたかった。


 そう思っていた。


 でも、実際に目の前にいる詩織を見ると、胸の奥が痛くて、うまく息ができなかった。


「五年前から?」


 律が聞くと、三沢さんは静かにうなずいた。


「ええ。ときどき、ほんの少し反応があることはあるけれど、目を覚ましたことはないわ」


「五年前の、時計塔の記事の」


「たぶん、その子」


 たぶん。


 でも、律にはもうわかっていた。


 ここにいる。


 花守詩織は、ここにいる。


 五年前の手紙を書いた彼女が。


 三沢さんが、枕元の棚を指さした。


「これも、ずっと置いてあるの」


 そこには、一冊の本があった。


 古い本。


 少し色あせた表紙。


 タイトルは。


 『夜明け前の庭で』


 律は、思わず自分の本を抱きしめた。


 同じ本だった。


 詩織の枕元にある本と、律が持っている本。


 同じ物語。


 同じ三章。


 同じ温室の扉。


 律は、ゆっくりと枕元の本に近づいた。


「触っても、いいですか」


 三沢さんは少し迷った。


 けれど、うなずいた。


「少しだけね」


 律は、詩織の本をそっと開いた。


 ページは、三章で止まっていた。


 主人公の少年が、暗い温室の扉の前に立っている場面。


 詩織が最初の手紙に書いた場所。


 わたしは今、三章の途中です。


 主人公が、こわい場所へ行こうとしているところで止まっています。


 こわいのにページをめくる人って、少しだけ強いですね。


 律の指先が震えた。


 ページの端には、何かが挟まっていた跡があった。


 薄い青い染み。


 花びらの形に似た、淡い跡。


 青い花の跡。


「本当に」


 こよみが、小さく言った。


「つながってたんですね」


 律は答えられなかった。


 ただ、自分の本から青い花のしおりを取り出した。


 透明な薄い紙の中で、青い花が眠っている。


 それを、詩織の枕元の本の上に重ねる。


 すると、青い花が、ほんの少しだけ光った。


 三沢さんが息をのむ。


 こよみが、律の袖をつかむ。


 光はすぐに消えた。


 けれど、確かに光った。


 律は、眠る詩織を見た。


「花守さん」


 声が、少し震えた。


「僕は」


 何を言えばいいのか。


 見つけました、か。


 遅くなりました、か。


 ごめんなさい、か。


 どれも違う気がした。


 詩織は、手紙の中でいつも律に問いかけていた。


 この本、あなたも読んでいるんですか。


 続きを読みますか。


 恋時計を止めることは、本当に優しいことなんでしょうか。


 そして最後に。


 今日が終わったら。


 ちゃんと終わったら。


 律は、眠る詩織に向かって、ゆっくり言った。


「僕は、あなたと文通をしています」


 病室の空気が、静かに揺れた気がした。


「変な話だと思います」


 律は続けた。


「でも、あなたの字を、僕は知っています」


 こよみが隣で、静かに息をのむ。


「あなたが、怖がりなのに、本の続きを読みたい人だってことも知っています」


 律の声は、少しずつ落ち着いていった。


「春樹くんを止めようとしたことも、菜月さんを守ろうとしたことも、美咲さんに話そうとしたことも、知っています」


 それから、言葉が詰まった。


 胸の奥で、あの届かなかった手紙が音を立てる。


 戻ってください。


 お願いです。


 どうか。


 届かなかった言葉。


 律は、目を伏せた。


「ごめんなさい」


 それだけが、先に出た。


「僕の手紙は、届きませんでした」


 病室は静かだった。


 機械の小さな音だけが鳴っている。


 三沢さんも、こよみも、何も言わなかった。


 律は、詩織の枕元の本に、青い花のしおりをそっと挟んだ。


 詩織の本の三章。


 暗い温室の扉の前。


 五年前から止まっているページに。


 しおりが入る。


 かすかな音がした。


 本を閉じる音ではない。


 また戻ってくるための音。


 律は、眠る詩織に言った。


「また来ます」


 そして、小さく付け足した。


「今度は、ちゃんと現在で」




 その夜、律は自分の部屋で、何度も手を見つめていた。


 まだ、病室の感触が残っている。


 詩織の本に触れた指先。


 青い花のしおりを挟んだときの、かすかな震え。


 病室の白い光。


 眠る詩織。


 枕元の『夜明け前の庭で』。


 律の机の上には、自分の本が置いてある。


 けれど、青い花のしおりはない。


 詩織の病室に置いてきた。


 そのことが、律を少し不安にした。


 しおりがなければ、もう手紙は届かないかもしれない。


 でも、あのしおりは、詩織のそばにあるべきだと思った。


 五年前のページと、現在の病室をつなぐために。


 律は、本を開いた。


 しおりのない三章。


 そこに、一枚の便箋が挟まっていた。


 律は、目を疑った。


 青い花のしおりはない。


 なのに、便箋がある。


 淡いクリーム色。


 端に、小さな青い花の模様。


 律は震える手で、それを開いた。


 字は、詩織の字だった。


 でも、今までよりも薄い。


 水の底から浮かび上がってきたみたいに、少しにじんでいた。

 



