表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
月待町の恋時計 2 ~本のあいだで、5年前のきみと文通する~  作者: 草風緑


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/5

第2話 黒い封筒の噂

本のあいだで、5年前のきみと文通する


第2話 黒い封筒の噂



 月待町では、恋をすると少しだけ不思議なことが起きる。


 告白する前の手紙が、朝になると白紙に戻ったり。


 片思いをしている子の髪に、小さな星が咲いたり。


 失恋した人の頭の上にだけ、雨雲がついたり。


 町の人たちは、それを大事件のようには言わない。


「ああ、恋時計が動いたんだね」


 そんなふうに、駄菓子屋のおじいちゃんが、十円ガムのおまけを見るくらいの温度で言う。


 恋時計は、誰の目にも見えない。


 けれど、動いたあとだけが、町に残る。


 白紙になった手紙。


 髪に咲く星。


 ひとりだけ濡らす雨。


 見えない針が動いたあと、世界のどこかに、小さな跡がつく。


 雨宮律は、机の上の本を見つめていた。


 『夜明け前の庭で』


 その三章に、青い花のしおりが挟まっている。


 しおりの隣には、昨夜書いた手紙も入っている。


 花守詩織へ宛てた手紙。


 五年前の月待町にいるらしい、まだ会ったことのない女の子への手紙。


 黒い封筒には、近づかないでください。


 もし、それを持っている人がいたら、一人で抱えないでください。


 そう書いた。


 書いてから、何度も思った。


 これでよかったのだろうか。


 強く書きすぎただろうか。


 怖がらせただろうか。


 でも、黒い封筒という言葉が、どうしても律の胸に引っかかっていた。


 恋時計を止める方法。


 苦しい恋を終わらせる。


 あの人の心を自由にしてあげる。


 その言葉は、どこかやさしそうで、だからこそ怖かった。


 誰かのため、という顔をした刃物ほど、扱いにくいものはない。


 律はまだ本を開けずにいた。


 朝の光は、カーテンのすき間から机の端へ落ちている。


 青い花のしおりは、その光を受けて淡く透けていた。


 まるで、薄い氷の中に閉じこめられた花みたいだった。


 律は、ゆっくり本を開いた。


 三章。


 青い花のしおり。


 その隣に、返事が挟まっていた。


 律は息を止める。


 便箋は、いつもの淡いクリーム色だった。


 端には小さな青い花の模様。


 けれど、今日の字は、少しだけ迷っているように見えた。



 

 雨宮さんへ。


 お返事、読みました。


 黒い封筒には近づかないでください、って書いてあったので、少し怖くなりました。


 でも、怖くなったのは、雨宮さんのせいではありません。


 わたしも本当は、あの封筒が怖いです。


 怖いのに、みんなは噂話みたいに話します。


 「失恋しそうな人のところに届くらしいよ」とか。


 「片思いが苦しくなくなるんだって」とか。


 「恋時計を止めるだけなら、誰も傷つかないよね」とか。


 そんなふうに。


 誰も、ほんとうに試そうとしているわけじゃないと思っていました。


 でも、今日、同じクラスの子が、黒い封筒を持っているのを見ました。



 

 律は、そこで手を止めた。


 同じクラスの子。


 詩織は、中学一年生だと言っていた。


 五年前の中学一年生。


 律と同じ年齢の、同じ町のどこかにいたはずの女の子。


 もしかしたら、五年前の自分と同じ空の下で、同じように給食を食べたり、帰り道の坂を下りたりしていたのかもしれない。


 なのに、律は詩織を知らない。


 いや。


 知らないはずだった。


 律は手紙の続きを読んだ。



 

 その子は、普段はそんなに怖い人ではありません。


 少し口は悪いけれど、掃除当番をさぼった子の分までほうきを持ったり、体育で転んだ子に何も言わずに保健室の場所を教えたりする子です。


 名前は、書かないほうがいい気がします。


 でも、仮に、春樹くんと書きます。


 春樹くんには、好きな子がいます。


 同じクラスの、明るくてよく笑う女の子です。


 仮に、菜月ちゃんと書きます。


 菜月ちゃんは、たぶん別の人が好きです。


 それを春樹くんも知ってしまったみたいです。


 今日の放課後、廊下で春樹くんが言っていました。


 「恋時計が止まれば、あいつは楽になる」って。


 その声が、なんだか、誰かを助けたい声には聞こえませんでした。


 泣きそうなのに、怒っているみたいでした。

 