 雨宮さんへ。


 返事、届きませんでした。


 でも、なぜか、誰かがわたしを止めようとしてくれた気がしました。


 声は聞こえなかったのに。


 手紙も読めなかったのに。


 胸の奥で、誰かが「戻って」と言っている気がしました。


 たぶん、雨宮さんだったんだと思います。



 

 律は、手紙を持つ手に力を入れた。


 届いていなかった。


 でも、まったく届かなかったわけではなかった。


 詩織のどこかに、律の言葉の影だけが触れていた。


 手紙は続いている。



 

 今、時計塔へ向かう道の途中にいます。


 美咲ちゃんは、先生を呼びに戻りました。


 わたしは、ここで待っているべきなのかもしれません。


 でも、春樹くんと菜月ちゃんが、この先にいるかもしれないと思うと、足が止まりません。


 怖いです。


 手が震えています。


 でも、行きます。


 春樹くんを止めるためです。


 菜月ちゃんを守るためです。


 それから、春樹くんが、自分のしたことを一生抱えてしまわないようにするためです。


 誰かの恋を壊す刃物を、ほんとうに振ってしまったら、春樹くんも壊れてしまうと思います。


 わたしは、春樹くんをかばいたいわけではありません。


 でも、春樹くんの中にある痛みごと、黒い封筒に持っていかれるのが怖いです。



 

 律は唇をかんだ。


 詩織は、やはり行く。


 止めても、行く。


 そういう人なのだ。


 怖がりで。


 本を閉じてしまうほうで。


 それでも、大事なところでは、もう一度ページを開いてしまう人。



 

 雨宮さん。


 わたし、やっぱり怖いです。


 手が震えています。


 でも、雨宮さんが書いてくれたことを、忘れません。


 誰かを守ることと、自分を差し出すことは、同じではない。


 そうですよね。


 だから、わたし、自分の明日も守ろうと思います。


 誰かの前に立つなら、倒れるためじゃなくて、帰ってくるために立ちます。


 帰ってきたら、本の続きを読みます。


 ちゃんと感想を書きます。


 青いインクも、また買いに行きます。


 雨宮さん。


 もし、わたしが帰ってこられなかったら。


 わたしは、あなたのいる今日にいますか。


 

 花守詩織



 

 律は、手紙を読み終えて、動けなくなった。


 もし、わたしが帰ってこられなかったら。


 わたしは、あなたのいる今日にいますか。


 答えは、もう知っている。


 今日、律は見つけた。


 病室で。


 白いカーテンの揺れる部屋で。


 眠り続ける詩織を。


 あなたはいる。


 ここにいる。


 律は、便箋を広げた。


 手が震えていた。


 でも、今度は止まらなかった。



 

 花守さんへ。


 います。


 あなたは、僕のいる今日にいます。


 僕は今日、あなたを見つけました。


 病院で眠っているあなたに会いました。


 あなたの枕元には、『夜明け前の庭で』がありました。


 三章で止まっていました。


 あなたが最初の手紙に書いていたところです。


 青い花の跡もありました。


 だから、わかりました。


 あなたは、ちゃんとここにいます。


 花守さん。


 きっとあなたは行くんだと思います。


 だから、行くなとは書きません。


 本当は、書きたいです。


 今でも、戻ってくださいと書きたいです。


 でも、あなたが誰かを守ろうとする人だと、僕はもう知っています。


 だから、ひとつだけ約束してください。


 誰かを守るなら、自分の明日も守ってください。


 帰ってくるために立ってください。


 僕は、あなたの明日に会いたいです。


 手紙の中だけではなく、同じ時間で。


 

 雨宮律

 



 そこまで書いて、律はペンを止めた。


 まだ足りない。


 この手紙は、ただの返事ではない。


 五年前の詩織へ送る、今の律にできるすべてだった。


 律は、最後にもう一文を書いた。


 

 花守さん。


 僕が、見つけました。



 

 書き終えた瞬間、机の上の本が、青く光った。


 しおりはない。


 なのに、ページの間から、青い光が漏れていた。


 まるで、病室に置いてきた青い花が、遠くから返事をしているみたいだった。


 律は、便箋を本に挟んだ。


 ページを閉じる。


 光が、ふっと強くなる。


 胸の奥で、見えない針が鳴った。


 今度は、嫌な音ではなかった。


 雨の音でもなかった。


 遠くで、誰かが閉じていた本を、もう一度開く音に似ていた。


 律は、本に手を置いたまま、目を閉じた。


 届いてほしい。


 五年前の彼女に。


 怖くて、それでも前へ進もうとしている詩織に。


 帰ってくるために立とうとしている彼女に。


 そして。


 病室で眠る、今の詩織に。


 青い光は、しばらく律の部屋を満たしていた。


 やがて静かに消えたあと、机の上には、閉じた本だけが残った。


 でも律にはわかった。


 今度の手紙は、どこかへ行った。


 五年前なのか。


 病室なのか。


 詩織の夢の中なのか。


 それはわからない。


 ただ、確かに、ページの向こうで何かが動いた。


 律は、暗い窓の外を見た。


 月待町の夜は、今日も静かだった。


 けれど、その静けさの奥で、五年前から止まっていた朝が、ほんの少しだけ息をした気がした。



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