 律は、便箋を持つ指に少し力を入れた。


 紙がかすかに鳴る。


 詩織の字は、そこで一度途切れていた。


 少し間を置いたような空白のあとに、続きがあった。

 



 雨宮さん。


 好きな人が、自分ではない誰かを好きだったら、苦しいと思います。


 それは、わかります。


 でも、好きな人の恋時計を止めたら、その人は本当に楽になるんでしょうか。


 それとも、春樹くんが楽になるだけなんでしょうか。


 わたしは、どうしても、それが気になっています。



 花守詩織

 



 律は手紙を読み終えたあと、しばらく机の前に座っていた。


 朝の部屋は静かだった。


 家のどこかで、食器の触れる音がする。


 外では、自転車のブレーキ音が小さく鳴った。


 いつもの朝だった。


 けれど、律の机の上だけが、五年前につながっている。


 詩織のいる教室。


 黒い封筒を持つ男子。


 好きな女の子。


 見えない恋時計。


 止める、という言葉。


 律は、便箋をそっと机に置いた。


 返事を書こうとして、ペンを持つ。


 けれど、すぐには言葉が出なかった。


 詩織に何を言えばいいのか。


 近づくな、と書くのは簡単だった。


 でも、詩織はきっと、それだけでは納得しない。


 手紙の文面から、それはもうわかっていた。


 詩織は怖がりだ。


 こわいと思ったら、本を閉じてしまうほうだと自分で書いていた。


 でも、本当に大切なところでは、閉じた本をもう一度開こうとする人でもある。


 律はペン先を便箋の上に置いた。



 

 花守さんへ。


 その子が本当に菜月さんのために恋時計を止めようとしているのか、それとも自分の苦しさを止めたいだけなのか。


 それは、とても大事な違いだと思います。


 好きな人の苦しみを軽くしたい、という気持ちそのものは、悪いものではないのかもしれません。


 でも、相手の心にあるものを、相手に聞かないまま変えようとするなら、それは優しさではないと思います。


 僕は、恋時計を止める方法を知りません。


 でも、もしそれが本当にあるなら、なおさら怖いです。


 見えないものを壊す方法を、簡単に人へ渡す人たちがいるということだから。


 黒い封筒のことは、できれば大人に話してください。


 それから、春樹くんのことも、一人で止めようとしないでください。


 あなたが気になる気持ちは、たぶん間違っていません。


 でも、あなたが傷ついていい理由にはなりません。


 

 雨宮律

 



 そこまで書いて、律は一度ペンを止めた。


 最後の一文をどうするか迷った。


 少し考えてから、付け足した。



 

 追伸。


 『夜明け前の庭で』の続きを、今日読みます。


 花守さんも読めそうなら、少しだけ読んでみてください。


 こわくなったら、閉じてもいいと思います。


 でも、閉じたあとに、また開いてもいいと思います。



 

 律は便箋を折り、本の三章に挟んだ。


 青い花のしおりの隣。


 ページを閉じると、胸の奥で小さな針が一度だけ鳴った気がした。




 学校へ向かう道は、いつもと変わらなかった。


 駅前のパン屋から、焼きたての匂いがする。


 商店街の魚屋は、開店準備でケースを磨いている。


 通学途中の生徒たちが、昨日の小テストや部活の話をしながら歩いている。


 月待町は、朝になると、少しだけ何も知らないふりをする。


 誰かの恋時計が動いていても。


 誰かの手紙が白紙になっていても。


 誰かの髪に星が咲いていても。


 町はいつも通り、コロッケを揚げ、パンを焼き、信号を青にする。


 律は、そのいつも通りの中を歩きながら、詩織の手紙のことを考えていた。


 黒い封筒。


 春樹くん。


 菜月ちゃん。


 仮の名前だと詩織は書いていた。


 けれど、五年前に本当にいた誰かだ。


 五年前の月待町で、恋時計を止めようとしていた誰か。


 律は、学校に着くと、教室へ向かう前に図書室へ寄った。


 まだ開室前の図書室は、廊下の奥でしんとしていた。


 鍵を開けると、紙の匂いがふわりと流れてくる。


 この匂いを、律は知っている。


 湿っていない紙の匂い。


 雨に濡れていない本の匂い。


 それだけで、少し安心した。


 カウンターの奥に鞄を置き、律は郷土資料の棚へ向かった。


 月待町の古い地図。


 学校の記念誌。


 町内会の広報誌をまとめたファイル。


 普段なら、あまり借りられない棚だ。


 律はそこから、五年前の広報誌を取り出した。


 月待町の行事予定。


 商店街の祭り。


 図書館の読み聞かせ会。


 星野文具店の閉店のお知らせも、数冊後の号に載っていた。


 律は指でページをめくっていく。


 黒い封筒。


 恋時計を止める方法。


 そんな言葉が広報誌に載っているはずはない。


 それでも、何か手がかりがないかと思った。


 何も見つからないまま、朝のチャイムが鳴った。


 律はファイルを閉じた。


 五年前は、まだ紙の中で眠っている。


 そう思った。




 昼休み、こよみが図書室に来た。


 手には、返却する本を一冊持っている。


「雨宮先輩」


「うん?」


「今日は、考えごとのまばたきが増えてます」


「また、まばたき」


「はい。今日は昨日より深めです」


「そんなにわかる?」


「わかります。先輩は、本を読んでいるときは静かなまばたきです。でも、今は謎を読んでいるときのまばたきです」


 律は少しだけ困って笑った。


「謎を読んでいるとき」


「はい」


 こよみは返却本をカウンターに置いた。


 それから、少し声を落とした。


「昨日の不思議と関係ありますか」


 律は、こよみを見た。


 こよみの目は、まっすぐだった。


 無理に聞き出そうとしているわけではない。


 でも、本当に心配している。


 そういう目だった。


 律は、少し迷った。


 全部話すには、まだ整理できていない。


 けれど、何も言わないままでは、こよみはきっとまた気づく。


「手紙が届いたんだ」


 律は言った。


「手紙?」


「本に挟まっていた」


 こよみは驚いた顔をした。


 でも、騒がなかった。


 月待町の人間は、不思議に驚くときも、まず一度飲み込む癖がある。


「誰からですか」


「花守詩織さん」


「知ってる人ですか」


「知らない」


「じゃあ、いつの人ですか」


 律は、こよみの言葉に少しだけ目を見開いた。


「いつの人、って聞くんだね」


「月待町なので」


 こよみは真面目な顔で言った。


 それが少しおかしくて、でも少しありがたかった。


「五年前の人、かもしれない」


 律が言うと、こよみは息をのんだ。


「五年前」


「うん」


「その人、今は?」


「わからない」


 言ってから、律はその言葉の重さに気づいた。


 わからない。


 花守詩織が今どうしているのか、律は知らない。


 五年前の手紙は届く。


 でも、現在の詩織を知らない。


 それは、思っていたよりずっと不安なことだった。


 こよみは、しばらく黙っていた。


 それから小さく言った。


「調べますか?」


「調べる」


「手伝います」


「でも」


「図書委員ですから」


 こよみはそう言って、少しだけ笑った。


「本に挟まった謎は、図書委員の管轄です」


「そんな規則、あったかな」


「今つくりました」


 律は、思わず笑った。


 笑ってから、胸の奥が少し軽くなったことに気づいた。


「ありがとう」


「はい」


 こよみは、返却本をカウンターの端にそろえた。


「でも、無理はしないでくださいね」


「うん」


「先輩、無理すると、手より先にまばたきに出ます」


「それは気をつける」


 こよみは満足そうにうなずいた。


 そのあと、昼休みの図書室には、いつもの静けさが戻った。


 ページをめくる音。


 椅子を引く音。


 誰かが小声で本の場所をたずねる声。


 そんな普通の音の中に、律の胸だけが少し速く鳴っていた。




 放課後、律はこよみと一緒に古い資料を調べた。


 五年前の月待町。


 月待中学。


 星野文具店。


 黒い封筒。


 花守詩織。


 検索しても、すぐには何も出てこない。


 学校のパソコンで調べられる範囲は限られていた。


 町の広報誌にも、花守詩織という名前は見つからなかった。


 けれど、こよみが一冊の古い新聞縮刷ファイルを持ってきた。


「先輩、これ」


 月待町立図書館から寄贈された、地域新聞のコピーをまとめたものだった。


 紙は少し黄ばんでいて、ページをめくると乾いた音がした。


 律は日付を追っていく。


 五年前。


 詩織の手紙の日付に近いあたり。


 町内の行事。


 商店街の抽選会。


 中学校の合唱コンクール。


 小さな記事ばかりが並んでいる。


 その中に、ひとつだけ、妙に短い記事があった。


 

 時計塔付近で女子中学生が倒れる


 昨日夕方、月待町北地区の時計塔付近で、町内の女子中学生が倒れているのが見つかった。


 女子生徒は病院に搬送されたが、詳しい容体は不明。


 警察は当時の状況を確認している。


 

 名前は出ていなかった。


 記事も、それだけだった。


 律は、その数行を何度も読んだ。


 時計塔付近。


 女子中学生。


 五年前。


 詳しい容体は不明。


 こよみも、隣で黙って記事を見ていた。


「これ」


 こよみが小さく言った。


「関係、ありますよね」


「たぶん」


 律は答えた。


 声が少し乾いていた。


「でも、花守さんかどうかはわからない」


「はい」


「わからないけど」


 律は、記事の上に指を置いた。


 紙の上の文字は、ただの印刷だった。


 けれど、その向こうに、詩織の手紙の字が重なって見えた。


 雨宮さん。


 見えない恋時計を、誰かが勝手に止めることなんて、できるんでしょうか。


 もしできたとして、それは、本当に優しいことなんでしょうか。


 律は息を吸った。


 図書室の空気が、少しだけ冷たく感じた。


「花守さんに、聞いてみる」


 律は言った。


 こよみは心配そうに眉を寄せた。


「手紙で?」


「うん」


「届くんですか」


「わからない」


 律はファイルを閉じた。


「でも、書く」


 書かなければ、何も届かない。


 それだけは、もうわかっていた。




 その夜、律は机に向かった。


 『夜明け前の庭で』は、まだ三章の途中にしおりが挟まったままだった。


 律は本を開き、青い花のしおりを指でそっとなぞった。


 花びらは薄く、壊れそうだった。


 でも、ページの間でちゃんと形を保っている。


 律は便箋を広げた。



 

 花守さんへ。


 今日、五年前の地域新聞を調べました。


 あなたの手紙の日付に近い日に、時計塔付近で女子中学生が倒れたという記事がありました。


 名前は出ていませんでした。


 だから、それがあなたなのかはわかりません。


 でも、僕は少し怖くなりました。


 花守さん。


 春樹くんのことも、黒い封筒のことも、一人で抱えないでください。


 あなたが気づいたことは、大事なことだと思います。


 でも、あなた自身も大事です。


 もし何か起きそうなら、誰かに話してください。


 先生でも、家族でも、友達でもいいです。


 どうか、一人で行かないでください。


 

 雨宮律

 



 書き終えてから、律は便箋を見つめた。


 同じことばかり書いている気がした。


 一人で抱えないでください。


 近づかないでください。


 行かないでください。


 でも、ほかに何を書けばいいのかわからなかった。


 五年前の彼女を、今の律が直接助けることはできない。


 手を伸ばしても、そこにいるのは紙だけだ。


 律は、ふと思った。


 本を読むことに似ている。


 ページの向こうで誰かが泣いていても、読者はその場へ走っていけない。


 できるのは、ページをめくることだけ。


 でも、その「だけ」が、何もないことと同じではないのを、律は知っている。


 律は便箋を本に挟んだ。


 青い花のしおりの隣。


 それから、深呼吸をして、本の続きを少しだけ読んだ。


 主人公の少年は、暗い温室の扉を開けた。


 中には、夜にだけ咲く花があった。


 花は光っていなかった。


 でも、闇の中でそこにあることだけは、なぜかわかった。


 律はその一文で本を閉じた。


 眠る前、窓の外を見た。


 時計塔の影は、夜の中に溶けている。


 時刻は見えなかった。


 それでよかった。


 今は、針がどこを指しているかよりも、見えないどこかで何が動いているのかが気になった。




 翌朝。


 返事は、いつもより奥のページに挟まっていた。


 三章の終わり。


 律が昨夜読んだ、暗い温室の場面のあと。


 便箋を開くと、詩織の字は昨日より少し小さかった。

 



 雨宮さんへ。


 新聞の記事のこと、教えてくれてありがとうございます。


 こわいです。


 でも、変な言い方かもしれませんが、少し安心もしました。


 わたしの感じているこわさが、ただの考えすぎではない気がしたからです。


 春樹くんのこと、先生に言おうと思いました。


 でも、うまく言えませんでした。


 黒い封筒のことを話したら、噂を信じすぎだって笑われる気がしました。


 恋時計を止める方法なんて、本当にあるのかもわからない。


 春樹くんだって、まだ何かをしたわけではありません。


 それなのに、どう言えばいいのかわからなくなりました。



 

 律は眉を寄せた。


 詩織の迷いが、紙越しに伝わってくる。


 まだ何も起きていない。


 でも、何かが起きそう。


 その段階で誰かに話すのは、たしかに難しい。


 大人に言えばいい、と書くのは簡単だ。


 けれど、実際に言葉にするには、勇気がいる。


 律は手紙の続きを読んだ。



 

 今日、春樹くんと少し話しました。


 廊下で、春樹くんが黒い封筒を落としたんです。


 拾って渡したら、すごい顔でにらまれました。


 でも、そのあと、小さな声で言いました。


 「見たのか」って。


 わたしは、見ていないと言いました。


 本当は、封筒の中の紙が少しだけ見えました。


 そこには、こう書いてありました。

 

 恋時計を止めれば、あの人は自由になる。

 

 その文字だけが、見えました。


 春樹くんは、しばらく黙っていました。


 それから言いました。


 「あいつは、あんなやつを好きになって苦しんでる。だから、止めてやるんだ」


 わたしは何も言えませんでした。


 春樹くんの声が、泣きそうだったからです。


 でも、やっぱり、違うと思いました。


 誰かの恋を止めることを、助けるって呼んではいけない気がしました。


 

 花守詩織

 



 手紙はそこで終わっていた。


 律は、便箋を握ったまま、しばらく動かなかった。


 春樹くんは、泣きそうだった。


 その一文が、律の胸に残った。


 人は泣きそうなとき、必ず正しいとは限らない。


 傷ついている人が、誰かを傷つけないとは限らない。


 むしろ、自分の痛みに名前をつけられないとき、人は他人の心を理由にしてしまうのかもしれない。


 あの人のため。


 自由にしてあげるため。


 苦しみを終わらせるため。


 そう言えば、自分の嫉妬や悲しみを見なくてすむ。


 律はペンを取った。


 でも、すぐには書けなかった。


 詩織はもう、事件の近くにいる。


 黒い封筒に触れた。


 春樹くんの声を聞いた。


 見えない恋時計へ向けられた何かが、少しずつ形を取りはじめている。


 律は、便箋に向かって、ゆっくり書いた。



 

 花守さんへ。


 春樹くんは、たぶん苦しいのだと思います。


 でも、苦しいことと、誰かの心を止めていいことは、別です。


 泣きそうな声を聞くと、責められなくなる気持ちはわかります。


 でも、止めなければいけないこともあります。


 もしまた黒い封筒のことを見たり聞いたりしたら、一人で追いかけないでください。


 春樹くんの苦しさまで、花守さんが背負う必要はありません。


 あなたが怖いと思ったことは、たぶん大事な合図です。


 怖いと思ったら、離れてください。


 それは弱さではありません。


 

 雨宮律

 



 律は、そこまで書いてから、少し考えた。


 それからもう一文、書き足した。



 

 それでも、花守さんが何かを書いてくれるなら、僕は読みます。

 



 書いてから、律は少しだけ息を吐いた。


 助けられないかもしれない。


 止められないかもしれない。


 でも、読むことはできる。


 返事を書くことはできる。


 それがどれほど小さくても、今の律にできることは、そこにしかなかった。


 便箋を折り、本に挟む。


 青い花のしおりが、朝の光を受けて静かに透けていた。


 まるで、まだ見えない針の音を聞いているみたいに。




 その日の放課後、律は一人で北通りへ行った。


 星野文具店の前に立つ。


 詩織が五年前に青いインクを買った店。


 今は、シャッターが下りている。


 看板の文字は少し色あせ、ガラス戸の内側には、古い棚がうっすら見えた。


 閉まっている店の前は、不思議と時間がゆっくりしている。


 誰かがまだ奥で帳簿をつけているような。


 明日になれば、また青いインクを並べるような。


 そんな気配だけが残っている。


 律はシャッターの前に立ったまま、詩織の手紙を思い出した。


 今日、そこで青いインクを買いました。


 手紙を書くときに使うと、少しだけ勇気が出る気がします。


 五年前、この場所で詩織は青いインクを買った。


 今、同じ場所に立っている律の前には、閉じたシャッターがあるだけだ。


 時間は、場所を同じにして、人だけを入れ替える。


 残酷だと思った。


 でも、少しだけ不思議でもあった。


 同じ場所に立てるのなら、まったく届かないわけではない気がした。


 律は、シャッターの前で小さくつぶやいた。


「花守さん」


 返事はなかった。


 当然だった。


 けれど、風が少しだけ吹いた。


 シャッターの端に残っていた古い紙片が、かさりと音を立てた。


 律は顔を上げる。


 紙片は、店の古い張り紙だった。


 色あせて、ほとんど読めない。


 けれど、下のほうに小さな文字が残っていた。


 青インク入荷しました。


 律は、それを見つめた。


 ただの偶然だ。


 五年前から残った、何の意味もない紙かもしれない。


 それでも律は、胸の奥で何かが静かに鳴るのを感じた。


 青いインク。


 青い花。


 青いしおり。


 五年前の手紙。


 同じ色が、少しずつ線になっていく。


 律は鞄の中の本に手を触れた。


 ページの間で、青い花のしおりが眠っている。


 その向こうで、詩織もまた、何かを書いているのかもしれない。




 その夜、律の本には、また手紙が届いていた。


 便箋は、少しだけ乱れていた。


 文字の大きさも、いつもより不揃いだった。



 

 雨宮さんへ。


 今日、春樹くんが菜月ちゃんを見ていました。


 廊下の端から、ずっと。


 菜月ちゃんは、別の男の子と話していました。


 楽しそうでした。


 春樹くんは、笑っていませんでした。


 黒い封筒を、制服のポケットに入れていました。


 わたしは、何もできませんでした。


 声をかけようと思ったのに、できませんでした。


 でも、そのあと、春樹くんがひとりで言っているのを聞きました。


 「時計塔の近くなら、針が届く」って。


 針、って何でしょう。


 恋時計の針でしょうか。


 でも、恋時計は見えないはずなのに。


 明日、もう少し様子を見てみます。


 雨宮さんは、一人で追いかけないでって言うと思います。


 だから、追いかけません。


 でも、見ているだけなら、いいですよね。


 

 花守詩織

 



 律は、最後の一文を読んだ瞬間、ぞっとした。


 見ているだけなら、いいですよね。


 それは、危ない場所へ近づく人の言葉だった。


 自分はまだ踏み込んでいない。


 ただ見ているだけ。


 そう思っているうちに、いつの間にか戻れないところまで行ってしまう。


 律は便箋を机に置き、すぐに返事を書いた。



 

 花守さんへ。


 よくありません。


 見ているだけでも、近づけば危ないことがあります。


 時計塔の近く、針、黒い封筒。


 その三つがつながっているなら、なおさらです。


 春樹くんを一人で追わないでください。


 菜月さんにも、できれば近づかないよう伝えてください。


 先生に言うのが難しければ、友達でもいいです。


 とにかく、一人で見に行かないでください。


 お願いします。


 

 雨宮律



 

 お願いします。


 その一文だけ、律は少し強く書いた。


 便箋を折る手が、かすかに震えていた。


 こんなに誰かの返事を待つのは、初めてかもしれない。


 律は手紙を本に挟んだ。


 青い花のしおりの隣。


 ページを閉じる。


 その瞬間、しおりの中の青い花が、ふっと淡く光った。


 昨日よりも、少し強く。


 まるで、遠くから誰かが小さなランプを灯したみたいだった。


 律は、閉じた本に手を置いた。


 どうか届いてほしい。


 声には出さなかった。


 でも、心の中で何度も思った。


 届いてほしい。


 五年前の彼女に。


 まだ、何も起きていない時間に。


 まだ、引き返せる場所に。


 青いしおりは、ページの間で静かに眠っていた。


 けれど律には、その奥で、見えない針が少しずつ速くなっている音が聞こえる気がした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